他人をほめる人、けなす人

フランチェスコ・アルベローニ著

草思社刊

楽観的な人、悲観的な人

ペシミストだが、彼は未来に対して否定的なイメージを抱いている。人間についても否定的なイメージをいだいている。人間を観察するときにはつねに最悪の資質、もっとも利己的で打算的な動機を見てしまう。ペシミストにとっては、社会は悪がしくて、退廃的で邪悪な人々からなっている。オプティミストは純情・素朴に見える。人を容易に信頼するし、危険にも進んで身をさらす。しかし、もっとよく観察してみると、彼とても他人の悪意や弱点を見てとっていることに気づくだろう。けれども彼は、それが障害であるとしてとどまったりはしない。あらゆる人間には肯定的な資質があると信じており、それを呼び覚まそうとして努力する。

ペシミストは自分の中に閉じこもり、他人の言葉に耳を貸そうとしないし、他人を危険な存在としてみる。オプティミストは他の人々に強い関心を寄せている。だれのなかにも、称えるに値し、活用することのできる長所、肯定的な面のあることを知る。こうして彼は、何らかの目的に向けて人々を結束させ、導くことができる。

陰口をたたく人

だれかの陰口をたたいている人物がいる。しかし、人々は賢いから、そういう陰口にはいつも不信の眼を向けてきた。ところがいまの我々は、自身を賢明で合理的だとみなして、肩をすくめてみせるだけで、おまけに当の陰口屋に謝意を表明することさえしばしばである。ところが陰口屋というのは我々のことを気づかっているようで、心底からよこしまな意図をもって振る舞う、心理学的・社会学的に特異な人物なのだ。

陰口屋はあなたにそれを話し、うろたえ不安になるのが楽しみなだけの人物なのだ。事実はこうである。彼があなたにそれを人の言葉として伝えるのは、自分でじかに言う勇気がないだけなのだ。実は彼はそれを言った人とまったく同意見なのだ。あなたの友人なら、あなたを弁護しただろうし、立腹もしただろう。ところが彼は違う。彼はそのように振る舞うことで、そのことを口にした人びとの意見に全面的に賛成しているのであり、彼らに加担しているのである。

ニヒルな人

ニヒリストは、満足している人々、平和に安んじている人々を見ると不機嫌になる。彼は衝突、戦争、破壊にあこがれる。彼は自分が暮らしている社会が危険に陥り、破局の瀬戸際に立つと考えることができると大いに満足する。

未熟な人

我々はさまざまな人と関わりを持って暮らしている。多くの人に義務や責任を負っている。父親、母親、夫、妻、子供、上司、同僚等々。これらの人々とのかかわりはしばしば微妙で厄介である。熟慮、慎重、巧妙さ、そして精力さえが必要になる。しかも、これらすべてを心に留めておかなければならず、これらの複雑さを受け止め、これらの厄介な問題を回避せず、できるかぎり真剣にこれに対応することこそ成熟というべきである。

未熟とは、人生・生活についての身勝手で幼い単純化である。

大人はすべて、いくつもの役割を果たさなければならない。未熟な人物はそうすることを潔しとしない。彼はただ一つの役割に執着し、そこに全精力を傾注し、その第一人者にもなる。ここにいたって、彼は、他の分野でも、彼が何者でもありえないところでも、評価されていると思い込む。数学においては優秀であり、コンピューターの達人であるかもしれない。しかし、妻をも子供達をも同僚をも理解することができず、その社会関係は惨澹たるものになる。あることにかけては非常に優秀でありながら、精神的情緒的には子供のままで、心の厚みをまるで欠いた人がいる。

忍耐を習得できる人

忍耐あるいは我慢強さは根本的な美徳の一つだと思う。忍耐は習得するものであり、強い意志の力でもって、つくりあげるものである。幼児は我慢を知らない。空腹になれば泣くし、母親の姿が見えないとまた泣く。若者も我慢を知らず、学校に何時間か拘束されることに苛立つ。

しかし、幼児であれ、若者であれ何かのスポーツをちゃんとやってのけようとすれば、衝動的な心の動きを押えなければならない。まず注意深くじっとしていることを学び、ついで、そのときがくれば行動に移ることを学ばなければならない。この動きを完成させるためには、同じ動作を忍耐強く何百回も繰り返さなければならない。

忍耐強さは、大きな生命力をコントロールする能力であり、しかも、混乱することなく、目的に向かってその生命力を誘導する能力である。

つまずきに耐えらる人

競争社会組織では、他の人々とも対決しなければならず、打ち克とうとの意欲ももたなければならない。したがって、敗北の危険も覚悟しなければならない。競争は、経済、政治、さらに芸術や文化さえもの基本的な仕組みであることに変わりはない。そして、だれしもが、他人の拍手喝采、賞賛と、自分が優越していることの”認知”を求めようとする。

しかしながら、だれも免れられないこの法則を認めるとしても、もしも成り行きまかせにし、この法則に流されるならば、精神の平衡を失うことになると言っておかなければならない。なぜといって、我々の価値、自分自身についての判断を、成功や他人の評価にまかせるほど愚かしいことも、危険なこともないからである。自分ではいかんともし得ない要因が無数にあり、偶然、幸運、不運は我々にはどうしようもないものである。数多くの科学者や芸術家は、死後にその価値を認められたのである。偉大などれほど多くの人々が、彼らよりもはるかに劣る者たちの策略や陰謀によって破滅させられたことか!

我々だれしもが、ことを立派に、完璧におこなうために奮闘し努力しなければならないと同時に、成功できないかもしれない、つまずくかもしれない、あるいは真価が認められないかもしれないことを知っていなければならない。こういう限界、つまずきを容認することこそ、謙虚さというものである。たとえ不首尾に終わるかもしれないとしても、不当な扱いを受けるかもしれないとしても、ことをおこなうところにこそ真価はある。

挫折、不正、苦痛などに見舞われた時、なにか徳性にかなったことをするだけでよい。それで我々は救われるのである。

第一印象で見抜く人

すべての人間は、相手の心理を即座に見抜く能力をそなえている。我々は色彩を見分けることや、音調を聞き分けるのと同じ確かさでもって、他の人間の内面を見て取る。微笑みは喜びであり、逃げるような眼差しは不信であり、無礼な態度は暴力であり、無関心は興味の欠如であり、わからないのは鈍感であり、いつでも応諾するのは弱さである。取るという行為は渇望を、吝嗇を内に秘めた情念を意味し、気づかわしげな視線は嫉妬を、悪意をこめた眼差しは羨望を意味している。初対面ではすべてが水のように透明である。第一印象とは、我々の対面者の心の深奥の、超高感度フィルムで撮られた写真である。

高貴な魂をもつ人

自分の自我、自分の利害だけに心を労するのでなく、他人のことにも思いを傾け、他人の要求にも関心を向けるための内的の活力と豊かな心を持った人は、高貴な魂の持ち主である。

高貴な魂の人は、自分を過大に評価することなどなく、学ぶことを知っており、謙虚である。

貧しくさもしい心の人は、もっぱら自分の目的だけに目を据えている。自分に有益なものを、公正・正義と混同している。だれかがその欲求を妨げたりすれば、その人を憎み、罵り、中傷しどんな不当なことでもしかねない。高貴な魂は、目的達成に努めるが、相手方を憎んだりはしない。むしろ、相手を尊敬し、その価値と尊厳を認める。

高貴な魂の持ち主は、その周囲に自由な人々を求める。計画・企画をはっきりと提示し、異議や苦情があればそれに謙虚に耳を傾ける。他の人々を刺激し、説得し、導きながら、コンセンサスをもって関係を保っていく。

高貴な魂は、逆境や不遇に抵抗できる精神的な勇気、執念をも、誘惑に屈しない力をも、その心に抱き寄せる。

高貴な魂の人びとは、存在するし、しかも社会のすべてのレベルに見られるのである。くもりのない目で世界を見るならば、それを確認することができる。我々の生活が快適でいられるのも、彼らのおかげである。


身近に、日常出会う人々の心理の深層を、見事に描き切っている。

人間関係で悩んでいるときには、この本のふさわしい一章を読み解くといい、きっと気分が軽くなる。

著者は、そのことに一言もふれてはいないが、地位や名誉を求めるのではなく、富を得ようとするのでもない、真に徳性の高い、良心にしたがった善良な生活を送ることこそ、心理的に特異で異様な人々とならない(充実した人生を過ごすための)唯一の道なのだということを、繰り返し繰り返し訴えている。そのことを読み取った読者にとってはこの本はかけがえのない良書となるだろう。

 

インデックスページへ戻る