亭主のコマギレ自分史       村山 孚

                      
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■明治大正を生ぬいた母へ
■男は台所に入られなかった        ■街中の"お立ち"
■命を守った一枚の写真            ■告白・時効犯罪
■わたしの中国体験          ■わたしと漢文の60年
■わたし”8月15日前後”       ■悲劇・朝鮮人”特高刑事”
■ソ連軍に徴用されて



  一通の手紙
        
    明治~大正を
        生き抜いた母へ



▼この一文は隔月誌『明日の友』の需めにより、連載企画「一枚の手紙」の一つとして掲載されたものだ(同誌2003年夏号)。それから早や6年の歳月が経過した。当時83歳だった私はいま89歳、冒頭に記されている妻はいまは亡き人だ。この6年で社会の風潮はさらに変化し、家庭、家族の変容も著しい。

▼著名な結婚式場に勤めている孫娘の話によると「○○家・××家の結婚式場」は少数派で、多くが「○○×男君・△△◇子さんの結婚式場」となり、「仲人」の存在は激減しているという。

▼すべて変化が激しければ激しいほど、良かれ悪しかれ、原点に立ち返ってみる必要がある。さもないと、いたずらに嘆くか、ただ流されるままになるか、どちらにしても足場を失った浮き草となってしまうだろう。
その意味で明治・大正・昭和初期を生きた女性の半生を振り返ることは無駄ではあるまい。



 お母さん!
 八十三歳の
老人が、四十一歳のあなたにこんな甘ったれた呼びかけをするのは妙な気分ですが、子にとっては、いくつになっても「お母さん」なんです。先年、妻が入院したさい、夜中、隣りのベッドで九十歳の女性が寝言ひとこと「お母さん」といったそうで、妻は涙ぐんでいました。まさに母は不滅です。
 あなたもご存知でしょう『婦人之友』社発行の『明日の友』編集部から「一枚の手紙を」と、偶然にも機会が与えられたことを感謝しました。

 というのは、二、三ヵ月前、あなたの実家、神子家の長老豊芳さん(千葉県富津市)が、「古いものを整理していたら出てきた」といって、大正二年(一九一三)九月の日付がある「結納目録」を送ってくれたのです。わたしの祖父村山進三があなたの兄で戸主だった神子庄造に呈したものです。人が見たら当時の習慣を示す資料でしかありますまいが、わたしはこの一枚の奉書に篭められた、あなたの過酷な青春を思わずにはおられませんでした。
 ――明治末年、あなたは千葉県から上京し長姉の婚家先に身を寄せていた。わたしの父は新潟県から上京、慈恵会医学専門学校(慈恵医大の前身)に学んでいた。二人は識りあって愛しあった。あなたは妊娠し、長女(わたしの長姉)が生まれた。
 
しかし、厳格な祖父ならずとも、当時、学生の身で結婚は無論のこと、未婚の妊娠など「ふしだら」なことは許されない。しかも村山家は四代つづいた医家なのに、今の医家と違って貧しかった。祖父は仕送りもままならないため本家などから借金しまくり、「講」によって金策していたほどだったから、いわば新鋭医師の登場に期待し協力してくれている村人たちの手前もあったに違いない。

あなたたちは、長女を知人夫妻の娘としてその家に入籍させてもらった。
卒業し医師となった父は、ようやく戸主の祖父から結婚を許され、この「結納目録」となるのすね。子連れのあなたが始めて新潟県の奥地、信濃川畔の山村に足を踏み入れたのは、このあとでしょう。
送られてきた古びた奉書は、改めてわたしを九十数年前にタイムスリップさせてくれました。たまたま慈恵医大を訪れる機会があり、愛宕山の付近を歩き回ったりしたのですよ。でも、今と違って、恋人の通う学校付近でデートするなんてことはなかったでしょうね。

――あなたの長姉(つまりわたしの伯母)は日露戦争で財をなした実業家の後妻に迎えられ、九段下の広壮な邸に住んでいた。そして末の妹を郷里から呼び寄せ、女学校の編入試験を受けさせようとした。そのための家庭教師を探していて、新潟出身の医学生に白羽の矢が当り、かれは住み込んだ。そして・・・なのだそうですね。
わたしはこうした出会いの経緯は知らなかったので、最近、この話を聞いたとき微笑ましく、亡き父をからかう品のないことば口にしてしまったものです。「オヤジ、一体、何を教えたんだ。うまくやったなあ。でも妊娠させておいて逃げたりしなかったのは、当時の男性として立派だよ。さすがはわが父だ」
帰郷して挙式後、あなたはようやく村山家長男の妻としてその戸籍にいれてもらうと同時に、長女をその「養子」として入籍する。

なんでこんな厄介なことをしなければならなかったか。今の若い世代には思い及ばないことです。家本位の明治民法が改正され、戸主制度が消えて夫婦単位の戸籍になるのは、あなたの没後十三年して日本が連合軍に敗れた翌々年のことなのですから。


あなたは大正末年まで雪深い山里に「医者どんのオッカサマ」として暮らすことになります。封建制の根強いこの山村では家の格式により主婦の呼称もチャチャ・カッカ・オカカ・オッカサマ(若主婦はアネサマ)の区別がありましたね。

長年、社会活動をしていた京都で暮らす、すぐ上の姉が、昔、村の老人から聞いたそうですが、あなたはオッカサマの格であるがゆえに、よそ者として、反ってそねまれ、陰口の材料となり好奇と冷たい視線のなかで暮らさなければならなかった。しかし、やがてあなたの細心で大らかな性格が人々の心を捉えていったのだそうですね。
大正末年、あなたたち夫婦はわたしたち子どもをともなって上京、今は区となっている東京市の外れで借金して医院を開きますね。わたしが旧制中学の三年生のとき、脳溢血で突然の死を迎えるまで、あなたが、金策で苦労していたこと、さらには夫の女性問題で頭を悩ませたことを子ども心にも覚えています。

父も戦後八年を経て心筋梗塞で急逝しました。その父の名誉のため付言します。豊芳さんはその母(あなたの姉)が重病になったとき、あなたがたが深夜東京からタクシーでかけつけ、連れ帰って自宅に入院させ、救われたことを今だに感謝していました。

あなたが生み、育ててくださったわたしたちのうち、弟は沖縄で戦死し、二人の姉は七十代に世を去り、残っているのはすぐ上の姉とわたしの二人だけです。しかし、あなたの遺伝子は十九人の曾孫に伝わっています。
もっと報告したいことは山ほどあるのですが、それは、いずれあなたにお目にかかるであろうときのお楽しみにしましょう。合掌


945年(25歳)
   降伏反対の日本軍部隊討伐に向かう
  ソ連軍部隊に徴用されて
                                   


1、日本軍武装解除の前日に脱出

 また8月15日がやてくる。
63年前のこの日、25歳の私は当時の満州国南部、通化省通化市の郊外にある部隊で、昭和天皇の敗北宣言放送を聞いた。部隊といっても、高粱畑を整地してバラックを建てたた急ごしらえの駐屯地である。
関東軍の主力が沖縄戦線に移動したあとを受けて、それまで召集がなかった在満日本人男性は、40歳近いオッサンにいたるまで、殆んど根こそぎ召集された。、緊迫してきた対ソ関係に備えたのである。満州国政府の職員だった私も勤務していた阿城県(ハルピン市の南郊、いまは同市に編入)の舎宅に妻子を残して駆りだされたのだ。

 天皇の放送後、部隊あげて放心状態の数日がすぎた。各地に家族を残してきた私たち応召兵は、班長に解散を要請したが、かれは「脱走罪」になるとして上部に具申することも承知しなかった。
たしか8月20日すぎだったと思うが、翌日、ソ連軍が進駐してきて武装解除をするという情報が流れた夜、わたしはともに妻子を北満に残している、仲のよかった二人の戦友とともに脱出した。営庭にテントをかぶしたまま野積みにされている食糧の山から持てる限りの乾パンを頂戴して、塀もなく見張りもいない部隊をあとにした。

 その後の経過は長くなるので省略するが、さいわい不規則ながら北に向かう鉄道はまだ動いていたので、4,5日後、わたしは勤務地であった阿城県近郊の日本人収容所にたどりつき、生後五ヶ月の息子をかかえた妻と再会できた。

 2、収容所で妻子と再会できたが

 収容所は、敗戦とともにどこへか移動していった陸軍病院のあとに設けられており、県内外から逃れてきた開拓団員も加わって数百人に膨れ上がり、ソ連軍の部隊が見張りと警護にあたっていた。
 私はハルピンでの学生時代、ロシヤ語を学んでいたのだが、スパイの嫌疑を受けることを恐れ、そのことを隠していた。だが何かの折にカタコトをしゃべったため、分かってしまった。
私はいつしか、日本難民とソ連部隊との双方から“公認”された通訳にされ、些細な連絡から暴行防止の役目まで背負わされることになる。いま考えればそれは得がたい体験となったが、当時は命がけの仕事だった。
兵士たちは侵入そうそうは全く統制のきかない暴徒に近かったが、日が経つにつれてようやく秩序が回復しはじめ、屯所に通報すると公安部員が出動してくれるようになった。とはいえ、イタチごっこであり、薄氷を踏む思いの昼夜がつづいた。

3、目的不明の行軍に随行命令

9月末だったと記憶している、その日、わたしはソ連軍の司令部に呼び出された。隊長は、目つきの鋭い少佐で、私は詳細な経歴を尋問された。そのあとこう申し渡されたのだった。
「われわれは収容所の護衛を残して、数日間の作戦行動に出発する。その任務は今はいえないが、君は通訳として行動を共にしてもらう。これは命令である」
家族が心配だというと、かれは「留守隊の責任者に面倒をみるよう命じておくから安心せよ」という。いつ出発かと尋ねると、かれは即座に答えた。、
「この場からただちに周家鎮にむけて出発する。君は私とともに馬で先頭を行く」
周家鎮は阿城鎮から直線だと40キロほどのところで、周家県の県公署がおかれている中心地だ。

こうして行軍が始まった。奇妙なことに部隊は最短距離をいかず、右に左にジグザク形をとって行くので時間がかかり、その夜は野営となった。

夕食は、大きな鉄ナベにタップリ大豆油を入れて熱したあと、洗った米のほか、豚肉、ジャガイモ、ニンジンなどをいれていため、水を加えて煮込むのだった。
食事時の座る場所にまで厳しい序列がある日本軍とは大違いで、隊長も部下もなく気楽に座り込み、オシャベリしながら食べるありさまに私は一驚した。
部隊全員の人数は不明だったが、本部要員は10人そこそこで、打ち解けた仲間の雰囲気に私は安堵した。

女性将校が私に「近くの部落にいってウチュッグを借りてきてくれ」という。私にはその単語が分からなかった。手まねの末、それはアイロンのことだとわかり、私は要求に応じてやった。やはり女性なのだなと感じたことを覚えている。
これを機に私も一員として認められたのか、互いに身辺のことで話が弾んだ。

私は思い切って聞いてみた。
「いったい、われわれは何の目的で行軍しているのか」
彼女はお前は知らなかったのかと不思議そうな顔をしたが、気楽に、しかも驚くべきことを教えてくれた。

――降伏を肯じない日本軍の1部隊が反乱をおこしたという情報があり、われわれはそれを討伐にいくのだ。

さあ、これは偉いことになってきた。イザという場合、私は矢おもてに立たされるに違いないが、日本軍に降伏を説得にいけば、私はソ連軍の手先として切られるだろう。といって決起部隊と行動を共にすれば、ソ連軍によって殲滅されるだろう。どう転んでも命はない。
折角、戦争が終結したというのに、ここで死ぬのは無念だ。
元来、臆病な私はその夜眠られないままに朝を迎えた。
                          
 4、“解放軍”の入城に赤旗の波

早朝から二日目の行軍が始まった。途中のことはよく覚えていないが、ゆく先々で、先行していた斥侯兵が次々と戻ってきては、異状なしと隊長にいう報告を、馬上に並んでいて耳にし、ホッとしたことが記憶にある。
目的地の周家鎮に近づいたとき、異様な光景に目を見張った。
凹凸が激しい大通りの両側に中国人がひしめきあい、手にした赤旗を振っているのだ。赤旗といっても、赤い布切れを棒の先に結びつけただけで、なかには赤く塗った紙を棒につけたものもあった。
鎮の城門に近づくにつれて人数はますます多くなり、歓声も大きくなっていった。
隊長が不意に立ち止まり、手をあげて部隊を停止させると、民衆に向かって演説を始めた。ところどころで区切り、私に中国語に翻訳せよと命じた。
私のロシヤ語は3年間学んだとはいえ怪しいもので、完全には理解できなかったが、「日本帝国主義からの解放」「偉大な指導者スターリン」「虐げられた中国人民」というような単語がちりばめられていた。
ところで私の中国語は、ロシヤ語に劣らず怪しいもので、現地の暮らしのなかで覚えた程度だから演説などとは無縁のものだ。
しかし、人間、いざとなると度胸がすわるものだ。わたしは度胸を決めて、中国語らしきことばを発しつづけた。
よくしたもので、中国人たちは分かっているのかどうか分からないが、ひとふしおわるたびに赤旗を振り、大歓声をあげた。
権力者はウヌボレが強いものだ。隊長は気をよくして長々としゃべりつづけた。

 5、歓迎宴会で苦心のインチキ通訳

その夜、町一番の料理店を会場に、町長、警察署長、商工会長はじめ土地の有力者によってソ連軍歓迎会が開かれた。まず町長が挨拶した。もちろん中国語である。私はそれをロシヤ語に通訳しなければならない。これも語彙はほぼきまっているので、何とかなるかと思ってやっているうちに隊長が待ったをかけた。
「お前のロシヤ語は何を言っているか分からない。昼間はあんなに旨く訳せたのに、どうしたのか」という。

わたしはとっさに「わたしはロシヤ語を中国語に言い換えることは出来るが、逆に中国語をロシヤ語に言い換えることは苦手なのだ」と弁解した。

すると隊長は事もなげに提案した。「わが隊のタタール人兵士で日本語のできる者がいる。君が中国語を日本語に訳し、かれにそれをロシヤ語に訳させる。それで問題は解決する」

会場には将校が出ているだけだったが、ほどなく、一見して少数民族と分かる人のよさそうな兵士が呼び出されてきた。だが話してみるとその日本語たるや酷いものであった。カタコトもいいところだ。だがこの兵士、度胸だけは相当なものであった。
かれは私が日本語に訳した町長の挨拶を耳にするがはやいか、流暢なロシヤに“訳”してみせた。それはもう、翻訳などではなく創作であったが、隊長はこの伝達システムがすっかり気に入って、その夜は成功裏に終わった。
あの、タタール人はその後、どんな人生を歩んできただろうか。

幸いなことに、日本軍部隊の反乱は誤った情報に踊らされたのだった。捜索と情報収集の結果、誤報であることが判明し、2,3日後、私は部隊とともに無事、引き返すことになった。
悲劇は喜劇に変わった。これにはもう一件、忘れ得ぬ苦い思い出がある。

 6、苦い思い出――悪行に加担

周家鎮に駐留中のある日、わたしは将校団の事務長格からとんでもない命令を受けた。銀行の支店で「ソ連の軍票と満州国紙幣とを等価交換いてこい」というのだ。
――ソ連軍は満州侵攻ととに“軍票”といわれる紙幣を持ちこんだ。、俄か作りの赤い一色刷りである。だが、それはまったく人気がなく、たしか満州国紙幣の10分の1程度でしか通用しなかった。壊滅したとはいっても満州国の紙幣はまだ当分の間通用していた。
つまり、この命令は交換に名をかりた略奪だったのだ。

わたしはやむなくこの命令に従って交渉した。交渉といっても一方的な命令である。親しくなった下級将校から後で聞いたところによると、部隊の帳簿には市価による交換額を記入し、余って“儲けた”満州国幣は全将校団で階級に応じて分配したという。
わたしにも何がしかの分配があり、断りきれずに受け取って共犯者となってしまった。63年を経ても、断りきれなかった弱さに苦い思いをしていることを白状する。




1937年
 満州国・朝鮮国境の車中にて
  
日本の「特高刑事」になった朝鮮人

■NHKドラマ「海峡」

7年11月下旬、3夜連続でNHKドラマ『海峡』(3話)が放映された。敗戦時から始まり、日本軍の憲兵だった朝鮮人の若者と、釜山育ちで孤独な日本女性との恋を主軸にして、海峡によって引き裂かれた悲劇を描いたもので、実話にもとづいた作品だという。
戦後、日本に密航してきて彼女と二人、懸命に暮らすかれは「不法入国」で逮捕される。かれはが詰る刑事にいう。「わたしはムリヤリ日本国民にされ、苗字まで変えさせられ、兵役まで果たした。日本はそのわたしを不法入国だなど言えるのか」
だがかれらは海峡を隔てて切り裂かれてしまう。
ドラマは戦後30数年たち、それぞれ結婚していた二人が、かれの死を前に再会するところで終わる。後味のいいドラマでホッとしたが、わたしは「日本の特高刑事」になった朝鮮人にしつこく調べられた体験を思い出した。

■1937年 満州・朝鮮の国境

日中全面戦争が始まった1937年(昭和12年)翌年秋のこと。私は列車で朝鮮半島を経て「満州国」の哈尓浜(ハルビン)に向かっていた。当時、哈尓浜学院の2年生だった私は、東京の父のもとですごした夏休みを終え、学校へ戻る途中であった。列車が半島最北の国境新義州が近づいたころ、私は私服刑事から執拗な不審尋問を受けた。思想犯を扱う「特高」刑事だったのだろう。

朝鮮半島は日本の領土であり、「満州国」は日本の「友邦」であったから出入国審査はなく、税関も乗車したままトランクを開く程度であったが、鋭い目でそれと分かる私服刑事が巡回してきた。横に座り込み、朝鮮なまりの日本語で話し掛けてきた。当時、少なからぬ朝鮮人が警察官に採用されていたのだった。

私が気取ってルバシカ(ロシアの上着)姿だったのが目に留まったらしい。荷物は洗いざらい調べられ、ロシア語の本を見て相手は内容を問いただした。私は学校の正課でロシアの言葉や文化を学んでおり、これは小説などであることを説明したが、相手は承知しない。
ついには「キミは天皇陛下をどう思うか」と聞いてきた。どう答えたかは覚えていないが、荷物はバッグの底まで丹念に調べられ、無罪譜面になったのは、列車が国境の町、新義州にすべりこんでからであった。

■戦後、かれはどうなったろうか

かれは、日本の朝鮮併合により、"日本人より一級低い地位の日本人"にされた屈辱を、日本人の学生を調べあげることで晴らそうとしたに違いなかった。それは痛ましいまでに読み取ることができた。

日本の敗戦後、かれはどうなっただろうか。日本の刑事になったということで処刑まではされなかったとしても、民族の裏切り者として追求さたのではなかろうか。それともうまく立ち回って新生朝鮮に生きる場を得たのだろうか。折りにふれて思い出している。(2007年12月)
1945年

  わたしの”8月15日前後” 

昭和20年(1945)8月15日、村山二等兵は25歳、満州の東南部、通化という町の関東軍部隊で、天皇の放送を聞いた。62年前のことである。

★敗戦3ヵ月前、「満州」で現地召集を受ける

村山青年はもともと「満州国」職員として「浜江省」阿城県に勤務していたのだが、この年5月に召集令状を受け、妻と生後3ヵ月の息子を県公舎に残して、北部国境の黒竜江に近い愛輝(アイグン)の部隊に入営した。

★思いがけない出会い

配属されたのは機関銃中隊だったが、近くの原野で行われる連日の演習は、敵の戦車にたいして爆薬を抱いてぶつかる “特攻=特別攻撃”の訓練に終始した。自分で掘った穴=タコ壷に身を潜め、敵戦車が近づいた瞬間、抱いた爆薬もろとも飛び出すのである。本番となったら助かる見込みはない。

たしか6月に入ったある日、隊列を組んでその演習地に向かう途中、道端でどこかの工事場に行くらしい中国人労務者の一団が休んでいる傍を通りかかると、不意に2,3人の労務者が立ち上がり、思いがけない声がかかった。
「アイヤア副村長!」「你不是副村長麼(アンタ、副村長ではないか)」

★回顧――中国人の村で暮らした三年間

この出会いは説明を要する。
実はわたしは、敗戦の三年前から、満州農村の実態を学ぶため“副村長”という“特殊”な肩書きで、県城(県公署所在地)から15キロほど離れた正旗村(注)の村公所(村役場)に駐在し、新婚早々の妻とその部落に住み着いていたのだ。

日本から連れてきたばかりの妻は全く中国語を解さなかったが、若さの故に部落のなかを自由に歩き回り、勧められるまま馬に乗って振り落とされたりし、けっこう人気者になっていた。村人が野菜を持ってきてくれ、旧正月が近づくと零下20度で自然冷凍の餃子がバケツ一杯になった。

敗戦の前年、全満で「労工供出」(注2)が始まった。労務者の徴用である。

わたしは村公所で数回、選抜の現場に立ち会っていた。その送り出した先は北部の国境近いところとは聞いていたが、まさかこんな所で会おうとは思いもよらなかった。

かれらからすれば、自分たちを徴発した日本の若者が、今度は兵士として徴発されてきた。ざまあ見ろと思ったか、仲間意識を持ったか、それは分からない。いずれにしろ、かれらが私の顔をよく知っているのは当然だが、わたしのほうは何十人もいる相手の顔は分からない。私は内心ドキリとしたが、かれらの懐かしそうな表情を見て複雑な思いをしたことを覚えている。敗戦2ヵ月前のことである。

★関東軍の主力、国境を撤収して南へ移動

前後したが召集を受けて二か月後の7月、わたしたちの部隊は国境近くから撤収し、満州東南部の通化市近郊に移動した。後で知るのだが、関東軍は、ソ連軍の来襲近しと見て防衛線を収縮させ、総司令部を“新京(長春)”から通化市に移したのであった。

わたしたちの部隊は営舎もなく、トウモロコシ畑に囲まれた広場での天幕生活で、食糧なども山積みにしてシーツを張ってあってあった。便所もないため、周囲のトウモロコシ畑は日一日と悪臭がひどくなった。日本の敗北を察知したのか、召集されていた韓国人兵士の脱走が相次いだ。

「敗戦近し」とは思いもしなかったが、何か起きそうだという予感はした。

★8月15日以降の「北帰行」

8月15日の天皇放送はトウモロコシ畑に囲まれた広場で聞いた。よく聞き取れなかったが、敗戦だということは分かった。たしか何の訓示もないまま解散したが、無念感、安堵感、不安感がないまぜになったまま数日が無為のうちにすぎた。

連隊長が近くにある小山の頂上で自決したという噂が流れた。

わたしの属する班は、5月に現地召集を受けた二十代後半~三十代のオジサン新兵で構成されており、多くが満州各地に家族を残していた。そのため「早く解散してほしい」という声が公然と上がったが、班長以下、古兵たちは日本内地から来ているため、解散されても動きが取れないので共同行動を望んでいた。しかも班長はじめ内地からきた古兵たちは「勝手に抜け出せば陸軍刑法で脱走罪に問われるぞ」と現地召集組を牽制した。

いよいよソ連軍が武装解除に乗り込んでくるという情報が流れてきた夜、わたしはひとしく家族を首都新京に残している二人の戦友とともに脱走した。広場に積み上げられている食糧の山から手探りで乾パン袋を頂戴してときの恐怖感が今も脳裏によみがえる。(戦後5年ほど経ったとき、わたしは新潟県の長岡市で偶然、逃げなかった古兵の一人に会い、シベリヤへ送られたことを知った。わたしは複雑な思いだった。逃げないのが悪かったとは言い切れない。それぞれの立場で運命が変ることを実感したのだった)

敗戦後も“脱走兵”となれば、日本軍にせよソ連軍にせよ発見されたらただでは済まない。わたしたちは危険な通化駅を避け、遥か離れた駅まで夜を徹して歩き続け、当時まだ不規則ながら動いていた満鉄ローカル線に貨車に潜り込んで北上した。

★「ハルビンは危ないぞ」 教えてくれた中国人

途中、新京に向かう二人と別れ、わたしは北上しなければならない。何しろ、南へ南へという人の流れに逆行して北を目指すのだから容易ではない。西に東にウロウロしながら数日後、わたしはようやく、ハルピン行きの客車に乗り込むことができた。隣りに座った中国人に問われるまま「家族が阿城に残っているので、探しにいく」と答えると、「ハルピン駅はロウモーズ(ロシヤ人をさす)
が警備していて危ないぞ。手前の周家駅でおりて正旗村を経て阿城に行ったほうがいい」と教えてくれた。正旗村といえば、わたしたち新婚夫婦が2年あまり暮らした村である。

いわれたとおり、わたしは周家駅で下車に正旗村に向かった。かつて勝手に“副村長”と称して“君臨”していた日本の若者を、村人がどう迎えてくれるのか不安があったが、いまは賭けるより仕方がない。

約20キロの田舎道を歩いていく日本の“敗残兵”とすれ違った農民も多かったが、怪訝な顔はしても咎められることなく、4ヶ月前まで「副村長」をしていた村に入ることができた。
8月22日、敗戦の日からほぼ一週間経っていた。
       
  (注1)正旗村=人口約1万人。その名が示すように清王朝を支えた「満州旗人」の村だが、言語、風習などほとんご漢化していた。

(注2)労工=労務者を強制的に“供出=徴用”するのだ。関東軍の要請を受け、土木工事のため、省(県を統括する地方庁)は県に割り当て、県は村に割り当て、村は部落に割り当てる。今から考えると大掛かりな“拉致”にほかならない。

こうした徴用は、中国の旧社会では、二千数百年前から行われており、『史記』には、秦の始皇帝は宮殿と死後の陵を築くため七十万人の農民を“囚人”の名目で賦役につかせたことが記録されている。

“近代国家”を目指すはずの満州国でもこうした徴用が行われていたのであったが、徴用を受ける側にも、それに対応する手法があった。図らずもわたしはその実情を見聞することになった。

割り当てられた部落では一応戸別の“輪番制”がとられていたが、有力者や金持ちは番が回ってくると、自分の子弟の代わりに替え玉を雇って出頭させた。

わたしの勤務する阿城県では副県長(日本人)岸要五郎が「満州国」の理想を実践しようとした有名な熱血漢で、この歴史的悪習を断ち切ろうとして替え玉を禁止し、一戸ごとに戸籍を調査、貧富にかかわらず働き手が一人しかいない家は免除、複数の若者がいる家に限って抽選で輪番制による動員名簿を作成し、さらに個々面接をして被徴用者を決めた。わたしはこの計画の立案から実施まで担当を命ぜられて深刻な体験をした。

いまにして思えば、これで免罪符にはなり得ない。中国人の立場からすれば、侵略に変りはないことになるのだが、主観的とはいえ、こうした“正義派”がいたことも事実であった。


  1936~

     わたしと漢文の60年

プライベートなことで気がひけるが、私の「漢文体験」を聞いていただきたい。
というのは、私は学者ではなく中国古典の専門的研究者でもない。

そんな私だが、不思議なことに、二十世紀の流れに沿って、節々でささやかながら「漢文」と関わるさまざまな体験をした。時代を追ってそれを想起し、改めて考えてみたい。

二・二六事件の朝 

戦前の旧制中学では国語科とは別に漢文科があって、相当な比重を持っていた。だが、文章の内容よりも「記号に従い複雑にひっくり返して読む技法」に嫌気がさし、多くの級友たちと同様、漢文は嫌いな学科となり、あまり記憶に残ってはいない。

 そのなかでも強い印象として刻み込まれているのは、一九三六(昭和十一)年、二・二六事件当日のことだ。一時間目が漢文の授業であった。担任のO先生はどちらかというと取っ付きにくい人であったが、この日は様子が違っていた。
 教科書は持ってこず、先生のやにわに口にしたことばが、七〇年たったいまでもわが記憶倉庫の奥底に刻みこまれている。

「今年、いかなる年にや。都にいたく雪降り積み、岡田の大臣(おとど)は殺されたまいぬ。……今日は休校と決まった。すぐ帰宅するように」

 その日は稀に見る大雪であった。(当初、岡田首相も暗殺と放送されており、あとで分ったことだが、殺されたのは官邸にいて反乱軍から誤認された義弟M大佐だった)
 O先生はそのあと黒板に、

◆白虹、日を貫く

と大書し、ニヤリとして「このことばは、いまに分るから覚えておくがいい。ただし、外ではやたらに言わぬこと」といって簡単に説明したあとすぐ消した。
 このことばは、大正七年の「白虹事件」として戦前では有名な成語だったらしい。長じてのち知ったが、『戦国策・魏篇』などを出典としており、「白い虹」(兵)が「日」(天子)を貫くということから、兵乱を意味する。
大正七年の米騒動にさいし、大阪朝日新聞が寺内内閣の失政を攻撃する記事にこのことばを使ったところ、不敬だとして発売禁止となり、記者は禁固刑に処せられ、社長は右翼浪人に襲撃されるなど、「白虹事件」は言論抑圧時代の一頁となった。

漢語が内容を鋭く表現する力を持っていること。また、往々にして「暗喩」に利用されることなどを示す「歴史的」成語である。
      
内蒙古の奥地で受けた漢詩のもてなし 

一九三九(昭和十四)年、十九歳のとき、私は夏休みを利用して友人と二人、蒙古を旅した。今でいえば吉林省西部から遼寧省北部、内蒙古自治区の東部大草原を経て河北省張家口に達する約千二百キロ、騎馬を主に、大車、トラックに便乗する”無謀無銭冒険旅行”だった。

しかも当時、北方(今は黒龍江省北西部)ではノモンハンの激戦、南方関内では盧溝橋事件から満二年、日本軍は泥沼に踏み込んで抜き差しならぬ状態にあった。

そんなときに、学生とはいえ日本人の若者が辺境を旅するなど危険だったはずなのに、その記憶は全くない。それどころか、漢族も蒙古族も住民たちは温かく迎えてくれた。とくに、シラムレン河上流の小さな県城で一宿一飯の世話になったとき、漢族の県長が揮毫してくれた漢詩から大きな感銘を受け、忘れられない青春のオアシスとなった。

 老県長は噛んで含めるように説明してくれた。その詩は中唐の詩人孟郊の作品「遊子吟」で、母の心情を詠ったものだった。紙幅節約のため、訓読のみ記す。

慈母 手中の線
遊子 身上の衣
行に臨み 密密 縫う
意は恐る 帰ること遅遅たるを
   
    訳=やさしい母さん 手にした糸で
    旅立ち控えて 息子の着物 
    せっせと針を運んでる
    いつ帰るかと 気にかけながら


 漢詩というと、刀を振って勇ましく舞う剣舞から連想する無骨なイメージを持っていたのだが、心細い旅先でもらったこの詩は、情感を表現する漢詩の存在を教えてくれた。
           
「満州国」壊滅 

二十五歳のとき、私は、「満州国」職員として敗戦をかの地で迎えた。そして、帰国までの一年間を妻子とともに「日本人収容所」で過ごす。     

そのとき、訪ねてきてくれた中国の友人が、わたしの失望と不安を見て取り、「日本人は敗北の経験がないから落ち込んでいるが、われわれ中国人は歴史的に何度も災厄を体験しているので、おのずから運命にたいし抵抗力を持っている」と慰めてくれた。
そのさい、かれは、
◆人間万事塞翁が馬
という中国原産のことわざを引いた。もちろん、当時の私でも、この程度のことわざは知っていたが、時といい所といい、ひとしお印象が強かったので身にしみた。
いまにして思えば、これは戦後、公私の両面とも海山越えねばならぬ人生行路で、ピッタリのことばだったのだ。
      
毛沢東論文で「孫子」を知る

毛沢東論文で知った孫子 戦後の昭和二十年代、帰国したわたしは労働組合運動に首を突っ込んでいたが、自分が過ごしてきた中国の動向に無関心ではいられず、とくに一九四九(昭和二十四)の新中国建国前後は、中国革命に関する文献に打ち込んだ。毛沢東論文に熱中した時期もある。

 そこには、強力な日本軍を苦しめた八路軍の戦略戦術が展開されていた。
そして、それを主導した毛沢東理論の源流に「孫子の兵法」があることを知った。

たとえば、弱が強に勝つ遊撃戦術の一つに「〈精強な〉敵が進んでくれば〈われわれは〉退き、敵が止まればこれを悩ませ、敵が疲れたら襲撃し、退けば追いかける」(毛沢東)『中国革命戦争の戦略問題』)という原則がある。これは『孫子』の

◆強なればこれを避け…、
◆佚なればこれを労せしめ…、
◆敵の無備なるを攻め、その不意に出ず。(『孫子』虚実篇)


などと符合する。

毛沢東といい孫子といい、その言うところは、単なる戦術ではなく、ある種の「弁証法」という根底的な考え方から発しているのであった。
いまでは有名になっている、

◆彼を知り己れを知れば百戦殆うからず(孫子』謀攻篇)


の存在をわたしが知ったのは、実は毛沢東論文からだった。かれはなんと『矛盾論』『中国革命戦争の戦略問題』『持久戦論』と三つもの論文でこのことばを引用していたのだった。

戦時中、延安に潜入して『中国の赤い星』を書いたアメリカのジャーナリスト、エドガー・スノウは、毛沢東の談話としてかれが少年時代、中国の古典を愛読したことを記している。
毛沢東が自国の旧文化について述べた文章がある。

「中国現代の新しい政治・経済は、古代の旧い政治・経済から発展してきたものであり、現在の新文化も同様だ。したがって、われわれは歴史を断ち切ってはならず、自己の歴史を尊重すべきである」毛沢東『新民主(主義論』)

 中国でよく使われてきた四字成句のスローガン「古為今用」の基はこれである。
その毛沢東が晩年、文化大革命を発動し、紅衛兵の古文物破壊を容認することになるのは矛盾だが、それは別の問題としてここでは触れない。

 私は、後に役立つとは考えもせず、神田を巡って戦前に出た『孫子』の研究書や注釈書などを買い漁り、熱中した。
    
 先秦の古典を現代に活かす 

人生何が起きるか分らない。ヒョンなことから私は、その『孫子』を自ら現代語訳して刊行することになる。
 昭和三十年代、はじめのことだ。闘争的ではなく妥協の徒である自分の身の程に気づいて労働運動から足を洗い、戦後生まれの出版社に身を置いていた。

そのころ、他社で出した山岡壮八の小説『徳川家康』が経営書としてベストセラーとなったのを受けて、『孫子』を思い切って現代語訳し、経営書として出そうという企画が持ち上がった。

実はこれには裏話がある。週刊誌の編集責任者だった私は売れ行き不振でお役御免となり、別件で販売責任者をやはりお役御免となったH氏と窓際部屋にいた。そのH氏が神保町の古書店で戦前刊行の「兵法七書」に一万円の高値がついているのを見つけたのが端緒だった。微かながら漢文復興の兆しがあった。

だが、何人かの中国古典学者に当たってみたものの一顧だにされなかった。無理もない、ビジネスマンむけの『孫子』など書いても、学問的業績にならないばかりか、「曲学阿世の徒」(学問を枉げ世におもねるやから)として同業の非難を受けるかもしれないからだ。

かくて俄か仕立ての「在野研究者」としてわたしの出番となった。長年、独学で勉強していたことが図らずも役にたったが、なにぶん、無名の訳者である。当時著名であった心理学者村田宏雄氏の解説、戦史研究者北川衛氏による実例を付け、箱入り豪華装丁本、週刊誌が三十円の当時、一〇〇〇円の定価で発売した。なんと、これが増刷に増刷を重ねる売れ行きとなった。

まさに私にとっては、公私ともに「人間万事……」となったのであった。      

さて、社ではこれが導火線となり、『論語』『老子』『韓非子』『荘子』など、いわゆる先秦の主な古典を網羅したシリーズ「中国の思想書」を刊行しようということになった。

 こうなると俄か仕立て「在野研究者」では手に負えない。さいわい、在来の漢文注釈を主とする中国古典翻訳をよしとしていなかった竹内好氏が文字通りの監修者として乗り出してくれた。これに松枝茂夫氏も加わり、門下の若手十三氏を集めてアパートの一室を研究室(今言えば「松竹塾」というところか)とし、基礎文献から勉強を始め、二年余の準備期間を経て『韓非子』を皮切りに、全十二巻の『中国の思想』全十二巻(徳間書店)を刊行したのであった。

 俄か仕立て「在野研究者」はこんどは、出版社編集者としての枠を超え、運動部のマネージャよろしく世話役オジサンとなって作業を共にした。ついには訳者の仲間に紛れ込み、『孫子』を分担するまでに打ち込んだのであった。余談だが、当時、私が冗談に「天下りだ」といったところ、気鋭のI氏がすかさず「天上がりです」と応じ、さすが竹内好の弟子だと感心した記憶がある。

 全員がそれぞれ自分の巻を担当すると同時に、全員が全巻に関わるという作業の進め方は、中国の先秦古典を総合的に理解するのに非常に役立った。

 ご承知のように先秦諸子は儒家=論語・孟子・易経・大学、道家=老子・荘子、法家=韓非子、兵家=孫子・呉子、墨家=墨子…というように縦割りに分類されている。
 それいいとして、一般的な読み手としても、「論語=性善説、韓非子=性悪説、老子・荘子=道家」というように、自分の好みで縦割り分類的な先入観を持って読む人が多い。学者もそれぞれの持ち分野がある。

 だが、実は先秦諸子の間には、当然ながら思想の相互乗り入れが行われていたのだ。一例を挙げると、孔子はシカツメラシイお説教をするだけでなく、その言行録である『論語』には、「道家」に通ずる隠遁にあこがれる弱さをもらしたことばも収録されている。『論語』で見るかぎり、温情の人孔子は冷ややかに人を見抜く「法家」の目も持っており、また女性と会ったことを弟子にたいしてムキになって弁解するようなウブなオジサンでもあった。

 だからこそ、『論語』が面白いのであって、これを大時代の倫理教本として拝読するのではもったいないのだ。
 このシリーズは予期以上の版を重ね、半世紀近く経った今もなお現役である。
       
 現代中国と漢文 

 さらに二十年が経過する。私は勤めを止め、著述を身過ぎ世過ぎのてだてとしていたが、たまたま紹介者があって、中国の国営出版社が発行している日本語月刊誌『人民中国』の助っ人として七八年春から北京暮らしをすることになった。

 折しも中国は毛沢東の没後一年半が経過し、今後の路線をめぐり、毛沢東路線の完全継承か「実事求是」に基づく改革開放かということで、激しい綱引きが行われていた。それは「派閥」という次元を超え国家的な政策選択の課題であった。
 末端とはいえ、変化のすがたを内部から見聞できたということは得がたい機会であった。
 そのなかで、思いがけず「漢文力」の実例を感じたことが再三ある。

山雨欲来風満楼
   山雨来らんと欲して風、楼に満つ

 
 この句が内部文献などでよく見受けられ、恥ずかしながら無知であったわたしは中国人の同僚に聞いて、なるほどと思ったのだった。
これは晩唐の詩人、地方長官であった許渾の八行詩「咸陽城東楼」の一句で、長安の北にある古都咸陽の夕景を詠んだものだが、大変化の到来を予測させる名句として知られる。
 もう一つは次の句である。

山重水複疑無路  
柳暗花明又一村
   
   山重なり水複って路なきかと疑えば
   柳暗く(茂り)花明るく(咲き)又一村あり


天安門広場に面した人民大会堂で、建国三十周年の祝賀会があったとき、元老の葉剣英が建国いらいの歴史を整理し、極左的過ちについても言及する重要演説を行った。そのなかでこの詩句が引用されていたのだ。
波乱と起伏を乗り越えて歩んできた三十週年にふさわしい詩であった。

たまたま、わたしたち外国人もその席に招かれており、遥か離れた末席であったが、配布された演説草稿にこの句を見て、その寓意のみごとさに感じ入った。

これは南宋の詩人政治家陸游が江南の村里を描いた八行詩「遊山西村」の一部だが、絶望かと思っていると新たな世界が開けてゆくということを現す名句として有名だ。

こうした政治向きのことだけではない。改革政策が次々具体化されてゆくなかで、ビールが払底した。そのときすかさずこれを報道する夕刊新聞にこんな見出しがつき、喝采をはくした。

◆借問啤酒何処有?


漢文訓読み方式だと「借問す啤酒何処にや有る」だ。お尋ねします。ビールはどこにあるのでしょう。このモジリ句は原詩が新橋あたりの飲み屋の壁に貼られていたりするので、わたしにもすぐピンときた。

これは唐の詩人杜牧の有名な「清明」の一部「借問酒家何処有 牧童遥指杏花村」(借問す酒家何処にや有る 牧童遥かに指さす杏花村)が原典であることはいうまでもない。     
       
 反響を呼んだ日本の「孫子」活用

自慢めくのでためらったが、中国らしい経済改革の一プロセスを物語る挿話なので付記しておきたい。
 一九七九年、改革の号砲が鳴って半年あまり経ったときだ。たまたま知り合いとなった人民大学の講師(後に教授)Yさんと語りあっていて、日本の経済が上り坂に足をかけたころ私が『孫子』の訳書を出し、経営書として大いにもてはやされたことを話した。

 しばらくして、そんなことを忘れていたころ、Yさんがやってきて、「日本における経営書としての『孫子』の読まれ方」について講演してほしいという。
 私は驚いただけでなく、いささかビビった。
それこそ中国でいう「聖人の門前で経典を売る」にひとしい。だがYさんは言った。

「いま中国では、企業体のマネージメントについて経験が乏しいので、学習に大童である。日本では経営者が『孫子』を学んでいるらしいと報告したところ、上級部門で”灯前黒”(灯台下暗し)”空蔵美玉”(宝の持ち腐れ)だとして問題になり、是非にということで正式依頼に来たのです」

 こうなっては後へひけない。幸いなことに、私は日本にいたとき、企業研修で『孫子』の話をしたことが何度かあり、渡航直前にも、さる大企業の中堅幹部研修で「孫子の共同研究コース」に顔を出したりしたため、かなりの材料はあったので引き受けた。

 人民大学の講堂に国営企業の経営幹部、行政機関の経済部門責任者など約三百人が集り、Yさんの巧みな通訳で、熱心に耳を傾けてくれた。さらに後日、この内容が全国関連部門に基本文献として配布されたと聞き、さすがの私も「冷汗三斗」の思いをしたのだった。
      
中国人の多重思考 

実学的な読み方とはいえ、古典を学んでいたことは、中国人を理解する上で少なからず役立った。もちろん、千数百年も前の古典が、そのまま現代中国人のなかに生きているなどということはあり得ない。しかし、いわゆる面子、廉恥、侠、現実重視、打算などの気質に、古典世界からの“遺伝子”を見ることができた。

 さらにまた、中国人の多重思考ということも歴史的に実感できた。歴代の王朝政治は儒教を建前とし、韓非子を政治手法とし、帝王個人は不老長生の道教を信奉するという構造であったといわれる。
それとは意味合い違うが、中国人のなかで儒・法・道は一体となっていると感じた。

考えてみれば当然なのである。善人が悪事をすることもあれば、悪人が善事をすることもある。もともと人間に固定したレッテルを貼ることはできないのに、われらヤマト族はとかく固定した人間観を持って入る。そこへゆくと、歴史的に刻み込まれてきた中国人の多重的性格のほうが世界に適応できるのではないかとすら思うのだが、これは今後の命題として考えていきたい。


 1936(16歳)~1945(25歳)

   わたしの中国体験

         満州事変から敗戦まで


 昭和六(一九三一)年九月満州事変勃発。当時、小学校六年生であった村山少年は、東京駒込の自宅から池袋の学校まで「省線電車」で通学していたが、駒込駅で、連日、いつもは貨物列車しか通らない内回り線を兵士を満載した客車が通過してゆく光景に興奮した記憶が焼きついている。

 旧制中学は、当時九校しかなかった東京府立ナンバースクールの一つで、大正末年に開校、当時稀だった背広の制服に反映される自由な校風があり、今にして思うと「大正リベラル」の残映だった。
 だが、五一五事件、二二六事件などを経て、国家意識の高揚は次第に醸成されつつあった。「国を思わない」財閥、政党への不満、北からの「赤魔ソ連のよる在満既得権の危機」などで軍への期待は深まった。

 ――長々と個人的追想をつづけて読者各位には「ご退屈様」だろうが、国民の感情といい意識といい、ある朝突然にではなく、おもむろに醸成されてゆくものだということの立証としてお許し願う。

 昭和十五(一九三六)年春、村山青年はハルビン学院に進む。ここはロシア革命直後、ロシア関係の人材養成を痛感した初代満鉄総裁後藤新平の発議で設立された学校(旧称「日露協会学校」)である。
 満州国内にありながらリベラルな校風で、当時はまだ関東軍の直接的容喙もなかった。学生は「満州国」というより、一九世紀末、ロシア人が建設した「国際都市」ハルビンの雰囲気にひたっていた。わたしもその一員であった。

 恥ずかしながら、村山青年の意識が一変し、「満州国」を強く意識するようになったのは、ここを卒業後、さらに中央大学(太平洋開戦はそのとき)を経て、「満州国高等文官試験」なるものに合格し、満州国の若手幹部を錬成する大同学院に入ってからである。
 
 村山青年は建国初期に命をかけた先輩たちの言動に触れ、「国家意識」と「新国家の理想」に燃える若者に変わって行く。
  民族問題についていうと、大同学院では日・朝・満・漢・蒙の「五族協和」が強調され、一年間、同じ釜の飯を食い寝起きも共にする過程では「平等」が実践された。

 だが、それは表面だけであって、意識差は消すべくもなかったということを、わたしが知るようになるのは、敗戦後数年たってからのことである。
  
 建国大学を終えて大同学院に入った中国人学生たちが、戦後、日本人の同学に打ち明けたことだが、毎日の行事だった東方「遥拝」(ヤオバイ)の号令に、不快感、いや反感を抱き、同音異義の「要敗」と置き換え「日本の敗北」として最敬礼していたという。

 些事なことのようだが、中国人はルーツを大事にする。「オレハオ前ノオヤジダゾ」というのは最大の侮辱なのだ。したがって、関東軍が「満州国・建国神廟」に天照大神を祭らせ、皇帝以下、国民に参拝を強制したのは最大の侮辱であった。ただの「愚行」では済まされない。

 また「黙祷(モオダオ)」の号令は同音の「磨刀」(““その日に備えて”一剣を磨く)に置き換えたという。
 かれらと起居を共にした複数の同窓生による証言だ。かれらと格別に親しくしていたSなどのように、当時からかれらのこうした反感に気づいていたという者もいるが、これは少数で大多数の日本人は全くかれらの思いに鈍感だった。

  村山青年は、村山老人となってから、文革終結後、北京の出版社で中国人の同僚と机を並べているとき、かれが戦前、日本に留学していたとき、日本人の間で「南京虫」ということば出てくるのが不愉快で「東京虫」と言い換えていたという「笑い話」を聞いて笑えなかった。

 (1955=昭和30年前後、34,5歳)

   
  告白・時効犯罪
              

50年近く経ったいまでも、思い出すとゾッとする。あきらかに、わたしのあの行為は犯罪であり、逮捕されれば起訴は疑いない。当時、もしわたしが教職や公務員であったなら、間違いなく懲戒免職になっていたであろう。

そのころ、わたしは新橋の出版社に勤めていた。「徳間書店」の前身で「アサヒ芸能出版社」といい、週刊誌「アサヒ芸能」を出していた。わたしははじめ「整理部」所属で入社したが、やがて編集部のデスクとなり、「社長のミス人事」で編集長をさせられていた時期がある。わたしは決断力に乏しく、ハダカ写真の掲載にも抵抗を感じていたくらいなので、適任ではなかった。それを知りながら敢えて編集長を引き受けたのは、心の隅にやはり青年の功名心があったからだろう。
ともかく1年あまりで売れ行き不振となり、わたしは編集長をクビになるのだが、在任中は締め切り間際の徹夜連続はいうまでもなく、新橋界隈でよく飲んだ。若い部員を指揮できない弱味を、共に一杯やることで補っていたのかもしれない。ってわたしはそろそろ終電車に近い深夜の東京駅ホーム。そのころは発車を知らせるベルが鳴ることになっていた。東京駅が始発である中央線の電車は、ベルが鳴り終わると同時に発車していった。
いつも通りの光景である。
ただ一つ、この電車には異常なことがあった。その電車は最後尾車両の後ろに、飲み屋の「赤堤燈」をぶらさげたまま,発車していったのである。

この犯人こそ、生酔いのわたしだったのだ。

赤堤燈がユラユラ揺れるのを見送りながら、わたしは確か両手を上げて「万歳」を叫んだと記憶している。
だが、その直後、夢から覚めたように我にかえり、俄かに恐怖を感じたのであった。
当時、わたしは三十代の前半、新橋にあった出版社に勤めていた。昨今の出版社と違い、その出版社社は社長が経営者というにしては風変わりなサムライであり、社員はサラリーマンというよりもインテリヤクザだったり、梁山泊風の仲間だったり、とにかく奇妙な集団であった。

わたしは新橋の屋台で同僚たちと一杯やったあと、別れてひとり帰路についたのだが、飲み屋の店先にある赤堤燈を見て、フト「これを電車の尻にぶらさげたら愉快だろうな」と思いついたのでった。
もともと、わたしは酒は弱いほうで、ただ、ワイワイいいながら飲む雰囲気が好きだった。少し飲んだだけで高揚した気分になり、飛び上がると走り高跳びの選手よりも高く跳べたような気分になったり、走ると自動車より迅く走ることとができたような錯覚を持ったりした。イタズラもその一環で、ほかにもホロ酔いでイタズラした悔恨の記憶は少なくない。

だが、わたしは、この一件いらい、イタズラと絶縁した。このまま進んだら大変ななことを起こすに違いないと心に刻み込まれたためである。

それでも、酒はその後、30年は飲みつづけていたが、70歳台の半ばからプッツリと止めた。心筋梗塞になりかけて10日間ほど入院したのだが、その心配もさることながら、酒がまったくうまいと感じなくなってしまったのだ。
八十歳台に入ってからは、「酔生夢死」というよりも「躁鬱交々」、躁状態になると「醒酔一如」、いつも酔ったような気持ちになってハシャグのである。




 (1945~46年 25~26歳)

 
 危機一髪! 命を守った一枚の写真
                      


 橋を渡った向こう側に例の銃を肩にしたソ連兵の一群が検問所を作っていた。橋の手前には中国人たちが群がり、見物している。検問所の下の河原には血まみれになった複数の死体が転がっていた。身元不明で銃殺された者であることは明らかである。おそらく証明書を持たない日本人に違いない。

 わたしは橋の手前で足を止め、連れの中国人Aさんと顔を見合わせた。
 
 1945年(昭和20年)8月末のある日だった。正確な日付は忘れてしまったが、敗戦放送の日から10日あまり経ったころである。
 場所は中国東北部、ハルビン市街地から南西30キロほどのところ、「満州国」当時は浜江省阿城県といっていた。中国では県政府のある町を県城という、その外れを流れる阿汁河にかかった橋である。
 
わたしはそのとき「逃亡兵」だった。いや、もう日本軍は解散しているのだから、正確には「逃亡兵」ではない。
 敗戦の日までわたしは「満州国」の青年官吏として、この阿城県政府に勤めていたのだ。敗戦の半年前、長男が誕生した。敗戦の4ヶ月前、前満州でそれまで事実上徴兵猶予を受けていた「日系」の青年官吏にも一斉に「赤紙」が来た。
 わたしは妻と生後二カ月の息子を県政府の裏にある官舎に残し、はるばる北にある国境の町黒河まで数キロの町で入隊した。
 
重機関銃中隊であったが、記憶しているのは馬の足を洗うため近くの小川に往復するとき、草原のアカザの葉を取り、それを茹でて食ったこと。どこでどうしていして茹でたかは思い出せないが、草いきれののニオイとアカザの葉のみずみずしさをフッと思い出すことがある。
 もっとも鮮明な記憶は、ソ連の強大戦車を肉薄攻撃する訓練であった。
 われわれ新兵は、それぞれ掘った1人用のタコツボに身を潜め、両手で木の箱を抱えて待機している。木箱はバクダンのつもりである。
 向こうから古年次兵が二人、それぞれ長い竹竿の両端を持って、小走りに進んでくる。敵戦車だという想定で、横たえた竹竿がその底辺である。
 ぞれの穴に潜んだわれわれは、自分の目前に竿がきた間合いをはかり、木箱を竹竿に向って差し出しながら飛びだすのである。
「遅い」「早すぎた」「恐れずからだごと投げ出すのだ」と古兵の叱咤激励をうけながら、汗だくだくになって、これを繰り返すのである。
実戦が始まったら命はないなという恐怖が頭をかすめたり、命令には従いながら死なない方法はないかと考えたりしたことはあったが、アキラメの気持ちのほうが強かったような気がする。
 部隊はほどなく、この国境地帯を離れて南下し、南満州の通化という町に移った。そこで敗戦を迎えたのであった。
 
 天皇の放送があって4日ほど経ったとき、あすはソ連兵がきて武装解除されるというウワサがとんだ。斑の三分の一は在満の応召兵で、家族を満州各地に残しているので、解散を申し出たが、日本内地から直送されてきた現役兵の班長は「自分には権限がない」というばかりで、ラチがあかない。しかも「脱走は陸軍刑法に触れて厳罰を受ける」などいう始末だった。
わたしは、共に家族を北満州に残している二人の戦友とともに、その夜、脱走を決意した。営庭に山積みされた携行食料のなかから乾パンの袋を盗みだし、寝静まった兵舎を後にした。不寝番などはいない。もう軍隊としての体制は失われていたのだ。

 途中のいきさつは長くなるので省略するが、わたしたちは、北に向う貨車を探してそれぞれ家族の待つ北満州に潜行した。途中で二人に分かれ、わたしは勤務していた県城に近い馴染みの村にたどりついた。(この村のことは何れ稿を改める)
 ここで日本人全員が、軍の病院で軍隊が去ったあとの建物に収容されていること、わたしの妻子もそこにいるらしいことを聞いた。
 心配した旧知の中国人が同行してくれ、わたしはその日本難民収容所に向った。そしてその手前にある検問所にさしかかったのである。

 わたしは、軍服は中国人の古着と交換して、麻袋にいれた手回り品をかついでいた。日本人と分かっても土地の中国人は敵意を示すことはなかったが、進駐してきているソ連軍は、群れを離れた日本人兵士を極度に警戒していた。おそrsく、統制が効かず、テロ行為に出た旧兵士がいたのだろう。
 単独で歩いている日本人はたちまち逮捕されるという風評であった。

 橋の手前でわたしはしばらくためらっていたが、思い切って進んでゆくことにした。収容所へいくには、ここを通るしかないのである。
 同行してくれた中国人と別れてわたしは検問所に入った。
 わたしは、家族をここにおいて南方にいっていて、いま家族に会うため帰ってきたことを、片言のロシヤ語で話した。そのロシヤ語が反って相手の疑いを深めたらしく、わたしはどうやら抵抗組の若者に見られたらしい。

「あそこへ行け」と指差されたのは橋の下の河原である。無茶な話だが、簡単に殺人の行なわれる混乱期だったのだ。
殺される! そのとき、とっさに思いついたことがあった。
わたしは、麻袋の底からシワになった一枚の写真を引っ張り出してソ連兵に見せた。
「これはわたしの妻と生まれたばかりの息子である。わたしは、かれらを探し、ここにいると知ってやってきたのだ。この妻に悲しい思いをさせないでくれ。頼む、お願いだ」
必死になって単語を並べているうちに、本当に涙が出てきた覚えがある。
兵士は表情を和らげ、通過の許可を許してくれた。

数十分後、わたしは妻と子、そしてかつての上司や同僚たちにあうことができた。そして翌46年の秋に帰国するまでの13ヶ月をここで送ることになる。

04・03・06入力   

 街中の"お立ち"

 いまどき街中でそんな行為をすれば、よほどのバカか変質者かと思われるだろうが、昭和一桁時代ではごく普通の習慣であった。いわゆる"お立ち"、野外で立ったままオシッコすることである。
 それも郊外ならともかく、いまの東京、JR山手環状線の内側である。当時、わが一家は東京府・北豊島郡・滝野川町・田端というところに住んでいた。都政施行は大戦末期、昭和18年のことだ。
 わたしは駒込駅から"省線電車"で池袋の小学校に通っていたので、毎日、家から駅まで7,8分の道を往復していた。道路は砂利舗装で雨が降ると水溜りができた。

 途中、しばらくは大きなドブ川に沿ってゆく。このドブ川は雨がつづくと、すぐ出水して家屋を浸し、晴れたあと一斉にタタミ を干す風景が毎年のことだった。下水道はなく、家庭廃水はミゾからこのドブ川に流れ込む。おまけにトイレはすべて汲み取り式だから、臭気が酷い。ついでながら"オワイヤさん"がくると、母が長火鉢の炭火に醤油をかけたその香ばしい臭いが懐かしい。
 わたしたちはそれが当たり前だと思って暮らしていた。そのかわり、朝晩、桶を担いだ豆腐屋のラッパが聞こえ、朝の納豆売りから始まり、蒸気で笛を鳴らすキセルのラウ掃除屋、カタカタ言わせる錠剤屋など、生活の風情があった。いまになって、その懐かし風情だけが語られているが、反面に、不潔な生活環境があったことを忘れているのは片手落ちというものだ。

 さて、男たちは、その岸からドブに向かって用を達し、終わるとプルプルンとするのをよく見かけた。さすがに女のそれは見たことがない。だが、途中多くあった原っぱの隅でオバサンが"オシャガミ"をしているのは見かけた。

 後年、当時、台湾から"内地"に留学していた中国人に聞いたのだが、かれは文明国の首都東京で"お立ち"が習慣になっているのを見てビックリしたそうだ。
 中国では痰吐き、手かみはいまでも止まない習慣だが、"お立ち"は戦前からみかけたことがない。
 東京では痰吐きは"お立ち"同様、市民権を持っていた。各駅のプラットホームから痰壷が消えたのは、そんなに大昔のことではない。


 男は台所に入られなかった

 わたしの祖父は文久から昭和ヒトケタまで生きた典型的明治人だった。新潟県の山間僻地で医者をしており、東京育ちのわたしは毎年、夏休みに帰郷したとき、会うだけだったが、いつもキチンと姿勢を正していたすがたをよく覚えている。書き古した和紙を鼻紙に利用していて、鼻をかんだあと、それを廊下にわたした物干し竿に乾して再利用していた。

 わたしは食いしんぼで、食事どきになると、待っていられないぐらいなのだが、これはどうも、祖父いらいの遺伝子だろうと思う。

 ときおりわたしは、あの威厳ある祖父とは思えないことばを思い出す。 いつのことか覚えていないが、たしか昼食時で、仕度がひどく遅れた。

 祖父はイライラしていたが、ついに台所をのぞきこみ、こういった。

「オラショ(家の者の意)はおれを殺す気か?」

 信じられないかもしれないが、当時は、男は台所こと入ることが禁じられていた。腹がすいても、待っているよりほいかなかったのだ。

 わたしも、小学生のとき、台所の戸棚をあけ、好物の煮豆をつまんでいて、叱られた記憶がある。




幼少年時代

私は新潟県で生まれ、五歳から東京場末だった田端で、小・旧制中学卒業までの幼少年期を育った。今から思うと大正デモクラシイの名残りを持つ土壌であった。

 1937年(昭和)12年、「満州国」ハルピンにあったハルピン学院に入学。動機は2つだった。一つは中学(現小石川高校)5年で進路を決めるとき、45人クラスのうち、成績1~5番は第一高等学校⇒東京帝国大学、6~10番は浦和二校(仙台)