シリアの旅


1993年12月30日〜1994年1月9日

このページは「のこのこつぶやきノート」に書いたシリアについての旅話を転載・加筆したものです。




<通貨>

シリアポンド 
1シリアポンド=約2.7円


<行程>

12/30 成田→モスクワ (夜15$のモスクワ市内観光ツアー) モスクワ泊
12/31 モスクワ11:00→ダマスカス14:05 ダマス泊
1/1 ダマスカス→パルミラ パルミラ観光 パルミラ泊
1/2 パルミラ→(ホムス経由)ホスン(クラークドシバリエ) ライラの家泊
1/3 ホスン→タルトゥース→ダマスカス ダマス泊
1/4 ダマスカス観光 ダマス泊
1/5 ダマスカス観光 ダマス泊
1/6 ダマス→マァルーラ日帰り観光 ダマス泊
1/7 半日ダマスカス観光      16:35ダマス→モスクワ モスクワ泊
1/8 モスクワ空港にて待機   夕方成田へ 機中泊
1/9 成田着


<交通>

ダマスカス→パルミラ (バス) 約2時間 100sp

パルミラ→ホムス (バス) 約2時間 45sp

ホムス→ホスン (バス) 10sp

タルトゥース→ホムス (バス) 1時間 20sp

ホムス→ダマスカス (バス) 約2時間 40sp

ダマスカス→マアルーラ (バス) 10sp



<観光地の現地名>


ダマスカス = ディマシュク

パルミラ (パルミラ遺跡) = タドモール

クラーク・ド・シバリエ(十字軍の城) = カラート アル ホスン



<宿泊>

パルミラ 
CITADEL HOTEL  Tel 537
パルミラミュージアムを正面に見て左側
2人部屋24ドル (1人12ドル)
こじんまりした居心地のいい宿だった。



<旅の思い出>



1いざ、ダマスカスへ

ダマスカス・・・・なんと魅惑的な響きだろう。

古いアラブの都、イスラムの芸術文化が最初に花開いた街。この街にはイスラムの、アラブの文化や歴史の全てが通り過ぎた道がある・・・。

などと気取ってみたが、時は1993〜4年の年末年始、会社の支配人に「前代未聞だ!」と大騒ぎされつつ、11連休を取ってシリアに行ったときの話である。

このアラブの地に得意のモスクワ経由で入ってきた。ダマスに向かう機内からして東京ーモスクワ間とは明らかに違う。簡単に言えば節操がない。

フリーシートに荷物ドカドカ。荷物といっても野菜だの家電だの、小鳥がいっぱいでっかい籠の中でバタバタしてるし(何するんだ?食べるのかしら)タバコの煙は充満し、空いている前の席のシートはバタンと前に倒して足を乗せる。3席使って寝転ぶおばちゃん。よくわからんがアメだのガムだの私にくれるおっさん、子供に乳をやる女性。

「ここは乗合バスじゃねぇ〜!!!」

密室だしね、やっぱり羊のニオイがするよね。体から染み出る・・・アラブのニオイだよね。うん。

着くとそこは何も無い砂漠・・・の中の空港。暑い。
一泊したモスクワが寒かったしね。たまらず分厚いセーターとコートを脱いでバックに押し込む。
だれだ?ダマスだって冬は寒いよって言ってたのは!!!(←それは私だ)

ヴェールをつける人もほとんどいない。開放的で人々にこやか。イスラム様式の中庭のある、白壁の空港がまぶしく見える。

両替のおじさんはやたらに気が利き愛想が良い。レンタカーのお兄ちゃんも私たちと漫才をする。みんなとても親切だ。
明るくにこやか、ジョークがわかる・・・そして、なんとなく可愛がられている気がする・・・。それは恐怖のロシアからやってきたせいもあるのだが、とりあえず、感激!
友達と顔を見合わせて一言。

「なんか、ものすごく人が親切だよね!」

白いバスに乗り、街へ。40分、10シリアポンド(約30円)。安い。
ウキウキと街へ向かう私たち。砂漠を抜けて市街に入る。
なつかしいざわめき。 金曜日なのでいくらか静かなようだ。
立体交差の道路のたもとでバスは終点。

「ここは・・・・どこだろう?」

こうしてダマスに到着したそのとき、ある初老の上品な紳士に英語で声をかけられた。

「どこに行きたいのですか?」


2  築200年の家と家族。そして火事。

初老の紳士は他の多くのアラブ人のようにヒゲはなく、キレイな英語を話した。
私たちの目指すマルジェロ広場まで連れて行ってくれ、さらに、困っていることはないかと聞く。
ホテルを紹介してくれ、翌日のパルミラ行きのチケットを買うのを手伝ってくれ、さらに夕飯をおごってもらった。
彼の印象は頭の良い、インテリ。

夜になり、そろそろ帰ろうかと思っているうちに、なんとなく連れてこられててしまったのはひっそりとした旧市街。

細い路地。「アリババと40人の盗賊」にでてきそうな家々の古い扉。
ここらはダマスカスでももっとも古い町並みをのこす一帯。
重厚な家々も200年前の街並みそのままだそうだ。
どこに連れて行かれるのか不安な私たち。

ひとつの家に入る。
古い。
しかし、その造りは昔のキャラバン・サライのよう。あちこちに残る古いイスラム文様の彫り飾り。古いタイル張りの中庭。
そして、家族が暖かな笑顔で迎えてくれた。

子供と、編物をするお母さん、おばあちゃん(紳士の奥様)。
子供たちがみていたテレビではアラブの時代劇が。
片言のアラビア語で話をする。甘い豆のデザートをいただいたり、話をして楽しんだ。
心なごむひととき。

突然、停電 !
ろうそくであかりをとる。

「!!!」
 
にわかに悪い予感とざわめき。そして、静寂。
窓の外をみると、

火事だ!

それもすぐ裏の家。 熱がこちらに来る。熱い。
熱風がぼわんと覆い被さってくるのだ。

炎が空を照らしている。 若い母が祈る。 

ここも危ない。

私たちはお礼もいえないまま紳士に手をひかれ、家を出る。

恐ろしかった。

あの家は燃えずにすんだのだろうか。
200年前の家々は? 町並みは?

消防車が入れない狭い路地の古い町。
その後、あの家と家族が無事だったかは知らない。

どうか無事でありますように。



3 パルミラ  思った方向にまっすぐに。

パルミラ遺跡は昔の隊商都市。ローマ式の建築。列柱の道。野外劇場や神殿。
破壊されているとはいえ、その美しさ、広大さにはとても感激した。

パルミラとは、「ナツメヤシの街」の意味で、たわわに実ったなナツメヤシの枝が路上に干されて量り売りされている。
砂漠のど真ん中にあるオアシス都市で、紀元より3世紀頃まで栄え、有名なゼノビア女王の伝説とともに滅んだ。

ところでこのパルミラ遺跡は、砂漠に散らかしたようにだぁ〜っと広がっており、遺跡の前方には、頂上にアラブの城がで〜んと建つ山、遺跡に向かって左側には塔墓群がある。入り口があるわけでもなく、順路があるわけでもない。どこを歩いても石ころとまばらな草の砂漠なのだ。

遺跡を見学していたら、大阪からきた一人旅の男の人が現れ、私たちに言った。
「あの城、行きましたか?気持ちいいですよ。」

あの城、とは遺跡から離れた正面に立つ山の城のことである。
「あんな遠いところ、どうやって行くんですか? 足はあるの?」
「見えてるじゃないですか。どんどん歩いて行くんですよ。

(そうか・・・・何も無い砂漠をとにかく歩いていけばいいのか・・・・。)

どこを歩いてもいい。道はない。行きたい方向にずんずん歩く。
それだけのことに、いたく感じ入るものがあった。

それから広〜い遺跡の原をずんずん歩いて歩いて・・・・まっすぐに。山の上のアラブ城まで。
さえぎるものは何もない。

40分。やっと登りきってアラブ上からパルミラの街を見下ろすと、夕霧にかすんで砂漠に溶けてなくなりそうな遺跡が、体全体に染み入るように見えた。

ほっとしたひととき。
さっきまでうるさく着いてきた物売りの子供の歌う声。

帰りは灯りの見える方向が街だ!と、ずんずん歩いていったら、見事にホテル前の広場にたどりついた。

94年1月1日は、「自分の意志で思った方向にまっすぐ歩くこと」、たかがそれだけのことを初めて知ったちょっとステキな正月だった。



4 山の上の城 民家に泊まる

パルミラに別れを告げ、十字軍時代の一番大きな城だという「クラーク・ド・シバリエ」という城に向かった。
山の中にミニバスで入っていくと、雨がどんどん強くなり、到着したときにはしっかり雨降り。

バスを降りたはいいが、全くの田舎でホテルも食堂もなく、雨具も持っていない私たちは民家の軒げ逃げこんだ。
そしたら家の人が「入りなさい」と言ってくれ、私たちは家の中へ。

お母さんと子供たち。 突然の訪問なのにとても自然に迎え入れてくれる。
お母さんのライラはなんと14人目の子供がお腹にいる40歳。14才の時に結婚したそうな。 がんばるねぇ。
ぺろんとおっぱいを出し、赤ちゃんにお乳を与えながら語る。

そのうちどんどん親戚だの、じいちゃんだの、妹夫婦だの、街の有力者だの、いろんな面々が狭い家に入れかわり立ちかわりやってきてはお茶を飲んでくつろいでいる。
私たちも手作りクッキーをいただきながら子供と折り紙だの似顔絵描きだの一生懸命遊んでしまう。

家の人と一緒に城を見に行って帰ってきたあと、
「今日はここに泊まって行きなさい。」と言ってくれる。
う〜ん。近くに宿はないし、子供たちもかわいいし、そうしてもいいような気がしてきた。
本当は政府で外国人旅行者を家に泊めるのは禁じられているらしいのだが、長老の「よろしい。」の一言で私たちの居場所は決まった。

夕食はナスのトマト煮。ホブズというアラビアパンで食べる。塩味は薄く、スパイスがきいておいしい。バターライスも。
大きな盆を食卓代わりに床に直接置いてみんなで囲んで食べるのだ。 

この家のご主人はレバノンに出稼ぎに行って、今は病気で入院中だという。
決して裕福ではない。どうやって食べているのか不思議だ。
レバノンは山の上から見下ろせる。
近くて遠い距離。
ここは雨が上がればすばらしい景観なのだ。

夜は私が持参した縦笛にあわせてダンスパーティー。
最初は歌と笛のセッションだったが、いつのまにか恥ずかしがっていた面々が踊りだし、そのうちにラジオのアラブ音楽にあわせてみんなで腰をふりふり踊りまくり。 
アラビアンダンスは学校でも習うようでみんな上手なのだ。 楽しかった!

踊り疲れ、眠くなった頃ちょうど停電で、私たちはランプの明かりに揺られて眠った。
本当にぐっすり、気持ちがよかったです。

ライラ母さん、家族のみんな、どうもありがとう。



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