一、

 先ほどまで激しく降っていた雨が嘘のように、もう陽がさしていた。
 木々の緑はより鮮やかに映え、葉の一枚一枚がはっきりと見えるほど鮮明になっている。

 もともと汚れの少ない大気を雨が更に浄化したせいだろう。
 多賀三郎は駐車スペースを区切る白線を踏んで車に向かって歩いていた。広い駐車場には、既に十数台の車が残っているだけだ。

 まわりを囲むフェンスの外には広大な原生林が広がっており、樹木達はあちこちで金網の間から枝を延ばし、侵入者を威喝するかのように、おのれを主張している。

 上に目を向けると樹海の遥か向こうには、夕日を背にした黒い富士山が覆いかぶさるようにしてそびえていた。

 ここから眺める富士は、日毎、異なった表情を見せる。
 車のドアを閉める振動で、屋根の滴がフロントガラスをつたって流れ落ちた。それをワイパーでひとふきして車を発進させる。

 正門で車を徐行させ、ずり落ちた眼鏡の上から覗いている守衛に手を挙げて挨拶をし、緑のなかへ続く道に出た。

 こんなきれいな空気のなかで思いっきりグランドを走りまくったらどんなにか気持ちがいいことだろう。そう思うと、絨毯が敷き詰められたような緑の芝生が目に浮かんでくるようだった。

 ナンバーエイトのジャージーを着てサイドアタック、そしてモールをつくり更に突進する。楔子を打ち込むような攻撃で相手守備陣になだれ込む時の快感、骨がきしんで音をたてる激突の感触が今でも昨日のことのように蘇ってくる。

 車はすぐに市街地に入った。
 多賀はまっすぐ家へ帰ろうか、それとも「夕鶴」へ行って一杯やろうかと迷っていた。

 家へ帰れば妻の祐子が夕飯の支度をして待っているだろう。そして、それを食べながら昨夜の続きの議論をしなければならない。もう一週間も続いている。要するに祐子は東京へ帰りたいのだ。

 隣の奥さんが意地が悪いとか、買物に行った店の店員が馬鹿にするとか、並べ立てているうちは笑って聞いていたが、最近はそれが多賀自身を非難する言葉に変わってきた。
 多賀にはそれがたまらない。

 二年前、渋る祐子を説得してこの富士山麓にある工場に転勤してきた。
 そして、東京で生まれ育った祐子が寂しい思いをしないようにと、この辺りでは比較的賑やかな富士吉田に住居を構えたのだが、それでも東京の賑わいと較ぶべくもなく、彼女には馴染めないところだったらしい。

 多賀は今の環境が気に入っており、祐子とは逆に都会の騒がしさ、慌ただしさはどちらかというと苦手で、だから、転勤は喜んで受け入れたのだった。

 祐子の父親は東京で比較的大きな呉服の店を二つ持って商売をしており、弟がそれを手伝っている。あの時、会社を辞めて父親の商売を手伝ったらどうかとすすめられ、一瞬その気になったこともあった。

 だが、子供の頃、既に亡くなっている祖母が、小糠三合だったか米三合だったか覚えていないが、それを持っていたら婿に行くなとよく言っていたことと、あの痩せてひょろっと背が高く、ちょっと傲慢な祐子の弟の下で働くなんて、たぶん我慢できないだろうと思ったので、すぐにその考えは捨てた。

 多賀三郎はメカトロニクスの設計屋で、特にロボティクスを専門とする技術者である。多賀自身の技術はバックに大資本がなければとても生かせるものではなく、だから自分は潰しがきかないと思っている。

 いつの間にか車は富士吉田の市街を通り過ぎて、都留市に向かっていた。やはり「夕鶴」へ行くことになってしまった。

 祐子との問題は逃げて解決することではない。そう判っていても、いつも後回しにしてしまう自分に嫌気がさしてくる。

 暗くなってきたので、車のライトをつけた。

 多賀は学生時代からラグビーを続けており、今日もグランドに出て練習をするつもりでいたのだが、雨のせいで出来なかった。もう試合に出ることなどないが、卒業して十二年経つ今も練習だけは週に二、三回会社のグランドに出てやっている。

 ひとつには仕事の性質上運動不足になるので、その解消のためやっているのだが、本当は体を動かさないとなんとなく不安になってくるから続けているのかも知れなかった。自分では老化に対する恐れからの不安だろうと、勝手に解釈しており、本来自分は肉体労働に向いた人間なのかも知れないと考えてみたりもする。

 「夕鶴」のドアを開けるとカウンターの席に、先客が一人いた。
 スーツを着た後ろ姿は小柄だが、がっしりとした体格である。
 多賀は中へ入りドアを閉めた。

「いらっしゃい」
 ママの声で、男は振り返った。後ろ姿から想像したとおり肉付きの良い丸い顔をしている。

 何処かで見たことのある顔だった。
「やあ、多賀さん」
 男はにこやかに言って、自分の隣の椅子を多賀にすすめる仕草をした。

「多賀さんとお知合いなの」ママは二人を見比べた。
「同じ会社ですよ」男が答える。
「あら、あなたも富士オートマトンの方なの」

 多賀は思いだした。最近本社から工場の人事課へ転勤してきた社員で、工場の事務所へ行った時、一度見かけた覚えがある。話をしたことなどないのだが、彼が多賀を知っているのは不思議ではない。人事課には写真入りの名簿があるのだ。

 男は甘粕彰一と名乗った。
 多賀は「夕鶴」で同じ会社の人間に逢うのは初めてだった。

 富士マトンの社員は、地元採用で都留市から通っている社員は別として、街へ出る場合は富士吉田へいくことが多い。わざわざ遠い都留まで来るのは、会社の延長を街の中まで持ち込みたくないと思っている多賀ぐらいのものだ。

 多賀は甘粕の隣へ座った。
「今年の大学交流試合はどこが勝つかしら」
 ママが多賀に尋ねた。
 彼女は女性に珍しくラグビーに興味を持ち、詳しいのだ。多賀が「夕鶴」へわざわざ来るのはラグビーの話ができるからでもある。

「順当にいけば早稲田、明治、関東学院というところかな」
「青学は駄目なの」
「たぶん勝てないだろう」

 今年の青学は確かに強いと言われている。実際、シーズンに入って戦うのを見なければなんとも言えないが、多賀はおそらく交流試合に出られるだけで精いっぱいだろうと思っていた。

 更にママは大学選手権の話を持ち出した。
 これもシーズンに入らなければ何とも言えず、故障者などが出れば、どこのチームも戦力はがらっと変わってしまうのだ。多賀は西の同志社、京産大、東の早稲田、明治あたりから優勝校が出るだろうと予想した。

「多賀さんは元全日本代表のメンバーだったんですよ」
 二人の話を黙って聞いている甘粕に気がついて、ママは言った。
「ええ、知っています。本社にいた頃から多賀さんを知っていますから‥‥‥」

 甘粕の顔は鼻から口の脇に伸びているしわが目だつほど深い。彼の細い目が笑うと更にそれが際だった。

 二年前まで、多賀も本社にいたのだが、この男については全く覚えはなかった。

 多賀の所属していた企画設計部は本社の分室のような存在で、所在は同じビルの中なのだが、八階と九階にある本社と遠く離れた三十二階にあったので、本社人員で三分の一の顔を知っていたかどうかもあやしい。

 だから、覚えがなくとも不思議ではなかった。
「そりゃ光栄だな‥‥‥、と言うよりは人事課のブラックリストに載っているのかな」多賀は冗談めかして言った。

「いえ、多方向移動自動装置です」
 甘粕が意外なことを口にした。
「MTA?」
 多賀は思わず問い返した。

「そうです、MTAを企画したのは多賀さんだというのを知ってますよ」
 突然、ショートパント・キックをくらった気分だった。
 そして、忘れかけていたMTAの話がこんなところで出たことに、多賀は皮肉っぽく苦笑した。

 甘粕が口にした多方向移動自動装置(Multi−directive Transfer’s Automaton)は多賀が名付けた仮の名前だ。

 数年前、多目的作業用装置として多賀が立案、企画したもので、あらゆる条件の現場、すなわち人間が作業し難い傾斜がかかった場所、垂直な壁、逆さで作業を強いられる場所で作業をする自動装置の開発であった。

 既に、壁を登ったり、天井を逆さに歩く装置は大学や他の研究機関などで試作研究・発表されていたので、当時でも特別目新しい企画とは言えるものではなかったが、既存のものは何れも作業環境への適応が鈍く作業効率からいくと今一歩という段階だった。

 その原因は幾つかあり、最大のネックはモーターの反応速度にあった。
移動面にタッチしてからバランスのセンサーが働き、信号を出す。それを受けたコンピューターが計算して、結果が出たところで、モーターのスイッチが入り次に移るという動作は、現在、手にはいる最高速度のモーターを使っても、これでは人間が歩く速度より遅くなってしまう。

 人間は移動する時、特殊な場合を除いて、数歩前を見て脚を出している。すなわち、数歩前に現在脚を出す位置を予測しているため、素早く行動できる。

 MTAはその原理を採り入れ、赤外線を感知して目と同じ働きをするセンサーを積むことにして、モーターの反応遅れをカバーすることができるようにした。
 しかし、視覚センサーの採用には越えなければならない障害が幾つもあった。傷やゴミなどの誤差因子、センサー自身の分解能の限界、そして認識アルゴリズムの開発の問題等がそれである。

 解決法はいろいろ考えられたが、あの時点では完全なものはなかった。だが、多賀には漠然とではあるが、必ずや解決できるという予感があった。

 そうすれば、予測の計算に使うマイクロCPUは当時のものでも十分であり、作業用のCPUを別に持たせて、並列処理をすれば、それで時速十数キロの最大速度が出ると考えていた。作業効率を上げるには十分過ぎる速度である。

 当時は(現在でも変わらないが)、単作業用の自動装置が全盛で、固定型の多目的自動装置をひっくるめて、富士オートマトンは全世界のシェアの六十%を握っていると言われていた。

 この企画は研究開発に莫大な費用がかかるのは判っていたが、成功すれば、富士オートマトンの更なる飛躍も望めると思い、多賀の持てる全てを注ぎ込んで立案したものであった。

 ところが、開発は段階を追ってやられるべきで、敢えて危険を犯してやるべきテーマではない。時期尚早であると言う保守的な理由で没にされてしまった。

 おそらく、あの企画書は企画設計部の何処かでほこりをかぶっているか、或は、既に処分されてしまっているだろう。

 だが、企画が採用されなかった理由は他にもあると多賀は思っていた。

 社内には暗黙のうちに、しかも公然と派閥が存在しており、下の派閥は上の派閥につながり、最後には数本のパイプとなって上層部につながっている。人事移動、昇進、そして方針等はそれらの派閥の利害関係が絡み合って決められる。

 多賀はそのどの派閥にも属していない。少なくとも自分ではそう思っており、敢えてそうしているつもりはなかったが、自然の成行きであった。もし派閥の後押しがあったら、もう少し検討されたかもしれないとあとで考えたこともある。だが、忘れかけていたほどであるから、MTAの企画にもう執着などなかった。

「MTAは欠陥だらけの企画だった。解決しなければいけない技術的な問題が、後で考えたら山ほど出てきたし、例え現在製品化されたとしても需要がないね。現在のオートマトンで十分だ」

 MTAの企画はラグビーに例えたらチームのメンバーに認められないコンビネーションのようなものであって、そんなものは誰も真剣に練習しない。

「そうでしょうか。危険な作業をやらせるという意味では、大きな価値があると思いますね」
「コストの問題だ」

 企業もチームも自身に確実な利益をもたらす作戦を最優先に採用する。従って、危険を伴う不確実なものには二の足を踏むものだ。

「人間の命よりは安いと思いますがね。それに解決できない問題なんかないでしょう。今だったらバランスセンサーの予測も可能ではないんですか」

 多賀はおやっと思った。

 この甘粕と言う男はMTAの企画書を見たことがあるのだろうか‥‥‥。そんなはずはない。
 人事課の社員が、没になった企画案であっても、社内秘扱いの企画書を見ることはできないはずだ。おそらく、企画設計部の誰かからの又聞きだろう。

 二人の話に割り込めないママが話題を変えて社会人ラグビーの話を始めた。

 かつては近鉄、豊田自工が強く、近くは新日鉄釜石が強かった。今は神戸製鋼、東芝府中、三洋電気そしてリコーなどが強い。

「今年はどこかしら」と言って、チーム名を次々に上げた。
 多賀が以前に所属していたチームの名も上がったが、現在は特に突出したチームはない。

 どこから仕入れるのか知らないが、いつもながらママのラグビーに関する情報に感心させられる。

「優秀なフランカーのいるところが強いと思うわ」

 ママは各チームのフランカーの名前を上げた後、日本選手権へ確実に出て来るのは神戸製鋼あたりではないかという。神戸製鋼のバックスは確かに頭一つ抜いている。しかし、三洋のフォワードも強い。
 今年は優秀な外人のナンバーエイトが新しく入ったから油断はできない。そして、豊田自動車も巻き返しを図っているだろうと言う。

 多賀もそうかも知れないと思った。甘粕は時々あいづちを打ってにこにこ笑っている。

「最近人事移動が激しいのは知っていますか」
 ラグビーの話が一段落した時、甘粕は人事課の社員らしい話を持ちだした。

「そのようだね。あんたも転勤してきたのだし‥‥‥」

「いえ、私達のような下っ端の話ではないですよ」
 甘粕は今までの話の内容に例えて、監督、コーチクラスの移動だと笑いながら言い、重役の名前を数人挙げた。

「今度の株主総会で、常務取締役は全員交替です。昇格なしです。重田専務は今回はそのままのようですが、いずれそのうち降ろされますね」

 急成長を遂げた富士オートマトンは社内から昇格した重役は少なく、専務の重田も大株主の保険会社からの派遣重役である。

 甘粕は多賀の顔を窺っているような目つきをした。
「それでは社長も交替か」
「それはないようですね。将来は知りませんが」

 甘粕は肘をカウンターにつき、手に顔を乗せた。横目で多賀を見ている。
「何かあったのかい。経営陣に」
「いいえ、それは知りません」
 甘粕は頸を振った。

 多賀とは直接関係のない世界のことなので、それ以上突っ込んで聞く気は起きなかった。
 更に、甘粕は南富士工場の話を始めた。

 富士山の静岡県側の山麓、富士山の側火山である愛鷹山の北側の高原地帯に富士オートマトンの第二工場が昨年から建設されつつあるのは、社員なら誰でも知っている。

 現在の工場の生産能力は七千台/年ほどだが、昨年あたりから世界の需要が膨らみ、フル生産しても追い付かない状態になりつつある。数年前から予想されていた事態なのだが、工場建設の用地の確保が難しく、昨年まで延びていたのだ。

 現在の工場近くに建設できれば、会社にとって都合が良いのだが、これ以上、山梨県側の原生林を潰すことはまかりならんという自然保護団体の反対や環境庁の規制で、条件に合う地の選択に時間がかかった。

 精密機械や半導体を扱うため大気が汚染されてなく、きれいな水の得られる、自然保護団体の反対に遭わないという場所はそう多くない。あちこち候補地を検討した末、同じ富士山麓の南側のゴルフ場跡地にやっとそれを見つけた。

「あそこに建設するため、それ相当のものをばらまいて、政治工作をしたんです」甘粕は自分がそれをやったような言い方をした。

「南富士の工場はすべての業務、生産ラインの制御はコンピューターがするようになります。ですから、必要な人員は最小限ですむでしょう。このことが工場用地の確保を難しくしていた一因でした。工場が建っても地元の労働力を吸収しませんからね。事実、南富士の工場は地元からの採用を一切しないようです」

「社内からまかなうのかい」
「そうです。労働力はいりませんから、高度な技術を持った人だけです」

「何人くらい」
 人数などに興味はないが、相づちのつもりで尋ねた。
「正確には知りませんが、三、四十人ではないでしょうか。行く人は社内のエリートです。多賀さんもその一人かもしれませんよ」

 甘粕は意味ありげに口のしわを深くして笑った。
 企画設計部から工場の現場に追い出された俺がエリートなもんかと、多賀は思う。また、例えそんなことになったとしても、これ以上山奥に行くとなったら祐子が承知しない。

 それに、配属されるなら、既に本人には内示があってしかるべき時期は過ぎている。

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 多賀は甘粕の人の表情を窺うような目つきを思い浮かべてハンドルを握っていた。
 気に入らない目つきだ。自分の話すことに多賀がどう反応するか楽しんでいるかのようだった。

 しかし、今になって思うのだが、何故あの男がMTAのことを知っているのか不思議だった。あの企画書は多賀の上司であった企画設計部の部長田上洋介と二、三人の同僚及び田上部長が相談したであろう数人の幹部くらいしか知らないはずだ。

 その誰かから聞いたとしても、あんな細かい指摘ができるほど彼に知識があるとは思えない。

 多賀自身、没になった企画など極秘だとは思っていないが、同僚以外とは社内で話題にしたことはない。それが、今夜思いもかけない人物の口から出たと言うことにいささか戸惑いを感じていた。

 その後に聞いた経営陣の交替劇の話、そして、新工場の話、ただの世間話のようでもあったが、彼の思わせぶりな態度を思い起こすと、それだけではないような気もする。

 経営陣の交替‥‥‥、もし事実なら何かあったに違いない。経営上の失態か政策上の変更があったのだろう。

 だが、思い当たるような噂を聞いたことはなかった。
 多賀にとっては経営陣のことなど雲の上の出来事と同じようなものだが、何かあれば、タイムラグはあるものの、必ず社内に噂が流れるのが過去の例だった。

 甘粕は新工場の話をしたが、その建設が経営陣の交替と関係あるのだろうか‥‥‥。

 確かに、新工場の建設に莫大な投資がされただろう。一企業にとっては大きな政策の決定でもある。

 しかし、多賀は社運を賭けた決定とは思っていなかった。何故なら、富士マトンの製品のシェアは世界中で独占に近い率であり、新工場で造られた製品は必ず売れることが約束されていると言っても過言ではない。

現在の世界経済は未来へ脱皮するため、富士オートマトンのマシンを必要としており、巨額の設備投資に対するリスクは殆どないに等しい。

 それがこの俺にどう関係あるのだと思う。俺は巨大な組織の隅に存在する只の一歯車に過ぎない。

 甘粕が帰った後、ママに尋ねると、彼が「夕鶴」に来たのは今夜で三度目で、前は二度とももっと早く帰ったらしい。

「今夜は多賀さんがいたから、ゆっくりしていったんだわ」と彼女は言っていた。

 彼は、多賀が「夕鶴」へ来るのを知っていて、あの話を聞かせるため待っていたのかも知れない。
 しかし、何のために‥‥‥。

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 車を降りると冷たい夜気が頬を撫でた。六月といっても夜が更けると標高の高いこの辺りはまだ肌寒い。

 隣の家は既に寝静まっている。
 家の明りが消えており、嫌な予感がした。
 街灯の蛍光灯にかぶと虫がぶつかる音が響いている。

 鍵を開けて中に入ったが、誰もいなかった。
 ダイニングキッチンのスイッチをいれると夕飯の支度がしてあり、そのわきに白い封筒が添えられていた。

 多賀はそれをじっと見つめた。ついに来るべきものが来たらしい。
 封筒を取り上げ中の便箋を取り出した。

 東京へ帰ります     祐子


 怒りにも似た後悔が胸の途中までこみ上げて来るのを感じて、多賀はぐっと堪えた。

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