掛川城ミニチュア 100分の1 木造天守閣の作成

 日本で初めてとなる本格的な木造による天守閣の復元。
 掛川城は別名を雲霧城とも呼ばれ、東海の名城と云われて来ました。それと云うのも、桶狭間の合戦から八年の後、今川義元の後を継いだ氏直は武田信玄に攻められて掛川城へ逃げ込みます。そこへ徳川家康が出て来て、武田徳川の両軍に掛川城は挟み撃ちになりました。この攻撃を半年に渡って防御したのです。難攻不落の名城とうたわれるようになった謂れです。
 小田原の合戦後、天正18年(1590)に近江長浜から掛川へ関東の押さえとして入城した山内一豊は、城を大改築しました。今の掛川城の原形です。関ヶ原合戦の功績で山内一豊は土佐の高知へ大躍進して赴任します。そのときに「高知城は掛川城のように造るように」と命じました。残っている絵図とか、一豊の言葉が記録として残っており、これらが復元考証となりました。
 この天守閣には、機会があって何回も登城しましたが、さすがは本格的な木造建築で素晴らしいものです。しかし、残念ながらそれまでです。建築の苦心とか、城郭建築の面白さが伝わって来ません。
 例えば、3層4階はどこをどうしたのか、破風は?・・造って行く過程で、基盤が正方形でなく台形だったことが分かってビックリしたり、だから、あのような形になったんだ、とか地形を利用した石落しに感心したりと、発見がたくさん有りました。

これから第4期工事に入ります。

 第1期工事はここをクリックしてご覧ください
 第2期工事はここをクリックしてご覧ください
 第3期工事はここをクリックしてご覧ください

80分の1にて再度作成しております。
私のブログhttp://angel.ap.teacup.com/sinden/垂木川の袂にてまでご足労でもお出かけください。こちらには完成した後に、資料とともにアップする予定です。


 
 小屋組と唐破風の上部です。
 この部分は両方とも想定で作成したところが多く、不符合のところが多々出ました。


















 3月25日。附け櫓の垂木を張り終わりました。
 附け櫓にも力垂木が使われているんですね。


















 4月3日。最上階がほゞ完成です。後は、廻縁の匂欄です。

















 苦労をした唐破風が完成しました。

















 4月3日。現在までの全体像です。城郭らしくなったでしょう。




















 5月20日、ほぼ完成しました。廻縁の上に匂欄が付きまして、後は鯱を上げるだけです。
 写真では、鯱を厚紙で切り、仮に上げてあります。鯱の大きさを確認するためです。縦横1・2・になります。

















 南側からやや見上げた天守です。廻縁匂欄がが付くと天守閣は見違えるほど堂々としてきますね。
 廻縁匂欄を付ける意味が分かったような気がします。

















 南東上方からの俯瞰です。
















復元掛川城天守閣のできる根拠はここをクリックしてご覧ください


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