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最終更新日 2001/12/16
西暦 和暦 年号は年度です。(1〜3月をのぞいたもの)
存在した班名 注・班を新設された方のみお名前をかいてあります。
{1年生のとき入部とした人の氏名}(現在会員権のある人、またはOB会で5〜10年以上活動した人のみ)
○特記事項’会員からよせられたお言葉
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昭和22年・科学部
科学部全体に対して7,000円では何も出来ないが科学部は一番多く人数を有し、生物班は百余名の人を持ち 乍ら二千円で一ヵ年やれるでせうか、風の便りにきくと校友会費の中、半分は学校建築費として使ふとの事、これが本当とせば校友会の本義にはづれて居ないでせうか、我等が校友会費の全部を我等で使ってそれによって学校の文化及体育の成績が上がれば十円でも二十円でも我々は悦んで出します。我等は各部に平等に近い費用を望むものです。
(富士中新聞記事)
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昭和23年・物理部
現在物理部としてはあまり設備がととのってはいない先ず室内の設備をととのへてから實験を始めるのだと部長上田正明君がいふ、こんな現状では實験も何もできないと部員全部が云っている、何しろラジオ一つ作るにも金がないのだからと云ふ、現在は休止状態にあるが今に活動を開始したら大いに活躍するぞと部員一同はりきっている、農繁休暇の終わった後に小倉先生の教授する生徒たちからレポートを集めその中で優秀なものと部員の研究結果などを合わせて富士高物理学雑誌を作ると云っている、豫算も八七五〇円では何もする事はできないだろうが近く部員二名ばかりをつれて東京に物理参考書を買いに行く様である CSATC
(富士高新聞記事)
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昭和24年・同好会結成流行
最近生徒間では同志をつのって同好会を結成する気運が流行している。現在誕生しているものでは夏雲会、星友会、音友会などがあり各々会誌を発行している。
(富士高新聞記事)
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昭和25年・物理部
薄暗い所に赤い電球のついた部室にて部長小川君を訪問する、今年の予定を尋ねる…「はあ今年の主な物としては無線班で録音機を作製して大いにあばれ様と思う。」と胸をわくわくさせていた、この部は無線班、基礎実験班、機械班、模型班の四つに分けられておりどの部も希望は一ぱいだった。 新入生を迎えて合計二十七名になり皆実験道具のずらりと並んだ戸棚の前で真剣に研究をやっている全般的に地味な文化部中でも一番地味なこの部だけに今度の無線班の録音機の製作は明るい光を校内に入れ込む事であろう。 希望に満ちた小さい胸を鳩のようにふくらませて入って来た新入生も、もう力一杯活躍している。彼等の今後の活躍を期待しよう。
(富士高新聞記事)
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昭和25年・録音機完成
物理部では東京へ録音器の部品を買入に行きその製作もついに完成しテストにテストを重ねて実用の域に達し、いつでも録音できる様になった事は大きな収穫である。又日本放送協会のCIEからアメリカ文化及びテレビ等五十数点の写真をかりて来て展示する。
(富士高新聞記事)
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昭和25年・文化祭計画
物理部では、この前と同じように校内録音を行う。その他は、録音器展示、テレビジョン公開、各種工場機会展覧等であり、物理実験としてはX線、真空技術フーコー振子、静電気、動電気、ラジオ部品作製、又物理図表説明である。 今回の文化祭には部員一同協力し盛大に行う予定である。
(富士高新聞記事)
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昭和26年・文化祭記事抜粋
物理教室、理科研究室の物理展は、電気に縁の多いクラブである為、停電で昼過ぎから開くと云う状態であったが、歌うアヒル、新有楽町駅模型など生徒の心を引きつけ特に人工雷、電気洗たく機、受話器などは、いたずらに良い材料となっていた。
(富士高新聞記事)
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昭和29年・物理班
鉛板録音テープレコーダー、小型送信装置、高圧実験、電光通信、自動車解体写真(日産)、電気器具の陳列、都市の模型、簡単な物理実験、個人の生徒作品、パンフレット発行、等広い範囲に渡って展覧する予定である。
(富士高新聞記事)
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昭和31年・名称を富嶽祭に決定
学園の最大行事である文化祭と体育祭が、今年から合同され「富嶽祭」という名称で行われることになった。その理由は、生徒会役員の説明によると文化祭と体育祭が別々に行われたのでは、その前後にあるギャップが大きいため不合理であるからだということだ。従って今年は次の日取りでおこなわれる。
一六日体育祭総練習/一七日文化祭準備/一八日開会式、演劇、音楽発表、クラブ研究発表、展示会、バザー/一九日校内弁論大会、展示会、バザー、(一般公開)演劇、音楽会/二〇日文化部かたずけ、体育祭準備/二一日体育祭/二二日かたずけ/二三日代休
なお、レクリエィションとして十八日と十九日の両日は歌う会とホークダンスの会が行われる。▽文化祭の方は、生徒会文化常任委員長に決定され、目下いろいろと構想がねられている。いままでに決定した主なもののうち、演劇部の今年の出しものは、喜劇「結婚申込み」など三本であり、期待されている。他に物理部ではアマ無線の全国交信を公開したり、LPコンサートを兼ねた音響学の実験を講堂で行う模様である。十九日の弁論大会は、全クラスが一名以上参加し、クラス対抗という型で行われ、盛大なものになろうと言われている。他のクラブもマンネリズムからぬけ出した新しい雰囲気を出すべく努力しているようである。
(富士高新聞記事)
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昭和31年・「富士高無線局」来月には誕生
物理部で、八月の休み中に開局する予定であった「富士高無線局」は、その後予算の関係などから進行しなかったが、富嶽祭までには開局し当日は全国のアマ無線と公開交信する予定とのこと。
(富士高新聞記事)
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昭和36年・新入生のための案内
物理部・電気、機械好きの輩にはもってこいのクラブ。活動と言えばラジオの原理、製作を基盤にして活動している。中心はアマチュア無線だがまだまだ研究の途上にある。無線免許を持つ先輩が時折指導にくる。
(富士高新聞記事)
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昭和39年・「富嶽祭」中止本決まり
生徒最大の期待のマトである富嶽祭が中止と決定され来年の六月に、新校舎落成と共に行われることになった。主な原因は新校舎建築のためグランドが使用できないという事であるが、反対意見も多く「思い出がなくなるからどうしても行いたい」「クラブ活動の発表の機会がなくなる」「来年の予算に響く」等が出された。又賛成意見では、「三年生の勉強が軌道に乗ったときに、途中大きな空白が出きるということはよくない」がでた。体育祭をどうするかについてクラス調査したところ、20対3で反対が多く結局これも中止となった。終業式での校長の話では、「学校側では、富嶽祭の代わりに校内発表会を行うことが決定されているそうである。」
(富士高新聞記事)
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昭和40年・旧木造校舎の物理準備室が部室であった。
’木造校舎の元物理準備室は懐かしいですね。物理教室の机が積んであったので中二階を作っちゃって、手紙書いたりしていた人がいたし、部屋の中で科学室のアルコールを燃料にして、ラジコンのエンジンの慣らし運転をしちゃう人がいるし、昼にはよく窓から外に出て、クローバーのくさっぱらで弁当をよく食った。すぐ傍にちいさな蓮の池があってオオサンショウウオがいて、生物部室があって、そのむこうに化学部室があった。
’まだ飛行機がない。エンジンと少々の部品があったかな。
’富嶽祭以後残った二年生は3人だったような。部室にくるのは全部で7〜8名だったような。毎朝,毎昼、毎放課後部室にいた。
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昭和41年・無線班
’その当時、部室には先輩達が作ったハイパワー送信機の残骸がありました。出力管は813という直熱5極管で、まともに動作すれば100Wの出力が得られたはずです。その当時としても結構高価な球だったはずで、どうやって入手できたのか、今考えると不思議です。
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昭和41年・理科なんとか研究発表会に出始める。
’なんとか新聞社主宰の審査会に出品したが参加賞ていどだったので、ちゃんとみたのか文句の手紙をだしたところ、校長を通してこっぴどくおこられた。
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昭和41年・物理部バッジをサイン波のデザインに変える。
それまでのデザインがあまりに暗くダサいものだったのでみんなでデザインを変えようとなった。当時部長の土谷さんが物理の究極は波動だといった?のでサイン波にきまった。みんな出来映えに満足した。
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昭和41年・顧問の水野善雄先生の指導により輪講
水野先生と声高さんが話し合って始めた勉強会で、部員全員が研究に目覚めた。物理部が機械マニアと模型マニアの集団から研究者集団に生まれ変わった記念すべき出来事だった。勉強会は半年以上つづいた。
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昭和42年・無線班
’多分、私が2年の時、乏しい部費の中から1万円程度いただいて、静岡まで受信機のキットを買いに行ったことを思い出しました。買った受信機キットは松下電器(ナショナル)の高一中二のもので、部室で組み立てた記憶があります。最近になって分かったのですが、その当時アメリカにNationalという有名な通信機メーカーがあり、私が作った松下電器(ナショナル)のキットはNationalの受信機のコピーだったようです。松下電器(ナショナル)は十数年前にアマチュア無線業界から撤退し、本家本元のNationalも今では見る影もないようです。
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昭和42年・物理実験班
’静岡県東部理科研究発表会とか何とか言うのがあって沼津のどっかの女子高校でみんなして行ったことがあります。声高さんのストロボによる運動解析が入賞して,久保田さんの水波の研究が次点だったかのようなきがします。審査の先生の理解力がいまいちだったような記憶があります。座談会で出たお菓子の余りを○○さんがかき集め(女子高生失笑の渦)、帰りの電車の中で食ったのを覚えています。
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昭和42年・ラジコン班
’フェニックス号を設計、製作。カメラを積んで航空写真を撮影しました。卒業アルバムにのっています。得能さんのリコーオートハーフを2台うるいがわに墜落させ壊してしまいました。ラジコン技術誌に写真と記事が2号にわたって掲載されました。フェニックス号の航空写真はボタン操作のラジコン(シングル)では日本初ではないかと思っています。(マルチ操作のラジコンではすでにありましたが)記事は10月ごろ富士校生は受験勉強中のはずですが私は記事の原稿を書いていました。2万円の原稿料をもらいましたが、すべてカメラの修理代金になりました。その後のことはよくわかりません。
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昭和42年・物理部創立以来はじめて女性3人入部し活動する
以前にも無線班に女性の入部者はいたようである、がこの三人娘は実験班を主に活動し、又他班の活動にも参加したので物理部をおおいに盛り上げた。岩本山へ遠足、朝霧高原の飛行など花をそえた。
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昭和42年・文化部初の合宿青雲寮壊滅
それまで文化部の合宿申請はすべて棄却されてきたが顧問水野先生が職員会議で「全責任は私がとります」と言ってくれたので以後物理部だけは合宿できる特権を得た。合宿の夕暮れにはうす雲に月が見え観測できると思っていたが夕食が終わったころ強風になり食堂の窓が破壊され玄関の戸がはずれたので体育マットなどで補強し破壊をくいとめていたがバリバリの音がして2階に駆け上ると天井が一気に落下し天井板が頭からぬけると屋根がなかった。全員一階の中央に集まり自転車の発電機で明かりをつけ一晩すごした。
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昭和43年・無線班
’電子パーツは○○君が会社からもってきて、皆に大盤振る舞いをしていました。その当時、大量にもらった2SC458という橙色のプラスチックパッケージのトランジスターは、今でも私のジャンクボックスにあります。ガス器具テスターも大量に出回りました。そのテスターに付いていたラジケーター(簡易型直流電流計)もまだ持っています。これにはダイオードをつけて高周波電力の簡易検知器として今でも活躍しています。数度の引っ越しをしていろいろなものを処分したり、なくしたりしましたがこんなものだけは不思議と残っています。
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昭和44年・ラジコン班
富嶽祭で航空写真を売る為に、早朝、得能さんと一緒に校庭から飛ばして撮影しました。グランドの三塁ベースあたりにある影が得能さんと私(小林文彦)だと思います。、焼き付けは私が自宅でやりました。写真は二枚組みで完売できました。飛行機は吉原のいつも行っていた店ではない店でキットを買って、私が組み立てました。カメラは得能さんか小野さんのリコーオートハーフで、得能さんの1chプロポ(?)で、エンジンコントロールのサーボにレリーズ並列でつなげました。カメラはRCの受信機をくるむスポンジを流用して、衝撃・振動対策し、機体内に搭載、機体底部中央をCutした撮影口から撮影しました。この撮影の後も、撮影をトライしましたが、エンジンの振動を拾って、ブレてしまい全て失敗してしまいました。
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昭和47年・生物物理班
’生物物理班をなぜ創設したのか? 自分でも思い出せない。まだ所属しているような錯覚におちいります。うれしかったのは、富獄祭の時、ボーアの原子モデルを、自動車のモーター駆動のアンテナを利用して、原子と、電子の回転する模型を作ってOB会ファンドをもらってうれしかったです。きつかったのは、二年目、「前の年となにが違いますか」というOBからの質問には困りました。
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昭和48年・ロケット班
’昭和48年(私、柏酒・一年生)の半ばから、自分一人で「俺はロケット班だ」とうそぶいておりました。友人二人を巻き込んだのが48年終わりから49年のはじめ頃。その年の新入生オリエンテーションでデモンストレーションをして新入生を獲得しました。(ワイヤーでつったロケットもどきを、講堂の二階席から演壇めがけて「打ち下げた」。)
’ロケット班はこの年に新設されたように思います。構成要員は、柏原という古文の先生の息子、深沢君、たしか九大の航空宇宙にいったなんとかという後輩たちがつくりました。この年は、かしゃばらの海岸でうちあげました。
’ロケットは、校内で打ち上げ、みごとに職員住宅につっこみ、時の部長のSK君が職員室に呼ばれ、教頭か、だれかに厳重注意をされました。
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昭和49年・富嶽祭でロケット公開打ち上げ実験顛末記
’富嶽祭で初めて公開打ち上げ実験をしたのは、私(柏酒)が2年生の時です。よって、昭和49年かと思います。打ち上げは、初日の午前中。30分前からほぼ全校舎に秒読みを放送しました(担当:私)。打ち上げは校庭の中央。
「ゼロ!」
で友人が点火=ニクロム線に電流流す。しかし、ニクロム線が暖まるまで時間がかかるので、「ゼロ!」の瞬間はロケットはうんともすんとも言わない。それで、全校大爆笑。(全校生徒が校舎の窓に張り付いていた。講堂で劇やっている英語部員以外は。)しかし、数秒?して「シュー」と音がして、どーんとロケットは飛んできました。上空で先端のパッキンが吹っ飛んでガスがそこから吹き出し、方向転換。地面に向けて加速していきました。(こういうのを「ミサイル」と言うのかな?)あの時、確かに職員住宅の敷地内に落ちたけど、けが人は出なかった。(出てたら大変。)(ちなみに私、放送室にこもって秒読みしてたから、飛んでくところ見てない。)(かわりに、私が見たのは墜落現場にすっとんで行く新任の校長先生。)(ロケットの名は前校長にちなんで「左源太1号」。)(これで新聞沙汰にでもなっていたら、新任校長には気の毒でした。)
怒られたのはSK君ではなく、私MK(かしわさけ)でした。教頭に怒られたのは、副顧問の「かわい」先生(河合?河井?)。この「かわい」先生に私が怒られた。「後の実験は全部中止だ!」と言われました。(確か、あと1本は準備していたと思います。)顧問の水野先生は当日出張していたが、教頭に電話で呼び戻された。
教頭:「富士高の水野を呼んでくれ」
先方:「ただいま会議中ですが。。。」
教頭:「かまわん、呼べ!!」
(同級生の目撃談より。)しかし、水野先生は生徒をしからなかった。
「(打ち上げ成功を)人前では喜ばないように。」
とだけ言って、微笑んでいらした。(「仏の水野」)。生物の後藤先生は
「お尻にワイヤーをつけておけば良かったね」
とサジェスションして下さった。冷静な反応はこのお二人だけ。いまだにこのお二人はご尊敬申し上げております。後の先生は「ロケット?ばーか」程度の反応。
なお、富岳祭でのロケット打ち上げの「決定的写真」が「新聞部」にあるはずです。卒業アルバムには載らなかったですが(多分、政治的配慮による)ちょっとだけ目にしたことがあります。高い位置からとったらしく、煙を吐いて上昇するロケットと、驚くロケット班の姿が両方、画面に収まっています(私の記憶によれば)
ロケット班自信が驚いたのは、訳があります。一週間まえのテスト打ち上げ(近くの河原)では5mとも飛ばなかったからです。その一週間で行った改良(上部パッキンをゴムから銅に変更)があんな効果を生むとは。。。
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昭和49年・生物物理班
’創刊本は、半分は私が書いて、半分は、一つ上の藤田、遠藤、向山さんたちのグループが書きました。未来技術を独断で私が書いていますが、その中でも人工眼球は、予想した通りの開発状況です。自分でも驚きます。タイトルは、水野先生に命名して頂いて、鈴木真理さんが書いたんですよ。第二号も出版されたはずで、稲葉行男くんが編集したはずです。
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昭和56年・1981年の活動状況
当時の班長は、「ロケット班 - 佐野良」「無線班 - 小池都子」「マイコン班 - 赤池」「天文班 - 大石」というようなメンバーでした。 ロケット班は森川君、佐藤君、天文班は別の佐藤君あたりが良く部室に顔を出してました。無線班はYLばかり4人もいました。ちなみに私(中野_H)はロケット班所属でしたが、たまたま電話級免許を持っていたので、時々無線班の手伝いもやってたような覚えがあります。
さて、1981年といえば、9月のある土曜日、ロケット班有志がペンシルロケットを作って屋上で発射実験をやったら大爆■して学校中騒ぎになったというようなことがありました。本人たちはたいしたお咎めもなかったのですが、なぜか物理部全体が1週間活動停止になったという、ちょっと面白いことがあった年でした。
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昭和57年・富士校創立60周年・旧師寸感・水野善雄
東京を東海道線で出発すると、窓外の景色が次第に明るさを増すのが感じられる。そしてやがて陽光に充ちた富士に着く。私が此処で受けた第一印象は「陽気」であった。仮りに平均気温五度以下の日を冬とするなら、東京は約二ヶ月の冬があるが、此の地には冬がないことになる。 この陽気と美しい風光がこゝに育つ人材の気質に影響しない筈はない。果たして富士校生達は山田長政の子孫らしく明朗で発展力豊かであった。願わくばその秘めた力をもっと自覚して欲しい。 それより私が忘れ難いのは彼らの人間味である。ここでは心の連帯が失われていないのだ。私のような者でも頼まれ仲人ではあるが四回やらせてもらった。有難いことである。今の競争社会の行く末を考えると、人間味豊かな人材が必要な時がきっと来る。富士校生に期待する所以である。
(富士高新聞記事)
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昭和58年・無線班
’長屋の物理部室は無線班が占拠している状態で、放課後は日々交信に明け暮れていました。メインは7MHzでした。FT200というYAESUのHF機で、100W出してた記憶があります。アンテナ張りで、よく屋上に無断で上ってました。南北校舎間ダイポール張ったり、コンテスト参加等、意外とアクティブだったと思います。コンテストでは、夜通し行うため、夜中にこっそり校舎に忍び込んだり、十国峠でキャンプがてらやったこともありました。当時の顧問(物理の松原龍一先生)は結構理解があって、十国峠の時は半ば公認で、明け方、差し入れ付きで様子を見に来てくれました。
’無線班はこの年、ALL JAコンテストとフィールドデーコンテストとに出ました。仕切ったのは1年上の先輩です。フィールドデーは中野さんのトラックに佐野暢彦さんの運転で十国峠まで遠征でした。あのロケーションならではの「入れ食い」でした。鳴海さんのシティ号が、土曜日は来てくれたのに日曜日に来てくれなかったのはなぜでしたっけ。
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昭和59年・無線班
’翌59年から、顧問は高林秀吉先生でした。この人のときは、予算をとってくれて、屋上にローテーターと4エレ八木(だったと思う)が設置されました。ただ、我々の卒業後は無線班の活動も盛んでなくなったのか、富嶽祭で訪ねたとき、そのローテーターが配線はずされ、部室に転がっていたのを記憶しています。
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昭和59年・当時の物理部室の日常を少々。
’部室では無線活動の他、電子工作、ファミコン、カセットコンロでの炊事(ラーメンばっかり)等が盛んに?行われていました。ある日、ホットプレートで焼き肉をやったら、自火報が作動し、大騒ぎになったことがあります。それ以降、煙が予想されるときは、自火報をガムテープでぐるぐる巻きにしてました。
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昭和62年・第31回富嶽祭・マイコン班
今年のメインはなぜかアニメーションです。 なぜか。理由があります。それは”アニメーションなら見物客は機械にさわらなくてもいい。”からです。思い起こせば一年前、我がマイコン班のテーマは人工知能(無能ともいう)でした。その内容は、キーボードを使ってマイコンとお話しようというものでした。さあ、もうわかったでしょう。今までマイコンというものをたいしてさわってない見物人はキーボードをみるとおじけだし、そそくさと逃げてしまったのです。(部員が部屋を占領していたせいだ!)そこで今年は”キーボードにさわらなくていい”を売り物にして見物人のみなさんに迫ってみたいとおもいます。 どーだ。まいったか! その他、どこの誰でも知っている”冗談半分にやってみたところ、意外と当たったりして思わず冷や汗をかいたために風邪をひいてしまう。”という「パチンコ占い」をやります。もしかしたら、本当にもしかしたらゲームの展示もやるかもしれません。四階の一室で待っています。どーかみなさん来て下さい。
(富士高新聞記事)
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昭和62年・第31回富嶽祭・無線班
我々物理部無線班は、FAXなどのデータ通進、音声合成、各種の電子工作を展示します。ミニFM局などを作ったり無線に関するいろいろな説明を掲示するなど内容も豊富です。無線というとなにかとても難しいものとか、暗いものとか、と思ってしまう人もいますが、展示内容は不通の人にも十分理解してもらえるものだと思います。ぜひ見にきてください。後悔はさせません。今年の無線班は半端じゃない!
(富士高新聞記事)
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昭和62年・第31回富嶽祭・天文班
今年の天文班のテーマは「STARE AT THE STAR」このテーマにそっていろいろな企画を用意しました。物理部屈指の優れた構成力によるプラネタリウム。私たちがその技術力を結集して制作した数々の天文模型。審美眼を磨きあげて撮った写真。最近の六星占術ブームにのって今年もおくる恒例の星占い。こんなところです。さらに、あまった知力をかきあつめてクロスワードを作成し、正解者先着一名様には豪華な品を進呈します。さあ、悠久の神秘とロマンを感じさせるこの天文班にあなたもきてみませんか。
(富士高新聞記事)
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平成5年・部活動紹介・物理部天文班
Q、部活の雰囲気はどうですか? A、家族的で、和気あいあいとしています。そして、やるときはやります。完璧ですね。 Q、活動の内容は? A、主に、天体の観測と記録です。神の生態の研究など、天体の知識の増大に努めています。その他には、ブラックホールや流星、ギリシア神話についても調べています。 Q、天文のおもしろさといえば? A、誰もが恋人と夜空を見上げ、愛を語り合うときがくるでしょう。そのとき「ほら、あれがシリウスだよ。」と説明できるのです。これこそが天文の全てです(笑)。 Q、この部活に入ってよかったことは? A、友達が増えたことと、天文についての知識が豊富になったことですね。 Q、何かPRは? A、サザンのが聞きたい人は、我れらが班長が生で歌います。(無料)
●天文班は、3年生14人1年生30人の大所帯。現在は1年生のみの活動だが、とても楽しそう。
(富士高新聞記事)
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平成7年・富嶽大賞は天文班に。大好評プラネタリウム
Q、人気のあったところは? A、やっぱりプラネタでしょう。あれは二ヶ月ぐらいかけて作ったからね。あと一般の人には、東海地震に備えたビデオかな。今とても騒がれているからね。 Q、苦労したところは? A、人数がとても多いから、まとめるのが大変でしたね。71人もいるから。 それからプラネタリウムのドームを作ったけれども、その中心部分を丸く作るのが難しかったよね。 Q、これからどんな活動計画を立てていますか。 A、手作りの望遠鏡を作りたいですね。半径30センチぐらいのものを。それから山崎賞をとりたいですね。私立高校は設備が整っているので有利だけど、みんなで協力して頑張るつもりです。来年の富嶽大賞も頂きますよ。
(富士高新聞記事)
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