大河の一滴

     五木寛之

taiga no itteki

 

 そんな時間がとまったような無為の状況のなかで、いつも心に響いてくる呪文のような言葉がある。それは「大河の一滴」というじつに月並みな文句だ。

「人は大河の一滴」

 それは小さな一滴の水の粒にすぎないが、大きな水の流れをかたちづくる一滴であり、永遠の時間に向かって動いてゆくリズムの一部なのだと、川の水を眺めながら私にはごく自然にそう感じられるのだった。

 

私はこれまでに二度、自殺を考えたことがある。最初は中学二年生のときで、二度目は作家としてはたらきはじめたあとののことだった。・・だが、現在私はこうして生きている。当時のことを思い返してみると、どうしてあれほどまでに自分を追いつめたのだろうと、不思議な気がしないでもない。しかし、私はその経験を決してばかげたことだなどとは考えてはいない。・・

市場原理と自己責任という美しい幻想に飾られたきょうの世界は、ひと皮むけば人間の草刈り場にすぎない。私たちは最悪の時代を迎えようとしているのだ。資本主義という巨大な恐竜が、いまのたうちまわって断末魔のあがきをはじめようとしている。そのあがきは、ひょっとして二十一世紀中つづくかもしれない。つまり私たちは、そんな地獄に一生を託すことになるのである。

いまはもう、覚悟をきめるしかないだろう。そう思うと、一瞬なんとなく目の前が少し明るくなったような感じがした。

前向きに生きることは悪いことではない。プラス思考でおのれを励まし、人間性を信じ、世界の進歩を願い、ヒューマニズムと愛をかかげて積極的に生きることも立派な生き方である。

しかし、一方で現代の人間の存在そのものを悪と見て、そこから出発する生き方もあるのではないか。その真っ暗闇の虚空に、もし一条の光がさしこむのが見え、暖かな風が肌に触れるのを感じたとしたなら、それはすばらしい体験である。まさに奇蹟のような幸運であると思いたい。

浄土は極楽ではない。地獄・極楽とは人が生きている日々の世界そのもののことだろう。「地獄は一定」という「歎異抄」の中に出てくる有名な言葉を、死んだらまちがいなく地獄へ落ちるこの身、という読みとりかたは私はしたくない。「一定」とは、いま、たしかにここにある現実のことと読む。

我欲に迷い、人や自然を傷つけ、嘘を重ね、執着深きおのれであるがゆえに、死んだあとの地獄行きを恐れているのではない。救いがたい愚かな自己。欲望と執着を絶つことのできぬ自分。その怪物のような妄執にさいなまれつつ生きるいま現在の日々。それを、地獄という。

しかし、その地獄のなかで、私たちはときとして思いがけない小さな歓びや、友情や、見知らぬ人の善意や、奇蹟のような愛に出会うことがある。勇気が体にあふれ、希望や夢に世界が輝いてみえるときもある。人として生まれてよかった、と心から感謝するような瞬間さえある。その一瞬を極楽というのだ。極楽はあの世にあるのでもなく、天国や西方浄土にあるのでもない。この世の地獄のただなかにこそあるのだ。極楽とは地獄というこの世の闇のなかにキラキラと光りながら漂う小さな泡のようなものなのかもしれない。人が死んだのちに往く最後の場所では決してない。

「地獄は一定」

そう覚悟をしてしまえば、思いがけない明るい気持ちが生まれてくるときもあるはずだ。それまでのたうちまわって苦しんでいた自分が、滑稽に、子供っぽく思えてくる場合もあるだろう。

 

警察庁が平成八年の日本国内の自殺者の数字を発表しました。これを見てまた非常にショクを受けたのですが、なんと二万三千百四人という数字が出ていたのです。・・自殺を試みた人は、約十万人いるということになります。・・いま年間の交通事故の死者の数が大体一万人前後で推移しています。・・しかし、一万人ちょとの人びとが一年間に亡くなって、それを、<交通戦争>と呼ぶのならば、二万三千人の、人たちが亡くなるということを、いったい何戦争と呼べばいいのか。

私たちはいま平和な時代に生きていると思っていますが、それは大きなまちがえであって、じつは大変な戦いの渦中にあるのかもしれない。見えない戦争、シャドー・ウォーとでもいいますか、私たちは<心の内戦>というもののまっただなかにいるのではないか。・・そして、もっと、深刻に考えなければいけない問題は、人間の自損行為、つまり、自分の命を傷つけることと他人の命を傷つける他損行為とが、本当は背中合わせの一体になったものだ、ということです。

自損行為と他損行為とはじつは一体である。両方ともに命の重さが感じられないということに原因がある。自分の命というものを尊敬できない人間は、他人の命というものも尊敬できない。・・自殺と殺人とは表裏の関係にあって、自殺が多いということは殺人行為も多い時代と考えていいのかもしれません。

なぜ、自己の命の重さ、そして他者の命の重さというものがあまり感じられなくなってきたのか。

私は人間の価値というものを、その人間が努力をしたり、がんばったりしてどれだけのことを成し遂げたか。成功した人生、ほどほどの一生、あるいは失敗した駄目な人生、というふうに、区分けすることに疑問をもつようになりました。

痛感しているのは、人間はただ生きているというだけですごいのだということだ。

エピソードを紹介しましょう。三十数センチ四方の木箱の中に砂を入れて、一本のライ麦の苗を植え、数ヶ月育てるのです。貧弱なライ麦の苗が育つ。そのあと箱を壊し、根の部分を計測します。根の部分には根毛とか毛根とかまで細かく調べ、その長さもみんな調査をして足していく。総延長数が出てくる。その数字は、なんと、一万一千二百キロメートルに達したというのです。これはシベリア鉄道の一・五倍ぐらいになります。

私たち人間というものは、一本のライ麦にくらべると何十万倍の大きさ、あるいは重さをもっている。・・生きるために私たちが、目に見えないところで、どれほどの大きな努力に支えられているか。自分の命がどれほどがんばって自分をささえているか。

どんなにつらくても、どんなにいやでも、自分の命というものを大切にしつつ、この世の中を生きていく。そのこと自体に値打ちがあるのだ。一本のライ麦のように、目に見えない根を全宇宙に張りめぐらしながら私たちも生きていく。生きていくことを大切にしよう、というふうに、あらためて考えます。

 

物の考えかたには、相反する二つのことが同時にあって、その両者の間を<往還>、いったりきたりしながら私たちは真実というものを理解することができるのではないか。・・希望というのは、片方に絶望があって、絶望の深い闇のなかから一条の光がさしてくる。絶望とか、あるいは悲しみ、迷い、苦しみなどのなかで必死になって自分の心の触手をあたりにひろげ、なにかをつかもうとして動いている。そのようにいったりきたりしながら、私たちは何事かを理解する。

実験で、喜びを感じると細胞が活性化して免疫力が高まる。これはよく理解できるのですが、同じ実験でこんどはつらかったこと、悲しかったことを思い返してもらうとその人たちの細胞がいきいきと動き出してきて、免疫力が高まるわけです。・・喜びは人間の生命力を高めるけれど、悲しみは逆に低下させると考えられがちですが、じつはそうではない。本当に深く悲しむということは、感動することですから、喜ぶのと同じように人間の生命力を活性化し、免疫力を高める。つらい思いをして、ときには涙を流して悲しむことも、人間の体にとって大事な行為である。暗いことにも、さびしいと思う気持ちのなかにも、大事なものがあり、がんばらなくてもいいよ、という思いやりもあるということです。


この世は地獄だ。人間の一生は苦しみの連続である。人間とは大河の中の消え入るようなひとしずくの水滴にすぎない。著者は息苦しくなるような究極のマイナス思考を説き、現代人の薄っぺらなヒューマニズムや積極思考に挑む。

しかし、それだけではない。

本当のプラス思考とは絶望の底の底で光を見た人間の全身での驚きである。そこに達するには、マイナス思考の極限にまで降りてゆくことしか出発点はないという。

そこにおいてすべての価値は反転する。

「充実した人生」その言葉を聞いて、ある人は楽しく穏やかな順風満帆な人生行路を想像するかもしれない。しかし、そんな生活はどこにもない、ということを分別のある人は皆知っている。それでは、充実した人生とはどこにあるのか。困難や苦労、つらい事件や悲しい思いを克服していく。いや克服することができなくとも、くじけることなく真正面から立ち向かう、逃げることなく向かい合う。そこにこそ感動があり、充実した人生があるのだ。

人の死が上手に隠されオブラートにくるまわれているような現代社会に育った若者が自殺を安易に試み凶悪な事件を起こす。現代は平和な時代なのではない。私たちは誰もが<心の内戦>という激しい戦いにさらされ、自殺者という痛ましい犠牲者が続出している。その内戦に立ち向かう武器が感動であり、命の尊さを理解することなのだ。

生きること、生き抜くことが何よりも尊いのだと著者はいう。

人の命は大河の一滴にしか過ぎない。しかし、その一滴が広大な大河の流れを構成し、逆巻く大海原に連なっているのだ。

 

 (UPDATE ’98・10・25)

 

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