ボケモン日記
入院雑記

ドウモ疲レテ,続行デキズ、残念ダガ、今夜ハコレデ中断スル。(9月3日記)


7月18日(入院入院12日目) 体重測定から始まる毎日  起床時間と同時に看護助手が体重計を持って回ってくる。ほぼ34キロ前後で安定してきた。平常より5,6キロ痩せてきたが、主治医によると想定どおりに治療は進んでいるという。

7月12日日(入院6日目)  管理と看護 わたしは年来、寝るまえに眠剤(睡眠用安定剤)を服用している。で、9時ごろには入眠すべく、ナースに8時半ごろ、眠財を頼んだ。だが、彼女は「勝手なことを言わないで。消燈の9時には、みな一斉に配るから待っていてちょうだい」「だって個人差があるのじゃないですか。ぼくは時期がずれると眠れなくなるんです」「ここは共同生活なのよ。従ってくれなきゃこまります」

わたしは病気を治すために入院しているので、論争するために居るのではないから沈黙した。管理は必須だろうが、看護の心を忘れた管理では軍隊と同じである。、

連日、朝からインインと砲声がつづいている。正確に休憩時間があるので、年間7回だかの協定がある、沖縄海兵隊の実弾射撃訓練だと気付いた。東冨士演習地はここから近いことを思い出した。スタフに話したがだれも関心を示さなかった。

7月10日(入院4日目)  ”チン巻”の技術 恥ずかしながら頻尿暦十年になる。加えて足腰が不自由だから、大も小も手軽にいけない。常時、紙パンツを穿き、パットをつけている。寝るのも容易ではない。横漏れすると水害である。入院二日目、ナースが「チン巻き」をしてくれた。小パットを横にして、男子のナニを根元から巻きつけ、銃先を大パットに納めるのだ。最初は仰向けに寝てご開帳に及ぶのに抵抗があったが、遠慮なくナースコールをせようといわれ、身を任せることにした。

すし屋でいうキュウリ巻きならぬ、痩せキュウリ巻きである。後にこれは老人ホームでも用いられている技法と知った。因みにこの用語は漢語学校や介護学校では「使わないように」と指導されているらしいが、こんな適切なことばはない。



6月10日 面白い中国の新語  「黄昏散」って何のことか解からなかったが、≪日本と中国≫(日中友好協会機関紙)によると「中高年の離婚」だという。「黄昏恋」は「老いらくの恋」である。中国の大都市しでは年々増えつつあり、上海のある地区では昨年の七割増だという。日本でいえば「定年離婚」」である。体制は違っていても、人間の営みかわに変わりはないのだな。


6月8日  2・26事件決起部隊からの脱走兵
  入居して一か月近くなるM子さん(87)とおしゃべり。自作の『小説』を見せてくれた。むしろ『ドキュメンタリー』というべきもので、その中に、史料的価値のある記述があった。昭和11年(1936)2月27日、つまり2・26事件の翌朝、御殿場駅の近くにあった彼女の生家に反乱軍の兵士が訪れ、甲州へ行きたいのだが助けてくれといった。母親が食事を与えて仮眠させ、山越えの裏道を教えて逃した。それから9年経った敗戦後、名古屋で運送業をしているというその人が名古屋のキシメンと八丁味噌持参で礼にきた、という。

 一読、その人物の9年間に興味をひかれたが、K子さんの記憶になかった。彼女は息子さんが使っていたという高校生の歴史年表をボロボロになるまで愛用している。高齢でこういうことに興味がある女性は稀有である。

6月7日   旧友ブレーメンに死す  市川さんからのメール。ドイツのブレーメンでドイツ人女性と世帯をもっている久米宏さんの訃報だった。徳間書店刊・松枝茂夫、竹内好監修『中国の思想』叢書全十二巻の共訳作業をした仲間である。わたしはマネージャー兼訳者として参加していた。あれからもう50年近くになる。久米さん担当の『論語』訳稿を監修の竹内好さん(硬骨の評論家で中国文学者)に見てもらうため二人で竹内邸を訪ねた。三度目だったが「まだダメだ」と突っ返された。トボトボと帰路についたものの分かれ難く、二人で善福寺池の貸しボートにのった。どちらからともなく「いっそ池に跳びこんで心中するか」と自嘲しあったことが忘れられない。それにはこんな経緯がある。

 この叢書は半世紀ものロングセラーとなっており、宣伝めくが経緯を記録しておきたい。、監修者の松枝茂夫さんと竹内好さんは名前だけの監修者ではなく、「従来のような漢文読みの訳でなく、あくまで外国の古典を現代日本語で分る訳文にしよう」という立場で、まだ助手クラスだった漢文臭のついていない教え子の若武者たちを両監修者が選びだし、徳間書店が借りたアパートの一室で勉強会から始めた。わたしはその番頭役で参加したのだが、いつしか訳者の一人になっていた。うっかり「天下りですな」といったところ、すかさず皮肉屋の市川さんから「いや、天上がりです」といわれたことを覚えている。この叢書は各巻ごとに担当者の名が冠されているが、まず担当者が書いた原稿を「ガリバン印刷(当時はまだコピー器がなく、ヤスリ板の上に油紙を置き、鉄筆でガリガリと原稿を手書きし、1枚ずつ謄写器で刷る」)でコピーし、全員が手を加えたものを参考にして各担当者が最終案をつくる。これを松枝・竹内両師に届ける。この叢書は社長の徳間康快さんが全国行脚をした甲斐もあってよく売れた。担当者の多くは教職を進み、みな教授となって退職を迎えている。久米さんは教職でなく、編集者として平凡社に入り、長く東洋文庫を編集していた。

八十年代初め、久米さんはわたしの後任として北京の国営出版社「人民中国社」”専家”という名の”お雇い外国人”として勤務中、ドイツの”専家”だった夫人と愛し合い、ブレーメンに渡って2子を得た。ノホホンとしていた久米さんとは思えない早業であった。数奇な人生であった。

6月1日  同じ誕生日の2人  この老人ホームの仲間Tさんが今日、104歳の誕生日を迎えた。昨年の転倒で歩行が困難となり、また昨今耳が多少聞こえが悪くなったが、頭はしっかりしており、政治のことは理解できないようだが、大正~昭和の二十歳前後、小学校の教員をしていて、大正天皇の危篤のさい、で教え子を連れて、鎮守様へ祈願にいったことなどを記憶している。病気はハシカしかしたことがなく、牛蒡のキンピラでも食べる。

実は沖縄で戦死したわたしの弟も同じ6月1日が誕生日であった。22歳、私より3歳若く、敗戦が3ヵ月早かったら死なずにすんだのだ。

5月31日  老い疲れの5月が終わった 今月は慌しく、更新もすっかりご無沙汰してしまった。「体調」はあまりよくなく、気候の変化が激しかったためもあって腰痛が辛かった。エイッと気合いを入れると力がでるのだが、その気合いも及ばなかった。「心調」も乱調で落ち着かなかった。そんななかであったが、15日には思い切って東京へいった。「満州国・大同学院」15期の仲間の会合だ。学院といってもこれは学校ではなく、「満州建国」の中核となる人材の研修機関で日本人を中心に朝鮮族・漢族・満州族・蒙古族の五族から成り、行政官・技官・司法官・国策会社派遣社員などを含み、一年近く同じ釜のメシを食わせて、”洗脳”しようという試みだった。神田の如水会館、参会者5人、往年の壮士も89歳~93歳、時勢は憂えず、雑談と思い出話に終始した。  

今月はエネルギーの大半を多機能携帯のアイフォンと電子書籍のアイパット習得に割かれてしまった。老脳には負担が多すぎたが、好奇心と数人の好意的応援でナントカ使えるスタート台にたった。常日頃口にしている反文明との矛盾は甚だしいと知りながら、止むに止まれぬ申年根性なのである。


4月28日  「サヨナラ」ダケガ人生ダ  最も働き者だった介護スタフのOさんが今月いっぱいで退職するという。腰に七つ道具を入れた小袋をぶらさげ、骨惜しみせずに動き回っていた。年季のはいった独身で、3人の息子を持つ同僚のOさんがよく冗談に「息子の嫁にほしいね」といっていたほどだ。椎間板ヘルニヤが悪化したらしく、痛みをこらえて片足を引き摺るように歩いているのは痛々しかった。Oさんが事前に入居者個々へ辞めるという挨拶をしてくれたのはよかった。このホームの方針なのか、従来は職員退職の場合、黙っていなくなることが多かった。入居者に衝撃を与えないためためだというが、黙っていなくなるほうが衝撃は強いのだ。ホームの管理サイドにはこれが分っていない。

入居者の退去もあるが、入院したまま死去することが多い。自室で死去する場合もある。わが亡妻の場合は入退院を繰り返した挙句、自室で死去した。入居者の退去や死去の場合も、秘密にしていることが多い。曰く「プライバシー」「ご家族の意向」「「他の入居者のショック」というが、これも入居者の気持ちがわかっていない。

老人ホームは特殊とはいえ、一種のコミュニティを形成しているのだ。「共生共死」である。いかに快適な老後と終末を迎えるか、である。「個人情報」という理由で、退去者の死去などを極秘にしているのは、かえって老人の不安をつのらせる。慰問や行事にしても、それだけでは管理サイドの自己満足であrって、入居者の満足度は得られない。心の安らぎを得られる行事、これも大きな研究課題にしてほしい。

話が飛躍してしまったが、生別にしろ死別にしろ、「サヨナラ」を考えてみたい。「人生別離足ル」これは中国唐代、于武陵(うぶりょう)という詩人の4字5行詩『勧酒』の末尾にある名句だ。訳せば「人生には別離がいっぱい」 作家の井伏鱒二はこの句を「サヨナラダケガ人生ダ」と訳した。

仏典に「会者定離」(えしゃじょうり)とある。会うものには必ず別れがある。会うは別れの始まりだ。この思いを心底に秘め、人との交わりを大事にしてゆきたい。

4月20日  3・11のとき、あなたは何処で何を?  ここ数日、電話を掛けたり受けたりするとき、この設問をしてみた。ひときわ非日常的体験をしたのは、学友で93歳になるKさんであった。なんとKさんは一人で渋谷の映画館にいたという。大揺れのあとも映画は自家発電で続行したが、女性たちの多くは出て行った。Kさんは最後まで見て、電車で帰ろうとしたが、動いていない。タクシーは数珠繋ぎ。バスで6時間かかって深夜ようやく帰宅したという。途中コンビニで停車したとき、公衆電話をかけてみたが通じない。傍にいた若い男性が親切にも「わたしの携帯でかけてみましょうか」というので頼んだが、これもかからない。ところが、帰宅すると夫人が「若い男性から改めて携帯電話があり、”ご主人が無事にバスで帰られます”と聞き安心してました」という。くだんの男性が通じるようになってまたかけてくれたのだった。携帯電話とは縁のないKさん曰く。「携帯というのは一度かけた番号が記録されるんだなあ。それにしてもまったく”近ごろの若者は”などと申すまじく候”だなあ」。ちなみにこのことば戦時中、山本五十六が若者の働きに感動していった名言だ。


4月5日  時系列記憶力の異状  Q子さんの忘却症を前回に書いたが、ヒトゴトではない。わたし自身、出来事の後先がとみに分らなくなってきていることに気付いた。とくに「3・11」以降が悪化している。やはり潜在的に影響をうかているのだろう。実はそれだけでなく、わたしが異状な好奇心からアイフォンとアイパッドを始めようと先月来、のめりこんでいるのもかなり脳力の負担になっているのかもしれない。こんな便利なものを使わずにあの世にいってしまうのは忌々しい。アイフォンは溜め込んだ音楽と落語のCDをてがるに聞くため、アイパッドは電子本を読むためである。身の程知らずと承知してはいるのだが・・・。

3月14日  直近時<完全忘却>症候群  階が違うためったに顔をああせはかったQ子さんと、階下であったので声をかけた。「大変でしたネエ、11日は」すると、意外なことばが返ってきた。「どうということないですよ」という。「でも、エレベーターが止まって職員が食事を階段を運び上げてくれたんですよ」「でも若いんだからあたりまえですよ」どうもおかしい。あとで、彼女は平常は全く健常者なのだが、直近時のことは完全に忘れてしまうそうだ。このホームは、ありがたいことに、原則として要支援1から要介護5まで入居させるので、さまざまな入居者がいる。認知機能低下の程度もステージも多様なのだ。会社としては他に「グループホーム」(小人数の認知症患者を収容し、普通の生活を送らせる施設)も多数経営しているので、認知症対応のノウハウも蓄積しているだろう。わたしは、それを整理して活用してほしいとしばしば意見具申しているのだが、どうも・・・。、

3月11日(27日記)  大災害発生の瞬間  トップ頁に記載しているので再録はしない。停電のなかで栄養課が緊急に調理し、介護スタフと協力して階段を2,3階に運び上げてくれたメニューを記録しておく。雑炊(卵・鶏ささみ入り)、厚揚げの煮物、ワカメの酢の物。これは後で聞いたもので、迫る夕闇のなかで啜りこんだためよくおぼえていない。

この日は、埼玉に住む娘が墓参かたがたきてくれていて、復路が心配なので怱怱に帰宅してもらったが、普段なら2,3時間で帰宅できるところを、深夜までかかったそうだ。

3月10日  すべて変化していた  ほぼ6割の入居者が参加し二日間に分けて伊豆へイチゴ狩り。私は一昨年秋の行楽で車のクッションのためか、胸椎11番の圧迫骨折し、2か月近く入院したので、参加をためらったが、思い切って参加した。乗る車両や座席も特別に配慮してくれた。車イスも多いので容易ではないが、スタフがてぎわよく進めてくれた。10年ほど以前は妻とよく来たものだが、全く違っていた。温室のなかは立位で取れるように、5種類のイチゴが分類され、機械化されていた。やんぬるかな。十年二昔である。幸い腰は異常なかったが、疲労が激しく、これもやんうるかなであう。

3月1日 昨日は、前置きだけで本題の記入を忘れていた  老脳の所為か。以下、昨日の前置きにつづく本題。。「好奇心・やる気・稚気」で始めたのが、アイフォンとアイパットである。前者は携帯電話の大きさで、後者は週刊誌ほどの大きさ。さまざまな機能がついているが、全てを究めるのは不可能だ。わたしが使おうと思った目的は、アイフォンで携帯電話と音楽、アイパッドで電子本、とくに無料で夏目漱石・芥川龍之介などをじっくり読みなおしてみたい、ということなのだ。まず、後者から入手して半月ちかくなるが、さすがにこの歳と体調では手ごわい。使いこなすどころか、使い方の説明書もないので、歯がたたないのである。だが、おのれ、ヤラマイカ。

2月28日  好奇申(心)いまだ衰えず  中国人の慣用語で「上に政策あれば、下に対策あり」というのがある。お上でどんな政策をたてようが、下々では対応の抜け道を探し出すというわけで、中国人の強かさをあらわす。この顰(ヒソミ)に倣(なら)って(このマネをして)いうと、「身体に3点セットの苦痛あれば、心に好奇心・やる気・稚気の3点セットあり」というわけで、わが申年91歳(さるどし)ホヤホヤのジジイは・・・・・・と、以上は言い訳のための長い前置きで、以下が本題。

2月23日  腰痛・ドライアイ・息切れの3点セット  天候のせいか、このところ3点セットの同時進行でいささか弱気になっている。  

2月14日 思いがけない人情チョコ  バレンタイインデー。孫娘から、といっても本当の孫娘ではない。”バーチャル”(コンピューター用語=仮想、架空の)の孫娘だ。本屋でわたしの本を見て、彼女の祖父と同姓同名であったのに驚き、出版社経由でわたしに手紙をくれた。以来、文通し、去年の初夏、理髪道具を持って訪ねてきてくれた。(去年9月13日の日記参照)今日送られてきたのは、手作りのチョコケーキのほか、5本指の靴下、毛糸の温かい厚手靴下が入っていた。

2月7日   左利きはオヨメにいけない  介護スタフのM子さんは巧まざるユーモリストだ。いわく「子どものとき、わたし左利きだったの。だけど”左利きはオヨメにいけないといわれ、一生懸命なおして右利きになったのよ。だけどまだオヨメにいけないんだ」(爆笑)

追記=冗談かと思って、他日聞きなおすと実話だった。叔母に言われて信じた父親が、訓練してくれたのだという。まだ結婚していないのも事実である。


2月5日   誕生日、ついに91歳
  とくに感懐はない。親友Y君の夫人と娘さんからお祝いの手紙が届いた。Y君は戦後の10年あまり、社会運動をやっており、いっぽう古典の現代語訳にも長じ、わたしとの共訳もある。アルツハイマーにかかったあげく、去年11月に逝去した。病状がすすんでも、ずっと自宅介護をされており、電話すると普通に近い話し相手となるので、よく電話をかけた。ある時期からかえって負担になるらしいので中止していた。その家族からの誕生日祝いは胸に響いた。

以前は各月ごとに当月生まれの入居者を正面に据えて、食堂で誕生祝いをしたのだが、効率よくするため食事を食堂組と各階の談話室組に分かれるようにしてから中止され、コーヒータイムに部屋担当のスタフから記念品を渡されるようになった。それはともかく、わたしは歳の順でいくと5番目、男性では2番目ということになる。

2月3日   体重が増えた!  53歳のとき胃潰瘍で胃を摘出(当時は再発防止のため胃を切った)した。いらい目方が40キロ台におち、とくに近年は40キロを割っていた。ここでは毎月始めの入浴日にスッポンポンで計量してくれるのだが、今日は40・5キロだった。これだけのことで明るい気持ちになるのだから面白い。

2月1日  腰痛とドライアイでつらい    わたしの圧迫骨折(この医学用語が誤解をまねく・折れるのではなく潰れろことだ)を二回やっている。最初は88歳のときで腰椎第一の圧迫骨折、いらい2年9ヵ月経つ。その瞬間、運命が一変した。老人ホームに入居してすぐ妻を喪い、89歳のとき、こんどは胸椎第11を圧迫骨折、と言っても」転んだのではなく、原因不明。思い当たるのはホームのバス遠足で河口湖へいったとき、座席のシートが固かったことだ。なにしろ骨粗しょう症でクシャミしただけで骨折する事例もあるそうだから恐ろしい。それから1年3ヵ月経つ。腰椎はすっかり私にとりつき、忘れないようにときどき痛みだしてくれる。

”病気自慢”めくが、もう一つは乾燥による慢性ドライアイの悪化で、眼を開けていられないことがある。なんといっても耐用年数切れだから仕方ないが、天は楽に長生きさせてくれるほど寛容ではないのである。

1月28日  「群れ」について考える   ここは一階がエントランスホール、食堂、事務所、浴室などの公共空間で、入居者は2階と3階に別れる。別に入居時に仕分けされるのではないが、雰囲気が全く違う。1人々々は同じ要介護者もしくは要支援者なのだが、それぞれの談話コーナーは別世界のようだ。譬えは悪いが、3階はシャッターを下ろした商店街のようにヒッソリしていて、午前10時のコーヒータイムや午後3時ののオヤツ時間で談話室に出てきても、すぐ自室にもどってしまう。ところが2階は東京巣鴨の地蔵通りのように賑わっている。それぞれとくにリ-ダーがいるわけではないが、自ずと群れの性格ができている。

これはどいうわけであろうか。小鳥が群れを作って編隊をくんでいるのも、やはりとくにリーダーがいるわけではないらしい。人間の群れの場合は、リーダーがいることが多いが、なくても群集心理が行動を左右することがある。しかも人間という生物は群れたがるのだからやっかいだ。

1月25日  サルの身になってみよう 三島の楽寿園で飼われ、「ラッキー」という名で人気の「噛み付きサル」が逃げ出して大騒ぎとなり、こんどは一日で御用となった。飼育係が差し出したエサで近づいてきたところを押さえられたというのも哀れであったが、自由人、いや自由猿だったラッキーは毎日見つめられることでストレスが溜まり、ひどい脱毛症になっていたらしい。例によってマスメディアの大報道ダネとなったが、以前噛まれたという人が「屠殺してほしい」というインタビューまであった。

1月21日   施設長交替で餞別騒ぎ  三年半前にこの老人が開設された以来、施設長として苦労してきたHさんが転勤することになった。その内示が拡がった昨日、夕食後、Tさんが食卓へ相談にやってきた。彼女の周辺で「餞別を」という意見が出て論議中だという。個人で出すという人もいるので、平均すると千百円ですという。 ??? 百円はまさか消費税? ムニャムニャ言ってお引取りねあがったが、現金をだすというのは非常識だ。「必要ない」「記念品では」どうやら一部女性群では百家争鳴しているらしい。結局、Tさんが受けないということになって一件落着したが、老人ホーム入居者といえども、日本社会の一部だということを思い知った。


1月20日   日系ブラジル人の介護実習生  ホームヘルパー養成の学校から老人ホーム実習のため、二人の女性がやってきた。うち一人は日経ブラジル人で、二日間だったが寸暇を見て話を聞いた。わたしと同年の祖父は静岡出身で、敗戦後、ブラジルのアマゾン州に移民した。静岡出身者は3人だったが、あとの二人はすぐ帰国してしまったという。実はわたしも1946年、旧満州か引揚船で帰国したとき、ブラジル移民の募集があったので、関心を持ち、調べたことがあるので他人事とは思えなかった。。彼女は三世で母親はブラジル人だという。歴史と人生を考えさせられた。 

1月14日  「ヒトはどうして死ぬのか」  クロネコ便で取り寄せた標題の本(幻冬舎文庫)に、2,3日前から取り組んでいるが、めっぽう面白い。著者の田沼靖一さんは1952年生まれの生科学・分子生物学者で東京理科大学のゲノム創薬研究センター長。副題に「死の遺伝子の謎」とあるように、「細胞死」を平易に解説している。以下その受け売り・・・・・・成人のカラダは60兆の細胞からできているが、一日に3~4000億個死んでいる。200分のⅠが死んでいるわけだ。細胞の死は遺伝子にプログラムされておおり、その設計図どおり死んでゆく。皮膚なら剥がれ落ち、新しい細胞と28日周期でいれかわる。新陳代謝である。肝臓細胞の場合は一年周期だという。死がなければ皮膚は古い細胞の累積で機能が果たせなくなる。また、細胞の死が作用する例として、胎児の形成があげられている。手は始めは指がなく、円形のかたまりだ。指はここから生えて伸びるのではなく、死の細胞によって指が刻み出されるのだ。

そもそも、地球上に生命が誕生してから20億年間は単細胞の世界であって、死ぬことなく、ひたすら分裂することで増殖していた。それが進化して複合細胞となり、受精によって生殖するようになる。メスとオスの誕生だ。・・・・・・という具合で、眼に悪いと知りつつ夜更かししている。

娘の来訪と墓参  久々に車で4時間かけてきてくれた。部屋には入れられないが愛犬と同伴だ。しばらく見ていないのだが、わたしを覚えているようで、尻尾をふっている。娘にとっては母の墓参も主目的であり、さっそくF霊園に行く。冬枯れの参道で、リュックを背負い徒歩で上り坂を行く老人を追い越した。わたしと同年輩らしいが、脚がしっかりしていて杖もない。やはり妻の墓参と直感した。健脚だが車の運転はやめたのだろう。戦友よ、がんばろうぜ。


1月7日  認知機能の低下
  実は去年暮、異状な「物忘れ」を体験した。木曜日と土曜日に外部のマッサージ師のEさんに治療してもらっているのだが、12月30日(木)にその異状がおきたのだ。木曜という記憶だけあって大晦日の前日という認識がなく、Sさんに電話してしまった。Sさんいわく、「このあいだ申し上げましたように、今日はお休みにさせていただいているのですが・・・」そうだったかと思ったが、つづけて聞いてしまった。「では、明後日の土曜日はどうでしょう」、Sさん「すみません、元日なんで・・・」しまった。木、土の記憶だけあって、日にちのほうをすっかり忘れていた。どうもただの「老齢ゆえの物忘れ」とは違う。

新年早々、これと同型の物忘れがおきた。今日の朝食はは七草粥なので、わたしも食堂へ行くよう手配していた。今朝、すっかり忘れていて、いつもどおり、自室で自分で作るべく準備していると、夜勤の介護スタフNさんが入ってきた。「そろそろ朝食ですが、食堂へ行かないのですか?」しまった。今日がその7日だということが完全に記憶から抜け落ちていた。 

1月3日  おせち  正月三が日朝食は食堂で雑煮と御節が出る。わたしは我がままを言って普段の朝食は食堂へいかず、自室で野菜、雑炊、牛乳などを食しているが、三が日は食堂で供してもらった。餅が大好物だし、この歳になると、やはり御節を食べないと、正月になった気がしないのだ。毎年、餅で喉を詰まらせる老人の事故が報じられるが、ここ老人ホームでは、その恐れがある入居者には特殊な餅をコマギレにしてだしている。


2011年1月2日 神社について考える
  神社は中国から仏閣建築が渡来してきたのに、触発されて造るようになったものらしい。もともと弥生人の信仰は山にも草木にもすべて霊魂・神が宿るという多神教で、具体的な建築は必要なかった。仏教が渡来し、神仏混淆の時代が永くつづく。明治初年、国歌神道を確立するため、廃仏毀釈が行われたが、いらい、日本人は(共産党員の多くもも含めて)ごく自然に神社では拍手を打ち、寺では合掌する。日本人以外のキリスト教徒、イスラム教徒などは奇異に想うようだ。神道(神ながらの道)は普遍性をもっておらず、宗教でもな日本列島の民俗だといったら叱られるかな?昨夜はここまで考えたら眠くなった。(1月2日)

2011年1月1日 元日未明の失敗  5時半に眼が覚めた。毎朝、ポットで湯を沸かし、前身を拭く習慣だ。とくにドライアイと黄斑変性の眼にお絞りを当てるのは必須である。まだ外は暗い。点燈し、ポットの通電をした途端、パッと真っ暗になった。慌てるな。原因と対策を考えよう。そうだ。タイマーで朝5時にオイルヒーターを最高温度にしておいた。エアコンは風が嫌なので許可を得てこのヒーターを愛用している。ただし、最高温は電力過多になるから用いたことはないのに、今朝は寒気は厳しいという予報で禁を犯していたのだ。幸い夜勤のスタフに通ずるブザーは有効だった。ヒーターの強度を下げたあと、ブザーを押し、大晦日夜勤のOさんに、集中管理の部屋別ブレーカーをあげてもらうよう頼んだ。Oさんは手際よく対応してくれた。無事点燈。ホッとしただけでなく、これぞ今年の戒めと肝に銘じた。

初詣 午前中、希望の入居者が半数ずつ、近くの浅間神社に初詣をした。車椅子や手押し車が多く、容易でない移動をしてくれるのはいつもながら感服する。浅間神社は木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を主神とする富士山信仰の象徴で、富士宮市の大社を始めとして各地にあり、とくに冨士東南山麓には旧村ごとに点在する。御殿場の浅間さんは規模はさほどではないが、わたしにとっては思い出の場所なのだ。昭和17年(1942)、大学が半年繰り上げ卒業となり、「満州国」政府に就職したわたしたちは、錬成組織である大同学院(新京=長春)に入るため、御殿場の浅間神社境内に集結し、板妻兵舎で一週間兵隊ゴッコをさせられたあげく、東京へ移動し、首相官邸で東条首相の訓示を受け、伊勢神宮に参拝したのち満州へ渡った。自分史の1場面なのである。まさかその近くが終の棲家になろうとはなあ。


12月8日  きょうは何の日?  毎日、体操を始める前に「認知症予防」の一環としてスタフがきょうの日付けを聞き、その日についての簡単な話をする。きょうのスタフは24歳だから当たり前だが「太平洋戦争開始の日」だということは知らなかった。わたしは思わずその日のラジオの調子を口ずさんだ。「大本営発表。本日未明、帝国陸海軍は米英両国と交戦状態に入れり」

手短に説明した。、当時、服役中の共産党員か、あるいはよほど偏屈な人間でないかぎり、大多数の国民が感激したこと。中国戦線が4年も経つのに解決のめどがたたず、アメリカから経済封鎖を受けるなど閉塞状態から一挙に緒戦の勝利が伝えられたのに酔ったのだった。


12月7日  さわやかな話
 早大の斉藤投手が日本ハムと仮契約し、契約金は一億円と報じられた。テレビは見ずに音だけボヤーッと聞いていたので、正確ではないが、インタビューで、書類にゼロがいっぱい並んでいるので数えてみたとか、契約金をどう使うか聞かれて、野球界に役立つことに使いたいとか、およせいまの世調と違うことをいっていて、さわやかだった。まさしく、「近ごろの若者はなどと申すまじく候」だ。

11月30日  NHKハイビジョンで「引き裂かれた歳月」と題して証言でつづる「シベリア抑留」を再放映した。取材を受けた九州在住の同学Y君からの知らせで知ったが、夜10時だし、ここにはハイビジョンを受像できる機械がない。そうだ、録画収集家である息子ドノに頼もうと電話した。録画に限らずかれは凝り性の上に好奇心旺盛で、しかも新しもの好きなのである。この点はわたし似ていて、というより、かれの遺伝子がわたしに逆遺伝したような気がするほどなのだ。

果たして息子ドノは二つ返事で承知してくれた。「実はその番組、ボクも録画するつもりだったの。シベリア抑留のことよく知らなかったからね」そうだ、わたしはシベリヤ連行を免れた経緯を息子ドノにも話していなかったっけ。

そうだろうなあ。息子ドノは敗戦のとき生後半年で母親、つまりわたしの妻と、「満州国」北満州のA県官舎にいた。わたしはこの県に勤めていたのだが、敗戦の4ヶ月前、関東軍(満州駐在の日本軍)の根こそぎ動員を受けて入隊した。関東軍司令部がソ連の越境侵入に備えて満ソ国境の防衛線から後退、南満州の朝鮮国境に近い通化付近で最期の抵抗を試みようとした、その通化近郊の連隊兵舎にいたのだ。兵舎といっても、農民のトウモロコシ畑を取り上げて急造したバラック建築で倉庫もなく、食糧も兵器も野積みにして防水テントをかぶせていた。

天皇の敗戦放送は畑を潰した広場で聞いた。2,3日は戦争が終わった安堵と、この先どうなるかという不安のなかで無為に過ぎた。応召兵の多くは家族を満州各地に置いているので、解散して帰宅させるよう願い出たが、連隊幹部や班長などは日本内地から来ているので、耳にもかさず、「勝手な行動をとれば敵前逃亡で処刑するぞ」と脅かされた。たしか8月20日過ぎだったと思うが、明日はソ連部隊がわれわれの武装解除にくるという情報が流れた。

その夜遅く、わたしは、気のあった二人の仲間と脱走した。目をつけておいたテント倉庫から手探りで乾パン袋を持ち出した。わたしはA県、二人の仲間は新京(長春)、どちらも北に向け逆行してゆくのだ。追手を避けて最寄の駅を避け、朝までに2つ離れた駅に辿り着いた。さいわい満鉄の貨車が北に向けて断続的に動いていた。

まだ陸軍刑法の存続を信じて逃亡に同意しなかった戦友たちに申し訳ないが、あの決断が明暗を分けたのであった。

11月16日(改稿) 中国式深呼吸のすごい効果 深呼吸といえば腹式呼吸だ。だが、実は私、「腹で空気を肺に入れるイメージ」が湧かず、どうしても腹式呼吸が出来なかった。たまたま中国語の[太極拳入門」を読んでいて、「腹式呼吸=横隔膜呼吸」とあり、「横隔膜を引き上げて肺の空気を押し出し、次いで横隔膜を引き下げて肺に空気を吸い込む」と説明してあった。なるほどこれなら出来る。日本の体操ではまず空気を吸い、次いで徐々に吐き出す。一方、中国式のように吐き出したあと吸い込むほうが力が強くなるわけだ。

たしかわたしが70代の半ばだった。東海大付属病院の呼吸器内科で「肺気腫」と診断された。気管支が枝岐れした末端に2億個もの肺胞がついている。血液中の二酸化炭素を吐きだし、新しい酸素を取り入れる機関なのだ。拡げると畳40枚にも相当する広さを持つ。CGを見てギョッツとした。ブドウの房のように肺胞が鈴生りになっている。その一個一個が黒ずみ、機能が低下している。医師は「治療薬よりも深呼吸を励行することだ」と言った。いらい、15年は経つ。この間、わたしは中国式の深呼吸を励行している。このホームでは毎日午前に30分ずつ機能回復訓練士の号令で筋肉強化の体操をする、そのさい、しばしば深呼吸をやってくれる。もちろん日本式なので、わたしは中国式にホンヤクしてやっている。なお、ここでは週一回、提携病院の医師が診察にくるが、そのおり、血液中の酸素量を測定してくれる。わたしは95%よりさがったことはない。肺気腫持ちで90歳越してまだ生きているのは中国式深呼吸が与かって力ありだと思う。

11月12日   入居者を数回に分けて紅葉狩り、私はきょうの班で男性2、女性1、職員は男性1、女性、キャラバン・パッソという車。去年の河口湖行きで胸椎11番の圧迫骨折し、40日入院のはめにあったのだが、性懲りもなく万全の構えで出発、座席が中央部で左右に寄りかかれないため、帰路は腰痛を感じでシマッタと思ったが、幸い大過なく無事であった。同行のY氏はいつも丹念な紀行文集を出している。食事時、話をすると、20年間故夫人の難病を介護し、自らも脳梗塞を病んだという苦難の人生を歩いてきたらしい。さて肝心の紅葉は黄葉、それも枯れ気味だったが、晩秋の気配を堪能できた。

11月11日 尖閣事件の映像を流出させた海保職員  かれを愛国者として讃えるのは危険だ。ぼくらの少青年時代、226事件を始め青年将校が決起したり、テロに走ったりすることが続出した。ぼくらの多くはこれを称え、共感した。それが軍部の独裁につながり、開戦~敗戦の導火線になることなど、当時は夢にも思わなかった。ナショナリズムの感情が政治のピュラリズムと結びつくのは恐ろしい。

11月5日 知らなかった筋肉の仕組み  昼食時、食前に「口腔体操」をやる。誤嚥防止のために7,8項目の動作があるのだが、なかでも重要なのが舌を延ばして出し入れしつつ上下左右する動作だ。その説明で知ったのだが、舌の筋肉は食道と気道の分岐点にあるフタを動かす筋肉と連動しているそうだ。とくに高齢者に多い誤嚥性肺炎の予防に役立つわけだ。

因みに食物を取り入れる場所だけでなく、排泄するほうにも重要な筋肉がある。骨盤低筋といい、排尿、、排便、女性の場合は膣口も含め、つながっている。こうしたからだの仕組みはしらないまま、90歳にもなったわけで、恥ずかしい。そもそも、性教育などは学校でおしえなくても独学してきた。からだ全体の仕組みこそ学校で教えるべし。

10月27日   冒険! 電車で4年ぶりの東京  娘の宰領で東京へ出て観劇、午後、夕方までだが、日帰りは無理なので、一泊してきた。坂東玉三郎が中国語で演ずる昆劇(600年前、蘇州で生まれた京劇の前駆)の切符を買い、同行してくれたのだ。車は腰を痛める危険があるので、電車で往復した。恐る恐る杖をつき、娘が介添えしてくれた。新宿からは孫娘も加わる。タクシーで赤坂アクトシアターへ。還暦過ぎた名優のことは言わずもがな、老い疲れの身には励ましとなった。観客は9割かた女性であった。

終演後、宿の手配をしてくれた旅行社を経営するHさんが、かつてよく中国旅行をともにした二人の女性を伴って現れ、埼玉に帰る娘親子に代わって新宿の京王プラザまでタクシーで同行してくれた。ホテル内のレストランで9時近くまでオシャベリする。翌28日朝、娘がホテルへ迎えにきてくれ、電車で戻ってきた。彼女はそれからホームに預けておいた車で埼玉の自宅へ帰ったのだが、事故で渋滞したらしい。観劇もさることながら、多くの人に支えられて非日常の2日間をすごし得たのは大きな収穫であった。(11月5日記)

10月20日  ホームの遠足に”感動”した  秋恒例で入居者の遠足があった。復元された箱根関所跡と湖畔にできた箱根園の水族館へいくという。わたしは去年の秋、河口湖畔のオサル劇場などへの遠足に参加して、固いシートのためか(推定)夜、腰が痛くなり、胸椎11の圧迫骨折で2月近く入院した。その苦い体験から参加しなかった。

だが企画段階から関心を持ち、当日は玄関ホールで見送った。参加者は入居者の約6割32名、その半数が車イスだ。職員は介護課、事務課、機能訓練室。看護師など20名レンタルも加えて車両5台に分乗、乗降させるだけでも容易ではない。見学もさることながら食堂での行動がこれまた容易ではない。自分で自由に歩ける入居者は10名そこそこ、とは介護が必要だ。グチもこぼさずやってのけるのは感動ものというほかない。


10月11日   愉快な好奇心
  80代のM子さんは元薬剤師、好奇心旺盛といっても並みの好奇心ではない。意表なことで質問してくる。食堂でテレビが女子ゴルフの中継を放映しているとき、わざわざわたしのテーブルにやってきていう。「キャディというのかね、ゴルフの選手は道具を運ぶために、引き連れているけど、あの人の入場料は払うのかね?」「え!?ぼくはゴルフやらないから分からないなあ」前の席にいるM男さんが助太刀してくれた。「ああ、あれは払いません」

このホームの要り口のホ-ルに縦型の大きな水槽があって、色とりどりの魚20数匹が泳ぎ回っている一匹一匹個性があって見ていてあきない。M子さんはとくにお気に入りで、ようく前に立って見入っている。傍を通ったら聞かれた。「この魚たちは寝る時、どうやってるのかねえ」「さあ、わからいなあ。夜遅くみにくれば」とわたし。「だめよ。8時になるとエレベーターが動かなくなるから、降りてこれないもの」問答しているのを通りかかった施設長が助け舟をだした。「浮いたまま動かないでねてますよ」「フーン、そうか」で納得したが、次にどんな疑問をぶつけてくるか、楽しみだ。

10月10日  一過性の認知症かも  3階に部屋替えしたが、知っているはずのスタフの名がわからないとか、昨日と今日の区別がわからいとか、便秘が何日続いたか思い出せないとかとかとか・・・。なかなか平常の認知機能が戻ってこないのだ。おもうに、この部屋は以前の部屋と逆になっていて、ベッドは前は右側から入るのが今度は左側からになった。トイレのドアは左開きだったのが右開き。2年近くいて体が覚えこんでいるのを修正しなければならぬ。スタフも2階とは違うし、入居者の雰囲気も全く別だ。それやこれやで認知機能が混乱し、軽い認知症の症状になっているのだと思う。一過性ならいいが、そのまま本格的な認知症に進行していっても不思議はない。クワバラクワバラ。

歳をとってから引越しなど環境を変えるのはよくない、とよくいわれるのはこういうことだったのと合点した。

10月9日   三階にもなれてきた 女性も男性も最高齢が三階にいる。女性の最高齢は103歳のK子さん。男性の最高齢は92歳のIさんだ。K子さんは最近やや耳が遠くなったが、記憶力もよい。ここは午前10時のコーヒー時間、午後3時のオヤツ時間があり、半数あまりの老人たちが談話室に集まってくる。話題がないのであまりしゃべらないようだったが、きっかけをつくれば結構話がはずむ。今日は国定だった国語の1年生教科書冒頭のことばを話題にだした。まずはK子さんにみずをむける。「ハタ、、タコ、コマ、マメ、ミノ、カサ、カラカサ・・・あとは忘れましたな」彼女の小学校入学はたしか大正2年ごろだろう。まわりの老人たちが、それぞれ思い出す。「ハナ、ハト、マメ」「サイタ、サイタ サクラガ サイタ」という次第でなれてはきたが、不安なこともある。それは日を改めて書く。

10月3日  亡妻の墓参 妻が逝っていつの間にか、丸2年が経過した。やさしいタイプとは正反対の女性だったので、偲ぶのも湿気がない。これぞ、猛妻の功徳というものだろう。娘がが埼玉県下からきてくれ、その車で墓参する。新潟県の山村にあった分家いらい200年ほどの墓を移しておいてよかった。ここの墓地はすべて同型で区別がない。それと冨士山麓の雄大なロケーションとが気に入って購入したのだった。それにしても「ナニナニ家の墓」というのが多いのは考えさせられる。結婚式場に勤めている孫娘の話だと、、結婚式はいまや「ナニナニ家とナニナニ家の結婚式」ではなく、「ダレダレさんとダレダレさん」の結婚式になっているそうだ。

9月13日  孫のM子が来た。といっても本当の孫ではない。”バーチャル”(架空の)な孫である。もう2年余り前のことになる。未知の女性から手紙が来た。彼女の祖父がわたしと同姓同名、しかも、孚と書いてマコトと読ませる。わたしは90年生きてきたが、稀有なことである。そのときこれは珍しいと思うだけで終われば、それだけで終わる。だが”人間大好き”人間のわたし、返事を出した。時おりだが文通が始まった。その実物がやって来たというわけだ。

28歳、家族は関東地方の某県にいるが、彼女は20歳のとき上京し、理容業界で名の通った先生に師事、副都心の繁華街でその先生が経営する理髪店で働きつつ国際コンクールを目指している。私は知らなかったが、オリンピックと同じで、地区から都道府県まで各レベルのコンクールがあり、優勝すると上のレベルに上がってゆく。彼女は勝ちあがって相当な段階まで来たらしい。大会にはカットモデルを連れてゆかねばならぬが、東京に知人がすくないため、町で「これは」と思う男性を見つけ、わけを話して連れていったこともあるそうだ。危険じゃないかと聞いたところ、ケラケラと笑われた。下司ジジイの勘ぐりであった。

私と同姓同名のオジイチャンと連れ合いのオバアチャンは残念ながら一昨年、亡くなったという。手回しよく、携帯用の道具一式とエプロンまで用意していて、私の部屋で整髪をしてくれた。

9月2日  男性入居者の最高齢者だった元高校教師Tさん(95歳)が逝去された。女性の最高齢は103歳のT子さんだが、男性の最高齢者の逝去によって、元医師のIさん(92歳)が最高齢に繰り上がり、90歳の私が”ナンバー2”ということになる。Iさんには頑張ってもらいたい。覚悟はしているものの、この気持ち、人には分かるまいなあ。

8月15日  65年前のこの日、どこにいたか。わたしは在満青壮年の根こそぎ召集を受け、「満州国」東南部の通化県とういうところの近郊、玉蜀黍畑を潰した急造兵営の練兵場で、日本からの「玉音放送」を聞かされた。乳飲み子を抱えた妻は「満州国職員」である夫の任地(北満ハルピンに近い阿城県)に残っていた。ソ連軍が武装解除にくると分かった前夜、わたしは同様に家族を北満州に残している2人の戦友とともに脱走して北に向かった。

老人ホームの入居者は80代が多く、みなそれぞれの8月15日を鮮明に覚えている。

80歳代の女性は、多くが女子挺身隊など工場や組織に徴用されていた.という。ただS子さん(85歳)しているの場合は特異で、満州の新京(長春)に在住、女学校卒業とともに、関東軍総司令部の主計部隊に徴用され、ソ連軍侵入と同時帰宅が許されず、そのまま司令部とともに満州南部の通化へ移動した。ここで8月15日を迎え、天皇放送を聞く。奇しくも俄か召集を受けた村山二等兵と同じ関東軍最期の集結地にいたのだ。S子さんは関東軍司令部の家族、女性軍属の一行ととに朝鮮半島を南下、9月初めには祖国の土を踏んでいる。

私と食卓を共にしている元医師のIさん(92歳)は航空部隊付きの軍医で、8月15日はハルピンの部隊にいた。隣りは後に実態が暴露されて悪名高い730部隊(石井部隊)があり、ソ連軍侵入後、盛んに書類を焼却していたという。Iさんはシベリアに送られ、さらにウクライナに移されで帰国したのは4年後だったという。

8月1日  生存予定期間のカウントダウンがあと1年5か月になってしまった。なに、ゼロとなったら適宜更新するつもりだから切迫感はそれほどないが、考えてみれば深刻なことなんだ。食堂で卓を同じくする2歳年長のIさんが、昨日から出てこない。体調をくずして自室で食しているそうだ。男性最年長のTさんは入院しているそうだし、二番はこのIさん、そして三番がわたしなのである。こいつァ、うかうかしてはいられめえ。

7月27日  こんな小組織にも根深いセクト主義がある。きょうの昼食はかねて注文をとっていた”店屋物”の寿司であった。沼津に本店をおくチェーン店で、とくに旨いというほどでもないが、まずまずいける。ホームの食堂(栄養課)では毎食,栄養・変化・家庭の味を取り入れた苦心のメニューで85点はつけられるのだが、たまには店屋物も悪くない。ところが、きょうの昼食は調理室のブラインドはしまったまま、お膳も醤油の小皿もなく、介護スタフが配達されてきた寿司をプラスチックの容器、袋入りの醤油・ガリ・ワサビをテーブルにおいたままなのだ。つまり、店屋物には栄養課は「一切関知せず」なのであった。ここまでセクト主義が強いとはいままで気付かなかったのは、我ながら認識不足であった。施設長にも申し入れて改善してもらおう。とにかく、終の棲家なのだから。

7月7日  当老人ホームで期日前投票が実施された  入居者はホーム所在の自治体に財政負担を負わせないため、法律の特例で出身地から当地に住民票は移さないでもよいので、ホームの事務方が各自治体と連絡してここで不在者投票が行われるのだ。そこで、約50人の入居者のうち30人が投票した。投票率60%である。内容が知りたいがもちろん分からない。

7月6日   認知症の進行速度   Pさんは数すくない男性の入居者、認知機能がかなり低下しているが、このところ低下のスピードが急激に早くなってきた。スタフをよぶのに、「オイッ」という。オイッだめですよというと、覚束ないながらーーさんという。いつも危険防止のため中からは事務室でボタンを押さないと両開きのドアが開かない玄関前ロビーのソフアに座って外へ出るチャンスを狙っている。家へ帰りたいのである。哀れな気もする。栄光ある経歴の持ち主で、当時のことを話題にすると涙ぐんでくる。ストレッチ体操のと気は出てくるので、「Pさん、声掛けしようよ」というと、素直に1,2,3と発声する。何とか進行を遅らせ、認知機能を回復するプログラムはないのだろうか。他人事ではない、わたしだっていつ認知機能の病的な低下が発生するか分からないのだ。  

7月2日  何でも食う恐ろしいヒト族  テレビで乾燥地帯に強い多肉植物をポットで育てる話を放映していた。薄切りにして生食してみせる。「おいしい」「うん、これスッパイ」「あら、これ甘味がある」とさまざま。新野菜として大々的に登場するかもしれない。

また数日前はNHKテレビで、谷川での「山椒魚」捕獲を長々と放映していた。まさか食うのではあるまいと思いつつも、何となく気になってみていると、嫌な予感どおり川原で串焼きにして食いだした、レポ^ターが「うん、コリコリしておいしい」などといっている。ゾッとしたね。

出現いらい20万年の貪欲なヒト=ホモサピエンスはこうしてあらゆるものを食い続けてきたのだな。

7月1日  わが残命がカンウントダウンで残りあと1年半になった。ゼロまで行けば、また新規設定するつもりだから悲壮感はないが、ウカウカはしていられない。『老子』の新訳はまだ20章で足踏みしている。ま、なるようになるさ、でいくほかない。

数少ない男性入居者のQ氏、認知機能低下のスピードが上がってきて心配だ。玄関口まで降りていって、外へ出ようとする頻度も多くなってきたし、介護員を呼ぶのに大声で「オイッ」と呼ぶようになった。乱暴はしないが、何人かの名前は知っているのに、「オイッ」というのだ。「オイッはダメだよ」といってもダメなのだ。「ダレダレさんと言おうよ」と誘導すると口ごもりながら従う。さらに次の段階に進まぬよう、認知機能回復の方法はないのだろうか。

6月10日  最近、入居者が増えだし、定員80人のところ50人となり、僅かながら損益分岐点を越え、黒字になった。このホームは社会福祉法人の経営ではなく、株式会社の経営で、老人ホームのほか、ほぼ全国的に老人ホ-ム、デイサービス事業所、グループホーム、在宅介護事業」などを多角的に展開している。利益追求と社会福祉事業とは矛盾している。だが、コスト管理、顧客志向などは取り入れるべき点があり、社会福祉事業という目的さえ堅持すれば、この矛盾はプラスとして役立ち得る。

福祉には要支援1~要介護5までの7段階があり、このホームはすべて受け入れる。最近の入居者には介護度の高い人が多いから介護も容易ではなく、職員の補充が追いつかず、不満も出ている。なんといっても、私にとっては終の棲家なので、頼みますよ。

6月1日   人情薄れた「サントリー王国」の大企業病  わたしの入居している老人ホームに、明治40年生まれの103歳TK子さんがいる、晩飯の食前酒として「赤玉ポートワイン」をお猪口に一杯のんでいる。「赤玉ポートワイン」の名はわたしの少年時代から広告で知っており、興味をもってビンのラベルを見ると「明治40年発売」とある。調べてみると、サントリーの前身である「寿屋」が始めて売り出した葡萄酒だという。なんとTKさんは「同い年」の葡萄酒」を飲んでいたわけだ。Tさんに告げると「ホウ、そうですかいな」とニッコリしただけで、驚くようすもない。

それは去年5月のことだった。彼女の誕生日6月1日を前にして、わたしはビンにあるラベルの「お客さまセンターに電話した。「物品などは要らないから、誕生日に励ましの手紙を出してもらえないだろうか」。長く待たされたあげく担当の女性が「申し訳ありませんが、当社にはそういう前例がありません」という。何度頼んでも返事は「前例がない」のいってんばり。止む無くひきさがった。で、ことしは作戦を変え、「サントリーホールディング」の総帥・佐治信忠氏に手紙を出した。

きょうは彼女103歳の誕生日だ。きょうまで待ったが佐治さんからの返事はない。総帥まで上聞に達しなかったのかもしれない。何しろグループ企業209社、従業員2万5千人、資本金700億、連結売り上げ15,507億円の巨大企業、サントリーといえば、開高健氏らによる宣伝で人気度抜群になり好感度も高い。残念だがこれでは人気度も翳り始めるだろう。

5月27日  生存期限のカウントダウンが残り1年半になってしまったのに 我がら何をやっているのだろう。先週は病院三日、外出三日でくたびれ、日曜は腰痛で動く気になれず、食事も部屋に運んでもらった。そのままでは寝たきりになりそうなので、月曜は慎重に行動して幸い傷みも和らぎ、やる気も戻ってきた。一退一進だ。老いは心身のコストがかかると、つくづく思う。外出の一つは故居地域の句会である。わたしが詠んだ近況。「懸命に生きて五月の旅疲れ」

5月6日  新聞休刊を歓迎したが、今日は・・  連休明けで、今朝は各紙とも休刊だ。千篇一律の鳩追求だけの沖縄報道にイライラしないだけ気が静まる。が、午後、安藤陽子さんから電話。昨年10月夫君の彦太郎さん(中国研究者、早大名誉教授、日中学院名誉教授)の逝去当時の詳細を拝聴、北京当時を偲んだ。

この電話で竹内好さん(76年死去)の夫人が4月に老人ホームで亡くなっていたことを知る。吉祥寺にあった好さんのお宅は40~50代にかけしばしば伺っていてご夫妻の思い出は深い。諸行無常。

5月5日  老人ホーム生活百態  きょうは「子どもの日」だが、この名称では味気がない。原点である「端午の節句」で男の子を祝うということが抜けている。屋上から四辺を見回しても鯉のぼりは四つしか見えない。保守的な当地にして然り。だが、昼食は節句の特別メニュウでホタテ・マグロ、アナゴ、エビなどを載せた海鮮丼、ハマグリの代わりにアサリの汁。栄養課が奮発したのである。

晩飯は中国チマキに水餃子スープだった。そういえば、思い出した。端午の節句にはチマキを食べる習慣があったわい。童謡もあったな。「♪チマキ食べ食べ兄さんに、いや母さんだったかナ、計ってもらった背の長けエ・・・」口ずさみずつ噛んでいるうち、フトなぜ中国チマキ?と考え、もう一つ思い出した。これはもともと中国江南の伝説が古代に日本に伝わった風習だったな。伝説とは前3世紀、長江(揚子江)中流域に栄えた楚の詩人政治家である屈原(クツゲン)が政争に破れて泪羅(ベキラ)の淵に身を投ずる。世人が憐れみ、遺体が魚に食われぬよう粽(ちまき)を作って河に流したという。なんだ、わたしは80年代に北京でくらしているとき、この泪羅(ベキラ)にいったこともあるのに、それすら忘れていた。やはり認知機能の低下は確かだ。栄養課よ。沢山の記憶回復までさせてもらって謝々。

話変わって。デメンテイアの男性Yさんが体験入居の女性Sさんを見るだけで激怒。ホームの売りとしても、脳機能回復の訓練を早く実施するよう施設長に重ねて要望した。

5月3日  連休の価値  連休の最中、テレビはしきりと伝えている。そもそも連休よいうのは日常働いているからこそ値打ちがあるので、われらごとき、年中連休の身には関係ない。連休でも働いてくれる感謝を忘れまい。それと、働きたくもても働けない、また働き口のない人には苦痛でもあるだろうな。

5月1日  思い出す「血のメーデー」  新年に設定したわが生存予定期間である2年間のカウントダウンはあと1年8ヶ月になった。日暮れて途は残り少ない。メーデーというと思い出すのは戦後7年目の1952年(昭和27年)に起きた「血のメーデー」だ。昭和史では「メーデー騒乱事件」といわれる。前年のメーデーはそれまでの皇居前広場が禁止され、いらい代々木公園を会場とするようになった。それを好しとしない左派系労組が、散会以後、皇居前広場に向けデモ行進すべく「人民広場へ」と呼びかけ、1万数千人が動きだした。

私は27歳、当時、全国労組中央本部の書記局員で機関紙編集者、妻とともに4歳の娘を連れて(息子は1年生で登校)大会に参加したが、行進は娘がまだそんなには歩けないので、市電に乗って皇居前広場で待ち受けることにした。武装警官隊のものものしい警戒ぶりを見て、妻と娘は遠くに離し、わたしとは別に帰宅するようにいいつけ、わたしは一人で警官隊の背後にまわり、松の大木に上って枝に腰掛け、広場突入の模様を取材することにした。やがて地鳴りのような喚声とともにデモ隊が入ってきた。ジュラルミンの盾と棍棒で阻止する警官隊、行進中かかげていたスローガンを付けた竿を横にして突っ込むデモ隊、あちこちで乱戦が始まり、囲みを破った数百人が広場に雪崩れ込んだ。それを追いかけ逮捕する警官隊。砂煙のなか怒号が飛び交ううちにピストルの発射音が聞こえた。あとで死者が3人出たといわれるが、一切報道はされなかった。乱闘はどのくらいつづいたろう。ともかく数百人が逮捕され、あとには折れた竿、のぼり、チラシなど無残な広場が残るのを見て、わたしは「高みの見物」を終え、省線電車で帰宅した。有楽町はもちろん各駅でも参加者らしいと逮捕された人びとがいた。臆病者のわたしは所詮、傍観者であったことを白状しておく。

昨日、介護員のIさん退職。50すぎでリストラを受けて転職、福祉で再起をめざし3ヵ月がんばってくれたが、向かないと悟ってのこと。技術畑の職人気質で生真面目な仕事ぶりに期待していただけに残念だ。

4月25日  車椅子よサヨナラ  お世話になりました。バギー車(推して歩く)にもどった。これで脚力をつけ、年内には杖だけで歩けるようになるのが目標だ。

4月20日  気息奄々  トップページで気炎を吐いているが、当のの本人は、耐用年数切れのメンテナンスで気息奄々(きそくえんえん=息も絶え絶えで死にそう)なのだ。所内を動くのに車椅子の世話になりはじめて一週経つ。実は、その数日前、筋肉トレーニングをやりすぎ、太股と腰が痛みだし、押し車で歩くのも苦痛になってきたのだ。「身から出た錆」「過ぎたるは及ばざるが如し」「後悔先に立たず」

ただ車椅子といっても推してもらっては、楽だがクセになったら困るので、足と手を使い、自力で漕いでいく。やや小康を得て、明後日、病院で検査してもらうことになった。

4月10日   覚書交換  お助けおじさんのKさんが立会人になってくれ、Sさんと「家屋貸与」の覚書を交わした。その原案もKさんが書き、フアックスで法律家の息子もみてくれた。家賃というのほどの金額ではなく、お礼といううことで何がしかのお鳥目(チョウモク)を頂くことにした。私は金持ちではないが、老後資金は何とか足り、余分な金は要らないのである。全く欲がなくなったわけではないが、この心境、生がカウントダウンの段階に入った者でないと分かるまい。

4月5,6日  元住まいの衣類・家財など仕分け  このホームから15キロほど山中に入った住宅地にある自宅は2年近く無人のまま放置してあるが、近所のSさんが仮住まいを探しているので住んでもらうことにした。家具衣類なども放置してあるので、整理することにした。私には到底出来ない、その仕分けをするため、埼玉に住む娘が孫娘と二人、泊りがけで行ってくれた。どうなるかと案じていたが、孫娘が決断力よく廃棄しすっかりかたずいた。ヤレヤレ。残った数千冊の本は、こんどは息子の出番で近々いってくれるそうだ。

4月4日  読書の普通列車と特急列車  4冊の本がベッドの横に重ねてある。一冊を読了するのは息切れがするので、交互に読んでいるからなかなか終わらない。その間を山崎豊子『運命』第二巻が追い抜いていった。これは精緻な思考は必要ないから2日間で読み終わった。たとえてみれば特急列車だ。あと4冊は駅に止まったままの鈍行列車だ。鈍行の4冊を記録しておく。

鈍行列車=福岡伸一『生物と無生物のあいだ』、松木武彦『進化考古学の大冒険』、西郷武彦『宮沢賢治・二相ゆらぎの世界』、蜂屋邦夫『老子・荘子をよむ』、いずれも面白いが進まず、駅で特急が通過するのを指咥えて見ていた。一冊きめて読み通すか、やっぱり揃ってノロノロか。いずれにしても、一方で肝腎なわが『老子』解訳は五分の一ほどで車庫にはいったままである。まさに日暮れて道遠し。

4月1日  人生転換の記念日 転倒いらい丸2年、わが老後を一変させた記念日だ。その経過は中高年の隔月刊雑『明日の友』最近号に掲載したので発売期間の終了後、この喫茶店に入力する。まさに人生,一寸先は闇というより、予想しない事態が起きるものだ。備えあれば憂いなしとはいえ、全く万全という備えはできないものだ。むしろ、なにが起きても動じない心を作っておくべきだろう。

3月31日  60年ぶりの再会 1955年(昭和30年)前後、木下順二が主宰する民話の会でひところ交遊のあった西郷武彦さんが訪ねてきてくれた。私たちはその後、違う道を歩いたため交流も途絶え、かれの名は文芸教育の大御所として30何巻かの全集を出したり,、私にはまぶしい存在で敢えて近づかなかったのだ。かれは、私と同年の90歳で、小豆島が見える岡山県の辺鄙な景勝海岸に住み、いまなお北海道から九州まで小、中、高校の先生たちの集会で文芸教育を講義しているという。たまたま私の本を旅先のキオスクで見かけ、出版社を通じてわたしの住所をしった。「おおフウさん!」が第一声。人懐っこい薩摩隼人だ。話題は互いの戦前戦後、そして現在かれが取り組んでいる「二相ゆらぎ」に及んでいささか興奮した。ちょうど私が翻訳中の『老子』の「無」と関連する。約3時間半、90歳のふたり、心と頭が躍動したのであった。チト大げさか。

3月28日 楽ではないぞ。耐用年数切れのメンテナンスが大仕事だ。談話室で集団で行う午前、30分の機能回復体操は、まず腰かけたままでマリ、ハンドグリップ、500グラムのダンベルなどを使って上半身の筋肉トレーニング。ついで椅子の背につかまって下半身、とくに足腰のトレーニングである。これを機能訓練士(理学療法士、按摩師)の指導でやる。夕方に2,30分ほど自室で針灸按摩師による個別のマッサージがよく効く。

さらに大事なのが日常の生活だ。目覚め、就寝前の両眼温湿布である。わたしは、酷い両眼のドライアイ、右目の二次白内障と黄斑版変性があり、目薬より温湿布のほうが効き目がある。また、ことあるごとに腹筋、骨盤底筋の鍛錬、中国式腹式呼吸も欠かせない。まさに死ぬ間もないのである。

一昨年秋にこのホームへ入るまで住んでいた15キロ山中の自宅が、1年半の放置で荒れ果てている。たまたま近所のSさんが広すぎるスタジオ風の家を売った後、一時的な住まいを探していたので、相互利益で安く貸すことにした。子ども達にも異存はなく、念のため覚書を交わして4月上旬、引き渡すことにして、をすすめている

3月24日 アテロームの成長と余命  冨士病院へ。手術した背中のアテローム(皮膚の老廃物が瘤状になったもの)を抜糸。あと小さなのが一個あるが、大きく育つまでには4,5年かかり、そのままでも差し支えないという。それまで命が持つまい。一応、これにて一件落着とする。

3月23日 並みのひとではない  PHP出版のTさん来訪。『老子』訳の組み見本持参。出版不況のなかでも予定どおり刊行してくれるらしい。壮志に応えてがんばらねば。腰痛ではかどらぬが、8月末をメドに本腰入れるとするか。それにしてもTさん、並みのひとではないぞ。約束の昼前になっても現れず、小田急JR相互乗り入れのの特急に乗り遅れて小田原までいったそうで、到着は午後3時であった。

3月21日 書けずにいるうちにいろいろあった

同じ姿勢で動作していると、腰痛がひどくなるので書きたいことも多かったが、徒に日にちがたってしまった。10万人の死者を出した3月10日の東京大空襲では、大半を占める80代以降の入居者でも、関西以西のに住んでいた人はだれも思い出せなかった。3月10日が戦前は「陸軍記念日(日露戦争で日本が奉天に入城した戦勝の日)だったと記憶している老人は多かった。わたし個人でいえば、腰痛は慢性化した。背中のアテロームが次第に大きくなって不快なので手術した。幸い経過はよく、24日に抜糸の予定である。全く耐用年限のすぎた老体のメンテナンスは楽ではない。

2月26日   2.26事件から74年、あのとき・・・

 毎朝、筋肉リハビリ体操の前、機能回復訓練のスタフが「今日は何日でしたっけ?」と聞く。一瞬「?」と思ったが、そうだ、きょうは1936年(昭和11年)の2.26事件から74年目だと承知していたのに。

 あの時、わたしは旧制中学4年の3学期で、1時間目の漢文授業に岡先生が、事件が大雪でもあるので休校となったと告げ、さらに茶化してこういった。「今年、いかなる年にや、いたく雪降り、都に騒ぎ起きて岡田のオトドは殺されたまいぬ」。

 後に実は首相官邸で殺されたのは従弟であり、別室にいた総理の岡田大将は無事脱出していたのだが、軍事予算を削減しようとした高橋是清蔵相はじめ、数人の要人が暗殺され、青年将校たちの率いる近衛部隊の兵士1500名が永田町一帯を占拠した。「国家改造」をスロ-ガンとして、「皇道派」有力将軍が乗り出すと信じていたが、その将軍は動き出せず、4日間で鎮圧され、将校らは非公開の軍事裁判を経て死刑となった。だが、この事件を契機にかえって軍部の政治支配力が強くなり、翌年の日中全面戦争、その泥沼化、太平洋戦争と日本帝国敗戦へとつづくのだ。

 初日、休校となったのをいいことに、わたしは2,3人の仲間とともに校舎のあtった小石川駕籠町から永田町まで歩いて見物にゆき、手前で剣付き鉄砲を構えた兵士に阻止され、ものものしい周辺の雰囲気に浸たったあと、動いていた”省線電車”(今のJR)で帰宅した。当時、わたしはとくに軍国少年ではなかったが、決起将校たちの主張に共感し、不発に終わったことに失望したことを告白しておく。

 ホームの食堂で事件の話になった。隣席のSさん(85歳)は小学生で虎ノ門に住んでいたという。ラジオで「近隣の住民は弾が飛び込む恐れがあるので避難するように」という放送(この放送はわたしも聞いた記憶がある)といわれ、父だけ残して全員隣り町の小学校に避難した。隣りのテーブル、Mさん(90歳)は下町に住んでいたが、麹町の女学校に通っており、休校で帰宅するため、九段下(戒厳司令部が置かれた)まで歩いて行くと、剣付き鉄砲を構えた兵士に「気をつけて早く帰宅せよ」と言われたそうだ。

2月20日   認知機能の低下を実感

「まだあなたは大丈夫だよ」などいわれる。「自分で自覚している人はボケていないよ」ともよくいわれる。だが当人にすれば確実に機能は低下している。昨今、とくに気になるのは「見当識障害」なのだ。時間の経過、時間的遠近、現在地の混乱・・・総じて足が地に着かず、ふわふわしている感じのことが多いのである。あまり気にせず、観察だけは怠るまい。

2・19   目標への道遠し

杖だけで歩けるようになるのが目標で、押し車に掴って歩いており、リハビリで徐々に脚力がついてはいるが、なかなか杖だけで歩けず、腰が痛む。コルセットを外して2週間経つ。今日は訪問診察があり、医師に依頼して幅の狭いコルセットを処方してもらった。

2・17   誕生会

このホームでは毎月、その月に生まれた人を全員で祝う誕生会を催す。2月生まれは5人、その最年長91歳の女性Mさんが生憎病院外来で欠席、わたしが最年長だった。いつも挨拶というと型通りで面白くない。そこで短い漫談をやったが、受けたかどうかは分からない。概して、老人施設はどこでも入居者が無表情で活気がない。老人介護に何か欠けているのだろうか。ただ、恒例の出し物で地元の合唱グループを呼び、ナツメロを歌ってくれたときは反応があり、いっしょに歌っている老人も結構いた。

因みに入居者はただいま42人。70歳台9人(女4・男5)、80歳代24人(女19・男5)、90歳代8(女5・男3)、100歳台1人(女)である。90歳台入りしたわたしの兄貴は92歳の元医師、94歳の元教員、残念ながら耳が遠く、会話はままならぬ。

2・15   アテローム

何しろ耐用年数切れだからメンテナンスに忙しい。こんどは背中に出来た「アテローム」の始末だ。これは柔らかい小さなコブで、痛くも痒くもないが、少しずつ成長するので気持ち悪い。脂肪のかたまりと思っていたが、そうではなく、皮膚の老廃物がたまって薄い膜に覆われている。もうこのまま共に焼き場へとも考えたが、コブの裾野が2センチほどに成長して、背中を掻くたびにひっかかる。ヒフ科に受診し、3月15日に手術の予約をした。

国際善隣協会の事務局長金沢さんから、予定していた機関誌の原稿がダメになり、ピンチヒッターの依頼あり。十五年あまり以前、同誌に掲載した『荘子』を再掲したいとのこと。快諾。ゼニカネより、読んでもらえることが嬉しい。やはり古典は強い、生ものと違って干物であり、しかも二千年も鮮度を保っているのだから。

2・11  「非国民」

今日は「建国記念日」だという。わたしは「非国民」である。正確にいえば「非大日本帝国民」である。敗戦後に憲法改正で「大日本帝国」はなくなった。「紀元節」はもともと明治維新で出来た大日本帝国が皇室神話にもとづき制定したもので、戦後、日本国になったとき、それを「建国記念日」という名称に塗りかえたのである。こういう羊頭狗肉のマヤカシには乗りたくない。だから、それこそ「わたくし的」には認めない。認める人は「建国記念日」を祝えばいい。敢えて反対はしない。

思いがけず、55年ぶりに、当時、木下順二さんが主宰していた「民話の会」で一緒だった西郷武彦さんから、わたしの本を出している出版社経由で、二冊の著書が送られてきた。西郷さんはわたしと同年だが、教育学者の長老で、活躍は紙上で知っていたが、縁遠くなって文通もしなかった。わたしの本を旅先のキオスクで見つけたそうだ。電話魔のわたしは早速、書かれていた瀬戸内海岸にあるらしい岡山県の自宅に電話した。夫人が出て、驚いたことに講義で高知県にいっているという。90歳で全国を飛び回っているらしい。携帯を聞き、電話した。思いがけず老後の楽しみが一つふえた。

2・5    90回目の誕生日

なんと永らえたものだ。90年といってもピンとこないが、NHKテレビのドラマを見ていて感嘆した。ペルリ黒艦の来航、尊王攘夷だ開国だと日本が大変化に大揺れしたのは1845年前後、それはわたしが生まれた1920年の75年前にすぎない。わが誕生1920年を軸にして、90年を過去にまわしてみると、なんと江戸時代晩期、十一代将軍家斉治下、歴史年表には良寛死去、シーボルト事件、大塩平八郎の乱、諸国飢饉、一揆続発などの記載がある。わたしの生年を軸にして円を描くと、壮大な歴史絵巻なのだ。

わたしの「卒寿」を祝って、旧住所の句友など7人が桑田さんの肝いりで来てくださった。「祝卒寿」の色紙もいただく。「師は卒寿いまだ山裾真白冨士(国吉七赤)」「春立つ日気骨溢るる卒寿かな(松野つま女)」ほか七句。ありがたいことだ。
因みに先日の句会にわたしが欠席投句した作品をあげておく。「冬枯れや卒寿となりて尿瓶抱く」

隣接の中華料理店で会食。やや疲れたが、心は快適な一日。

闘病中の吉田豊さんから「90歳の誕生日おめでとう」の便り。
恵子からセーターのプレゼント。

提携冨士病院の別府医師訪問診療あり。胸椎・腰椎をガードしているコルセットを外してよいとの診断。快哉。冨士虎ノ門整形病院入院で装着してから3ヵ月近く、退院してから二ヵ月半だ。これも誕生祝いになった。

晩飯のカウウントダウンは「あと745回」になった。

2.3   節句

ここ老人ホーム。食堂は一食550円だが、苦労して季節感を出してくれる。今日の晩飯は節句の松花堂弁当=ちらし寿司、てんぷら(えび、きす、さつま芋、菜の花)、煮物(高野豆腐、人参、きぬさや)、さば味噌煮、菜の花おひたし、茶碗蒸し,イチゴ、節分豆子袋・・・・結構でした。

ちなみに、わたしの夕食は後747回だ。

2.2  曇天 寒く雪解け遅れ

昨日の相撲協会理事選挙で貴乃花当選。慎重に発言しているが、改革への道に期待する。

2010.2.1  雪

二度目の脊髄圧迫骨折(折れたのではなく、砕けた)のため2か月入院し、退院してから二ヵ月半近く経つが、まだコルセットが昼夜外せない。腰から下の筋肉は毎日のダンベル体操・マッサージで少しずつ強くなっているが、まだ自室から食堂まで手押し車に捉まってあるき、一日一回は杖で怖る怖る歩いている。

部屋の壁に世界地図と日本地図を張った。身は厩に伏せるとも志は世界にありという意気込みだが、実はブルガリアとかエストニアとかの位置が分からず、次々出てくる外国のことも見当識が機能しない不安からである。といっても目がショボショボしているから、見難いのである。

同年で元日赤看護婦だったUさんから電話、愛知のケアハウスに住み、とこどき箱根の自宅に帰るそうだ。とても幸せそうだった。反射的に、寝たきりの夫を自宅で介護している82歳のTさんを思い出し、励ましの電話をかけた。

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