業界紙で見つけたコラム、臨死体験について要領良くまとめてありました。筆者は都市銀行の役員支店長、いいかげんな話ではないと思います。
ニッキン 2001年4月13日号コラム東西ペンリレーより
筆者は、三和銀行執行役員京都支店長 渡辺・・・ 愛知県出身、53歳
二十歳のとき、頭を割る大怪我をして、あの世の一端を垣間見てきましたので、そのお話をさせていただきます。
怪我の瞬間は、スローモーションのように覚えていますが、次の瞬間から完全に意識が飛びました。
ふと気がつくと、深夜、暗い病室のベットに自分が横たわり、看護婦が、「渡辺君、渡辺君」と名前を呼びながら、ほっぺたを平手打ちしているのが見えました。
「聞こえてます、大丈夫です」と言おうとするのですが、自分が、自分の体を離れて、少し上のほうから見ている感じで、体も動かせないし、口も開けず、たたかれている痛さも感覚もまったくない訳です。そのうちに、医者が入ってきて、脈をみて、懐中電灯で眼を照らし、そして、冷たく「だめだ、脈はないし、瞳孔も開いている。至急家族を集めなさい」。
次の瞬間、私は、暗く、長いトンネルの中にいて、その中を飛ぶように進んでいました。
はるか向こうに明るい光が見え、近づくと、またその光が遠ざかり、やがて、その光もフッと消え、世界が真っ暗になってしまいました。
一週間後、奇跡的に意識が戻りました。
病名は脳底骨折、脳挫傷、脳内出血等々でした。
後に、医者の先生に、その夜の診察内容を言って聞かせると、「えっ、そんな馬鹿な、あのときお前は完全に死んでいた」とビックリ。
こうした臨死体験は、世界中でまじめに研究されていますが、幽体離脱、トンネル、明るい光、花園、三途の川、死者との出会い、といった体験が、共通のパターンだそうです。
ここから、あの世がある、あるいは、霊魂の存在を認めるという議論もでています。
ただ、最近の大脳生理学の研究で右側頭葉の一部を刺激すると臨死体験に似た感覚が生ずるというレポートもでています。
しかし、またその一方で、脳死状態の患者がICU(集中治療室)でなされた集中治療を再現したという報告もあります。
臨死体験が脳の知覚とすると、これはどう説明すればよいのでしょう。
この答えは、現時点ではまだ出ていません。
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ただ、私は、一度死んだという臨死体験を通じて、いろいろなことを学んだ気がしています。
生意気を承知で言わせていただければ、「死ぬということ」は、人間の「意識の世界」、即ち、家族や社会に対する責任や自分の欲、といったことを別にすれば、生まれて、生きて、死んでいく、そのなかで、遺伝子が脈々と繋がっていく、それだけのことで、なにも恐れることはないのではないか、また、だからこそ、生きている今日を大切にしたいと考える気持ちが大事だと思います。
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臨死体験については、立花隆氏に「臨死体験」という大作があって詳しい。なかなか読み応えがあるが、おもしろそうな章を拾い読むだけでもずいぶん勉強になる。氏はその最終章で、脳内現象説と現実体験説の両説について、
「そういうわけで、私も基本的には脳内現象説が正しいだろうと思ってはいるものの、もしかしたら現実体験説が正しいのかも知れないと、そちらの説にも心を閉ざさずにいる。」
と結論を出さずに終わっている。
もちろん私は臨死体験などしたことのない身であるが、立花隆さんのレポートを読んで「死後の世界」は存在するという確信を得た。体外離脱した時の経験談があまりにリアルで現実性があるという点・生命活動が終わりを告げようとするときに、はたして脳細胞に現象として臨死体験者が体験するようなイメージを表出する力が残っているのだろうかという点が根拠だ。
・・・死はこの生における成長の究極段階である。トータルな死というものはない。ただ肉体が死ぬだけなのだ。自己(セルフ)といい、霊(スピリット)というもの、その他あなたがどういう名で呼ぼうとも、このものは永遠である。・・・死はカーテンだ。われわれが意識しているところの存在と、われわれから隠されている存在とを仕切るカーテンである・・・
(update ’01・7・20)