会津士魂で生き抜いた早乙女さん
年末年始に思ったこと
■会社出発の宴で
今年も「午後の喫茶店」が繁盛するよう賑々しくやりましょう。
思えば世界的大不景気の最中だった昭和一桁の時代が一番平和で豊かだったのではないかしら。今日も大不況だというけれど、不景気のほうが、景気盛んな時より、人情があつくなるという面があるらしい。助け合い運動が盛んになった。
バブルのとき、タクシーの運転手に銀座から赤坂に行ってくれというと「そんな近えとこは行ってらんねーよ。二千円出すならいってやるけどよーっ」と怒鳴られたものである。今の運転手さんは、絶対そんなことは言わない。実に親切である。不景気のときのほうがいいこともあるのですから、皆でがんばりましょう。
暮れから正月にかけてというと、辛いこともありました。それは、独立して、私が小出版社を始めたときであった。そのとき助けてくださった一人が早乙女貢さんである。その早乙女さんを喪ったのだ。
早乙女さんは直木賞を取った時代小説の作家であるが、余技の風景画でも、なかなか有名だった。その絵を描く機縁となったのが、私の始めた小出版社の応援であった。
昭和五十五年の暮れ、私はそれまでの会社を辞めて、小さな出版社を作った。ある関係で特別に借りることができた神宮前の普通の住宅を事務所にしたが、その事務所で、ささやかな開業パーティーを開いた。
早乙女さんは、銀座のクラブ数寄屋橋のマダム、園田静香さんと連れ立ってきてくれた。連れ立ってきたからといって、仲良くしているだろうけれど、特別な関係があるわけではない。早乙女さんは後で述べるように、わざとキザっぽい事をして、人に見せ付ける趣味があった。
小パーティーはいろいろな方が見えてくださり、他の銀座のママやホステスさんの応援もあり、結構賑わった。
その席で尾崎秀樹さんが、同席の早乙女さん、挿絵画家の小林秀美さんに声をかけて、三人でチャリティー展覧会をやらないか、と提案された。三人で絵や書を書いて売ろうという。尾崎さんは、そのプロモートを私にさせて、新出発を助けてやろうじゃないか、というのだった。そしてプロモート料を引いた売上金を福祉事業に寄付すればいいじゃないか、というのであった。三人とも賛成であった。私がその席に呼びつけられて、事の次第を告げられた。そういうことで「チャリティー三人展」の開催が決まった。
他日、具体化の相談をすることになったが、早乙女さんの指定で、その場所を銀座のクラブ「眉」と決めた。そんなところも早乙女さんらしい。そこでいろいろ具体案を練ったが、問題は果たして売れるか、である。
尾崎さんの南画風な絵や書は見たことはあるし、小林さんはプロの絵描きだから、問題はない。心配なのは、早乙女さんだ。油彩と水彩画を出すというが、どんな作品ができるのか。見当もつかない。絵は好きらしいけれど、展覧会などの経験は初めてだという。心配する私に
「大丈夫だ、安心しろ、俺は絵がうまいんだ」
と早乙女さんは胸を反らす。成り行きに任せるしかない。会場は京橋の近代美術画廊という大きな画廊を、小林さんの顔で借りた。この画廊を埋めるには、相当の数の作品が必要である。原稿を頼むときと同じだ。何事も先様次第。早乙女さんは、締め切りが切羽詰らないと、本業の原稿も出来上がらない人だ。その忙しい本業の間にやって貰うのだから、どうなることか。
■評判をとった早乙女さんの絵
作品搬入の日が来た。尾崎さんと小林さんの作品は午前中に届いたが、早乙女さんの作品は届かない。電話すると最後の作品を描いているから、午後届けるという。やっと夕方届いた。明けてみて、感嘆した。ヨーロッパの町の風景画だったが、美しいのだ。やわらかい優雅な色使い、丁寧に描かれた建物の線が、全体の色彩を際立たせている。
作者の男性的な人柄に似あわず、優美なのだ。女性に売れるぞ、と思った。でも予定より二枚足りない。早乙女さんに電話すると、翌日のオープニング時間まで仕上げるから、その場所を空けとけという。ともかく翌朝、作品はそろった。三人は集まって、絵の値段をつけた。三人とも強気で、私の考える値段より、はるかに高い数字を挙げた。飾り付けられた会場を見渡すと、なかなか立派で、これならいけるという思いも、湧いて来た。
日が暮れてオープニングパーティの時間が迫ると、続々と人が集まってきた。三人の作者のファン、仲間の作家、編集者たち、それから三人の前宣伝が効いて、銀座のマダム・ホステスが続々と集まってきたて、大盛会となった。アルコールが入ると、熱気が充満した。
まだバブルの前で、銀座が隆盛だったころだ。三人の作者のセールスによって、ママたちも景気がいい。たちまち多くの赤印がついた。中でも、早乙女さんの絵が、女性に人気トップであった。すでに赤印のついた絵の前で
「先生、これとおんなじ絵が欲しいわ」
といわれると、「そうか明日描いて持ってきてあげるから、明日またおいで」
先生も調子よかった。
■胸を張った生き様
こんな調子で、売りきれの盛況で、大成功であった。不景気の今日では、考えられないことだろう。手数料を売り上げの二割いただいた後、相当の金をサンケイ新聞の文芸記者金田浩一呂氏の仲立で、サンケイ福祉財団を通じて、福祉事業に寄付をすることができた。
私の社の存在もこの盛況によって、みんなに認めてもらい、出版の方も順調に滑り出すことができた。早乙女さんは、だから大恩人である。
このチャリティー三人展は、その後、四年続いた。
早乙女さんは、この三人展で、好評だった自分の絵画の腕に自信をもたれ、個展を開いたり、グループ店に出品するようになった。最後には個展、グループ展、あわせると数十回を数えたのではないか。
当時、早乙女さんは、生涯の代表作、「会津士魂」(全二十一巻)を書いている最中であった。三十年かけて、これを完成させて、吉川英治文学賞を受賞した。
そして会津魂をいつも強調していた。
■会津魂で生きぬく
早乙女さんの曽祖父が会津藩士だった。会津は薩長連合を主体とする政府軍に破れ、賊軍の汚名を着せられた。藩士たちはちりぢりになって、各地で生活をしたが、会津魂をうしなわず、汚名を撥ね返し、誇りを持って生き抜いたというのが、早乙女さんの主張だった。早乙女家は、中国東北、元満州のハルピンで、お祖父さんの時代から暮らしたらしい。だから早乙女さんはハルピン生まれの引揚者であった。
早乙女さんは、明治維新を肯定しないというか、維新を正史とは違う独特の史観を持っていた。そういう反官軍的感覚が、一種の抵抗的な矜持、品性となり、それが日常生活の中で、一種の自己顕示となって現れた場合もあったと思われる。
若いころの同人雑誌仲間だった童門冬二さんが、葬式の弔辞の中で、早乙女さんは、部屋を借りるとき、できるだけ大きな屋敷の部屋を借り、大家さんより大きな表札を掲げるヘキがあった、というエピソードを紹介された。
早乙女さんが、直木賞を受賞された頃、ある日銀座の「眉」で、ある人と飲んでいたとき、隣の席に長い真っ白な絹のマフラーを床までたらして飲んでいる、しゃれ男がいる。席の女の子にきいて、その人が早乙女さんだと分かった。そのころはまだ面識を得ていなかったのだ。
それから、しばらくすると、和服の着流し、素足に雪駄という姿に変わられた。最初は赤鞘の長刀でも、落とし差しにしたら、世をすねた素浪人という感じがなくもなかったが、みんなの目に付いたことは確かであった。それが、日がたつに連れて、ぴったりと身についてしまい、おしゃれな早乙女さんの姿として、世間に通ってしまった。尾崎秀樹さんの和服姿と並び、文壇の象徴的風景となってしまった。公式の席のほかは、生涯着流しの雪駄で通した。
早乙女さんが、鎌倉の豪邸を作られたとき、モーターボートを近くの海岸に備え、相模湾を、縦横に走るということになった。たしかそのお祝いのパーティーがホテルで開かれた時には、大洋を往く巨船の船長の姿で出席されたのも、思い出される。
そういう早乙女さんは、近づき難い面があった。お通夜の席で井上ひさしさんもそのことを指摘されていたが、早乙女流のプライドから出たことだろう。しかし一度信頼関係がつくと、実に情愛深い人であった。私など、その恩恵を受けた形であるが、どうしてもいやな人はいや、であったようだ。井上さんも鎌倉に住んでいて、よく鎌倉の駅で一緒になった。あるとき、ある評論家が、プラットホームにあがって来るのが見えた。早乙女さんは井上さんに、あの人と同じ電車に乗るのはよそうよ、といわれて、一列車遅らせたことがあるという。文壇で、ある強い権威意識を持つその評論家がいやだったのだろうと、井上さんは言われた。
■三十年倦まず
早乙女さんは、日本ペンクラブの理事を三十年間務めた。これはペンクラブの最長不倒距離だという。しかも理事会を欠席したことが、一度もなかった。その間、専務理事、常務理事を務めた時代も長い。尾崎秀樹さんを会長に据えたのも早乙女専務理事だった。同じように、日本文芸家協会の理事も長く勤めた。律義で、義務感の強い人だったのだ。
晩年は、早乙女さんをめぐる、いくつもの若い人の会があった。若い人たちには威厳を保ちながらも、至極優しかった。多くの人に慕われた。
昨年の暮れ、早乙女貢さんが亡くなった。満八十三歳の八日前の急死であった。
十一月四日、大衆文学研究会賞の選考委員会の会場に欠席の電話があった。その時には既に緊急入院されていたという。その場にいた者は驚いた。健康を誇り、周囲からは若い若いといわれていた人の突如の入院である。その時は、まさかのことがあろうとは誰も思っていなかった。死因は胃癌に肺炎の併発であった。
早乙女さんが病に倒れたとき、すでに夫人を失われ、親戚もなく、天涯孤独の身の上だということが明瞭になった。かつて「会津士魂」担当編集者だった、評論家の高橋千劔破(ちはや)さんを中心に、文芸評論家の清原安正さんや編集者などを含めた八人の人たちが、病院での看護から、死後は密葬まで、すべてのことに当たった。二月四日には、この人たちの手で、盛大な追悼会を催すそうだ。個人主義が行き渡った現在、稀に見る美談というべきだろう。それも、これも早乙女さんの人望がしからしめたと申
笹沢左保伝説
木枯らし紋次郎の人気作家
ご亭主から、電話をいただいた。
令夫人のご逝去、老人ホームへのご入居と、ご亭主の境遇の激変を知り、当店の客としてはどうしていいか、迷ったまま日が過ぎていった。何とかお慰めの言葉でも申し上げたいのだが、元の家の電話にかけても通じないだろうし、いらいらしているとき、ご亭主から電話を頂戴し、お元気そうなお声を聞き、ほっとしたのであった。
独立自尊の老人として、誇りを持たれ、自ら車を運転し、自立の生活を守り、愛妻との毎日を大事にされて来られたご亭主が、令夫人を葬られた後、敢然と独立生活から離れ、ホーム入りを決断され、この喫茶店を再開された強靭な精神力、そしてその柔軟性には、まったく頭の下がる、心地がいたします。
電話で、喫茶店再開を伺い、この原稿を書く次第であります。いつもの人物回想記であります。
立ったまま執筆
この十月二一日、故笹沢左保さんの七年忌の催しが、赤坂プリンスホテルで催された。
笹沢さんといえば、すぐ木枯し紋次郎ということになるのだろうか。風雨にさらされてきた道中合羽、ささくれ立った道中笠、口にくわえた長い楊枝、吹くとこの細い竹の楊枝が、木枯らしのような音を立てる、このニヒルな旅烏の渡世人を、中村敦夫がテレビで演じて人気になった。
信じていた人間にだまされて以来、一切他人を信じなくなり、何事も「あっしには何のかかわりのねーことでござんす」といいながら、かかわりを持たされて、長脇差を振るうことになってしまう、紋次郎とはそういう男である。
当日の集まりには、中村敦夫も出てきて一席喋ったが、紋次郎時代の輝きはなかった。
笹沢さんのペンネームの元になった、左保子夫人がお元気な姿を見せていた。集まったのは当時の編集者が多かったが、かつての気鋭の男たちが、現職を退いておりながら、昔と変わらず、目を光らせて笹沢さんの思い出を語っていたのが、心強かった。
この連中と、笹沢さんの招きで、紋次郎の生まれ故郷、上州新田郡三日月村こと群馬県新田郡薮塚本町に立てられた、紋次郎記念碑を訪れたことがある。
しかし、笹沢さんは、ハードボイルド風推理小説で出発された人である。私が笹沢さんを始めて訪ねたときは、昭和三十年代の後半だったと思う。当時漫画雑誌をやっていたが、推理小説も載せていた。しかしまだ作家をよく知らない私は、小説を頼む人を選ぶのに難渋した。 ある日、そのころ売り出しの若い推理作家のことが、新聞のコラムに出ていた。
その人、笹沢さんは一ヵ月に書く原稿の量が九百枚に達するというのである。そのため、座ったり立ったりする暇がなくて、高い台に、あごを乗せて、たったまま原稿を書いているということが書いてあった。
私はとにかく、思い切って、この作家を訪ねることにした。すると案ずるより生むが易しというか、笹沢さんは連載小説を快諾してくれたのである。それ以来のお付き合いとなった。
その時、立ったままで書くというのは、本当ですか、と聞いた。するとウ、フ、フ、フと含み笑いをした。以後、笹沢さんは、てれたとき、いつもこんな笑い方をするということが分かった。立ちながら書いたというのは、本当かどうか分からないが、笹沢伝説のひとつとして残った。笹沢さんはいろんな伝説を残した人である。
寝転んで書いたきれいな原稿
昭和四十六年、小説週刊誌を発刊した折には、創刊が決まると笹沢さんのところに飛んで行った。そして創刊号からずっと時代小説を書いていただいた。そのころは、また新しい伝説が生まれていた。原稿は寝ながら書くということである。これは本当である。私は実際この目で、原稿を書いている姿を見ている。布団の上に腹ばいになって、原稿用紙の升目を埋めて行くのである。
一つ一つの升目の左上に、10ポイントのほどの小さな字で、ものすごい速さでかいてゆく。しかもその文字はきっちりした楷書で、大きさに大小がない。活字のごとく同じ大きさである。そうして書き続けて、一字の直しもない、きれいな原稿が仕上がる。何百枚書こうが、まったく同じ仕上がりである。
そういうのを見ると、やはり文章を書く天才だと思わざるを得ない。
銀座における笹沢さん
そうして月産九百枚とか千枚とか、大量の原稿をこなしながら、毎晩銀座に現れた。笹沢さんの存在自体が、銀座の景物のようなものだった。酒場に行けば必ず会う。そこにいるのが当たり前のごとくであった。そこでは、だからこちらも仕事のことはまったく離れたお付き合いである。たとえ明日の午前中に原稿を貰わなくてはならないときでも、お互いそんなこと忘れたような顔をしている。明日は明日の風が吹くと思うしかない。でも何とか原稿は間に合ってしまう。
しかし今思うと、あれだけ書いてよくあんなに飲む暇があったなとつくづく思われるのである。たくさん書く人ほどたくさん遊んだような気がしなくもない。梶山季之さんとか、黒岩重吾さんとか……。
笹沢さんは、酒がめっぽう強く、底なしの感があった。ビールが好きで、一晩に四ダース、四十八本飲んだという伝説がある。ビール二十本とか二十五本とかは、実際にきく話だが、四ダースというのは、桁外れの話なのだ。
だから笹沢さんと飲むといつ果てるかわからない。それに、深夜でもこれから横浜にいって飲もうとか、熱海に行こうかとか、言い出しかねないところがあった。笹沢さんを接待するときは、一種の覚悟が必要だった。
笹沢さんは、美男で、面と向き合うと童顔で、女性に持てた。
仕事の打ち合わせで、かなり大きな料亭で接待したことがあった。笹沢さんはいつものように時々照れたような顔をしながら悠々のんだ。その帰りの玄関で、元ミス何とかであったすばらしい中年美人の女将さんが、そっと私にささやいた。
「素敵な先生ね、たまらないわ、わたし、お話しするたびに、下のほうが濡れてくるような気がしたわ」
これは本当の話である。笹沢さんはものすごいセックスアピールを持っていたのである。そのオーラを発しながら銀座を歩いたのだから、今思えば笹沢さんの周辺には紫の後光が取り巻いていたのだ。その紫の後光が銀座を賑わせていたといっても過言ではあるまい。
晩年は、九州佐賀に仕事場をもった。編集者は佐賀に通った。そのころ私は現役を退いていたので、滅多にお目にかかることもなかった。だから佐賀の事情は知らない。この間の七年忌の会で、佐賀に原稿を取りにいった編集者が笹沢さんと飲んでいて、これから京都の祗園に行こうといわれて困ったという話をしていた。やはり昔とあまり変わらなかったのだろう。
その佐賀もきれいに片つけて、東京に戻られて、亡くなった。こうして思い返すと、大きな目をぱちぱちさせて照れたように話す姿が、眼前に浮かんでくるようだ。
一枚漫画の天才、鈴木義司さん
―-都会派ダンデーの裏表―-
1枚漫画の折り返し展
この六月末から、九月十三日まで、横浜の日本大通りの日本新聞博物館で、一枚もの漫画の展覧会が開かれています。
題して「一枚マンガの折り返し展」という。現代はある意味で日本人の折り返し点にある、それを機に未来へのメッセージとしての、一枚ものマンガを見せるという趣旨の展覧会だそうです。今を盛りの物語り漫画に押されがちな、一枚ものナンセンス漫画の興隆への転機としたいという漫画家たちの
まむし酒 「いくらショーチュー入れても、
みんなマムシの奴が飲んじゃうんだ」 |
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| 『現代漫画の五十年(峯島正行著)青也書店』より |
意欲の現れといえるでしょう。
会場となっている新聞博物館のある情報文化センターの建物が、私の様な横浜っ子には、懐かしい、おなじみの建物なのです。戦前の横浜商工会議所だったところです。開港場として、経済、文化の世界との交流で隆盛だった横浜を象徴する建物で、玄関から、大理石の玄関を上がってゆくエントランスは、威厳があって、私ら少年には近づきがたい雰囲気がありました。レトロなこの建築を一見するだけでも行く価値があります。
その中で三十二人の日本を代表するナンセンス漫画家が、作を競っているのです。浜っ子の生き残りとして、ナンセンス漫画の応援隊の一員として、当店のお客様にも見て頂きたいと思うわけです。私も、横浜に住む文春漫画賞のヒサ・クニヒコさんの案内で、初日にうかがいました。
出展されている漫画家は思いつくままあげても、ヒサさんはもちろん、小島功,久里洋二、柳原良平、秋竜山,所ゆきよし、森田拳次、岩本久則その他いずれも現代を代表するナンセンス作家の方々である。呵呵大笑、にやにや、楽しい時間を送りました。
そんなことがありましたので、今日はナンセンス漫画、とくに一枚ものの名人だった、鈴木義司さんの思い出を語ってみたいと思います。鈴木義司さんとは、読売新聞夕刊に「サンワリ君」という漫画を昭和四十一年から、数年前に亡くなるまで連載したあの漫画家です。
靴を履き忘れて外出
鈴木さんは、おしゃれな紳士の癖に、結構オッチョコチョイなところがあった。住宅街を歩いていて、止まっている自動車にぶつかり、バンパーにすねが当たり血を流したこともある。
自分のうちに帰ろうとして、うちの前を通り越してしまうことは何べんもあるし、自分電話番号を忘れて、一〇四番に電話して聞いたこともあった。靴を履かずに玄関を出て一〇メートルほど歩いて、足の裏があんまり冷たいので、足元を見て気がついた、という話もあった。
彼自身「僕はそそっかしいのは確かだが、一方で常に漫画のアイデアを考えているからでもあるのだ」といっていた。
それほど年がら年中、漫画のアイデアを考えていたのだ。一枚ものを量産できたのはそのせいである。
ナンセンス漫画の真の面白さは、一枚漫画に尽きるといえる。笑いの要素をたった一こまの絵の中に凝縮させ、読者をして、一見爆笑させる、よくできた一枚物ほど、ナンセンス漫画の持つ痛快な面白さを味あわせてくれるものはない。
その代わりたった一枚の中に全てがあるため、作る側としても、ごまかし様もなく、製作に失敗した場合は見るに耐えないものとなってしまう。それだけ一枚ものは難しい。
その一枚ものを量産したという点では、鈴木さんは、現代の漫画史上、断然トップだった。鈴木さんは
キザ・バースデーケ−キ
「ケーキは食べあきてると思うから、イモにしたよ」 |
 |
| 『ナンセンスに賭ける(峯島正行著)青蛙房』 |
、「義司の週間絵日記」「今週の義司」「笑いのゲリラ」といった、一回に何枚かの一枚ものを並べる連載漫画を多く書いている。
今言ったように一枚ものはアイデアが勝負だから、アイデアを、鈴木さんは町を歩いても、飯を食っていても、いつも考え、練っていたのだ。
しかも、駒わり漫画のほうも一流で、新聞の「サンワリ君」をはじめ、「銀座のウブ子」「ペエペエのペエスケ」「キザッペ」などの多こま物の傑作を多く残している。
鈴木さんは旧制の東京理工専門学校(現東京農工大)出身で、学生時代は、数学が好きでよく勉強したことが、アイデアを練るために考え続ける能力が身についたと、生前よく言っていた。高等数学をとく場合、問題を解くのに何時間も考えて、答えを出す。期末試験のときは一題しか問題が出ない。それを二時間かかっかって解くのだ。だから考え抜く癖がついている。それが漫画家になって幸いしたのだと思うといっていた。
意外な泣き所
いつだったか、大企業の協力を得て、漫画家二十人ほどが伊勢志摩、奈良、京都をめぐる旅行をしたことがある。私も同行した。最後の日、京都の宿で協力してくれた企業に、めぐってきた、史跡に関係する漫画を書いて、記念に贈ることになった。広い会場でそれぞれ漫画を書き出した。
ところが鈴木さん一人、憮然として、腕を組んでいる。私はそばによって、「どうしたのですか」と聞いた。
「何を書いていいか分からない。鎌倉時代と平安時代とどっちが先だっけ」
と聞かれてびっくりした。
「俺は歴史がわからないんだよ。小学校のときに病弱で、ろくに学校にいってなかったからな、中学のときは戦争だしさ」
ともかくその場は、私もひそかに協力して、何とかしのいだが、あの素晴らしい漫画を描く鈴木さんにもそういうところがあるんだ、と考えると不思議な気がした。
旅行から帰って、いっぱい飲んだとき
「何しろ三年生か五年生まで、ほとんど欠席でさ、歴史とか地理とか暗記する科目は覚えないままに卒業したのだ。歴史が分からない、これは僕の最大のコンプレックスだよ。歴史を知らない重大さに、気がついたのは結婚してからだ。女房に聞いてそれが分かったんだ」
としみじみ語った。
こういうことが、彼が理科系に進む大きな原因になった。数学を始め理数系の学問は暗記しなくても思考すればできるからだ、といっていた。
私は漫画というものは、知識で書くのでなく、現実の人間を認識することから始まることを、そのとき深く感じた。
鈴木さんは根っからの都会人で、しゃれ者で、贅沢屋で、プレイボーイで、自ら漫画の題名どおり「キザッペ」を以って任じていた。
鈴木さんの生まれた家は、赤坂一つ木通りに店を構える、江戸時代から続く大商人であったそうだ。鈴木さんが生まれたころは、酒屋と質屋を兼営していた。そのはるか昔は、今の代々木公園が邸宅だったとか。
鈴木さんのお祖母さんが嫁に来たときは、渋谷から赤坂まで、青山通りに、嫁入り行列が続いたという。鈴木さんのゆうことは大きい。話半分に聞いても大したものだ。質屋といっても大金持ちを相手にするもので、そんじょそこらの質屋とは違う。また大事な品物を、厳重な質屋の蔵に預ける人もいた。新派の名優、花柳章太郎は、衣装はすべて、鈴木さんの質屋に預けていたそうだ。
鈴木さんは、子供心にも、将来は質屋にこられるような人物になりたいと思っていたそうだ。酒屋のほうも大きな店で、今は東宮御所になっている秩父宮家が、お得意であったという。
義司さんが生まれた後、住居は川崎大師がわらに構え、そこで成長した。そのころ大師河原は閑静な郊外で、梨、桃、柿の畑が続いていた。義司が病弱だったため、空気のいい郊外に移ったのだろうか。
自分自身が「きざっぺ」だった
鈴木さんの人柄も、このような育ちに関係があると思われる。都会人で贅沢屋で、何でも一流でなければ、気のすまない人だった。あるとき私の銀座にある会社に来たとき、ちょっとその辺を散歩してから、飲みに行こうと、誘われた。
銀ブラをしながら最初に行ったのは、御幸通りの有名な男性洋品店だった。来月ヨーロッパに行くので、Yシャツを作っとこうと思ってね、と鈴木さんは言って、糸の太さ二百番という極細の糸で織った綿布のYシャツを数枚注文した。
「ヨーロッパにいったらどんな所に行くか分からないからな」
とそのとき鈴木さんは言った。
そういえばパーティーなどで、タキシードとまでいかなかったが、よく蝶ネクタイを結んでいた。それがよく似合った。よき時代のおしゃれが身についていた。
それからいつもの通り、銀座の酒場に繰り込んだ。鈴木さんは、漫画家の中では最も銀座の酒場に現れる回数の多い人だ。当時の飲み仲間、作家の梶山俊之さんはあるところに、鈴木さんについて書いている。
「私は夜はあまり机にむかわない主義であった。よる仕事をしていると、酒を飲んでいる仲間の顔が、瞼にちらつくからであった。
鈴木さん、私と同じ性分らしく、昼間せっせと仕事して、いそいそと銀座にあらわれるのである。
『家に三日間閉じ篭っていたら、アイデアが枯渇しますからね』
鈴木さんは、そんな風に弁解するのだが、私にも大いに頷ける点がある」
吉行さんに認められる
しかし、漫画家になるまでは、鈴木さんは苦労したらしい。家の戦災、父の死など、身辺にいろいろあり、専門学校を卒業するころ、胸部疾患が見つかり、就職もできず、家で療養生活をおくった。彼は当時占領軍が作ったアメリカ文化センターにいって、アメリカの雑誌、新聞を読んだ。ある日何気なく「ニューヨーカー」をみた。「ニューヨーカー」には,スタインベルグなどの、しゃれた一枚もの漫画が載っていた。それを見たとき「脳天にズシーンと響くものがあった」と鈴木さんは言う。
それまで漫画の存在さえ知らないくらい無関心であった。
「こんな面白いものがあったのか、すごい衝撃だった」
「ニューよーカー」を次々借り出して、漫画を見た。それからこんな漫画を描いてみたいと思った。その後は日本の漫画を見るようになった。新聞雑誌に漫画の投稿欄があるのを知って、投稿をした。
「モダン日本」という雑誌が新人漫画を募集したので、数枚の作品を送った。それが、新人の欄ではなく、プロ漫画家の作品と同様に扱われて掲載された。気をよくした鈴木さんは、また作品を持って、編集部に持ち込んだ。応対に出たのが、編集者時代の吉行淳之助さんであった。
「君は漫画で食べていけるよ、作品ができたら、うちに持ってきなさい」
と吉行さんは言った、という。以来、漫画を持ってゆくと吉行は、モダン日本に乗せてくれた。ともあれこれがきっかけで、漫画家として独立した。しかし、{吉行}さんが、そうやたらにいるわけではない。売り込みが大変だった。
それでも知り合った二,三人の仲間とグループを作り事務所を持ったことがある。その事務員としてきたのが、新劇女優の山岡久乃さんだった。ちょうど舞台に出始めで、彼女も張り切って勉強していた。鈴木さんたちもその姿に刺激されたということだ。
その事務所は一年程で解散したが、その後加藤芳郎さんの応援などもあって、鈴木さんは、次第にマスコミ界に出て行ったのだった。
最初に申しました、新聞博物館で先日、「一枚もの漫画は生き残れるか」というシンポジウムがあった。ヒサ・クニヒコさんがコージネーターとなり、パネリストに秋竜山、所ゆきよし、九里洋二さんに大学の先生が一人入って、デスカッションしたが、明確な結論は出なかった。
私は、鈴木さんのような若い天才が一人出てくれば、大分ナンセンス漫画会の様相が違うと思っている。天才の出現に手を貸すのが、現役漫画家の任務の一つだろうと思うのです。
誕生百周年を迎えて記念展
多芸多才の半村良さん
作品も遊びも絢爛豪華だった
店再開に当たって
このたびご亭主が、突然の怪我から、長期入院となり、当喫茶店も休業ということで、ご亭主の容態を心配していたところ、ご亭主無事退院されたとの報により、まずはほっとしました。ところへ当のご亭主から元気そうなお声で、電話をいただきました。当喫茶店も再開するという、うれしいお話でした。よかった、よかった、と喜んだしだいです。
ところでご亭主が、ご入院とほぼ同じ時、私はこの原稿を書き上げてお送りするところでした。当店再開に当たって、改めて手を加えて、お送りすることにしました。再び賑々しいお店として、繁盛なりますよう、心からお祈りしたいと思っております。
「軍靴の響き」という小説
めまぐるしい世の中で、もう旧聞に属する話となったが、この春最新鋭のイージス艦「あたご」が、漁船と衝突し、二人の漁船員を死亡させて、国中大騒ぎとなったことがあったその後中国の大地震とか、ミャンマーの風水害とかで、自衛艦の話など飛んでしまったが、やはりこの問題は忘れてはいけないだろう。
過去を考えて見ると、海陸空の自衛隊が、年年歳歳問題を起こし、そのたびにマスコミを先頭に国中が大騒ぎになってきた。
憲法に陸海空軍その他の戦力は保持しない、と規定されているにかかわらず、軍隊ではないと強弁しながら自衛隊という強力な存在が育ってしまったために、いろいろと問題になるのだと思う。
そしてわれわれが心のそこでいつも密かに恐れていることは、あの自衛隊が、最新鋭といわれる武器を使う日が来ることはないのか、ということであり、そのときは国中がどういう状態になるのか、ということである。
と、ここまで書き出したのは、自衛隊の問題を論じようというわけはない。今から四十年前にも、今日の如く自衛隊の問題がかまびすしかった。そのことが縁で、端倪すべからざる天才と遭遇し、交わることになった。その天才というのが、半村良という作家で、最近の自衛隊問題のことから図らずも半村さんを思い出し、忘れないうちに、半村さんのことを書いて置こうと思ったわけです。
そのころ私は、小説週刊誌という今日では考えられない、雑誌を始めて作って苦労していた。小説雑誌といっても週刊誌だから、時事的な問題を含んだ小説を載せるべきだと考えた。そこで、自衛隊が武器を持って戦う日のことを想定した小説はどうか、と言うことを思いついた。しかし考えてみれば、これは難しいテーマである。いかに架空の物語とはいえ、右にも左にも偏らず、読者を納得させる小説ができるか。そういう筆者があるかということがまず問題である。今日でも、そのような注文に、応じてくれる作家はまずあるまい。その頃でも書いてくれそうな作家は見つからなかった。
たまたま、新聞の書評欄に、半村良という新進SF作家の「石の血脈」という長編小説の批評が載っていた。それを読んで、私の胸がパチパチと弾んだ。この作家ならばあるいは書いてくれるかもしれないと感じた。書評だけ読んで、すぐそう考えるのは、軽はずみかもしれない。しかし。編集者のカンというものもある。時に冒険も必要だ。
思い切って、連絡すると、銀座の社までお出で下さることになった。小柄な体ながら、一種の精悍さを漂わせた半村さんと、喫茶店で向かい合った。私に希望を述べると、その場で承知してくださった。
こうして出来たのが、「軍靴の響き」という小説だ。こういう小説は、読者を納得させるためには、ストーリーの持って行き方が微妙である。一週五十枚、七回完結の約束である。
その第一回の原稿を受け取ったとき、スト−リーのもってゆき方が実に巧みなのだ。これで出来ると安心したのみでなく、作者のストリーテラーとしての巨大な才能の一端を垣間見る思いがした。
長編の準備が出来る前に、一,二度短編を書いてもらったような気がするが、ともあれ半村さんの作品では、私の雑誌に載ったのが、SF専門誌以外の一般誌では、最初と思われる。連載は昭和四七年七月から九月にかけてであった。それが機縁となってあちこちから、注文が殺到し、たちまち流行作家になってゆく。
その小説の内容が多方面にわたるのも、目を見張る思いだった。出発点のSFはもちろん,後に伝奇ロマンといわれたもの、超時代小説、現代風俗小説と方面に広がっていった。私が知り合って二年目には、泉鏡花文学賞を受け、生きの良い流行作家となった。
三十回近い転職の末に
小説が売れると同時に銀座の夜世界でも、何村さんは派手に飲み始め、たちまち銀座の顔になった。確か、泉鏡花賞をとった翌晩は、一緒に銀座の「眉」で飲んでいた記憶がある。女性たちがおめでとうをいいに寄ってきた光景を思い出す。私は半村さんというと、いつも飲む場であっていたような気がしているくらいである。
半村さんは、昭和二十七年、両国高校(旧府立三中)を卒業したが、卒業前からバーテンとして働き、母子家庭の母を助けたという。卒業してから紙問屋の店員をきっかけに、職を転々とする。人の書いたものによると、三十回近く職を変えたという。板前見習い、バーテン、料亭経営、雀荘経営、最後は、広告代理店勤務で、その職歴も多彩を極めている。そのうちで、もっとも長かったのはバーテンであったのではないか。戦後の銀座の酒場繁栄地は、一丁目、それから二,三丁目、それから七,八丁目に移り西側に伸びていったのだが、その時代も全て経験しているというから大変なものだ。半村さんのバーテン時代、働いた店で有名なのは、新宿の文壇バーといわれた「とと」である。このバーには多くの文壇人がやってきて、話題をまいたものだった。
そんな経歴を経て、作家になったのであるが、当時といえども銀座の文壇バーで顔が知られるようになるには、新進作家にとっては大変なことだった。それをすいすいと入って行き、たちまち銀座の顔になったのは、こういう夜の巷の生態を知悉していたからともいえよう。もうひとつ半村さんは、人と仲良くなる特殊な才能もあった。
半村さんの遊びは極めて派手であった。湯水のごとく金を使うというが、まさに半村さんは、湯水のごとくであった。
超スピードの原稿書き
それというのも仕事に自信があったからだと思う。ある日、半村さんが会社にやってきた。
「頼まれた原稿あと十五枚ほど残っている。それをここで書かして貰いたい」
という。
「十五枚というと大変ですね」
というと
「何二十分か三十分ありゃいいよ」
という。応接室に通して、書き始めるのを見るとその早いこと、われわれが字を並べるだけで原稿用紙を埋めるより、より早い。上から下へペンで線を引くような感じの速さであった。これには仰天した。私はそっと部屋を抜け出したが、言うがごとく三十分ほどで十五枚が出来上がったのである。
どこかのインタビューで文章は推敲しますかという質問に「しません」と一言でいっていたが、そのスピードで書いて一字の直しもないのだった。だから量産が利くのである。
そして各種の小説を書き分けて書きまくる才能も抜群。短編の名手であるばかりではなく、大河小説を沢山書いた。
その量産に絶対の自信を持っていた。あるとき飲んでいる最中、某社と年四冊書き下ろして、二十年間で八十巻になる大長編を書く契約をすると、このときは不思議にも漏らされたことがある。後にも先にも、他社の仕事について、口にされるのは始めてであった。それだけ重い決断を要したのであろう。私は、現在いかに頑健であろうと二十年先はわからないこと、ほかにいっぱい仕事を抱えながら、年四冊ずつ書き下ろすのは無理が生ずることなどをあげて、契約の内容を考え直したほうがいいといったが、
「何、大丈夫だよ、一冊書き下ろすごとに,○千万円支払われる約束だから、いろいろやりたいこともできるよ」
というのであった。これは「太陽の世界」という大長編で、昭和五十四年から三年間は約束通り、年間四冊出しているから大したものだ。その後断続しながら六十四年までに、十八巻まで出しているから恐れ入る。もちろんその間、多くの作品を書き続けていた。
半村良ゴルフ場のこと
先に半村さんは人と親しくなる才能があったと書いたが、行きつけのバーで親しくなった若手の事業家と、行き来するようになった。その事業家は、千葉県でゴルフ場を経営していた。そこにゴルフに出かけるようになったが、暫くすると、半村さんはそのゴルフ場の理事長になった。作家でゴルフクラブの理事長になったのは、恐らく半村さんが最初で最後であろう。そのゴルフコースで、推理作家協会のコンペが行われたこともある。
そのころ作家と出入りの編集者その他で、コンペを開くことが流行ったが、半村さんもそのゴルフクラブを拠点に「半村ゴルフ学校」という会を作った。ここに集まった人たちは、後に出版界を代表する大物編集者になった人ばかりだったが、不思議にも、ゴルフが下手な連中ばかりであった。皆が「半村幼稚園」と囃した。
半村さんは、いつの間にか、あの気難しい柴田錬三郎さんと気脈を通ずるようになった。そこらが半村さんらしい。シバレンといえば、すぐ黒岩、梶山、吉行と親しい作家の名が浮かぶ。半村さんは、作風、日ごろの交際範囲、行動から言って、柴田さんと通ずるはずがないと私らの常識から思われるのであったが、知られざるところで、睥睨すべからざる行動を潜行しているのだ。
柴田さんが亡くなって、その葬儀の際、司会役をしたのが半村さんだった。
その後、半村さんは柴田さんのゴルフコースを引き継いだと、私に話した。柴田さんの「大将」という小説のモデルになった佐世保船舶の社長で、奥道後温泉を開発した坪内寿一氏が、柴田さんに心酔して、四国松山の近くに、柴錬専用のゴルフ場を作った。普段は誰にも使わせず、柴田さんが来たときだけ開け、柴田さんとその仲間だけがゴルフする。しかも食堂もコース途中の茶店もほかのゴルフ場と同じように、すべて品揃えして、柴田さんがほしいものが選べるようにしてあったというのである。それをそっくりそのまま引き継いで、今度は半村ゴルフ場になったというのである。それは坪内社長の意思なのだと言う。
「ほんとかな」
最初の柴錬ゴルフ場の話からすべて疑問だという顔をした。しかし
「今度一緒にいこう、泊まるのは奥道後の温泉ホテルが自由に使える」
と半村さんは平然という。それで、半村さんの知り合いの某さんと三人で、ある日朝早く羽田を飛び立った。松山の空港からゴルフ場に直行した。クラブの建物にもコースにも半村さんの言うとおり、客は誰も見当たらなかった。フロントにはちゃんと従業員が控えていた。ヘアウエイに出ると無人の境地を行くがごとくで、はるか瀬戸内の島山を見下ろしながら、クラブを振った。ゲームの途中、茶店によるとちゃんと従業員がいて、おでんの鍋が煮えていた。ビールとおでんを食ってコースを歩いた。
食堂にはよらず、帰りはそのまま、奥道後に行った。そこで好き勝手に食ったり飲んだり遊んだりした。このホテルにはキャバレまであるのだ。翌日もゴルフ場に行った。昼飯時には、食堂のメニューから勝手に選んで食った。その夕べ、東京に帰ったが、まるで嘘のような旅であった。
あんなことが有り得たのか、今でも半信半疑である。その後ゴルフ場はどうなったか知れない、なにしろバルブはじける前の話だ。
有楽出版の最初の事務所
私は昭和五十五年、会社を辞めて、有楽出版社を作ることになった。ある日半村さんから電話がかかった。
「ちょっとおいでよ」
という。指定された場所に行くと
「今度、元の筒井(康隆)君の青山のうちね、僕が今度筒井君から譲り受けた。一種の貯金のつもりで持つことにした。いつでも金が必要なときに売るつもりだ。それまで、君が始める会社の事務所に使ったらどうだ。家賃はただというと君も困るだろうから七万円貰う事にしよう」
という。有難い話だ。其の家は今まで散々仕事で通った家で、小奇麗な二階屋であった。筒井さんは、そのちょっと前、神戸に家を新築して移り、そのときには空き家になっていた。まだ筒井さんの表札がそのままになっているその家で、事務所開きをして、新しい出発をした。事務所開きには渡辺淳一さん、早乙女貢さん,尾崎秀樹さん、山本容朗さんなどなどが駆けつけてくれた。半村さんは用があるといってこられなかった。下町人特有なシャイな気持ちがあったのだろう。
半村さんは、再出発の恩人である。半年後そこを出ることになったが、その後も、いろいろとあり、本も出させて貰った。
考えてみれば作品の量、質、お遊びの量、質ともに半村さんのそれはまったく絢爛豪華であった。しかし最晩年は会うことはなかった。なくなった際は、寺内大吉さんの大吉寺で葬儀が行はれ、私は一人で寂しく出かけた。
平成十四年三月四日、都内の病院にて肺炎で逝去、享年六十九であった。」
近藤日出造の世界展に寄せて
十年一日、簡素な生活と批判精神
この二月十六日から四月二十日まで、横浜の新聞博物館において、風刺漫画の父、近藤日出造の世界展という展覧会が開かれます。主催者は、近藤さんが昭和二十二年から、三十年間、その紙面に政治漫画を書き続けた、読売新聞です。
今年は近藤さんの生誕百周年に当たり、二月十六日がその誕生日であることから、企画された
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近藤日出造(1908〜1979)
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催しで、私はこの展覧会の監修者を頼まれ、やっとその仕事も終わりに近づいたわけです。
新聞博物館は横浜、大桟橋に近くの日本大通にあるので、期間中その方面のお出かけの節には、ぜひ見てください。漫画と一口に言っても、さまざまです。ここに飾られるのは、一枚ものの政治漫画がほとんどですが、近藤さんの絵の流麗な線描による躍動美、表現の内容の権力を権力とも思わぬふてぶてしさ、生活者の目による強烈な批判精神をぜひ見てください。
それに比べると、今漫画と一般に言われるものが、いかに娯楽一辺倒であり、未熟な眼を以って描かれているかが、一目瞭然となりましょう。
と、マー、生意気なことを申し上げましたが、今日はそんな硬いことをも言うつもりで、筆を執ったわけではありません。つい筆が滑ったのです。勘弁してください。
私は編集者として、いろいろな方に接しましたが、近藤さんほど身近に接した人はありません。ある意味で私の師のような人です。その伝記も書きました。それである程度の、この人の裏表を知っているので、その人間的な側面いついての思い出を少しばかり、この機会に書きたいと思ったのです。
粋な「歩く座談会」
今の赤坂プリンスホテルの、高くてでっかい本館のある場所は、かつて、「清水」という料亭であった。今でも「清水」は、プリンスホテルの経営の中に入って存在し、昔のままの建物だけは残っているようだが、あの敷地全体が、料亭だった。その料亭の裏の山の上に、プリンスホテルはあり、元宮様の邸だった今の旧館と別館とがホテルであった。
それはともあれ、広大な敷地に入り、何十メートルか走り、大きな玄関にベンツだのリンカーンなどを横づけるという料亭は、もう都心にはなくなった。思えば懐かしい光景だ。
「清水」は場所柄、政治家や、財界人の客が多く、当時、池田派のたまり場だと言う噂もあった。ここを近藤日出造さんは「週刊読売」の「やァこんにちは」という対談の会場にしていた。
私どもが昭和三十四年「週間漫画サンデー」を創刊したとき、近藤さんの提案によりお色気を主題にした座談会の連載することになった。
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昭和42年漫画旅行団出発 前から横山隆一、杉浦幸雄、おおば比呂志、
近藤日出造、峯島正行、岡部冬彦、富永一朗、西川辰巳、小島ガイド、
馬場のぼる
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そのホスト役を杉浦幸雄さんとともに、近藤さんがやるというのだ。実際は料亭を会場にして対談するが、誌上では二人が風流人をするゲストを尋ね、話を聞くという形にする、という。私は近藤堅造とか下駄造と、陰で呼ばれているその顔を眺めた。
「当たり前だ、俺にお色気話ができないと思っているのか、そりゃ、大誤解だ、君の雑誌に合うことは何でもできるぞ」
近藤さんは、硬派の漫画家で、軟派のほうは駄目なんだという世間の見方を覆したかったのだろうか。始めるに当たって、座談会の会場を「やァこんにちは」と同じ「清水」にしたいという。お色気座談会を「清水」でやるのは、どうかと言うような顔をすると、
「一流の場所でないとな、一流の人は来てくれないよ、一流というのは高いようで高くないものだよ」
近藤さんはそういった。それで会場も「清水」に決めた。そうして始まったのだが、「歩く座談会」で、これは大成功、「漫画サンデー」の名物となった。
ほんのり、あまい心の交流
食事をしながら、対談するのだが、近藤も杉浦も筆記もスケッチも取らない。その間、ちょっと二,三メモるだけ。速記者はもちろん使わない。それだから、一杯入ったゲストも思わぬ本音を漏らしたりする。会が終わって、二,三日すると、近藤さんと杉浦さんが、それこそ風流人を訪ねて、話を聞くという座談会が、実にリアルに表現されて出来上がってくる。
しかもゲストの話したことは、正確に間違いなく書かれている。初めて原稿を貰ったとき、近藤さんもやるなあ、と思ったものだ。私は近藤さんの記憶力と筆力には、参った参った、であった。
座談会記事の面白さだけでなく、杉浦さんのお得意の分野の挿絵も評判になって、この座談会は十年、続いた。会場も「清水」から動かなかった。
この座談会を始めてから、「週刊読売」と「漫画サンデー」両方の座談会で、週二度は「清水」で近藤さんは夕食を摂ることになったわけである。時には近藤さんが旅行や海外取材があったりすると、何週間分を取り貯めすることがある。そういう時は、週に三回も四回も「清水」に行くことになる。
そういうわけで「清水」のほうでは、近藤さんに気を使って、同じ週のうちでは、料理がダブらないように工夫を凝らしたようだ。「清水」の女将さんは、日ごろから近藤さんに好意を抱いていたから、特にサービスをよくした。板前さんは、お上さんが関西に修業にやって、腕を上げさせた人なので、女将の言うままに料理の工夫をしたらしい。
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昭和11年ごろ当時の松竹人j気女優と 左から逢初夢子、小桜葉子、
近藤日出造、水久保澄子
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時々、座談会が終わった後を見計らって座敷に現れた。老婦人になっていたが、実に品のいいきれいな人だった。最初の出発は吉原の芸者だったそうで、それからいろいろあって、「清水」の女将さんになった。俳句も作ることでも知られているという。
「若いときはさぞ綺麗だったでしょう」
と、あるとき遠慮なく聞いたことがある。
「吉原で芸者に出たときは、ちっとも綺麗じゃなかった。吉原の芸者は、芸ができることが第一だったからね。年を取るにつれて、綺麗になったといわれます」
と女将さんはしゃあしゃあといった。それだけ近藤の座敷では、気楽にしていたようだ。
どうも女将さんが、近藤さんの部屋に来ると、インティメイトな空気が流れた。近藤さんも、どうということはないが、それに応えるような雰囲気であった。
「女将さんは近藤に惚れとるな」
と杉浦さんは、時々漏らした。
幾年かあと、女将さんは入院した。近藤さんと杉浦さんについて見舞いに行った。近藤の顔を見るや、女将さんは
「先生、私の手がこんなに細くなっちゃったわ」
寝巻きから、白い細い腕を出した。近藤さんはその白い手を握って、
「うん、元気を出してな」
と、いった。それはひとつの、えも言われぬ場面であった。
「女将さんはやはり近藤に惚れているなあ」
とその夜、銀座のバーで、杉浦さんは言った。
女将さんは間も無く亡くなり、店はプリンスホテルに売られた。
「堅造」の真髄
近藤さんは、おそらく生涯“一穴”であった。
昭和も一桁の若いとき、漫画集団を作ったころ、仲間たちが、「近藤の童貞を破る会」というのを開
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| 昭和48年2月 変動相場移行で円急騰、国会紛糾し審議ストップ 面を打たれた第二次田中内閣 |
いたことがある。近藤さんは、酒をも飲めばもめる人だが、うまくないので飲まないといっていた。その日も仲間は、近藤を新宿のバーに連れてゆき、酒を無理やりに飲ませ、酔っ払わせて、二丁目の女郎屋につれて行き、童貞を破らせる計画だった。バーのNOワンの女性を近藤さんにつけ、皆が煽り立てるように、飲みながら、囃し立てた。近藤さんはいきなり、隣の美女を抱きしめ、キスをし、延々と口をつけたままにした。皆は驚き、いっそう騒ぎ立てた。近藤さんは口を離すと、皆があっけにとられるうち、さっと席から消えた。
残された仲間だけで、二丁目に沈没したという話があります。今日の若い人には理解できない事件かもしれない。
中年になって、読売新聞社に入ってから、秘書の女性とある線まで進んで、人のうわさにも上ったが、ついに最後の一線を越えられなかった。女性のほうが焦れて、「二人だけになっても、何もしてくれない」と近藤さんの親しい弟子の塩田英二郎さんに訴えた、という話もある。
そんな近藤さんと老美女とのほんのりとした、心の交流。何かいい感じであった。
机ひとつの仕事ぶり
近藤さんは、食うところや飲むところは、一流主義だったけれど、その生活はまったく簡素、簡明であった。彼は新聞社でしか仕事をしなかった。私が近藤さんと繁く合っていたころは、読売新聞は、銀座のプランタンの場所にあった。その五階に論説委員室があり、その片隅に近藤さんの机が置かれていた。
その机上には、たった一つ、小学生がお習字に使うような硯箱が一つ置かれているだけだった。その中にやはり小学生が使うような硯と、墨が一つ、それから筆が一本、鉛筆が一本入っていた。引き出しに、子供が図画に使う安い画用紙が入っている。これが、彼が政治漫画を描く道具と材料のすべてであった。ただし筆だけは、鳩居堂に自ら足を運んで買った。
その画用紙に、鉛筆で簡単にすいすいと下書きを書く。それから筆を持ってすいすいと仕上げてゆく。書き直しや、訂正はしない。描きあがると、鉛筆でキャプションを、書き入れてお終い、それを編集室に持たせる。
後は取材に出でたり、新聞を読んで次の案を考えたり、文章を書いたり、夜は会合や座談会、テレビ出演と結構忙しい。終わればうちに帰るだけだ。
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昭和51年12月 ようやく田中・三木総理のあとを受け、ついに
頂上に上りついた福田赳夫総理(現総理福田康夫の父君)を
”亀の歩み”になぞらえて |
文字の原稿には、英国製の万年筆一本ですべてを間に合わす。取材のメモを取るにもそのモンブランで間に合わす。
その仕事はすべて、おなじ机の上で成し遂げる。うちに帰ってからは、テレビでミステリーや時代ものを漫然と眺めて、寝るだけ。一切の家事は夫人に任せきり。
絵描きの癖に、アトリエがあるわけではない。書斎もない。机さえ置いていなかった。家を建て替えたときに、長男が、机ぐらいおきましょう、といって近藤さんようの机を置いたが、使うことはなかった。
参考書、資料は読売にあるもので間に合わした。本を買うことがあっても、読んだあとは処分した。寄贈された本もどんどん処分した。自分の本が出ても、人に贈ることもなかった。
着ているものもそうだ。洋服は夏冬二着ずつ、靴は一足、レインコートは仲間と旅行したとき、ロンドンで買ったもの一枚、死ぬまで着ていた。冬外套も一着だ。
特別な口腹の欲も無いし、酒は飲まない。タバコだけは、彼の写真で見るように、口を尖らして吸っていた。仕事以外にこれといった趣味も遊びも無い。あれで何が人生面白いのか、分からなかった。
歩く座談会をするようになって、終わってから、杉浦さんと私と三人で、銀座にのみに行った。席に着くとオンザロック注文する。それをなめるだけで飲むわけではない。近藤さんはバーの女性が喜ぶような話や冗談は、一切しない。話題は天下国家のことばかり。新聞社にいて、いろいろな人に接触する近藤さんは情報をいっぱい持っている。その上に立っての話だから、面白い。私と杉浦さんは聞き役だ。それによって、私はいろんなことを学んだ。
しかし、いかに話が盛り上がっても、十時半になると、必ず立ち上がって、
「ぼくは失敬するよ」
何の未練もなく、帰っていった。
判で押したような毎日
朝は九時に起き、ゆっくり食事をする。昨夜、外食したときは、前夜の食事がそのまま出た。近藤さんは出されたものに、頓着するところがなかった。食い終わると十時に、夫人に送られて家を出る。新宿までバスに乗って、新宿から地下鉄丸の内線で、銀座で降りる。新聞社に行く途中、フード・センター(今のインズ)の喫茶店によってゆっくり、コーヒーを飲む。行く店は決まっている。
私も通勤に丸の内線に乗っていたが、時計を見て、今日は近藤さんと一緒になるな、と思うと、必ず合った。そして一緒に、喫茶店に入ったことが何回もある。
まるで判で押したような毎日であった。
近藤夫人は、横山隆一さんの妹さんだ。近藤、横山家とは当然家族間の交流がある。横山さんのお嬢さんが近藤家に泊りがけで、遊びに行って、帰って報告するには
「近藤の叔父ちゃんは、朝うちを出て、はたらいて、帰って寝るだけね。お金は全部おばちゃんに渡しちゃうの、うちと大分違うわね」
といったという。この話は、横山さんから聞いた。ついでに横山さんから聞いた話をもう一つ。近藤さんは鰓がはって角ばった顔をしている。横山さんは小太りの丸い顔をしている。やはりお嬢さんの報告があった。
「近藤の叔父ちゃんに家にあるお皿は、四角いものばかりよ、うちは丸いのばかりね」
ともかく「十年一日」というのが近藤さんの生涯であった。仕事も読売新聞の政治漫画を三十年、昭和五十一年、病気で倒れるまで描き続けた。週刊読売の対談「やァこんにちわ」は、昭和二十七年から倒れるまで、テレビの「春夏秋冬」も倒れるまで続いた。
こんな生活、仕事ぶりも一つには、用心深さ、安全第一主義の性格からも来ている。近藤さんは町を歩いて、交差点に着いたとき、既に信号が青になっていると渡らない。わたっている途中、信号が変わると危険だというので、次の青まで待つ。
この用心深さも、人の見分け方を誤り、案外な人物を信用して、臍を噛むことがあった。特に晩年の十年間は、人から持ち込まれた話に乗り、それが失敗し、借金とそれから必然された事業経営に苦労した。
表面では「漫画で政治を大衆に近づけた功績」により、菊池寛賞を受け、紫綬褒章も受け、豊かな人生の実りを収穫した輝かしい晩年のように見えたはずだ。その裏では命を縮めるほどの苦難を強いられていた。
そういう近藤さんを見ていて、人生の歩み方の難しさを考えたものであった。
仕事の鬼、手塚治虫
毎年秋になると、手塚治虫文化賞の候補を推薦してくれというアンケート用紙が、朝日新聞社から、送られてくる。そして来年春、盛大な授賞式が行われるのだ。こうして手塚さんの名声は、その死後、年々高くなる。それは親しくしてもらった者として嬉しいことだが、一方、その虚像のほうも、年々膨れるような気がしてならない。
そこで今日は、手塚さんの思い出を記してみたい。
パリの夜更けの出来事
パリの夜更け、モンマントルの丘の下の歓楽街、ムウランルージュの近くから、手塚治虫さんと一緒
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拙著『近藤日出造の世界』出版記念会で(1984.6.12 新橋第一ホテル)
前列左から=手塚冶虫氏、丸茂ジュン氏(後向き)、家内、峯島、杉浦幸雄氏、南里征典氏。
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に、タクシーに乗った。宿泊しているモンパルナスの駅近く、映画「北ホテル」出てくるような、こじんまりしたホテルに、帰るためであった。
このホテルは、電話ボックスのような小さなフロントに、フランソワーズ・ロゼー(「外人部隊」、「女だけの都」などに出演した名女優)のようなおばさんが独りいるだけ、エレベーターといえば手動式、二人しか乗れないという時代がかりの代物、そんな小さな古びたホテルであった。
再開発されたモンパルナスには、今はそんなホテルはありえようがあるまいが、何しろ四十年近く前の話だ。手塚さんと私は、そのホテルを目指して、車に乗ったわけだが、パリ市街の北のほうのモンマントルから、南の端のモンパルナスまでは、途中、セーヌ川を渡り、相当の距離がある。
その車の中で、手塚さんは急に、
「小便がしたいのだけれど、どうしよう」
と言い出した。
「ホテルまで我慢できませんか」
「とうてい、もたない」
と前を押さえて苦しそうだ。当時はまだ、今日ほど運転手さんも観光客慣れがしていない頃なので、われわれの拙い英語でしゃべっても、通じないのは分かっている。といって、即席にやってきたフランス語では、何もこの急場には役立たない。困ったと思った瞬間、ある考えがふと浮かんだ。
「先生、絵を描きなさいよ、小便したいと分からせるような」
すると手塚さんは頷いて、懐から手帳を出して、噴水の小便小僧みたいな絵をさらさらっと描いた。そのページを引きちぎって、運転手さんの肩をたたいて、それを見せた。敵も客商売、こちらの言うことを即座に覚って、すぐうなずいた。少し走ったところで、車を止めた。そして、反対側の賑やかに明かりの灯った店を指差した。そこは喫茶店であった。
手塚さんは、そこに向かって飛び出していった。そして、平常のにこやかな顔で戻ってきた。
手塚さんの親切
この話は、またも古いことで恐縮だが、昭和四十二年(一九六七年)の初夏のことである。
深夜二人きりでパリを縦断するに至った経緯を述べ中ければなるまい。これは、漫画家十二人と私の十三人が、漫画旅行団を結成し、世界一周旅行を敢行したときのことである。参加者は近藤日出造さんを団長に、副団長横山隆一、同じく杉浦幸雄さん、幹事西川辰美、以下、塩田英二郎、岡部冬彦、おおば比呂志、小島功、手塚治虫、馬場のぼる、富永一朗、サトウサンペイ、それに私。
五月末、羽田を出発し、東回りで、ハワイを振り出しに、米大陸の諸都市をへて横断、ヨーロッパ大陸に渡り、マドリード、パリと来たわけだった。
日数は1ヶ月の大旅行だ。しかも、この旅行の計画を立てたのが、綿密細心、気配りに揺るぎの無い、西川辰美(おとらさんの作者)さんだった。緻密な無駄の無い旅程が作られた。三十日間、見損なう場所の無いよう、びっしりと日程が組まれた。みんなは、旅程表を見て喜んだ。
しかし、無駄が無いことは疲れることでもある。私は、先生方と一緒の緊張した長途の旅で、旅程のちょうど半分のパリについたときは、疲労が頂点に達していた。
だが憧れのパリだ。疲れたなど言ってはいられない。空港には、かねて連絡しておいたパリ滞在中の益田義信画伯が、迎えに来てくれた。益田さんは、三井の大番頭、大茶人・鈍翁、益田孝男爵の孫に当たる人だ。
その晩は、鴨料理のツールダルジャンに行き、益田画伯が選んだ献立で、ディナーを満喫。翌晩は、画伯の案内で、モンマントルの麓の歓楽街を案内してもらうことになった。そこのバーには、女性がたむろしていて、客が入ってくると、そのテーブルに来て、シャンパンをご馳走して頂戴という。ウイ、というとその夜の商談成立となるのだといわれていた。そこを探訪、見学しようというのである。現在はそこがどうなっているか知らない。
参加したのは、手塚さん、馬場さん、富永さんと私、後一,二名いたような気がするが今は忘れた。その他の仲間の人たちは、それぞれの自分のパリの夜を楽しみたいのか、疲れて寝たいのかは不明だったが、案外参加者が少なかった。それで私は眠いのを我慢して、参加した。パリの夜を見物して歩いた後、時間も丁度よくなったと、益田さんがいい、歓楽の巷に踏み込むことになった肝心のとき、どうしても睡魔に耐えられなくなった。益田さんに事情を話し、一人先に帰ることにした。そうしたら手塚さんも
「ぼくも一緒に帰る」
と言い出し、二人で帰ることになったのだった。手塚さんは、それまで夜の散策や飲み会に加わらないで、密かに部屋にこもって仕事をしていた日もあった。だから相当疲れていたはずだった。
ロンドンについて、この旅行もあと数日で終わろうとするとき、手塚さんの「虫プロ」に問題が起きて、急遽帰国することになった。朝の食堂で、みんなに告げた。手塚さんは観光用のバスにみんなと一緒に乗って、途中日航の支店の前で、バスを降りることになった。
バスが走り出すと、
「そうだ、峰さんに残ったトラベル・チェックをあげよう」
私はローマで、盗難に合い、所持した現金の幾分かを失ったことを知っていたからだ。しかし、この先の旅行に困るほどでもなかったので遠慮したが、手塚さんは優しい人だ。懐からチェックを取り出し、サインをしようとするのだが、バスが揺れて、サインが出来ないでいると、ガイドが、日航事務所についたと知らせた。日航の支店は案外ホテルから近いところにあったのだ。ちょっと待ってくださいと、手塚さんが言ったが、交通の多いところでバスをとめておくことが出来ないと、ガイドが言う。
「残念だけどね」
と、手塚さんは降りてゆかざるを得なかった。せっかくの好意なのに、無になった。
仕事では完全主義
手塚さんは、心根の優しい親切な人で、あれほどの売れっ子になっても、謙挙さを失わない人であった。手塚さんのお母さんが亡くなったときだと思う。葬式が終わって、手塚さんのお父さんを囲んで、近しい人たちが、集まっていた席に、石津嵐、豊田有恒さん(ともにテレビの鉄腕アトムの最初の頃のシナリオを書いた人)と共に、たまたま私は居合わせた。その時、お父さんが、
「自分の息子のことを言うのはおかしいけれど、手塚は今のように売れて有名になって、日本国中知らない人がいないくらいになっても、周囲の人に接するのに、昔とまったく変わらない。優しくて腰が低いだろう。それには私はほとほと感心しているのだよ」
としみじみ語ったのが忘れられない。このお父さんは、写真道楽で漫画集団の忘年会のどんちゃん騒ぎの余興を、ニコニコしながらカメラに収めて楽しんでいられたのを思い出す。
優しい手塚さんも、仕事となると別だった。仕事の鬼となり、自己の考えを押しとうす頑固さを持っていた。そして、自分の仕事の能力に対する自信と、自分の仕事に対して妥協をゆるさない完全主義があった。だから生涯、手を抜いた仕事はひとつも無いはずだ。
自信があるから、やりたいと思う仕事は注文がくれば引き受ける。それで自然多くの仕事を抱えてしまう。如何に天才的能力があっても、量が多ければどうしても仕事が遅れる。そのため私どもはいつも手塚さんの原稿の遅れに、難渋したものだ。
手塚さん担当の編集者のT君に、
「手塚先生は仕事を引き受けすぎるのではないか」
ときいた。
「先生、あのくらいの仕事は、自分の才能と能力を以ってすれば、出来るものと確信しておられるのではないですか」
とT君は答えた。
締め切りを過ぎても、原稿が入らないので、私自身が、T君が頑張っている、手塚プロに深夜行ってみたこともある。マネージャーさんに様子を聞いても、お手上げのような格好である。担当編集者が控えているところまでいって、覘いてみると、アシスタントの人たちが手持ち無沙汰の様子で座っている。わたしはT君を連れ出し、
「アシスタントの人たちにもっと手伝ってもらうことができないのか」
と、そっと聞いた。というのは他のストーリー漫画家のプロダクションでは、先生が登場人物のキャラクターを描くと、アシスタントがそれに従って、人物を描いてゆくし、まして背景などは、方向さえ決まれば、アシスタントに任せて、分業的に仕事を進めると聞いていたからだ。T君は
「手塚先生の場合は、それをしないのです。アシスタントに頼むのは線を引くとか、そのほかのごく単純な仕事に限るのです。絵の中では、墨ベタを塗ってもらうのがせいぜいなのです。後は先生が丁寧に描かれるのです」
と、答えるのだった。私は黙ってしまった。完璧な手塚治虫の絵でなくてはならないのだ。その夜の校了時間が過ぎてやっと原稿が入ったのであった。
チョコレート探しの深夜
手塚さん自身も大変な苦労のはずだった。ある深夜
「チョコレートが食いたい。そうすれば、頭がスムースに回転するだろう。どこかで探して買ってきてくれ」
と、待機していたT君が言われた。今日と違う。コンビニも無ければ、深夜営業のスーパーもない。ましてチョコレートなど売っているところがあるはずが無い。それでも、T君はタクシーに乗って、町を駆け回った。そのはて私に電話をかけてきた。電話を受けて、私も困惑した。唯一考え出したのが、銀座の高級クラブにいって、おつまみに出しているチョコレートを分けてもらうことだったが、いかにクラブでも、時計を見れば、誰もいない時間になっている。ホテルの深夜レストランなども考えたが、チョコレートなどありそうに思えなかった。それやこれや、話している間にT君は、あることを思いついた。
「そうだ、うちに帰って、子供のチョコレートを持ってきます。昨日買ったのがあったはずです」
T君は、遠い郊外の自宅まで車を飛ばした。
別の週のことだが、校了時間が過ぎても、原稿の入る様子が無い。私は覚悟を決めて、手塚プロにいるT君に電話をした。
「今週は、もう間に合わない、休載にさせてもらうことにする。そう先生に伝えてくれ」
というと、
「さっきもう間に合いませんから休載させていただくように編集長に伝えます、といったところ、それなら編集室にいって描くとおっしゃって、今出かけたところです、ぼくもそちらに電話して後を追いかけるところだったのです」
私は、印刷会社の出張校正室にいるデスクに電話して、穴埋め用の原稿で、校了にするように指示して、先生の到着を待った。数人のアシスタントを連れ、一切の画材を抱え、手塚さんはやってきた。一応会議室に通すと、直ぐに画材を広げ、仕事に取り掛かろうとする。
明朝、八時には、出来上がった雑誌数万部をつんで、第一便のトラックが出る予定になっている。これから何ページでも書いて、それに間に合うはずは無い。といって仕事を始めた手塚さんの顔を見て、止めて下さいとは、言い得ない。私は臍を固めて、明朝の販売関係、印刷関係の混乱を覚悟して、手塚さんの出来上がりを待つことにした。
翌日、当週刊誌の発売が、数時間遅れた。私は販売本部長に、呼び出されコテンパンにしぼられ、印刷会社の営業部長から、厳重抗議を受けた。編集部員は校了明けの疲れで誰も出社してこない。私は夜まで孤独に耐えねばならなかった。
後年、私が「近藤日出造の世界」という近藤さんの評伝を上梓したとき、先輩たちが、出版記念のパーティーを、ホテルで開いて下さったが、手塚さんも出席され、その席で、
「あの本面白いなあ、ぼくが劇画化してみたい、是非やりましょう」
といわれた。しかしその実現が具体化される前に、手塚さんは、六十歳そこそこの若さで、癌に侵され、逝かれた。
天才のあまりに早い死である。天下のためにまったく、惜しいことであった。
大学出のポン引き
昭和の奇人、吉村平吉さん
吉原に死す
一昨年、吉村平吉さんの訃報が届いた時、都会の底を千鳥足でよろよろと歩んだような一生を思い、これも一つの人生かと、言うにいわれぬ感慨を覚えた。生前自ら言っていた如く、吉原のソープランドに囲まれた、木造二階建てのアパートの狭い一室で、人に知られず、一人死んだという。
戦後旧吉原郭内に居つき、住まいは二,三度変わったが、遂に吉原の域を出ることは無かった。死後、何日かたって、発見されたというが、発見者は誰なのか聞きそびれた。これが訳ありの、竜仙寺あたりの裏町のバーのマダムであったならば、以って瞑すべきだったといえよう。
本稿を書くにあったって、書斎の本も眺めている時に、目の前に、平さん(吉村平吉さんのことをみんなそう呼んだ)の著書「吉原酔狂ぐらし」が目に付いた。そのときこの辺で、この昭和の奇人の思い出を書いておかないと、私の記憶も薄れるばかりであろうと思い、彼のことを書くことにした。どっちかといえば、迷惑をかけられたほうが多いのであるが、私をして彼の思い出の筆を取らせたのも、なんとなく憎めない風来坊然としたかつてのその姿にも拠ると思う。
私が昭和三十四年、創刊した週刊誌の編集に初めて携わったころ、社内の大先輩が、一人のへなへなしたような眼鏡の男を連れてきて、
「こいつは、大学出のポン引きとして有名な、吉村のヘイさんだよ、これから娯楽雑誌の編集に役立つかもしれないから、」
と、紹介してくれた。
さて、ポン引きなどといっても、現今では知らないに人が多いだろうが、正確に言うとしたら、もぐり売春仲介業といったらいいか。
要するに街でカモになりそうな男を見つけて、肩をぽんと叩き、
「旦那、いい娘がいますぜ、可愛い子、今夜の口明けにどうです」
といった調子で誘う、あの商売です。昭和二十年代から三十年代にかけて盛んだった職業である。要するに、もぐりの売春宿、アパートなどで独立して商売する娼婦と契約して、お客をつれてきて、口銭を取るのである。ポン引きの語源は知らないが、肩をポンと叩いて、客を引き寄せるので、ポン引きなのではあるまいか。
彼は早稲田の政経学部専門部を出ている。それで大学出のポン引きといわれた。専門部は本当は専門学校の資格なのだが、それにしても戦前の教育を受けたもので、中等学校以上の学校を出たものが、そんな仕事をするものは、当時の社会的な仕組みからみて、いないのは当然だった。だから珍しいのだ。にもかかわらず、平さん自身には、落魄感は全く無かった。
その頃、今で言う暴力団関係のほうから、平さんの領域に侵入が多かった。それらに比べて、
「俺たちは正統派のポン引きだ。やくざとは違う」
胸を張って、自負心を見せたことがあった。ノンシャランな話しである。
紹介されたとき、平さんの言うことには、自分は売春関係の仕事をしてきたから、その方面は勿論、今日で言う風俗産業の実態、裏側については、自分ほど知っているものはいないという。そういわれると、そんな方面は全く知らない私たちには、重宝な存在に思えた。娯楽週刊誌を作るにはその方面に無関心では済まされないからだ。
エノケンに魅せられる
平さんは、赤坂の書画骨董商の息子に生まれた。父親というのが、平サンのいわゆるアソブ人で、道楽三昧で、財産を蕩尽した男だという。まだ子供の一人息子の平さんを連れて、吉原の遊郭に登楼したり、芸者買いにつれていったりしたという。平サンはそんなところに行って、ちやほやされるのにまんざらでもなかったというから、栴檀は双葉よりなんとかと言うやつだ。
中学生になると、浅草の六区に通い、エノケン(榎本健一、浅草で大人気を博し、東宝に入り多くの映画に出演したボードビリアン、喜劇役者)のレビュー、ボードビルに熱中した。エノケン一座の座付き作者、不世出の天才ボードビル作家といわれた、菊谷栄にあこがれた。
エノケン劇団の大隆盛の昭和十一年ごろの話しらしい。平さんはレビュウの台本を書いて、エノケン劇団の文芸部にもち込み、以来、その片隅に出入りする。
「そのころエノケンと、話しをしたことがあるか」
とある時、聞いたところ
「とんでもない、エノケン先生は雲の上の人で、恐れ多くて近づけませんよ」
戦前のエノケンを知っているという平さんの自慢の実態もそんなものであった。それでも菊谷には言葉をかけられたことはあるらしい。
平さんは中学をなんとか出ると、早稲田の専門部に入り、卒業して軍隊に召集され、戦後、中国戦線から帰国した。浅草の軽演劇関係の知り合いが作った、劇団空気座という劇団に参加した。折からの性の開放、肉体の自由の風潮に乗って、田村泰次郎の「肉体の門」で一時当たったが、復活した諸種の興行におされて、劇団は凋んでいった。劇団の先が見えたとき、仲間から平さんは代表に押された。
こういうところがいかにも平さんらしい。父親を口説いて、僅か残った財産をつぎ込んだが劇団は潰れた。平さんは無一文のすってんてんになった。それで手っ取り早く金になるポン引きの群れに、入って行ったらしい。この世界は、だいたい戦前の牛太郎のながれをくむ人たちが主流で、平さんはそこに合流させて貰ったようだ。牛太郎は妓夫太郎の転化で、遊郭の呼び込みのことである。それが戦後失業して、ポン引となったようだ。
トップ屋落第
平さんはたちまち編集部にのうのうと顔を出すようになった。そういう点いかにも職業柄らしい。彼は私たちに、先ず吉原に初めて出来たトルコ風呂の潜入グラビアという企画を持ち込んだ。その頃からトルコ風呂(今のソープランド)が各地で始まった。この企画に乗って、杉山吉良さんに写真を撮ってもらった。トルコのお客のモデルに平さんが、くりからもんもんの旦那を探してくれて、この企画は成功だった。
平さんはそのころは浅草のストリップ劇場などにも出入りしていると言うので、ストリップ嬢の生態と言うような特集記事を書いてもらったこともある。これはまあまあの記事になったのであるが、その遅筆さに往生したのを覚えている。スピードを競う週刊誌のトップ屋には、全く向いて無いのはすぐに暴露された。
そんな時、平さんはある夕べたずねてきて、合わせたい人がいるからそこまで来てくれないか、という。銀座並木通り一丁目お稲荷さんの祠の裏露地の小さいバーに連れ込まれた。そこに一人の男が待っていた。その男は、銀座の一流クラブのマネージャーで、このバーも彼の愛人がマダムなのだという。仕事の片手間に文章を書いて行きたいというので、平さんはこの男と組んで、物書き集団、要するに梶山さんのようなトップや集団を作るというのだ。
「彼が銀座方面、私が浅草方面、もう一人新宿、渋谷にくわしい人を探してグループを作れば、怖いものなしの風俗ものの取材集団が出来る」
と、平さんはいう。
私は何も期待しなかった。平さんにそれだけの組織力、実行力は無いことがもう分っていたからだ。思った通りその話はうやむやになった。平さんの話はアイデアはいいのだが、実行力が乏しいのでうやむやになることが多かった。
幻の企画
そんなこんなで、だんだん平さんが編集室に表れる回数も減っていった。ある時、編集室の扉のかげから、そうっとにや付きながら、入ってきた。こういうときには、彼の腹に一物があるときである。私に机に傍によってきて、
「昨日、白黒の実演を見たんです、そのペアが評判でね、毎晩二回興行ってとこです。その男も女もあのほうが強くてね、延々と演技してすごい迫力なんです」
「そんなにすごいのか」
真昼間の編集室で、白黒のエロ興行の話しをしていられないのっで、近所のレストランに連れ出す。白黒というのは、秘密エロ興行で、男女のペアが、性技を実演して見せることだ。
レストランで席について、彼に何を食べるか聞くと、野菜サラダを二皿という。なぜサラダだけを食うのかというと、昨夜見た白黒の男優は、野菜しか食わない、それが毎晩二回興行の勢力の源だと、言ったというのだ。それで平さんも、その真似をして、精力家になるために菜食に決めたという。やがて運ばれてきたサラダを神妙な顔をして、粛々と口に運ぶのだった。
「私も、彼のような精力を持ちたいと思いますので」
と真面目な顔をして言うのであった。私は腹の中で笑ったが、精力絶倫な白黒の俳優がいることは確からしい。その絶倫ペアの毎日を取材してルポにするという。
「彼に手土産を持っていって、話しを聴き、そっと現場をのぞくだけですからを取材費もかかりません。一万五千円あればいいです」
という。一万五千というところが味噌である。伝票を切り易い金額であることを敵は見通している。つい私はその金を渡す。今の金にして、数万円というところか。
然し原稿は出来上がらない。要するに気が弱くて突きこんだ取材が出来ないし、書き出しても、遅筆で前に進まないのだろうと思われる。催促すると、なんとかんとか言い逃ればかりする。こっちも忙しいから、ほうっておく。そのうちのうやむやになる。
それから四,五ヶ月たって、忘れたころ、またにやにやしながら、やってくる。この前のことを怒る気もなくなっている。その時期を見抜いているのだ。私に机のそばにより、小さな声で、
「今日は特別の特種がるのです」
そういってかれが持ってきた話には女の競り市というのがあった。女を裸にして、お客たちが競りをかけ、競り落とした客がその夜の相手になる。それに類する話を、何回も持ちかけてくる。三度に一度は、応じて取材費を出すのだけれど、結局、ものになったものはなかった。私は、平さんに渡した金は、今で言う風俗産業の変遷やトピックスを知っておくための必要経費と考えればいいと思っていた。
以上のようなことがその後も何回かあったと記憶する。取材費を受け取るや、その日のうちに飲んで使ってしまうこともあったらしい
影にいた人物
後年、田中小実昌さんが、直木賞を受賞した後、どこかであった時
「峯さんには、ね、ね、大変な世話になった、お礼をね、言います」
といわれ、びっくりして
「私は先生をお世話した覚えなんかありませんよ」
というと
「平さんね、平さん、彼が峯さんのところへプランを持って行ったとき、ぼく、ランブルで待っていたことあるのよ、何回か、あの金で一晩飲みました」
平さんの後ろにコミさん(田中小実昌さんの愛称)ありか。コミさんと組まれたのでは敵わない。そのコミさんが、直木賞を受賞したのだから、いいとしようか、そのとき私はそう思った。
考えてみれば、平さん、コミさんはいい相棒だったに違いない。コミさんは、東大哲学科中退のインテリの癖に、変わり者であった。ストリップ小屋に潜り込んで、女たち間で寝たり、どさまわりのストリップショウの一座にコメデアンとして加わっていったり、大道に茣蓙を敷いて、夜店を出したり、奇行は数知れぬ人だった。そんなことをしながら、早川ミステリーで、多くの小説の翻訳をしているという凄い人でもあった。
私はその後何回も小説を頼んだし、エッセーの連載も書いてもらった。これもめぐり合わせと言うものか。
晩年は風格も
さて平さんの事であるが、吉行淳之介さんが、週刊誌に「コールガール」やお色気エッセーを書いたとき、平さんが現役ポン引きとして、取材されたことが縁で、吉行さんと交流があった。それとコミさんの縁で、平さんは野坂昭如さんと知り合う。
野坂さんは、お祭り騒ぎのパホーマンスが大好き人間である。野坂さんは平さんに世話役をやらせて、周囲の若手作家や編集者を集めて、「酔狂連」なる遊びグループを結成した。主に、落語からとった趣向で、パホーマンスをして酒を飲むという会であった。
平さんに私もこの会に誘われたが、野坂さんらしい乱痴気騒ぎの会に、いい気になって会場の世話などをやっている、平さんの顔を見ていると、とても参加する気になれなかった。
「赤線忌」などと称して、昔の女郎屋の真似事をやり、吉行さん、梶山季之さん、川上宗薫さん、田中小実昌さん、長部日出雄さんその他が参加したせいか、マスコミに報道され、話題となった。
仕事をすると駄目だが、遊びごとをすると、平さんも結構やるらしいのが不思議だった。この酔狂連の騒ぎが高じて、ついに平さんの、台東区区会議員立候補にまでことは進んだ。
昭和四十六年の選挙に立候補し、野坂さんを初めとする作家たちが応援し、黒田征太郎さんがポスターを描き、永六輔さんも選挙カーに乗った。マスコミにもそれが報道された。だが結果は277票とかで落選。その後三回区議選に出たが落選。ついに野坂さんも匙を投げた。
その後、平さんは「浅草ふきよせの会」という演芸の会を定期的に開いた。浅草らしいごく庶民的な演芸会であった。私は最初一回行ったきりであったが、これが百回も続いたというから、平さん生涯の大仕事だった。その内容はともかく、よくも飽きっぽい平さんが続けたと思う。
そうなってくると年の功もあって、その姿に風格らしきものが出てきたから不思議だ。時にパーテーなどで会うと、よく話しかけてきて、帰りに飲んだことがある。彼が案内したのが六本木であったから驚いた。然し勘定は昔どおり、私が払った。
敗戦と男の命運
当店の私の更新は、十月一日の予定でありますが、敗戦記念日を迎えるに当たって、特にご亭主にお願いして、八月十五日に更新を繰り上げていただき、私の敗戦記録を載せていただくことにした。
空中戦の名手
私は、現在の憲法が施行された昭和二十二年、旧制大学の文学部に学部入学をした。 私が入った頃の大学には、戦争が終わって二年もたっていないせいか、私たちより年上の、時には七,八歳年上の、復員学生がごろごろしていた。彼らの多くは将校靴をはいて闊歩していた。
ある日、私は学生会館の入り口にある、交通公社の営業所の前に、通学定期を買うために、並んだ。学生の列が二百メートルも続いていた。当時はこんなことは当たり前のことだった。どのくらい待たされるか知れたものではない。私の前に、飛行靴をはいた復員学生が並んでいた。その浅黒い面つきが殺気をはらむといったら大げさであるが、尋常でないオーラを発している。
長い間並んでいるうちに、彼と話を始めていた。それでわかったのだが、彼は、ゼロ戦に乗っていた戦闘機乗りの生き残りなのだった。ポツダム大尉とかで、歴戦のツワモノなのだった。
「俺みたいな予備学生上がりの戦闘機乗りが無事帰ってきたのは少ないんだ。学生上がりは訓練が足りんのだ。そこへ行くと兵学校上がりは戦闘が上手かった」
という。
「戦闘というと、空中戦?」
「そうだよ、予科練上がりはよく落とされた。俺たちは遠くから敵機が来るのが分ると、まず雲のあり方や光線の具合を確かめて、いざという時、敵の攻撃をかわすことを考える。実際、雲に隠れてチャンスを捕まえ、敵戦闘機の後方の上空に、自分の機を位置させるのだ。そうすると有利な戦いが出来る。少年兵は年も若いし、上手く立ち回れないんだよ。」
そんな話しを彼はするのだった。
「俺は、敵機動部隊が本土に近づいた時から、転々と基地を変えて飛んでいった。初めて本土攻撃に敵艦隊がやってきた時には、南方の海上で捕捉したのだ。迎撃の空中部隊の爆撃機や魚雷攻撃機を援護するのが俺らの仕事だ。俺らの援護機は五十とか七十とかまとまって飛んでゆく。敵はぐラマンとか艦上戦闘機で、こちらの空中部隊に向かってくる。この戦闘機から爆撃機や雷撃機を守るのが、俺らの仕事だ。たちまち空中戦となる。
戦闘が終わって、やっと基地につくと味方機が一機二機と帰ってくるが、五十飛んだのが、やっと十とか五とかしか帰ってこない。圧倒的に敵の数が多いからな、苦戦するのだ。
再び敵機動部隊が本土に近づいてきて、また攻撃に出るのだが、その基地には飛行機は数が揃わない。前より北の基地に各地から、戦闘機を集めて出撃するのだが、また五機とか三機とかしか帰らない。その次の出撃にはまた別の基地に、諸方から生き残った飛行機を集め、飛び立つ。また五,六機しか帰らない。
爆撃機も雷撃機も同じ状態だが、補給は全然ない。しまいには乗る飛行機もなくなっちゃった」
「よく生き残ったな」
「まあな、だけど、多くの部下を殺したものさ」
その日別れたきり、二度とこの男に会うことはなかった。彼がその後どんな人生を送ったか、知りたいところだ。だが、空中戦で、力を出し切った彼が、新たな充実感を持って生きたか疑問だ。
人間魚雷の生き残り
私の一年先輩に、人間魚雷“回天”に乗っていたが、出撃する前に終戦で帰ったという人がいた。彼は秀才で学校に残ったが、教授になると間もなく死んだ。
彼は学生時代から大酒のみであった。黙って夜の街でよく飲んでいた。卒業後、新宿の小便横丁で飲んでいる彼にときどきあった。
助教授ぐらいの時、新宿の飲み屋街で喧嘩をした。警官がやってきた。君は何している人間だと、聞かれた。彼は名刺を出して、謝った。「あなたは大学の先生ですか、学生さんに見つかったらまずいではないですか」、と警官にいわれた。
彼は人間魚雷の特攻隊員として、九死に一生を得たのだ。多くの仲間が死んだのに、自分ひとり生き長らえて…、自分の道を歩いている。酒でも食らわなければやっていけるか、彼の気持ちがよく分るような気がする。
然し彼らは、仕方がない。彼らは戦闘員だったから、過酷な運命にさらされるのは覚悟の上のことだ。だが、敵アメリカ軍は、仕方がなくはない、非戦闘員を、無辜の日本人を、無残な殺し方で、無数に虐殺しているのだ。戦争に負けても、これは許せないと思う。
奇蹟の男の一朝の夢
私は大学に入る前に、旧制専門学校を卒業している。その専門学校の同級生の話だ。その学校に入ったのは昭和十九年だった。その友人は、浅草花川戸の姉の嫁ぎ先に下宿していた。あの三月十日の夜の空襲、東京下町の密集地帯を、米空軍のB29の大編隊が、焼夷弾の絨毯爆撃をやったのだ。
あの絨毯爆撃は、戦闘要員でない一般市民を大虐殺する方法なのだ。その後のある日、学校の一部が空襲で焼けたが、その時狙いが外れて、広い学校の運動場にばら撒かれた、焼夷弾の有様を見て、絨毯爆撃の実際が分った。長さ五十センチ、直径十五センチぐらいの八筒形の焼夷弾が、左右前後、縦横、間隔1メートルごとに、一本ずつ、正確な市松模様を描いて、広大な運動場いっぱいに、突き刺さっていたのだった。
焼夷弾がこのように空中で、ばらばらにひろまるように、束ねられたものが、正確に次々と落とされるのだ。落とされたほうは逃げようのない非人道的な、爆弾なのだ。その焼夷弾は落ちると直ぐ頭部から火を吹く。直撃を受けて死ぬ人、炎に全身やけどして、即死する人も多かったが、木造家屋はたちまち火の海になる。市民虐殺の空襲なのだ。
花川戸は、隅田川岸辺の町だ。三月十日の夜、友人は姉の一家と共に、隅田川の岸に逃げたが、大火災の炎にあふられて、無数の避難民と共に川の中に逃げ込んだ。しかし、火の海と化した街から吹き募る風に、炎が嘗めるように、川の上の這いまわった。それで川に逃げた人は、皆焼け死んだ。
この夜は、隅田川をはさんだ東京の下町は全滅した。
翌日から軍隊が出動して、川に浮かぶ死体を集めて、トラックに積んで、某所に運び、その死体を山と積み上げ、火をつけて焼いた。そうするしか、死体の処理法がなかったのだ。
その火をつけようと兵隊が、重油の缶を持って近づいた時、指揮していた将校が、「ちょっとまて」と止めた。
「この男は生きているかもしれないぞ」
と、一つの死体を引きずり出した。将校がうん、と活を入れると、死体は息を吹き返した。仮死状態にあったのだ。戦場往来の中年の将校の眼力で、助けられたのだ。
その万死に一生を得た男が私の友人だった。もちろん姉の一家四人は、行方不明のままだった。
その彼に再会したのは、戦後学校が再出発してからだ。その友人に後日談がある。煩を厭わず、それも紹介しておく。彼は、専門学校卒業後、私と同じ大学の法学部に入った。卒業の日、大学創立者の銅像の前で、記念写真を撮って別れた。彼は故郷に帰り、私は明治時代から続く、古い経済雑誌社に入った。それから三,四年たった。
ある日、日本工業倶楽部で、雑誌に掲載するために、財界人の座談会が開催され、末輩の私はお手伝いのため、会場の隅に控えていた。途中ボーイが入ってきて、峯島さんという人いますかという。何事かと思って廊下に出ると、大理石の廊下に一組の男女が立っていた。近づくと、三月十日の空襲に奇跡的に助かった男だった。
「よう」
とお互いに、しばし無言だった。
彼は私の社に訪ねていったが、居ないので、出先を調べさせ、ここに来たといった。直ぐ連れの女を紹介した。
「これゃなぁ、おみゃえ、俺の三号だ、子供もいる」
と彼は故郷の訛り言葉でいった。私は仰天して、まだ幼顔の残っている少女のような女を見つめた。しがない雑誌記者で、女友達さえ居ない私には、大法螺のように聞こえた。そのあと、喫茶室で彼のその後の事を聞いた。彼は、帰国後、小紡績会社を経営するうちの婿にいった。紡績会社は、十大紡績、新紡績、新新紡績とランク付けがあった。彼のうちはその新新紡だった。これは説明すると面倒だが、要するに統制経済の名残りであった。
そこに三白ブームが来た。戦後の経済復興は、いわゆる神武景気に向かって、いろいろのブームが入れ替わったが、その最初の方のブームだった。三白とは、綿糸、砂糖、セメントである。特に紡績の景気は凄かった。新新紡は身軽だから儲け易かった。ガチャマン、コラセンといわれた。がちゃっと機械を回すと一万円、こらと人に声をかけると千円儲かる、ということだ。
彼の婿入り先も儲かって、儲かってしようがない。たちまち二号ができ、三号が出来、四号もいる。5号が出来つつある。そんな話を三号の前でするのだった。
その翌日から、三日間、もう一人の友達もよんで、当時の熱海の豪華ホテルで、贅沢三昧に送った。分かれるとき、「君らクラスメートは金に困らせないようにするからな」といった。
だが、そんな馬鹿景気はたちまち去り、彼の会社は潰れた。同時に彼も病に伏し、三十になるやならずの若さで死んだ。槿花一朝の夢だった。
私は彼も戦争の犠牲者の一人だと感じている。一度は猛火に舐められ、死んだ身だ。こつこつ生きられる筈は無かったのだ。
六百機が襲った横浜大空襲
昭和二十年五月二十九日は登校日であった。通年動員で、軍需工場などに動員されている学生は、月に何日か登校日が決められ、その日だけ授業を受けに学校に行くのであった。神奈川六角橋の学校に行くために乗った東横線が、空襲警報のために、一時止まり、私は時間に遅れて学校に行った。校門のところまで行くと、級友たちが出てきた。
再び空襲警報が鳴ったので、その日の授業は取りやめとなり、追い出されるように返されたという。
私は、どうせ電車も動かないだろうから、友人の下宿にでも行って時間を潰すしかなかった。「俺んとこに来い」とAに言われ、彼について東横線東白楽に近い、彼の下宿に行った。Aは、入学試験のとき、試験番号を隣り合わせた男で、試験場で将来高文の司法試験を受ける夢を語り、哲学を語っていた男である。
窓辺に腰掛けて、だべりながら、ラジオを聴いた。「敵の編隊は京浜地区に侵入しつつあり」というアナウンサーの声を聞いた途端、どーんと、家の裏で大きな音がしたと同時に、下宿の軒が傾いた。これは五十キロ焼夷弾が落ちたと直ぐに思った。下宿のおばさんは既に、近所の防空壕に非雛していた。
爆弾が落たちらしい裏手に出ると、隣が燃え上がっている。二人で水槽の水をかけたが、そんなことで消えるはずは無い。ふと気がついて私は、表の通りに出てみると、人が一杯駆けてくる、その向うの彼方此方に、黒煙が黙々と上がっている。小型焼夷弾が、ばらばらと落ちてくる。
「おい逃げ遅れるぞ」
と、Aに怒鳴り、押入れの布団を二枚引き出し、一枚ずつ持ち、鉄兜をを手にして、出ようとした。Aは「ちょっと待ってくれ」といい、書架の書籍の中から、西田幾太郎の「哲学入門」ともう一冊の岩波全書を鞄に入れた。ほかの本にも未練たらしく眼をやっているAを引っ張って、駆け出した。鉄兜を被る暇も無い。最初学校のある山手に行こうとしが、駆け下ってくる群集に押され、平地の方に行かざるを得なかった。群衆に押されながら県立工業学校の傍まできた。その校庭に入ろうとしたが、もう人で一杯だった。
東神奈川の駅の方に向かわざるを得ない。途中原っぱで、逃げる人たちに水をかけてやっている奇特なおじさんがいた。私たちも布団に水をかけて貰った。周りにもうもうたる黒煙が迫っている中を、駆け回り、遂に東海道線の線路の上にでた。東西南北どっちを見ても、火の手が上がっている。
東神奈川から横浜駅に方にちょっと進むと、横浜駅辺りが猛烈な火炎を上げていた。反町の石垣下あたりに来た時、国鉄線線路と京浜急行線との堺が段になっており、そこに排水溝があった。二人はそのドブに、腰をすえた。
そこにおいおい人が非難してきた。焼夷弾の炎でやれたらしい、全身火傷のおばあさんもやってきた。
辺りは黒煙で真っ暗となり、辺りの空気は火にあふられて、疾風となってぐるぐると駆け巡る。ふっと耳元に音がした。それは焼け爛れたトタン板で,強風で急降下して、隣に非難してきた人の分厚い皮のトランクを、半分ほど引き裂いた。もうなん十センチよっていれば、わが身を引き裂いたかも知れぬ。ぞっとした。
私たちの前の石垣の上は、国道だ。石垣上の並木に、馬が一頭繋がれていた。馬方が馬を繋いだまま逃げたらしい。反町の街が焼けてきて、馬が焼け死んでゆくのを見ていなければならなかった。
総てが終わって、二人は反町から三ツ沢の方に歩いた。屍累々たるもので、眼を背けるところもなかった。反町の両側が丘で、谷を道路が通っている。両側から逃げた人が通りに出て死んだ。中には子供を下に抱きかかえて死んでいる母子もいた。また保存食である鰹節を投げ出して、まだひくひく蠢いている半死体もあった。二人は黙って、下宿の焼け跡に行った。総て焼けていたが,彼の書架と本がそのままの形で、真っ黒な炭になっていた。Aは二冊の本が入っている鞄を抱え「畜生っ」と喚いた。
この日横浜を襲った米軍機は、B29五百機、艦載機百機と後に発表された。Aには、卒業後四十年たって再会した。彼は遂に念願の司法試験を受けるチャンスも無く、故郷の中学の先生になった。
「俺は一度も役付きにならなかった、組合やっていたからな」
と一言Aはいった。組合運動と平和運動に明け暮れたのだろう。それも戦後の男の生き方の一つだった。
週刊誌最盛期の大スター
梶山季之さんの三十三年忌
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| 都市センターホテルの仕事部屋にて(梶山美那江編「積乱雲」より) |
五月二十六日、それこそ五月晴れの爽やか日、「黒の試走車」など沢山の作品で、世を沸かした梶山季之さんの三十三年忌に当たって、未亡人の美那江さんが、パーティーを開いて、私どものような生前世話になったものたちから、現在梶山作品にかかわる人たち、資料など遺品の保存に関係ある人など、大勢呼んで、ご馳走なさった。
三十三年は長い年月だ。梶山さんの親しいお友達だった同年代に活躍された作家も多くは、この世におられない。結城昌治、山口瞳、吉行淳之介、黒岩重吾、半村良、生島治郎笹沢佐保、岩川隆等の諸氏は、既にこの世を去られた。
当日出席された同年代の作家は、佐野洋さんお一人だった。佐野さんは、友人代表としてトップで挨拶をされた後、我々ロウトル編集者が、並んでいるテーブルにおいでになって、
「梶さんのほうが、僕より上のような気がしていたくらい、気を使って老成していた面があったね。実際は、僕より二つも若かった」
といわれた。
梶山さんは思えば若くして、亡くなられた。享年四十五歳であった。生きておられれば今年七十八歳、まだ書き続けておられたに違いない。(
梶山夫人は、本当に立派な方だ。梶山さんの没後、その長い間、膨大な遺作の管理、膨大な資料など遺品に保存に努められ、梶山さんの業績の記録を、何冊もの立派な本にされて、残されてきた。私たちはそのたびにその本を頂戴してきた。
今回も、『梶山季之と月刊「噂」』という本を頂戴してきた。この本は、昭和四十六年八月から四十九年三月まで、梶山さんがポケットマネーを出して発行した雑誌「噂」のダイジェスト版だ。「噂」は、活字にならなかった面白いはなしを記録しておこうという雑誌で、光文社出身の高橋呉郎さんが編集長になり、梶山担当の編集者たちが手を貸し、出された雑誌であった。
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| 、愛犬チビと(梶山美那江編「積乱雲」より) |
いただいてきた本を見ると、懐かしいばかりではなく、今読んでも面白い企画が多い。しかし思ったほど売れなくて、梶山さんが、釈迦力になって原稿を書きまくって、お金をつぎ込んでも、遂に持ちこたえられなかったのだった。
その思い出の雑誌の、ダイジェストを作られた夫人のご主人をしのぶ心持の強さが伝わってくるような本である。
今から十年前、梶山さんの二十三年忌には、「積乱雲」と題された本を未亡人は作られた。私はこの本も大事にしている。「積乱雲」とは、梶山さんがライフワークとされたが、書き出しだけに終わった大河小説の題名であった。それをそのままとって記念の本の題名にされたのである。この本は、前半は梶山さんの全仕事の完璧な年譜である。これを夫人が編集されたのだから、驚く。
後半は、小説積乱雲の未定稿を初め、シノプシス、それに関する資料などが掲載されている。この小説の構想は、梶山さんの故郷広島から、梶山さんが育った韓国、それからハワイ、アメリカ大陸と広範な地域を舞台にする壮大なものだったが、その諸地域に関する資料も、この本に入っている。千ページを超える大冊である。これを未亡人が十年前に作られたのだ。凄いことだと思う。
今も言ったように、小説積乱雲は、書き出しの十頁だけで終わった。梶山さんが突然早世したためである。したがって夫人の思いも深いと思われる。
ところで梶山さんの葬式がおわって、しばらくして、梶山家から、ひと包みのサツマイモが届いた。私はなぜ送られたのか、分らなかったがとりあえず、お礼の電話を奥様にした。その時おっしゃるには、
「梶山のメモを整理していたら、あなたにサツマイモを贈る約束をしたというメモが出てきたのです。きっとまだ贈らないうちに死んだのだと思って、うちの別荘で出来たお芋をお送りしたのです」
といわれたのであった。梶山さんが急死される前に、バーか何かで、別荘の畑で芋を作っている話しが出たことがあったように思われる。
それを忘れず律儀にメモをしておいた梶山さんも梶山さんなら、それを送ってくださった奥様も奥様だと思った。全く端倪すべからざるご夫婦である。
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23回忌で夫人が出された本「積乱雲」
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梶山さんは、我々マスコミの注文に応じて、エロと暴力に満ちた娯楽小説を書きまくった、超人気作家だった。
現代のマスコミで最も勢力のあるメディアは言うまでもなく、テレビや電子メディアだが、梶山さんが、活躍された昭和四十年代で、最も幅を利かせたメディアは週刊誌であったし、小説雑誌も相当の力があった。その週刊誌時代の超売れっ子スターが、梶山さんであった。
梶山さんが、連載小説を書くと、売れ行きが十万部増えるといわれたものであった。だから週刊誌は梶山さんの原稿を貰うのに、競争であった。
梶山さんの秘書をしていた、橋本健牛さんは、昭和四十六年には、週刊誌の連載六本も書いており、中間小説雑誌に、四十一本の小説を書いたと、述べている。そのほか新聞の連載エッセー、月刊誌の連載も何本かあったという。正に超人的な執筆量であった。
そしてその小説が単行本化すると、十万、十五万とたちまち売れる。出版社にとっては、金の卵を産みつづける鶏であった。
それだけの人気作家でありながら、誰に対しても、優しかった。周囲の人に細かく、気を使った。私は梶山さんと知り始めた頃、会いに行くのに、スコッチウイスキーの十七年物とかを一本もって行った。用件を済ました帰りに、有り難う、このウイスキーは、最高にうまいんだよな、といってくれた。
私は、梶山さんがサントリーのいわゆるダルマしか飲まないのを知らなかった。これは私の編集者として不勉強以外の何物でもなかった。普通の人気作家だったら、このウイスキーは、僕は飲まないんだよ、というのが親切な方であろう。
それを、梶山さんはとがめるどころか、喜んでニコニコしてくれたのだった。後に、付き合いがやや深くなってから、梶山さんの飲み方を知って、大いに内心、恥じたものだった。
梶山さんは、金離れの凄くいい人で、一緒に飲む人は誰かれなくおごった。梶山さんの周辺で、おそらく、先輩であれ、同輩であれ、後輩であれ編集者であれ、おごられた経験のないひとは皆無なのではなかろうか。
そして人に接するのに、差別しなかった。巨大な一流出版社の社員であれ、二,三人にでやっている極小の出版社の編集者であれ、同じ態度で接した。
それに付けても思い出すのは、梶山さんが取材旅行先の香港で客死され、その葬儀の時だ。お通夜のお手伝いに参じたわれわれに、葬儀委員長の柴田錬三郎先生がとくに言われた言葉は次のようなことだった。
「梶山はどんな大出版社の編集者も、小出版社の編集者も同等に扱った男だ。通夜や葬儀には各方面から花が一杯届くだろう。梶山ああいう人間だったから、贈られた花も平等に扱うのが、梶山にふさわしい。花が届いたら、贈り主の名前を記した木札を全部取れ』
それは断固たる厳命だった。柴田さんの言うことに、私たちも賛成なのであった。お通夜となっても、それについてはほとんどの人が了解した。ただ一人、その理由を聞いた人がいた。それは、紀伊国屋書店社長の田辺茂一さんであった。
誰かが説明をしたが、田辺さんは納得せず帰ってしまった。翌日の葬儀にも来なかった。田辺さんらしい、言い分もあったようだ。
話しを変える。スケベ人間を自称し、遊ぶことの大好きな梶山さんは、酒も猛烈に強かった。梶山さんは普通、夕方まで原稿を書いて、そのあとは、夜の会合に出てから、銀座に行くか、最初から銀座に行くか、であったろう。いずれにしても、それからはしごを続け」、深夜、朝方に及ぶ。
そのころ、話題になった文壇酒徒番付というものがあった。雑誌「酒」の編集長だった佐々木久子さんが考え出したもので、毎年、文壇記者を集めて作っていたものである。私も何年か、番付製作の会議に招集されたものだった。当然梶山さんは、大関とか横綱の位にいた。
調べて書くということをモットーとしていた梶山さんが、あれで何時取材をしたり、資料を読んだりするのだろう、と不思議だった。
酒ばかりではなく、ドボンと称するカード遊びもお盛んであった。柴田錬三郎先生とか、黒岩重吾さんが好敵手であった。関西に講演旅行に行ったとき、この三人が往きの列車の中からドボンを始め、講演するとき以外はドボン漬け、帰りも同じで、東京についても終わらず、旅館に泊まって続けたという伝説がある。
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| 今回、33年忌で出された『梶山季之と月刊「噂」』 |
出発する前に、梶山さんは出版社に行き、新刊の小説の印税をうけと取っていた。その金をドボンで使い果たして、東京に着くと別の出版社に、使いを出して、印税を受け取り、ドボンを続けたという。こんなことが笑い話となるほど、当時は、活字文化の景気がよかったのだ。
梶山さんは仕事が多いし、遊ぶことも多いので、神出鬼没な面もあり、我々は悩まされたこともある。私が週刊誌に連載中、ある時校了の前夜まで、梶山さんの居所が分らない。できるかぎり手をつくしたが、どこにもいない。その翌朝、某運送会社から電話があり、梶山さんの原稿が届いたから、これから届けるという。
それでともかく胸をなでおろしたのだが、どこから届いたのか、と問い詰めると、いま梶山さんは、洋上大学の講師として、太平洋上の船中にいるという。
その運送会社に、乗船の上空までヘリコプターを飛ばしてくれるように頼み、上空から原稿の包みを吊り上げてもらったのだという。
ふけの梶山といって、居所不明になるのも、一度や二度ではなかった。アメリカに取材に言っているはずの梶山さんが、銀座裏の屋台で、ラーメンをすすっているのに遭遇したことがある。
梶山さんの話しをしているときりがないので、そろそろ切り上げるが、 当「午後の喫茶店」の店主、村山先生は、三月二十五日づけの「亭主のボケモン日記」において、「九十年近く生きていると、知識としての歴史と体感する歴史の違いの大きさに気づかされる」と仰せられている。私は御亭主よりはるか若輩であるが、申されたことに全く同感であります。
梶山さんの死後、「積乱雲」の資料として集められた文献類をハワイ大学に、未亡人は寄付された。この文献の中に朝鮮関係、朝鮮史の文献が多い。今やハワイ大学の自慢の存在となっている。
いまから二十年前、この文献をハワイ大学で始めてみた学者が、その文献の質の高さに驚き、これだけの収集した梶山季之という男はどんな男か、と思って梶山さんのことを調べ始めたという。
いまから二十年前、梶山さんのことをまったく知らなかったというのは、学者としては、怠惰というか、社会的文化現象に無知だったといっても差し支えあるまい。梶山さんが稼いだ大金を注ぎ込んで、ライフワークのために集めた文献類なのだ。予算に縛られて、コチコチと日本の大学の研究室が集めるのとわけが違う。
それからその学者が文献に頼って梶山さんの仕事を調べ始めたという。その先生が、先日のパーティーでおしゃべりをした。そして自分の力で、今度岩波文芸文庫から、「李朝残影」「族譜」「黒の試走車」の三冊が出ることになったということを力説した。それにあたった編集者も、梶山さんの名前さえ知らなかった若者に違いない。その文庫の解説にも、この学者によって、梶山さんの新しい人間像が描かれるのであろう。
かくして、文献だけに頼った、作家梶山季之と梶山文学の新しい歴史が始まることになるのであろう。
梶山さんの表裏を体感してきた、私の周囲の老編集者たちは、憮然たる面持ちで、黙って学者の話を聞いていた。
藤原審爾さんの大甕
突然の電話
我が家の狭い庭に、一本ある梅が咲きだした。樹はごつごつした中古木(こんな言葉があるかな)であるが、花はかわいい白梅、初夏になると可憐な実が鈴なりになる。夫婦二人の暮らしでは、毎年この梅の実の処遇に苦労する。
梅干も梅酒も何年分も溜まっている。新たに作ることはない。といって、自分で梅干をつけるような知人はいないし、梅酒を作っている友人は、自分の庭に立派な梅の木がある。それで我が家の梅が無駄にならないように苦労するわけであります。
その梅の木の横に、大きな甕(かめ)がある。最近計ったら、直径八十センチ、丈一メートルを超える大物である。何時ごろのものか、何に使われたのかも判らない。おそらく中国地方辺りの農家で水瓶に使用されたか、籾などの貯蔵に使われたのか、要するに出生も用途も判らない大甕だ。
小型だったら、テレビのお宝拝見にでももって出て、中島先生に鑑定してもらうのだが、こんな大きくては、どうもならない。
この大甕は、作家の藤原審爾先生のプレゼントだった。
ある日藤原さんから電話がかかった。
「あのな、君のうちには庭があるかい」
「狭いけど、あることはあります」
「二メートル四方ぐらい空いている場所があるかい」
「そのくらいはあります」
「それならな、やりたいものあるから、トラックを調達して取りにおいで」
藤原さんには、突然驚かされたことが何回もあったが、このときもそうだった。こういうとき返事を躊躇すると、ご機嫌が悪い。今の若い人は「秋津温泉」の作者だといっても、ご存知のない人もいるかもしれないが、当時の文芸界では、大物であった。
然しトラックをもって、この横浜の奥の青葉区から、東京の荻窪のお宅まで伺うのは、おおごとである。
「はい、早速伺います」
「あのな、上げるものは、大きな甕だよ、庭に置けばちょいとした風情だぜ」
私は、元この土地の大百姓で今は庭師をしている小父さんにたのんで、そのトラックに二,三人のって、荻窪に行った。庭師の小父さんは工夫をして積みこみ、我が家まで運んでくれた。丸い大甕を道中動かないように積むのは、ちょっとした大仕事だった。
然し、その時はこの甕が何処の産で何時ごろのものか、藤原先生に聞き逃してしまった。この次にあったときに聞けばいいや、と思い、次に行った時に聴き忘れるといったことの連続で、そのうちに病気で、藤原さんは斃れ、そのまま亡くなってしまった。遂に聞きそびれた。遂に出所不明のままとなった。
私は藤原さんが備前焼の窯元に近いところに、生まれた人だし、備前焼の名工たちとも親交のあった人だから、備前焼だろうと思っている。年代は、そんなに古くはないだろう。古いもので骨董的価値のあるものであったら、いかに気前のいい藤原さんでも
「おい、やるよ、もっていけ」
というわけには行かないだろう。
然し、私にとっては藤原さんの思い出の品だ。お宝である。雨が吹こうが風が吹こうが、びくともせず、梅の樹と、柚子の樹の間に厳然と居座っている。とかく日ごろ、ふらふらしがちな私は、この甕を見ては自戒している。
丹波笹山 仰天ドライブ
藤原さんは、ともかくやることが意表をつく。そしてでかい。
あるときこう言われた。
「僕は、今、頼まれて、茶室を作っている。設計から施工まで、全部やっている、その進行振りを見に行くんだ。一緒に行こう」
私は、先生のお宅に近い荻窪の奥辺りで、建築しているのだろう、といった軽い気持ちで、
「そうですか、ぜひ拝見したいですね」
お茶も茶室も知らない私が、思わず迎合的に言ってしまった。
「それ、何処で作っているのですか」
「丹波焼きの窯元のうちだ。丹波の篠山というだろう。あの篠山の郊外だよ」
私は仰天した。先生と丹波の篠山まで旅行するとなると、これまた大事である。先生は隣にでも行くような軽いのりである。
「篠山はいいところだ。城下町がそのまま残っているような町だよ。武家屋敷が昔のままだし、丹波焼の美術館がまたいい、家老の家かなんかでやっている旅館に泊まればいい」
「じゃ早速列車の予約などやってきます」
というと、
「いいんだよ、きみは何にもしなくてもいい、車で行くのだから、体だけ持ってくればいい。いっさいの費用は俺が出すから心配は要らない。そうだ、泉も連れて行こう」
泉とは、先生の担当をやってもらっている泉秀樹君だ。彼は、編集者でありながら、既に新潮新人賞を受けた新進作家でもあった。
「それで運転手を連れて行くんですか」
「運転は家内がする。車はキャデラックだから、楽なものだ」
これでまた私は仰天させられた。キャデラックはご承知の通り、アメ車中のアメ車、GM
の高級大型車で、ガソリン垂れ流しと悪口を言われ、またある種の人々が成功者となると乗る車といわれていた。その代わり馬力は凄い。丹波だろうが備前だろうが一挙に突っ走る。それを令夫人が運転する。藤原さんはやっぱり豪儀な人だ。
ある朝早く、私と泉君は、東名高速横浜インターチェンジ近くの、バス乗り場で、先生の車を待った。私たちの前に、空色とベージュとで塗装された豪勢な車が止まった。
さすがに社内は、ゆったり、先生が助手席に座っているので後ろの座席は、泉君と二人で占領する。二人が寝そべっても平気な広さであった。
然し寝そべってはいられなかった。それはスピードが箆棒なのだった。キャデラックは追い越し車線を轟然と疾駆する。前を走る車は、その勢いに恐れ、皆慌てて退避してくれる。然し、いかに退避してくれるからといって、法定のスピードをそうは超えられないはずだ。
私も安スカイラインを運転している身だから、今この車がどの程度のスピードであるかはおよそ見当がつく。時速二百キロ近い感じだ。私は思わずいった。
「先生、パトカーにつかまりませんか」
「なに大丈夫だよ、滅多につかまりはなしないよ、つかまったって、いろいろ手を回す方法があるさ。心配するな」
さすが大作家ではある。私と泉君は黙って窓外を見ていた。先生は夫人に、もっと速度を上げろとか、あれを追い抜けとか指示をしている。肝が太いなあ。でかいキャデラックに、十分太刀打ちが出来る大柄の夫人も、夫唱婦随で突っ走る。
あれで藤原さんは、胸には肺病の病痕があるし、その他の内臓も健康な臓器は一つもないほど、侵されているという。そんなことはへでもないような顔をしていらっしゃる。
途中、どこかのサービスエリアで昼食を取り、昼過ぎ無事、京都のインターチェンジで、名神高速を降り、神戸牛の産地として知られる三田を通り、丹波に入った。
街道からそんなに外れない緑濃い山野に囲まれて、その窯元はあった。敷地に入ると、山の上まで伸び上がっている大きな登り窯が目にはいった。窯は火が入っていなかった。ちょうど焼きあがったところで、明日窯を開き、作品を取り出すことになっていると、迎えに出た当主の窯業家がいった。
その登り窯の対面の丘の上に、お茶室が建築中であったが、まだ檜の白木が組まれたところである。先生と見て回った。
「どうだい」
と藤原さんは言ったけど、私には、完成後の姿が想像できないから、なんとも言いようがない。藤原さんその出来具合に満足のようだった。
明日窯が空いた頃にまた訪れることにして、篠山に向かった。途中、丹波焼き陶器の展示即売する店舗が並んでいるところがあり、そこで降り、藤原さんは、売られている雑器などを見て回った。
篠山市内に入ると、丹波焼きの美術館に案内してくださった。そこには、古陶器が並んでいた。私はそれまで、陶器には、何の興味をもたなかった。磁器と陶器の区別がわかるぐらいものだ。私が見たって猫に小判だ。藤原先生は別に説明してくれるわけではない。
茶色の地に薄緑の釉薬が肩の辺りに流れ下っている壷などを、わけもなく眺めていた。然し藤原さんとその何回も窯場を訪ねるうち、いくらか判るようにはなった。
やがて「いこうっ」という先生の声で、そこを出て、古い純日本式の旅館に行った。先生は途中で私に感想などを聞くような人ではない。
翌日、先生とともに窯元に行くと、陶芸家が四,五点の水差しや花活けなど、窯から出したばかりだという陶器を、その家の廊下に並べた。
「これらは多少いいと思うのですが」
というようなことを言った。先生は、もぐもぐとくぐもった声で短い感想を述べられた。その内容は私には聞こえなかった。藤原さんは、一つ一つ手に取ってみていたが、買うともいわず、立ち上がった。
帰りの車中、私の質問に答えて
「あの窯場で譲ってもらえば、あの水差しは十五万円ぐらいかな、あれが東京の三越辺りに来ると五十万てところだろう」
といわれた。私には、初めてのことばかりだ。
帰りの車中、こんなエピソートを漏らされた。今回のように藤原さんは、編集者を連れて窯場に行くことが多いそうだが、陶芸家によっては、窯から出したばかりのぐい飲みなどを、先生と一緒にいるものに、ハイヨと呉れることがある。貰ったものはうれしがるが、その値打ちを知らないから平気な顔をしている。先生はそのぐいのみが市場に出れば、何十万にもなること知っているから、そのお礼をするのに、ひそかに苦労するのだという。
キャデラックは、東名をその実力を発揮して、ぐんぐん登っていった。
それから、二、三回、丹波にお供した。しかし出来上がった茶室を拝見する機会には恵まれなかった。
編集者を何十人も引き連れて
藤原さんは、文壇で何本かの指に入るほどの遅筆で、原稿を貰う時には、苦労するが、編集者を大事にする点でも、何本の指にはいった。しかもそのための金の使いようも、半端ではなかった。湯水の如しだった。どうしてあんなにお金を使えたのか、私には、今でも謎である。
時には、編集者を何十人とつれて、自動車旅行団を結成し、ドライブをするのだ。自分は夫婦でキャデラックにのって先頭を突っ走るのだ。出入りの編集者のうち車を持っているものは、車で参加する。車を持たないものは、参加する車に分乗する。私が参加した時は、十数台の旅行団になった。私も1800CCの馬力のないスカイラインを駆って、参加した。
私の車に同乗したのは、双葉社の柳沢氏だった。同乗するものは先生の配量で決められているのだ。出発の日は横浜サービスエリアに何時集合と決められた。柳沢君は、藤原家に長く通ったベテランだから、その日の指揮官でもある。私はどこかの駅で彼を拾い、集合場所に行った。
エリアの喫茶室の一部を占領して、皆集った。その瞬間から、いっさいの費用は藤原先生もちになる。次の集合場所が決められ、そのサービスエリアにどこに、何時までに集合と決められる。それぞれにガソリン代として若干の金が渡される。各自が給油を適宜行うためである。それで出発だ。次々高速に出る。
藤原さんの車は、あっという間に視線の彼方に消えた。我々の鈍足車は、百キロほどのスピードで、ゆるゆると行く。もっと遅い奴もいるし、早い奴もいる。
次の集合場所は多分、浜松辺りだったと思う。全員集合すると、そこで食事、勘定は令夫人がいっさい仕切る。また出発、次の集合場所に向かう。同乗の柳沢君は到着毎に次の予定を徹底するために大奮闘である。最終は京都辺りで高速を降り、京都かどこかのホテルに泊まったと思うが、具体的には忘れたしまった。高速を降りてからは、一列縦隊ですすむ。信号があったりするから、縦隊が切れないように、かなり苦労した。
藤原学校のサムライたち
翌日は、信楽、伊賀など関西の窯場地帯をめぐり、紀州の海岸に出た。行った先は藤原さんのお弟子の一人、内橋克人さんの実家ではなかったか。そこは古い網元とかで、豪壮な木造の家であった。その板敷きの広間で、食事をしながら。先生を囲んで、皆で討論しあったのを思い出す。その時、大村彦次郎さんを知った。
その翌朝早起きをして、地引網をひいた。太刀魚がたくさん獲れた。また多くのエイも網に入った。エイは漁師さんが皆海に返した。太刀魚その他を皆で分けて、帰路についた。行きと同じ方法で帰った。家についた私は、朝獲った太刀魚を刺身にして食べたのを思い出す。
今、内橋さんの名が出たが、藤原さんは、各方面の若い才能のある人を集めて、ゼミナールのような会合を続けていた。藤原学校という。そこから色川武大、山田洋次、高橋治、江国滋、内橋克人等の諸氏が輩出した。
藤原さんが亡くなって二十二,三年たつ。今藤原さんを語る人は少ない。はからずも梅の花咲く傍らに、鎮座する遺品の大甕を改めてみながら、藤原さんについて知っていることを少しでも書き残す責務みたいなもの感じて、このいたらぬ一文を書きました。
吉行淳之介さんの酒場遊び
モテモテのコツはどこにあったか
この午後の喫茶店の御亭主から電話を頂き、お体の状況から、来年から休業するかもしれないと、申されました。折角、お仲間に入れていただいてから、間もないのに、残念で仕方がありません。
私も、体の調子が悪い時は、表面、なんでもないのに、何一つやる気がおきず、予定していたことがまったく進まない悔しい思いをすることが多くなりました。先月もそんな状況で、ここの原稿も、ご覧のとおりの短いものを書いて、やっとお茶を濁したしだいです。
ご亭主の元気回復を、ひたすら願うばかりでございます。
今月の「オール読物」は、吉行淳之介さんの十三回忌だとのことで、思い出の特集をしている。まずグラビアで、私も懐かしい写真が並び、往時の吉行さんをめぐる賑わいを思い出しました。
吉行さんの作ったアフォリズムとして、今日でも人の口に上る言葉に、「ももひざ三年・しり八年」というのがあります。これは言わずとも判るように、「桃栗三年、柿八年」のパロデーであり、その意味は、銀座の酒場などで、侍る女性たちの体にタッチして、嫌がられることがなくなるまで、そのくらいの年月が必要だ、くらいの軽い洒落である。
今思うと、この言葉が生まれる現場に、私もいたような気がしている。この言葉に落ち着くまで、吉行さんはいろいろ考えていた。初めは、「ももしり3年、ちち八年」とか、「ももせな三年、しり八年」とかいろいろの試作を、バーで一緒に飲んでいる我々に
「どうだね」
と意見を求められた。そうしてほかの酒場の席でも「ああだ、こうだ」と話しをするうちに、自然と「ももひざ三年、しり八年」と決まっていったような気がしている。お遊びの間に生まれた言葉のお遊びなのであった。それがたちまち銀座に広まった。
そこで話しを「オール読物」に戻すと、その言葉を実践して、女性の体に触れてゆく吉行さんの、手の動きをコマドリにした写真も、そのグラビアに載っていた。そんなヤラセにも気軽に応じる、洒落者だった。
同誌には、福田和也氏の文章や、長部日出雄さん、加賀まりこさん、鉄ヒロシさんの三人の座談会などがあって、それぞれ懐かしく面白く読んだ。しかし、それぞれの人のもつ吉行さんという偶像を語っているような気がしないものでもなかった。
その雑誌の奥付のところに、編集長からという、小さなコラムがある。今の編集長が新人の頃の思い出を書いている。吉行さんに対談に出席を依頼したところ、体調が悪くて出られないと断られたのであるが、その断り方が見事であったと書いている。
「その捌きの見事なこと。とても充足した気分になったことを思い出します。吉行伝説の一端に、私も触れる栄誉を浴したのでした。」とある。
吉行さんが接する人に、運転手からホステス、編集者まで、細心な気を使うということが、いろいろ伝説のようになって伝えられていることを言っているのだと思われる。そんなことまで「伝説化」されてしまったのかと、時の移り変わりを思い、「そうか、吉行さんはもう伝説の人なんだ」といった一種の感慨を覚えさせられた。
私の手元に、吉行さんの新書版が、一冊ある。題して「痴語のすすめ」。この本は、今では、吉行フアンの間でも、稀覯本であろう。題名の痴語について吉行さんは、
「痴語とは、新造語で、平たくいえば猥談ということになるが、あからさまにその文字を使うと、品位をおとすことになりかねない。苦肉の策である」
「さてこれから書こうとすることは、酒場においての痴語についてである。酒を飲んでいるときは、これにかぎる、酒を飲むのは、休養の時間、ストレス解消の時間なので、そのときまで文学論その他のむつかしい話はしたくない。知人の噂などは、厭な後味がのこることがある。やはり、猥談にかぎるのである。」
この短文で、本の内容から、吉行さんの酒飲み哲学まで判ってしまう。まさに文章の名人芸である。
この本は、前半が「痴語のすすめ」後半が「酒場千一夜」という二部に分かれて構成されているが、そう違いがあるわけではない。どちらも酒場の猥談である。
この文章は、昭和三十年代の後半、私が編集を担当していた「漫画サンデー」(いまの漫画サンデーとは、全くタイプの違う雑誌だった)に連載したものである。その頃週刊誌で流行していた見開き二ページのお色気エッセーを吉行さんに書いてもらおうと考えたのが、そもそもの始まりであった。後から考えると、この狙いは的を外れていなかったのである。
吉行さんは、いわゆる第三の新人の中枢を占める純文学の人気作家で、エンターテイメントでは、漸く週刊誌に連載を書き始めたころである。
ただ気がかりは、その流行作家が、漫画週刊誌に執筆してくれるか、どうかであった。今日は日本の漫画は、世界中に知られ、日本は漫画大国になったが、その頃はまだ、ポンチ画と蔑まれた時代の尾を引いて、漫画というと低いもの、漫画雑誌は程度の低い存在という意識が、一部に残っている時代であった。私たちはそういう古い漫画概念をぶち壊そうと頑張っていた時代のことである。
吉行さんは、それこそ伝説どおり、人を職業や、地位で区別しない人である。快く、会ってくださり、注文も承知してくれた。
それは一つには、吉行さんは漫画家に知己が多く、漫画好きで、漫画通でもあったからであろう。色っぽいエッセーを書くのには、漫画雑誌のほうが、気楽だと思われたのかもしれない。私は、連載に当たって、挿絵とカットを乾いた線画を描く富永一郎さんを推した。吉行さんは、直ぐ承知された。猥談なんかには情緒的な画より、乾いた画の方が、いいと判断されたのだろう。それに富永さんの漫画を初めて買ってくれた編集者は、「モダン日本」にいた、吉行さんだったという因縁もあった。
ちょっとここで話がそれるが、吉行さんと漫画家との関係を覘いて置こう。吉行さんが漫画通になったのは、終戦直後から、「モダン日本」の編集者だったためだ。「モダン日本」はなかなか知的な娯楽雑誌で、漫画も多く載せていた。自然漫画家と知り合うようになった。とくに小島功さんが作ったグループ「独立漫画派」の若い連中とは一緒に仕事もしたが、よく遊んだ。吉行さんも二十代前半、小島さんたちは二十歳そこそこの若さであった。小島さんたちは、グループで「モダン日本」に合作漫画を描いていた。
小島さんの独漫(独立漫画派)の事務所は、銀座二丁目、実業之日本社の横にあった。モダン日本社は、新富町にあった。通勤に有楽町駅を使っていた吉行さんには、通りがかりの場所である。吉行さんが、会社の帰りに独漫に寄る。なんとなく飲みに行こうか、となる。
「何しろ編集者としては、話しがわかる頭のいい人で、人当たりはソフトだし、それに酒が強くて、適当にスケベだし、全く俺たちにはうってつけの人だった。飲んでいると直ぐ女の話しになる、じゃ行こうか、と女郎屋に出かけていったりね」
小島功さんの思い出話である。ある時、吉行さん、小島さん、もう一人関根義人さんと三人で、鳩の町(赤線地帯)にいったが、いざとなったとき、三人とも人の懐をあてにしていたことが分かった。三人の金を合わせても一人分に足りない。.ダンデーな吉行さんでもこういう時代があったのだ。何しろ、六十年前の話しだ。
吉行さんは二人に、「ちょっと待て、つけで上がれるか、交渉してくる」と、店に入っていった。やがて、出てきて、ニコニコしながら、OKだよといった。吉行さんはどんな交渉をしたか聞き漏らしたが、その赤線の親父はなかなかきっぷがいい男で、翌朝彼の部屋に三人を通し、朝飯をご馳走してくれた。吉行さんが、そこで借用書を書き、小島さんが、画を描いてサインの代わりにした。
そのことがあってから、つけで鳩の町に行くようになった。小島さんたちの勘定は、原稿料から差し引いて、吉行さんが払いにいったという。小島さんたちが原稿が遅れると
「早く書けよ、あそこに払うんだから、さ」
と催促されたという。
吉行さんはアイデアマンだから、いろいろ面白い企画を考え出し、若い漫画家に仕事をさせた。誰かが旅行に行きたいな、と飲みながら言い出すと、取材旅行をする、合作漫画をやればいいよ、と吉行さんが言い出し、カラー三十六ページを埋める大企画を立ち上げる。そして七、八人で山中湖などに出かける。帰ってくると漫画家は絵を書き、吉行さんも大特集の文章を書くのに、奮闘する。
吉行さんは新人漫画家発掘の名人で、吉行さんに見出された漫画家は、先の富永さんを初め、鈴木義司、芳の次郎、赤川童太など多数いる。
以上、まことに古い半世紀以上前のお話しで、甚だ恐縮であるが、このように若い編集者時代から、漫画に理解、共感を持っていたことの一端を述べたまで。さて話しを元に戻すと「痴語のすすめ」につづいて「酒場千一夜」を連載していただき、二つを合わせて単行本にしたわけである。
この連載中に、「アサヒ芸能」で、吉行さんの連載対談が始まった。この担当者が、当店のご隠居、布留川貞夫さんである。この対談も評判になった。私にも、その対談に関する話を吉行さんから、よく聞かされたが、担当者の布留川さんに、熱い信頼を置いていることが、その口ぶりで知らされたものである。
それはともあれ、連載が始まってから、銀座の酒場にお供することが多かった。吉行さんの話となると、バーとかクラブとか飲み屋といわないで、自然酒場という言葉をもっぱら使うから妙だ。吉行さんはお喋りでも文章でも、もっぱら酒場という言葉を使った。それで私も吉行さんのことを語るときは、酒場という言葉になるのだろう。
話術のうまさ、周囲の人に対する、繊細な気配り、もって生まれたいい男ぶり。もてないはずはない。こんな話もある。
ある酒場で飲んでいた、吉行さんが帰ろうと立ち上がると、入り口近くで飲んでいた東郷青児氏と顔が合った。東郷氏は
「きみはいい男だねえ」
といった。吉行さんは行きすぎながら、
「あなたには敵いませんよ」
と、フランス語で一言いって立ち去った。老若二人の粋な男の一瞬の対決であった。
酒場でだべっていると、吉行さんらしい、アフォリズムや警句が生まれることがある。酒場の女の口説き方の話し成った時、
「端境期をねらえ」
といった。旦那もちだった女が旦那と別れて、次の旦那を探している間のときなど、ふと浮気心がわくから、誘いに乗りやすい、というのである。
酒場では、女たちがお客の誘惑を撃退す方法などが、話題になりやすい。そこにいる美女たちにはかなり切実な問題だからである。吉行さんはあるときこういった。
「君らの断るテとして、一石二鳥三子供、とよく言われるだろう。あれはやぼな断り方だぞ、もっと雅やかなテが工夫すべきだよ」
一石の石は実は赤で、お客に誘われたら、いまあれなの、という。それでダメなら、鳥りに餌をやらなくてはならないといい、それでもダメなら、子供が待っているといって断るやり方をいっている。要するに客だって紳士なのだから、優雅でない断りをしてもらいたくはない、と吉行さんは言っているわけだ。
もう一つ、警句。赤い玉がぽんと出る、というのである。
人によって違いがあるが、男子はそれぞれ、一生の間に発射できる量が決まっている。それを使い切ると、白い煙がぽわぽわーんと噴出し、最後に赤い玉がぽんと出る。それでおしまい、というわけだ。
「あいつはもう赤い玉が出たようだな」
というように酒場の話題に使うのだという。
こんなことを言っていたらきりがない。話しに決まりをつけなければならない。
吉行さんが酒場で持てた細大の要素は、野暮なようだが、金払いが綺麗、すっきりしていたことだ。チップを出すべき時は、タイミングと渡し方を考え、普通より多めにだす。
それから酒場の勘定は、きちんと速やかに払う。借りを残さないことだ。
「あそこの勘定が残ってるんだ、払いに行くんだが、一緒にいかないか」という誘われ方をしたときも何遍かあるし、「あそこに勘定を払いによるつもりだったが、行く時間がないので困った」という独り言を言っているのを聴いたこともある。
「酒場に借金があると気になってね」
といつも言っていた。酒場にとっては最高の客だった。不思議なもので、経営者であるマダムが大事にする人は、そこの女性に必ず持てるものなのだ。
先に紹介した杉浦幸雄さんも、酒場の払いに気を使った。
結局、払いに綺麗な人はもてるのである。酒場だって経営だ。すべては金から始まる。
あの川上宗薫さんは酒場では、相当に行儀が悪かったが、それでも、酒場では歓迎された。それなりに有名人だからであろうが、肝心なことは、あの人はいつも現金払いであったということだ。誰かといっしょに行っても、割り勘で現金払いであった。
「つけで払うと高くされるかもわからない。現金のほうが絶対安いはずだ」
といっていた。安いかどうかは、銀座の場合、判らないが、店の方には喜ばしいことだったに違いない。
然し酒場の払いというのは、大変なことではある。吉行さんだって、川上さんだって、いつも支払いが楽であったとは限らないだろう。支払いの苦労を乗り越えた先に、酒場遊びの面白さが見えてくるのだろう。支払いの苦労をしない人には、酒場の面白みは、本当は分からないように思える。
11月1日更新
ゾルゲ事件・尾崎秀実の恋
漱石の作品から考える
秋山豊という人の「漱石という生き方」という本を読む機会があった。この本が出版されたのはこの春であるから、漱石研究の新しい本と言うことが出来よう。著者は、岩波書店で、漱石全集の編集に携わっただけあり、漱石の作品はすべて熟知している人である。漱石が何をどのように考えたか、漱石に寄り添うて、よく彼の言葉を聞き取りたいということを目標に書いた、と著者は言っている。
漱石好きの私には、知らないことがたくさん書いてあり、いろいろと面白かったが、どうも、いまいち、という感じも否めなかった。
日本の近代文学の中で、夏目漱石ほど多くの人に読まれ、研究書や評論が書かれた作家はいない。二十一世紀になった今日まで、なおそれが続いている。その点ではどんな作家も漱石には敵わない。これは何故なのだろうか。
一つには、人生をまじめに考えようとする人の琴線に触れるものがあるからであろうか。
私は、いま「それから」「門」「心」に描かれた、恋愛問題について考えさせられている。「三四郎」「それから」「門」は三部作として作品内容は論じつくされているし、「心」はとくに愛読者の多い作品で、論議の対象になりやすい小説だから、さまざまな面から論じられている。
それを今さらのように考えさせられているのは、ゾルゲ事件の首謀者とされ、刑死した尾崎秀実の青年時代の歩みを調べているうちに、はからずもこれらの小説を思い浮かべざるを得なかったからである。このようなときに、頭に浮かぶのが漱石の小説の特質なのだろう。
実は、私は秀実の異腹の弟、評論家だった尾崎秀樹(元日本ペンクラブ会長)の伝記を書いているところである。ところが尾崎秀樹は戦後台湾から引き揚げてから、半生を懸けて、兄の尾崎秀実の戦争中の行動、つまりゾルゲ事件の真相と首謀者の一人とされた秀実の行動の意義を探ってきたといっても過言ではない。そのために秀樹の生涯を書く前に、秀実のことを調べなければならなかった。
それで尾崎秀実の伝記的な書物や研究を読み漁った。そこで私は一つの疑問をもった。それは秀実は大学生の時、恋愛し、その恋人を、一高(旧制第一高等学校)の寮で同室だった、苦学生の親友に奪われている。そのために、目指していた高文(高等文官試験)の落第し、人生の最初の蹉跌を味あわねばならなかったし、人生方向転換も余儀なくされるのである。
そして大学を卒業して、大学院に入り、一年後朝日新聞の記者になるのだが、その頃第二の恋愛事件を経験する。その相手は二歳年上の兄嫁であった。兄嫁とは結婚するところまで行く。後年、ゾルゲ事件で捕らえられ死刑囚となった尾崎が、獄中からその妻と娘に送った書簡が集められ「愛情は降る星のごとく」と名付けられ、戦後出版され、大ベストセラーになったことはご承知の通りである。
私が疑問を抱いたのは、秀実の二つの恋愛事件について、秀実の伝記作者が、ことを小さく、扱いすぎてはいるのではないかということである。第一の恋愛事件は、社交的な気軽な尾崎より、重々しく頼りがいのある苦学生の男に、女が心を移したぐらいにしか、尾崎秀実伝の作者は書いていない。尾崎の学友であった風間道太郎の部厚い「尾崎秀実伝」でさえ、この問題を軽く扱いすぎていると思われる。
第二の恋愛は、さらに深刻で、学生生活をしながら一つ家に暮らしてきた二歳上の兄の妻との恋愛である。当時の常識から言ったら、人の道に反する行為である。当事者たちの苦悩、懊悩はもちろん周囲の人々の困惑も、計り知れないものがあったろう。今日的に言えば、不倫の最たるものである。
にもかかわらず、秀実の伝記作家たちは、あっさりとこの問題を片付けている。世間の糾弾に堪えて、愛を確かめあい、彼等は結婚にこぎつけ、妻に去られた兄は新しい伴侶を得て結婚した、とのべるに過ぎない。
これでいいのだろうか。
ここで思い出したのが、漱石の小説である。
「心」の先生は、学生時代、自分の下宿に厭世的な友人を連れてきて、一緒に暮らすが、不幸にも、下宿のお嬢さんを二人とも恋してしまった。先生は、友人Kにお嬢さんへの切ない恋情を告白された。その前に、先生はお嬢さんとの結婚を下宿の主、奥さんに申し込んでいた。
ある日奥さんは、先生と娘の結婚を承諾する旨、皆に告げる。その二日後、Kは自殺する。先生は、お嬢さんと結婚するのだが、この事件が後を引いて、大学を出ても、世の中に出ることもなく、内省的な日を送る。明治天皇のご大葬の夜、自裁して果てる。
「それから」の代助は実業家の次男だが職は持たず、父の仕送りで暮らす高等遊民である。遊民から脱却させようという家族の意向から、兄嫁から、次々と縁談を持ち込まれるがみな断る。彼は嘗て、自分も好意-を持っていた三千代を、彼女にほれている友人に取りもつったことがある。
その三千代が、東京に転勤になった友人とともに、代助の前に現れる。三千代夫婦の間は冷えている。その三千代と代助の新たな恋愛が始まる。それを知った父や兄から義絶され、経済的な基盤が一切失われる。
三千代との新生活のため、職を求めて、家を飛び出すところで、小説は終わる。
「門」は「そらから」の後編ともいえる面を持つ作品だ。宗助は学生時代、友人の妻であったお米と恋愛して、身を隠す。お米を盗られた友人は、冒険家として蒙古にゆく。いまは、宗助は、お米との間は充足しているが、日陰の身として、官庁の属官で、腰弁のしがない暮らしを続けている。将来嘱望され意気盛んだった面影はまったくない。ある日ひょんなことから、お米の元亭主に出会いそうになり、鎌倉の禅寺に身を隠したりする。
以上、恋に破れたK、妻を失った三千代の亭主、お米を寝取られた冒険家、そしてお嬢さんを得た先生、三千代の愛を得た代助、お米と貧しく暮らす宗助、恋に負けた方も勝ったほうも、人生の大きな負担を背負うことになっている。
これ等の小説から考えると、尾崎秀美の伝記作家たちは、尾崎の恋愛事件を軽く見すぎ、あまりに、あっさり通り過ぎているように思えてならない。そして彼の社会的活動や情報活動の面ばかりを強調している。
秀実は当然、失恋した時は、懊悩苦悩し、死ぬ思いをしたことだろう。高級官僚として出世を夢見た青年が、失恋の苦痛により、家族、郷党の輿望を担って受けた、高文の試験に落第し、二度目の受験も諦めて、共産主義に転向するまで、どれだけの精神的苦痛と葛藤を経たか、深刻なものがあったに違いない。そのことがゾルゲ事件にも影を落としているように思えてならない。そこにメスをいれなければ、正確な伝記とはいえまい。
尾崎秀樹が生きていれば、当然、このことにもメスを入れたであろうが、残念にも秀樹はそこに立ち至らぬうちに亡くなった。今後ゾルゲ事件を研究する人は、その解明につくしていただきたい。
10月1日更新
百三歳の名人芸
千紫千恵の小唄
前回、百二歳の恩師、藤島先生のお人徳に、付いて述べさせてもらったが、もう一人私に関係ある人で、百歳を超える人がいる。私の属する小唄の流派の家元である千紫知恵(せんしちえ)師匠である。私の師匠である千紫章恵(ふみえ)先生の師匠である。私は、だから知恵家元の孫弟子である。
家元は今年百三歳におなりになるが、いまだ現役のぱりぱりの演奏家である。公式の演奏会はもちろん、弟子の記念演奏会にも、直弟子を引きつれて、応援出演するというタフネスぶりだから驚く。この十月初旬には、三越劇場で開かれる各派寄っての演奏会、私の師匠の妹弟子の演奏会にも、賛助出演する。
年に何回か、その唄を聴くことがあるが、言葉は歯切れのいい、純粋の東京弁、歌の調子もすっきり切れ上がった、粋なもので、それを聞いていると、これが江戸末期の通人が作った江戸小唄の味だろうと思わせるものがある。
それはまったく芸術である。小唄というととかく庶民的な軽いものと、されているところがあるが、三味線音楽の総合といった面もあり、今日では保存すべきりっぱな芸術といえよう。百三歳の家元に、文化勲章を上げたい。
しかし、子供の頃から、ドレミハで育った、このごろの若い師匠の歌いぶりは、楽譜どおりに歌えばよいという風に、声を張って、唱歌を歌うように、歌う人が多い。小唄は江戸三百年の最後の文化熟覧期に生まれた粋で艶冶なものなのである。モーツアルトやシューベルトを歌う気分で歌われてはたまらない。
私は歌うことは子供の時からダメで、人前で歌うことが出来なかった。だから宴会でかくし芸等を出し合う時には困って、逃げていたものである。小唄は音痴でも、歌えるようになるものだよ、とある師匠が言ったのを耳にしたことがあって、小唄を稽古すれば、演歌でも歌えるようになるかもしれないと思い、ある機会に章恵師匠に、こっそり入門した。そもそも入門が不純な動機であったから、そのあとが大変だった。
文恵師匠は直情径行、すっぱり気持ちのいい江戸っ子で、心情溢れる人だから、私のような天性のないものにも、一生懸命教えて下さる。出来ないとびしびし怒鳴りつける。それでも出来ないとますます激してくる。すべては親切と熱心さが元である、それに惹かれて通ううちに、やめる機会を失った。師匠に怒鳴られ、怒鳴られ、みんなの後から、とぼとぼとついていった。
あるとき友人にカラオケバーにつれてゆかれ、皆に強要され、仕方がなく、古い演歌を歌うと、あれ不思議、普通に歌えるではないか。小唄を習った最初の目的は達成されたわけ。それから、勧められると、演歌を歌うようになった。「うた」に対するコンプレックスが、昔ほどではなくなったのが、何よりお稽古の賜物であった。
とやこうするうちに、名前をいただくことになった。私が小唄の名取なんて嘘みたいな話である。名取式は、家元の臨席の元に行われ、何人かの同門の人とともに、家元から名前を書いた名取札をいただいた。それから宴会。
百歳近い家元が、名取式で始めてあった孫弟子の顔を覚えているはずはないと思っていたが、ある時、自分の師匠を楽屋に訪ねたとき,家元も同じ部屋にいられたが、ちゃんと覚えていてくださったので、私はびっくりした。
挨拶をすると、にっこり応じられる身のこなしの色っぽいことにも驚いた。強く“女”を感じさせる仕草であった。
私がたまたま演奏会の舞台に出るとき、楽屋で章恵師匠に、稽古をして貰っているあいだ、家元も同じ部屋で聞いておられた。「いくらやってもだめな人だね」と叱られるのもきいておられた。それでも舞台上がったら師匠は、合格点をくれた。楽屋にもどると、家元がにっこり笑って、今のはよく出来ましたと、褒めてくれた。私にすれば大出来であった。
後日、師匠に「家元は、百を越えても色気がありますね」というと
「大体家元は、弟子でも何でも、男には優しいのよ。男の弟子がしばらくぶりに来ると、まあ、いらっしゃいといって愛想がいい。だけど私たち女にはうるさいのよ。とてもきついんだから」と皮肉っぽく、笑われたことがある。
「だけど私は、あの家元にやかましく、しつけられてよかったと思っているわよ」
と師匠はいわれた。師匠は、今でも家元の家に稽古に通うという。家元も待っている。体の調子が悪くて休むと、次の時
「お前さん、若いんだからしっかりおしよ」
といわれるそうだ。
ところで、私の師匠の千紫章恵という人は、私は現在の最高の名人の一人だと思っている。これは、身贔屓でもなんでもない。私は三十年間、勉強のためと思い、機会があればいろいろの小唄演奏会に聞きにいった。最初は訳も分からず、聞いていたが、そのうちに次第に聞く耳が育っていった。いまや、やや分かる程度にはなった。その私が私心を去り、一心に聞いて、公平に考えてて、名人だと思うのである。
ある時試しに、師匠の出る演奏会に、邦楽にはまったく無縁な人を連れて行って、師匠の歌を聞いてもらった。ほかの出演者とまったく違うなと、その人は感に堪えたようにいてくれた。本当の芸術は人の心を打つのものだ。素人でも分かるのである。
同じ歌でもこの人が歌うと、他の人が歌うのと全然別の歌のように聞こえるから驚く。家元も名人だが、それとは違う別の芸境に今や達していると思う。
この名人に稽古してもらっている私は、光栄というべきか、幸福というべきか。にもかかわらず、私はへたくそのまま、豚に真珠のようなものだ。
しかし残念ながら、小唄の前途は危うい。三味線音楽は、そもそも遊里、演劇のなかで発展し、それから一般に広まったという経緯がある。日本の社会が近代化されて、一般社会生活からは次第に遊離していったが、劇場と花柳界が、二本足となって、三味線音楽を支えてきた。しかし昭和三十年代以降、その一本の足である、花柳界が衰退、いまや、衰滅の一歩前にある。支えるのは主として、劇場が主となった感がある。
しかしながら三味線音楽でも、長唄、清元。常磐津、義太夫などは歌舞伎のバックミュウジックとして欠かせない。というより、歌舞伎そのものがミュウジカルといってもいいくらいで、これらの音楽なしには、上演できない。
また、文楽の人形劇では、義太夫なしには成り立たない。これらの演劇が、いまブーム状態だから、いやでもその音楽は演奏され続ける。演劇が存続しうる限り、演奏者はなくならない。
小唄は、三味線音楽の総合という面はあるが、そのなのとおり二、三行の短曲で、もともとお座敷音楽で、大衆を前にして本来、演奏されるものではないから、今日では、一般の人から遠ざかるばかりである。したがって、これを習う人も減るばかりで、演奏家もそれにつれて減る一方である。
現に三味線を弾く人が払底し、演奏会では他の流派の人に、三味線を頼む例が多くなっている。自派の三味線引きが少ないか、またはいない場合さえある。先行き本当に心細い状態だ。
しかも三味線も歌も、長い年月を経なければ、ものにはならない。
せっかくの江戸三百年の終わりに生まれた、繊細で、洗練された音楽なのだから、このまま消えてしまっては惜しむに余りある文化だ。後世に伝える手段、保護の道を、皆で考える時点にきている。
いまは少数の師匠たちとそれを取り巻く少数の後援者たちに支えられて、細々と生きているのが実情なのだ。私は、師匠の名人芸を聞くたびに、この芸をなんとか残したく思うのである。
最後に、十月初め、ある演奏会の舞台で、下手くそながら、歌う唄を披露して終わりにしよう。
この退廃の仲の一瞬の静謐な場面がなんともいえないいい感じなのである。
浮気同士がつい こうなって
ああでもないと、四畳半
湯のたぎるより音もなく
あれ きかしゃんせ 松の風
(松の風は鉄瓶の湯が滾るときちんちんと鳴る音のこと)
(9月11日)
百二歳の恩師
藤島昌平先生のこと
今回は、恩師藤島昌平先生のことを語りたいと思います。
先生は今年百二歳になられるが、矍鑠として、私ども教え子を前にして、時務を論じ、人物を論じて飽きられない。それは、決して昔を懐かしみ、昔の考えを基準とする、いわゆる「老人のお話」ではない。現代の言葉で現代を語られるのである。先生の精神の柔軟性と若さは、私どもとて及ばない思いである。
毎日、朝日新聞を半日かけて、隅から隅まで全部読むことを習慣にしていられるとのことである。だから時事に関して、私どもの知らないことまでご存知のことがある。
年に二回、先生を囲んで、教え子が集って、おしゃべりをする会合を永年もわたって続けてきている。この二,三年は、仲間のひとりが送り迎えするようになったが、それでも、繁華街の料亭まで、ご自分の足を運ばれる。
この会合のほかに、先生のお住まいまで、一人でお伺いすることがある。今年も八月が終わって、暑さも峠を越したので、先生にお目にかかりたいと思い、お電話を申し上げたところ、今年の変調の暑さに、体調を崩されたので、用心してお彼岸過ぎに遭いましょうということであった。
病院に入院して、体の各部分を検査してもらったところ、特に病変が無く、「要するに年の所為ですな」ということで、「無罪放免」になったとおっしゃる。出来るだけご用心を願い、長寿をしていただきたい。
私が先生に、お目にかかったのは。昭和二十一年、横浜専門学校の三年生のとき、われわれのクラス担任になられ、英語の授業を受けたときである。すらりと背が高く、すっきりした知的な風貌の先生で、歯切れのいい言葉使いが強く印象に残った。初めて教授らしい教授にあったという印象であった。
その時テキストに使われたのは、「アッシャー家の没落」であった。戦争中の学生として、英語の実力が低かったにせよ、その英語の難しさに手を焼いた思いが残っている。そのためにテキストの名前を忘れずにいるわけである。
一月二月の授業を受けているうちに、先生は曲がったこと、ずるいことが大きらいな方だということが次第に分かった。まともにやる人間には、すごく親切でやさしいが、ごまかしたり、抜け駆けをするやつは許せない人だと、分かってきた。その人柄に触れるうち、先生の前に立って、お話を伺うと、心が洗われるような気持ちになるのが、不思議であった。
このことは、学校を出てらも、ずっと変わらなかった。これは一にかかって、先生のご人格のしからしめるものであるに違いない。今日まで、先生のご人格に触れて私の気持ちはどのくらいリファインされたか分からないのである。
私は、後年、早稲田を出て、出版ジャーナリズムの世界に入ったが、最初は経済雑誌、それから漫画雑誌、小説雑誌といろいろな仕事をしたが、荒くれた競争社会にいると、いつか自分の心が荒れて、汚れてくるような気分になってくる。
それが、先生にお目にかかると、綺麗に洗われてゆくような心持になって来るのだった。そしてまた新しい気分で仕事に向かうことが出来たように、今も思えてならない。だから年に一,二度は、必ずお尋ねしたものである。先生は迷惑なやつだと思われたかもしれないが、私は行った。
私はいままで先生のような清冽、端正、厳格、公正な人は、ほかに遭った事が無い。
先生は山形高校から、京都帝大の英文科を出られた英文学者であった。お目にかかった頃はすでに、岩波文庫で、ハウ”ロック・エリスの「夢の世界」を翻訳されていた。この本は昭和十六年に刊行されたが、戦後も引き続いて戦前のまま版行を重ねている。名訳なのだ。いま先生にいただいた本を開いてみると、内容は私に素養が無いから、よく理解しえぬが、その文章は、旧漢字、旧仮名のよさが生きている、先生の人柄を現すような、端正な日本語だ。文章のお手本という感じだ。
英文学の方では、タイフーンという小説で、日本でも知られるコンラッドについては、特にご造詣が深いということ誰かから聞いたことがある。
私がいた横浜専門学校は、今日は神奈川大学となって大発展であるが、当時は世間の評価は、ヨタセンなどと揶揄するやつもいる位のものだったが、変わった面白い面のある学校であった。
入学試験は全国の地方で行い、各地区から給費性を募った。給費生とは、学費を学校が給付する生徒で、給費生として入学してくる学生や、地方から来る学生の中には、もったいないくらいの秀才もいた。特にわれわれの入学した戦争末期には、浪人すると,徴用令が来て、軍需工場に叩き込まれるので、とにかく学生の身分を得ておかなくてならなかった。それで結構進学校にいて入学試験に失敗した生徒などが、この学校に入学してきたために、結構出来るやつも多かった。
校主の「Y」が田舎から出てきて苦学して、世に出て、なんとかかんとか、高等専門学校令による学校を作り上げたという学校だけあって、こじんまりとした学校であった。教授と学生の間が、ごく近かった。私たちが文芸部を再建し、戦前に出でていた文芸部の雑誌「岸壁」を復刊したときは、藤島先生をはじめ、文学好きの若手の教授たちが応援してくださった。その時の仲間に、のち暦程派の詩人として、名を成した松村由宇一君がいた。その辺に私の青春はあった。
私は、昭和二十二年、横専を卒業し、その後学制が新制度に変わり、神奈川大学となった。藤島先生は大学になってから、教授会や職員に押されて、教職員組合の委員長になられた。こういうことは元来苦手な先生だが、衆望の押すところやむを得ず就任されたらしい。
いざ交渉となって向かい合った時は、経営側は戸惑ったことだろうと思われる。藤島先生は、日本郵船の重役から横浜造船所の社長となられた人の息子で、正真正銘のブルジョアの出身だ。横浜造船所は、後に三菱重工と合併したが、今のミナトミライ、桜木町駅の向こう側にあった、大造船所である。また先生のご長兄は日本銀行の理事になられた方でもある。そのご子息が、天皇のお学友で、お若い頃の天皇をモデルに「孤独の人」をかいた作家の藤島泰輔氏である。
藤島先生に対する経営側は、地方の下層社会の出身で、権力欲と金銭欲に凝り固まった人間と、その腰巾着である。本来の出身階級から言えば立場が逆転しているわけだ。しかも、相手となるのは、権力欲と金銭欲とかに恬淡としている公正な藤島教授だ。
古い型の出世主義者の校主は、一般の権力欲旺盛な俗悪な労働運動家と対するのと違って、大いに戸惑ったことだろうと思われる。
このとき、先生の相棒のなられたのが松本教授である。松本先生も人物であった。
吉行エイスケ夫人、モダンガールで美容師の先駆者である吉行あぐりさんの弟で、吉行淳之介さんの叔父に当たる。六高を思想運動で追放処分を受け、早稲田の理工科に入りなおした人で、専門の材料力学の業績で、外国で高い評価を受けているということであった。吉行淳之介の文章にも松本先生のことが出てくる。わが一族にとっては珍しい理工系の才能のある人物だと書かれている。高等学校に入ったばかりの吉行さんと、銀座に飲みに行き、高級酒場に入って飲みすぎてしまい、七十円の請求をうけた。昭和十年代の七十円は大金である。
あぐりさんに電話をして、お金を届けてもらったという挿話を吉行さんは書いている。私の知っている頃は、四畳半ほどの狭い研究室で、日がな一日、計算機を回していられた。
ともあれこの松本先生とともに、藤島先生は、委員長としては立派に役目を果たされたらしい。
先生は、後年、他の大学に移られたが、退職後は毎日、一時間から二時間の散歩をされたという。今日のご長寿は、若き日のスポーツとこの散歩によるのではないかと思われる。
先生とお酒のことも書きたいと思ったが、長くなるので、後日を期すことにする。
(8月25日)
漫画大賞の「秋竜山通信」
泉のごとく湧くナンセンス・アイデア
「秋竜山通信」が昨日届いた。受け取ってから、何回も読み直し、何回も笑っている。いい消夏剤になった。
これは、四六判一枚の秋龍山さんの「個人漫画雑誌」雑誌である。中身は、もちろん秋龍山さんの漫画だけである。四六判のペラ一枚の裏表に、一枚もの漫画が、六枚ずつ載っているだけのものである。
その中に,一枚は必ず、「孤島漫画」が入っている。孤島漫画とは、難船して漂流し、孤島に流れ着いた人間が描かれる漫画である。
丸い島の真ん中に椰子の木が一本たって、そのしたに裸の人間がいるという、よく見かけるあれである。漫画会では、昔からよく描かれていたので、「狭い空間と少ない人間が題材の孤島漫画の種は尽きた」というのが常識になっていた。
かつて秋さんはこの常識に挑戦。「よし,そんなら俺が描いてやる」といって、一〇〇〇点目指して、孤島漫画を描きはじめた。
一九七三年から七十七年いっぱいまで、五年かけて、めざす一〇〇〇点を描きあげた。そして翌年「無人島まんが一〇〇〇展という個展を開いた。一人で孤島漫画を千枚も描いたのは、世界記録であろう。
その個展が終わった時、秋さんは私に「これから孤島漫画を一万枚を目標に描こうと思う」と宣言した。
そして今でも描きつづけているのだ。病膏肓に至るというべきか。
秋という人は、漫画サムライというか、漫画病患者というか、毎日毎日、注文があろうとなかろうと、ナンセンス漫画を描かずには居られないという、ナンセンスな病気の持ち主なのである。
秋さんの頭脳は昔から、漫画のアイデアを、無限に浮かべる能力があった。六十歳を越えた今日といえども、一向に衰えを示さない。
近頃、漫画マスコミの世界では、ストーリー漫画が全盛を極めていて、ナンセンス漫画は隅のほうに押しやられている感がある。
だからその需要が減ったが、秋さんはたじろぐことなく、自分流の漫画を描き続け、その面白さを、少しでも世に知らせたいために、私費でこんなペラ雑誌を作っているのではなかろうか。あるいは、理屈ぬきに楽しくてたまらないから「市場経済」に左右されない「自由な発表の場」を作り続けているのかもしれない。
この「秋竜山通信」は今回で二十一号になるそうだから、一昨年あたりから始まったのである。
ところで、この秋竜山通信が、この六月、今年の日本漫画家協会賞の大賞を受賞したのだから、おめでたいことである。秋さんの全くの無名時代から、仲良くしてもらった私と
この「秋竜山通信」は今回で二十一号になるそうだから、一昨年あたりから始まったのであ
る。
ところで、この秋竜山通信が、この六月、今年の日本漫画家協会賞の大賞を受賞
したのだから、おめでたいことである。秋の全くの無名時代から、仲良くしてもらった私としては、こんなうれしい事は無かった。
何しろ、この賞は、成人向けとしては、ずっしりと重い賞である。
その授賞式の時に、選考委員長である、やなせたかし日本漫画家協会理事長は、選考経過を述べる言葉の中で、「いまやナンセンス漫画というと、やはりなんと言っても秋竜山ですなー」といった。加藤芳郎さんが亡き今日、秋さんはなんと言っても、ナンセンス漫画の第一人者である。
加藤さんについては、先にこの欄で書いたが、この11月、日本漫画家協会が主催で、追悼パーティーが開かれることになったという。
お別れの会もなされなかったので、これもナンセンス・フアンとしては、喜ばしいことである。
その席で、私が編集協力し、私が書いた加藤さんの伝記も載っている「加藤芳郎対談集、まっぴら対談」という本が、お土産として出席者に渡されるそうだが、この本も読んでください。
話を秋さんに戻すが、私と秋さんの出会いについて、書いておく。私が漫画雑誌の編集をしていた頃のことだ。その頃、無名の新人から編集部宛に、沢山の原稿が送られてきた。そういう原稿は、私が全部目を通していた。
ある日茶色のハトロン紙につつんで十字に麻紐を結んだ小包みの原稿が送られてきた。宛名が大きく墨で書かれている。
差出人を見ると、「秋竜山」と筆太に書かれている。変な名前だなと思った。何を元にした号だか知らないが、少し古臭いじゃないか。
開けてみると、これまた不思議な漫画が出てきた。ひねひねと曲がりくねって線で書かれた古いような新しいような見たことも無いような絵である。要するに、いまの秋さんのえは洗練されて流麗な線で書かれているが、あれをうんと稚拙にした画と考えればいいだろう。
それが伊豆の西側のある場所から送られている。その場所といい、珍しいペンネームといい、これは、伊豆の田舎に住む年寄りかご隠居が手遊びに描いたものかもしれない、と私は一瞬思った。とにかく、机の隅に置いておいた。
ところが翌週また同じような包みが届いた。中身は同じようなものだった。
それから毎週、同じ包みが届く。私はしまいに面倒になって、包みを開かず机の上に積んでいった。そのうちに諦めて送ってこなくなるだろうと思っていた。しかし相変わらず送ってくる。その積み上げが、だんだん高くなる。ついに倒れるほどになる。それを机の隣に置き、また新しく来たのが机の上に、溜まっていく。
こんなの初めての経験である。原稿を送ってきても採用されなければ二、三回で送ってこなくなるのが普通である。私はよくも懲りずに送ってくるな、と半ば悲鳴を上げた。
とある時から急にこなくなった。やっと諦めてくれたか、とほっとしていると、本人が編集部に現れたので仰天した。
しかし、私の先入観はまったく外れて、本人は二十才を過ぎたばかりの純朴な初々しい青年であった。手には山ほどの原稿の束をもっている。
本人からいろいろ話を聞いた。伊東の南の方の漁師の長男に生まれた。子供の時から漫画家になりたかったが、長男だから,家を出て行けない。漁師をやりながら漫画の習作をした。
中学を出る頃は、一人前の漁師だ。地先漁業が不振の時は、伊豆の漁場を出稼ぎに回った。夜は漁師小屋で、みかん箱を机に、漫画を描いた。一時漁師を辞めて、土地の郵便局に勤めたが、やはり漫画家になりたくて、両親を説得して、東京に出てきたのだという。
秋竜山という名前は、竜が好きなので、本名の秋山の間に竜を入れたに過ぎない、という単純なことだった。
その頃は、だいぶ画も洗練されてきていた。若い編集部員たちが、彼の作品に肩を持ち、彼の作品を載せようというので、載せてみると意外の好評であった。それからぼちぼちと掲載し、のちには、文春漫画賞を受賞した「Oh・ジャリーズ」の連載にいたった。
いらい四十年、いろんなことがあったが、秋さんの一番新しいニュースと一番古いニュースを紹介しました。
(8月10日)
「眠狂四郎」 産みの苦労
柴田錬三郎の裏表
今年も柴田錬三郎賞の、候補作品のアンケート葉書が来た。二,三の候補作品を記して送ったが、今でも、こういうことで、柴田錬三郎先生と細々とながら繋がっていると思うと、一種の感慨を覚える。
柴田先生は、恩人であるとともに、いろいろ影響を受けた方である。私が、『週刊小説』という雑誌を企画したとき、柴田先生が応援をしてくださったおかげで、創刊することが出来たといっても過言ではない。柴田先生は、唇をへの字に結び、めったに笑ったことがないようなニヒルな風貌をされていたが、あれで実は親分肌で、周辺に作家仲間が集まっていた。「文壇野良犬会」という会の会長だった。その会員には今東光、梶山季之、吉行淳之介、黒岩重吾、藤本義一、陳舜臣等の諸氏がいた。
私のいた出版社は、もともと文芸方面には縁の深くない出版社だったので、小説専門の週刊誌などを出すことは至難な業といわれたものであった。
梶山季之さんから、柴田先生に紹介を頂き、柴田先生が応援してくださることになったため、その線に繋がる、梶山季之さん、黒岩重吾を初めとする多くの作家の協力を得ることが出来、創刊にこぎつけることが出来た。昭和四十六年のことだ。
創刊に当たって、柴田先生は、創刊記念に、「賞金1千万円の小説を募集」という当時としては破天荒な企画を提案された。その提案に従うことになった。それを実行するに当たって、選考委員を決めなければならなかった。私は誰にその役目を頼むか、原案を作って、柴田先生に、相談しに行った。
数名の名前を列挙した原案の中に、松本清張さんの名前があった。
柴田先生は、指を差して、この名前は削れ、といわれた。まだ文壇のことに疎い私は、
なぜですか、と思わず聞いた。
「俺はな」と柴田先生は言われた。「妙に権威ぶった人、見識ぶったやつは嫌いなのだ。そういう人間とは同席するのが嫌なんだ」
そうして、
「俺たちはたかが小説家だ、たかが文士の分際に過ぎぬ。そういう自己認識のない人間は性に会わない」
と続いていわれた。私は柴田先生のいうとおりにした。
「たかが文士だ」
ということはよく言われた。
「たかが小説家だ、だから嘘はうまいぜ。俺の小説は全部嘘だ。虚構の物語だ。俺はなぜ小説家になったかといえば、小さいときから嘘をつくのが上手かったからだよ」
といっておられた。
その嘘で固められた小説を書くのに苦労された時もあった。ご承知のとおり、『週刊新潮』に連載された、眠狂四郎の大当たりによって、大流行作家になったわけだが、何年もつづいて、シリーズ名もいろいろ変わったが、面白みは変わらなかった。
「君たちは、あんな短い読みきり連作は簡単にできるように思っているらしいが、如何に俺が嘘つきだといっても、嘘の種が尽きることだってあるよ。何しろ嘘のアイデア勝負だからな。今日週刊誌の締め切りだというのに、アイデアがまったく浮かばない時もある。そういう時助かったのは、担当者が『週刊新潮』の麻生君だったことだよ。俺がいかに書けなくて、締め切り時間が迫っても、悠々としているんだ。それで随分、助かったよ、ああいう時締め切りが迫ったと麻生が慌てたりされたら、出るべきアイデアも出なくなる。二人でなんでもない雑談しているとふと案が浮かんだりする、そうなれば一気呵成だ」
麻生さんという編集者は、いまの麻生外務大臣の麻生家の一族だといわれていた。温厚ながらやり手の編集者として有名だった。作家が編集者を褒めることは滅多にないが、柴田先生は麻生なしでは、狂四郎生まれずというくらい信頼を置いていられた。
「もういよいよ駄目だ、今週は休載やむをえないと思うとき、麻生は平然としてやってきて、『先生、ゴルフに行きましょう』というんだ。どうせ今週は休載だ、ゴルフにでも行くか、といってコースに行って、芝生の上を歩いている時、ふとアイデアが浮かんだりする。
それからとんで帰り、書きまくり、ついに間に合わせたという時もあった」
そんなエピソードまで語られたことがある。
残念なことに麻生さんは、それから間もなく、急逝された。その時の柴田先生の悲しみようは、傍で見ていられなかった。作家の先生にそれだけ悼まれたのは、編集者冥利という人もあるかもしれないが、私には、隣にいた戦友が被弾してばったり倒れ、戦死したように感じられた。
私は自分の雑誌に長いこと、柴田さんに柴錬『三国志』を長い間連載していただいていた。しかし三国志は劉備や、諸葛孔明が生存していた頃が、華やかで波乱に富んで面白い。時代を降るにしたがって、熟知の英雄が少なくなって、地味になるのは否めない。
その一方、雑誌の売れ行きが落ちていった。われわれの雑誌だけでなく、小説雑誌すべてが、部数を減らしていった。小説がかつてのような多数の読者を引きつけられなくなったのである。
そんな状況で、「柴錬三国志」を続けられなくなった。心ならずも、柴田先生の訪れ連載の打ち切りの相談をした。
「君は、この柴田錬三郎の小説を切るというのだな、シバレンの連載を切りに来た男は君が始めてだ」
いつもの苦りきったようなポーカーフェースを、にやりとさせて、
「よろしい、やめよう」
と一言言われた。これは編集者として受けた最大の恩義だと、いまでも思っている。こちらの窮状を察してくださっていたのだと思う。
柴田先生が六十歳を迎えられたとき、
「五十歳から六十までの時間はものすごく早いぞ。五十歳になった時には考えられない速さだった。このことは若い後輩によく言ってやるつもりだ。これからの十年間は、もっと早く過ぎるのではないか、心していかねばならん」
といわれた。それから1年余の後、六十一歳で肺患のため死去された。 六十代の時間のたつ速さも経験されないまま逝かれてしまった。そのことを痛切に感じたことを思い出す。
いま八月にはいって、終戦記念日が来るので、敗戦の記録や惨状、原爆の悲惨さが毎日報道されているが、敗戦から六十一年たっているのに、それらの報道がいずれも、なまなましく感ぜられて、時には涙さえ催す。
柴田先生がなくなられて三十年に達しようとしている。しかしその思い出は生々しく昨日のことのよう迫ってくる。
これを要するに、自分の経てきた人生で遭遇した、大きな事件というものは、その起きた年代の遠近を問わず、いずれも生々しさが失われないものなのであろう。
(7月25日入力)
眉村卓さん
妻のために書きつづけた
毎日一話のショートショート
私が勤めていた会社を止め、一九八〇年、小さな出版を設立したとき、神宮前の筒井康隆さんの旧居に、最初の事務所を構えた。なぜ筒井さんの旧宅であったのか、という説明すると長くなるが、多くの人の好意の結果、そういうことになったのである。
まだ、筒井さんが、その家を手放されたばかりで、筒井さんの表札が付いたままであった。筒井さんは結婚後、ここで新居を営まれたのであるが、その頃は、神戸の垂水に豪邸を新築され、移られたのであった。
この出版社で最初に出した本が「ザ・筒井康隆」という本だった。これは全くの筒井さんの好意による。これが売れて、小出版社が無事船出したのであった。
その頃は、筒井さんは人気上昇中で、筒井さんの旧居を見に来る若い女性のフアンもいた。そういうフアンをツツイストと呼び、ツツイストのクラブもあった。ツツイストの仕業だと思われたが、或る朝、出勤すると、残っていた筒井さんの表札が盗まれていた。私は、この表札を取り去るにしのびず、そのままにしておいたのだった。
その頃は、SF(サイエンティフィック・フィクション)が若い読者に大人気で、筒井さん、星新一さん、小松左京さん、眉村卓さん光瀬龍さんなどSF 第一世代といわれる人はもちろん、第二世代といわれた、半村良、平井和正、夢枕獏、豊田有恒、辻真先等の諸氏も大活躍で、エンターテイメントの世界は、SFで占められるだろうという予測まで飛び出すほどだった。
しかし、SFが文壇に認められ、一般の人気を博するまでは、相当のパイオニアとしての、苦労もあった。このひとびとは最初、柴野拓実さん主宰の「宇宙塵」という同人雑誌を中心に活動を始め、アニメの原作などを書いたが、なかなか世間にその存在を認められなかった。
その理由は主として、従来の文学史には、なかったといってもいい、新分野の文学であったからであるが、SF作家たちが、従来の文士、小説家という言葉の持つイメージからは遠い人たちが多かったことも、文壇からよそよそしく思われたことも一因であったといえよう。
SF作家となった人々は、どっちかというと、良家の子弟、知識階級出身という感じの人が多かった。文士という言葉が持つ、放蕩、放埓的な気分とは疎遠な人たちであった。
そういう人が、先端的な科学世界や未来社会を題材にした作品を描いたのだから、旧文壇から疎外されたのは、当たり前だったのかもしれない。彼らの間では
「士農工商SF作家」
という自嘲的な言葉がはやった。
それが、ひとたび読者がつきだすと、ものすごい流行作家となり、エンターテインメントの世界を席巻したのであった。今日は当時の勢いは失われたとはいえ、SF作家は、それぞれ独自の活躍を見せているのは、ご承知のとおりである。そしてその非文士的な人間像も変わっていない。
眉村卓さんは、その中でも、もっとも非文士的な作家に思える一人である。眉村さんは大阪大学経済学部を卒業され、耐火煉瓦の製造会社に入社し、サラリーマン生活をしながら、小説を書き、同人誌「宇宙塵」に参加、同世代の作家で、最初に長編SFを発表して、作家として独立した人である。端正で誠実な人柄で、日本ペンクラブの理事になられてから、ずっと活動を続けられ、いまは、井上ひさし会長を助けて、副会長の職にある。
また大阪芸術大学教授で、学生に小説の書き方を教えているという。こういう誠実な先生に教わる学生は、うらやましく思われる。
さて、眉村さんの奥さんは、高校の同級生だった方で、その鴛鴦ぶりは、よく知られたことだった。
東京に仕事でこられるときは、同行なさって、仕事のことで、宿舎としていられた「山の上ホテル」に伺うと、よく奥様にもお目にかかったものであった。
その奥様が、平成九年、虫垂炎と診断され、入院して回復したところ、小腸に悪性腫瘍、つまり癌ができているのが発見された。医者は余命が1年しかないこと、長くても余命は、五年とはもつまいと、眉村さんに告げたという。
眉村さんは、手術が終わったあと、眉村さんは余命のことは伏せて、病状を奥様に説明した。手術後の入院中も退院して、通院生活が始まっても、眉村さんは、苦労をさせないように勤めるほか、奥さんのしてあげられることがない。
「何か自分にできることがないか」
と考えた挙句、思いついたのが、毎日短い話を書いて、奥さんに読んでもらうことである。奥さんが明るい気持ちで過ごすようになれば、免疫力を増す、ということも考えてのことであった。奥さんに話すと、「読みたい」とうなずかれた。
それから毎日、四百字詰め、三枚以上のショートショートを書く、商業誌に載ってもおかしくない作品であることを原則に書き出した。奥さんが予期した反応を示されたときは、励みが付いたという。
そのためもあってか、奥さんは小康状態が続き、海水浴や短い海外旅行にも行かれたようだ。
この作品が溜まったとき、それから選ばれた四十九編が「日がわり一話」と題されて出版された。第二集も出た。しかし出版はそれまでだった。しかし作品は次第にたまってゆく。千篇を超えた頃眉村さんは、それまで描いたショートショートを最初かすべて自費出版なすることにした。印刷会社の友人に頼んでオンデマンド出版とし、題名は「日課・一日3枚以上」とつけた。一巻目が出たとき、新聞にも取り上げられ、話題になった。それにより注文が来て、増刷もしたという。
平成十三年、この本が十五巻を出したとき、収録作品は千五百を超えた。それを記念して、東京會舘で「眉村卓・悦子夫妻を励ます会」というパーティーも開催された。私も出席したが、奥様は思ったより元気そうに見えた。
しかし、実際はこの日以後次第に弱られて、翌年亡くなられるのだが、病院からその遺体とともに自宅に帰ってから、最後の一七七八番目の物語を書いたという。最初の手術から五年に一五日足りなかった。
この中から十九編を選んで、新潮新書の一冊として「妻にささげた1778話」という題名で、二〇〇四年(平成16年)に出版された。
考えて見れば、病妻のために、一七七八日間、毎日新しい物語を書き続けたということは、古今東西の文学史上、かつて無い記録であり、将来もありえないことだろう。文学史上特筆さるべき、愛の物語というべきだと思われる。
眉村さんは、最近「いいかげんワールド」という書き下ろし長編小説を出された。とんだことから、教え子の青年とともに異世界にわたった老大学教授が、ヒッチャカメッチャカな、大経験をするという、宮崎監督作るアニメ映画を髣髴する、傑作エンターテインメントである。奥様を失った悲しみから、立ち直られた証拠である。
小松左京さんの「日本沈没」の映画も好評だという。SF界も1つの段階を迎えたというべきか。
(7月10日更新)
見ちゃいられない老人たち
真昼間の電車の中、私が坐っている前に、定年後何年かたったと思われる老人とその妻らしい女が立った。何気なく見ると老人はご機嫌な顔である。なるほど彼流のおしゃれを決め込んで、奥さんとどこかに出かけるところらしいのだ。
そのおしゃれ振りはというと、まずは黒地のTシャツ、その胸のあたりに、金糸と銀糸の刺繍がある。その上に、Yシャツ風の青いくしゃくしゃな生地のカジュワルシャツ、裾をだらりと垂らして、ボタンをはめていない。そのシャツの上に、これまた裾短い、デニムのチョッキを着ている。しかも流行のポケットが一杯ついている奴だ。
ズボンは木綿の薄茶色だ。靴はまた白いスニーカーときたもんだ。今の若者と同じ服装である。しかし少しもカッコよくない。これが若者だったら、すらりと足が長く、スリムな身体にぴったり来て、いいカッコだが、何しろおっさんは、日本人特有のずんぐりむっくり、胴長短足ときている。白いスニーカーが泣くというもんだ。
その上おっさんはポケットから、携帯を取り出した。それには十七,八の少女がもってているような、ぴらぴらした飾りが幾つもついている。その携帯を開いて何かしようとしたが、さすがに女房に窘められて、ポケットに仕舞い込んだ。
いい気なものだ。
服装でも、大いに若返って、人生を満喫しという所を見せようという魂胆だろうが、とんでもない間違いだ。かえって醜悪な姿だ。私は、長い間ダークの背広を着て、働いてきたサラリーマンは、それが身に就いているのだ。だから定年を過ぎたといっても、ダークスーツにYシャツが一番似合うのだ。せいぜい現役時代と替えるとしても、シャツの色とか、首に巻く物の形を変える程度のことだ。
巨大銀行の幹部を勤めた友人と話し合ったことがある。彼は仲間の飲み会でも背広にYシャツ、ネクタイ姿である。
「結局おれたちゃ、その姿が、一番合うね。」
というと
「ほんとに僕もそう思う」
と、共感しあったことがある。
大体今の老人は、若ぶったり、世の中に甘えたりしすぎである。もっと自己を律するに厳しくあるべきだろう。
先日寄贈を受けた一冊の本がある。題して、不良老人たちの溜息―卒サラ川柳―という。企業OBペンクラブ編著となっている。
大企業のサラリーマンだった老人たちが、川柳を作る会を作り、毎月、集まって川柳を作るのだという。その会員の自作にまつわるエッセーを集めた本だという。読んでみて、そのいい気な老人たちに驚いた。
歳をとっても女がいるのを鼻にかけたり、また現役時代、さっチョン(札幌チョンガー)だった頃、バーのマダムを愛人にしていた自慢話であったり、海外駐在の時、できた外人女性との情事を長々書いてみたり、要するに、現役時代も今も、何をして遊ぼうが勝手だとばかり、“悪”であることを自慢する、まことに人を舐めた、ぬるい本であった。そこには何の恥じらいもない。
本の帯に、安倍譲二氏の言葉が載っている。
「この穏やかでヌルい爺様達が、若い頃は鋭くて、豊かで平和な日本を造ったなんて信じられますか?アナタ……」
推薦の言葉として、ここに載せているのであろうが、辛辣で、痛烈な皮肉、批判の言葉である。
川柳だって、文学のうちだろう。ここに書かれていることは、文学には遠い物だ。のろけ話を5・7・5に書けば川柳だと思い込んでいる爺様たち。歳よりは若ぶり、遊んでいればいいと思う爺様たち、少しは反省しろよといいたい。
昨今、一部老人の間でダンスが盛んだという。それは勝手だが、爺さんと婆さんが踊り狂い、何時の間にかカップルが出来て、ホテルなどで乳繰りあう手合いも少なからずいるという。シワだらけの男と女が抱合っている姿……もう止めておく。
原始の昔から、今残存している未開社会を見ても分るように、人間社会では、年とった者は長老として尊ばれ、長老は自分の経験を子孫に伝え、天地を司る神の声を仲間に伝え、その部族の将来の道標を示していたのである。今の世でも、本質的には、老いた者の使命は変わりがあるまい。
そんな難しいことは措くとして、せめて、自らを律して、孫たちの世代に少しでも多くの社会的な富を残すよう工夫してもらいたい。我々の孫達は、高齢化社会を支える為に、苦労しなければならないのだから。
(7月10日)
杉浦幸雄と銀座
この六月三日、漫画家杉浦幸雄さんの三年忌の法要が営まれた。杉浦さんは徳川旗本の血を引く、根っからの東京人、本郷で生まれ育った純粋の山の手っ子であった。菩提寺も本郷駒込にある。
青葉に囲まれたお墓に,お参りさせていただいたとき、杉浦さんを失ったことによる、心の空洞の大きさを改めてj実感した。
私が半世記に渉る編集者生活で、いい仕事をしたと、誇れるものの第一は、杉浦幸雄・岡部冬彦合作「淑女の見本」という連載漫画である。この作品案は杉浦さんが、考えられたもので、相棒に岡部さん選んだのも、杉浦さんだった。この二人の息が合ったのも、成功した原因であった。岡部さんも東京生まれの都会人だった。
この作品は、華やか高度成長期の最中、昭和四十一年から四年にかけて,漫画サンデーにカラー二色、毎号巻頭四ペー字ずつ、掲載された。(そのコピーを掲げておきますので、どんな漫画であったか、ご想像下さい。コピーは紙面の都合で要旨)
一ページに一場面、それに短文の解説、コピ−を付けるという形の一枚漫画、一回にそれを四枚という構成である。
合作とはいい条、二人の間に、分担があった。アイデアは二人で考えるが、絵をかくのは杉浦さんで、コピーをかくのは、岡部さんであった。二人で先ずテーマを決める。たとえば、「淑女が食べる時」とか「淑女の浮気」とか、である。それが決まるとどんな女のどんな場面をどうかくか、それにコピ−、解説は何を書くか、意見を出し合って決める。
それが大変だった。熱海の旅館とか、ホテルの一室にこもってアイデアを練るのだが、これに私も参画して、作者と一緒に無い知恵を絞ったものであった。
連載が始まって何ヶ月かたつと、知識人の間に評判が高まった。
私はある時、テレビ局に呼ばれ、現在の漫画について話せというのである。当日待合室で、曽野綾子さんと一緒になった。
「あなた方、どんな漫画をいいと思っているのか」
と仰るので、もっていた「淑女の見本」の切抜きをお見せした。それを何枚か見て、
「これ、凄いわね」
と感嘆の声を発せられた。
それから、掲載誌をお送りしたが、ご愛読されたようだ。後淑女の見本が本になった時、次のような推薦の文章を書いてくださった。
「ここ数年間、氏(杉浦さんのこと)が女などあまり読まない雑誌で延々書いてこられた女性は、その無知、狡猾,ハレンチ、欲張り、動物的(人間的にあらず)、だらしなさ、無能さ、お人好しの点において、まさに目を覆うわしめるものがあった。この方ツワモノである。真実を描いてゾーと笑わせる。(中略)一九六〇年代の全日本女性のテキとして,昭和史に名をとどめるにあたいする」云々。
また吉行淳之介さんは
「私はこの本を万国博覧会のタイム・カプセルにいれることを提案したい。(中略)五千年後にタイム・カプセルが開かれたとき(そのときまだ人類が存在しているとして)、人々がどういう具合にこの本を受け取るかと考えると、興味津々たるものがある」
と書いている。その頃大阪万博の計画がすすみ、現代の文化を、タイム・カプセルに入れて残すことが話題となっていたのである。
杉浦さんは若いときから“銀座”人種であった。岡部さんも銀座通であった。そんなところから、淑女の見本にも、銀座の女性が、よく登場し、それが特に面白かった。
昭和の初め、日本の社会に、モダニズムの風潮が広がり、文壇では新感覚派が登場し、銀座の街頭には、モボやモガが闊歩した。モボはモダンボーイ、モガはモダンガールの略である。
モボ、モガは銀ブラを好んだ。銀座ぶらぶら歩きである。杉浦さんも銀ブラ族であったが、銀ブラでよく会う顔というものがあった。杉浦さんは、藤浦洸(詩人、別れのブルースの作詞者)によくあったといっていた。昭和六,七年の話だ。
杉浦さんは呑む時には、ハイカラな高級バーに行って、洋酒、カクテルを飲む気障野郎であった。よく行ったバーはクラブ・トミー。マダムのトミーさんは無名の新人だった、丹羽文雄氏と同棲、丹羽さんが世に出るのを助けたのは有名な話。
そのトミーさんは二十そこそこの杉浦さんに、銀座で、もてるこつをこんこんと教えたという。
「銀座では勘定はきちっと払うんだよ。絶対借り倒してはいけないよ、この町は広いようで狭い。すぐ知れ渡る。
それから女には、優しくすることよ。威張っちゃ、駄目だわよ」
といった。杉浦さんは、この教えを、喧々服膺した。
銀座を愛し、グルメで、贅沢を求め、女性を愛することは、死ぬまで変らなかった。晩年、卒寿の頃は、もう足も不自由、目もおぼつかない、歯も入れ歯、耳も補聴器無しでは済まされない。それでも銀座に行かずにはいられない。
九十二歳で死ぬ間際まで、連載の仕事を持ち、その原稿料はみんな銀座で使った。ある一日を記録すると、昼過ぎタクシーを呼び銀座の小唄稽古所に向かう。タクシーを降りるとき、高額のチップを渡す。
稽古が終わると、杖をつき、すこたら、すこたらと銀座を裏通りを歩き、細い露地の奥にある、寿司仙という寿司屋に行く。そこ出ると同じ露地にあるビストロ、カシュカシュに行き、ホアグラで、ワイン。最後は、バー小眉で寛ぐ。これが九十翁のすることだった。
今、銀座の街頭に、一層きらびやかになった女性が闊歩している。彼女らの生ける姿を杉浦さんのような、リアリテイを以って、表現できる人が、出てくることが待望される。(6・6・25)
加藤芳郎「人生は長し 芸術は短し」
本日から、「午後の喫茶店」のメンバーに入れて頂くことなりましたのでよろしくお願いいたします。
私は長く、編集者稼業に携わってまいりましたので、その間に、多くの人にお目にかかりました。作家、漫画家、画家、評論家などです。その人々のエピソードを絡めた思い出を語ってゆきたいと思います。それも単なる昔話ではなく、今日にも通ずるエッセーにするというのが味噌であります。
先ず漫画家であり、テレビでも大活躍をし、この春亡くなられた加藤芳郎さんの思い出から始めます。
☆
加藤さんの仕事は長く続いたことも、特徴だった。毎日新聞夕刊に連載されていた「まっぴら君」は昭和二十九年から、平成十三年まで、その間四十七年間に渡った。新聞連載漫画としては、最長の記録で、今後それが破られることは、絶対に無いといってもいい。。
またテレビの人気番組だった「連想ゲーム」の男性軍のキャプテンだったが、これも二十三年続いたというのだから、オドロキである。
加藤芳郎さんが、よく言っていた警句に「人生は長し、芸術は短し」という言葉があった。
「人生は短し、されど芸術は長し」という格言をわざと逆さに言ったのだが、「芸術」とは、この場合漫画である。これは加藤さんの実感であった。
後輩たち、たとえば福地泡介さんとか、園山俊二さんとかと、ゴルフで一緒になった時、ゲームが終わってビールなど、飲みながら
「君たち、若い若いと思っているだろうが、すぐに歳を取る。人生はその先が長いんだぜ、その長い間、漫画を描き続けるのは、こりゃ、難しいもんだ。今売れているからと言って、飽きられたら、途端に誰も原稿の注文を呉れなくなる。漫画という芸術の命は短いのだ。だからといって、遊んで暮らせるほど、漫画で稼いで、貯金するなんて出来ないだろう」
というようなことを言っていたものだ。
「だから、先のことを考えて置かなくちゃーな、漫画が売れなくなってもいいように、別の仕事の道をつけ置くのもいい」
天才、加藤が言うことだから、皆、黙って聞いていた。
当時、加藤さんは飛ぶ鳥を落とすほどの威勢のいい世間の人気者で、豪放、磊落に生きているように見えたが、その実、自分の言葉どおり、常に慎重に、細心に、先の方を見て、仕事をしていたと思う。
先ず、毎日新聞の「まっぴら君」に全力を注いでいた。それは生活の基礎であるからだ。新聞連載漫画ある程度のニュース性を加味してゆかなければいけない。毎日のニュースの何かを素材として、それをナンセンス漫画に組み上げてゆくことは、大変な難作業なのだ。それを毎日やるのだ。
それ以外に週刊誌や雑誌の連載漫画がある。そちらのほうでは、加藤さんは、新しい試みをしていた。それは自分の漫画の領域を広げることでもあった。そのためにタブーにも挑戦した。
私が連載漫画を頼んだときの加藤さんの弁を思い出す。、
「うんこしょんべんをかくことは、漫画ではタブーなっているだろう。けれどな、たとえ描いても、 皆が納得すればいいわけだ。だから便所漫画に挑戦する」
出来たのが「ベンベン物語」という作品である。
彼の有名な「おんぼろ人生」も「俺はお化けだぞ」も、乞食とかお化けを題材にするのは、笑いを目的とするナンセンス漫画としては、卑怯な振る舞いであるとされていた。それに挑戦したわけだ。こうして自分の漫画の領域を広げて行った。
加藤さんは、喜劇的才能があり、若いときから、銀座のクラブなどでは人気者であった。
あるバーで、三木のり平さんと一緒になることが何度もあった。二人の会話が始まると、店内の客たちは、一斉に注目する。すると二人は調子にのって、身振り手振りよろしく、プロ顔負けの漫談をやりだす。加藤さんがつっこみで、のり平さんがぼけである。
店内、大爆笑となる。のり平さんの連れの,若い頃の志ん朝さんは、唖然とした顔つきでみていた。
そんな加藤さんが、テレビに出るようになり、NHK連想ゲームのレギュラーとなるのである。何でも,始めると打ち込む主義の加藤さんは,製作者にアイデアを提供して、長寿番組の功労者となった。つまりタレント業でも、一流であった。
古希の記念に、加藤さんは飾り皿を知己に配った。それに鬼が「一怒一老 一笑一若」という文字を指して笑っている絵が描かれていた。生きることに懸命だったのだ。
それから10年、加藤さんは宿痾を抱えながら、八十歳の人生を全うしたのであった。
いつしか私もその歳になってしまった。 (6・6・10)
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