十四、

 突然大きな音がしたような気がして、瀬戸久夫は飛び起きた。外灯の光が窓から部屋の中を照らしており、隣のベッドには同僚の木川がこちらに背を向けて寝ている。ここはサファリ動物園の宿直室である。

 今のは夢だったのだろうか。瀬戸は布団の上に起き上がり耳を澄ました。風が木を騒がして通り過ぎて行く。それ以外は何も聞こえてこない。

 先日の騒ぎで動物園の幹部達は神経が過敏になっていて、そのとばっちりが瀬戸のような現場の職員にきていた。瀬戸の上司は今夜の宿直が瀬戸と木川だと知ると、自分が帰る前に二人を呼んで一時間近くも注意か訓辞か判らないような話をして行ったのだ。

 瀬戸はそのせいか心配で寝る前に四度も巡回に行った。木川はそれを見て笑っていた。彼は、巡回には一度一緒に行っただけで、テレビを見終ると早々に寝てしまった。

 瀬戸は木川の寝姿を恨めしそうに見ながらまた横になった。その途端、動物のうなる声が今度ははっきりと聞こえた。

 瀬戸はまた起き上がった。再び聞こえてきた。声は非常に近くのような気がする。動物を夕方追い込んで入れておく檻は、近いものでも宿直室から約三百メートルは離れている。

 瀬戸は木川を揺り起こしたが、なかなか起きない。
「おい、何か変だよ」

 やっと起きた木川に話をすると、
「風のせいで近くに聞こえたんだ」
とまた寝ようとする。
「見に行こう。一緒に来てくれ」

 木川は眠い目をこすりながら、渋々承知した。
 瀬戸はダウンジャケットを着て恐る恐るドアを開ける。刺すような冷たい風が眠気を覚ましてくれた。近くに停めてある緑と白で縞模様に塗られた四輪駆動車の中に滑り込んだ。続いて木川も乗り込んでくる。

「おお寒い。何もいないじゃないか」
 外灯の光が届く周りを見て木川は言った。
「とにかく、巡回してみよう」

 檻の近くまで行き、車のライトを向けた。

 キリン、シマウマはおとなしく柵の中にいる。おびえたように小屋の中でかたまっているが異常はない。更に車を回してライトをライオンの檻に向けた。遠いのでよく見えないが、出入り口の扉のかんぬきが外れているように見える。柵があるのでこれ以上車では近付けない。車で柵の中へ入るには五百メートルほど戻り、そこにある出入口を使わなければならない。

「開いているようだな。閉め忘れたのか」
 木川は瀬戸の顔を見て言った。

 瀬戸は首を振る。ライオンを夕方追い込んで入れたのは瀬戸と木川ではなかったが、寝る前に見回ったときは気が付かなかった。

「行ってみる」
 瀬戸は遠回りして車で柵の中へ行こうと言ったが、木川は車を降りて行ってしまった。車のライトの外側は暗闇で何も見えない。

 木川は周りに気を配りながら、ライトの光の中を檻へ向かった。

 瀬戸はハンドルをぎゅっと握り締めてそれを見送っていた。逃げたライオンが暗闇の中から今にも木川を襲うのではないかと心配だった。木川が檻まで無事にたどり着き、かんぬきを閉める音が聞こえてくる。そして、檻の中を覗き込んで暫く動こうとしない。

 瀬戸は窓を開けて木川を呼んだ。木川はニヤニヤ笑いながら戻ってきた。

「大丈夫だ。全部中にいるよ。奴ら寒いものだから、出口が開いていても外に出る元気がないんだよ。隅の方でかたまっていた」

 瀬戸はそれを聞いてほっとした。もし、奴らが檻の外に出ていたら後で絞られるところだった。しかし、巡回はまだ終りではない。東側には他の動物を入れてある柵と更に少し離れたところに罷熊の檻がある。車をそちらに向けて走らせた。

 車のヒーターがやっと効いてきて、暖かい空気が車の中を循環し始める。
 突然、ライトの光に追い立てられる動物のお尻が見えた。
「ヌーだ」

 なんていうことだ。ヌーが外へ出たままではないか。今見えたのは三匹だったが、もっといるような気配がする。全部外にいるのかも知れない。すると先ほど宿直室で聞いた動物の声はヌーだったのだろうか。

 しかし、どうして出たのだろう。前回見回った時は確かに柵の中にある小屋にいたのを見た。
 ヌーの柵に到着して二人は唖然とした。

 木で作られた柵が壊されていたのだ。直径が十五センチほどもある横木が見事に折られている。柵は三本の横木を使って作られているが、その三本とも同じところで、上から何か振り下ろして折ったようになっている。もし、そうならとてつもない力だ。

「誰がやったんだ。例の嫌がらせかな」
 木川は一部の住民にでっち上げられた脱走騒ぎのことを思い出して、瀬戸の顔を見た。

 瀬戸はいまにも飛び出しそうな目をして、前方を見ている。視線の行く先を見ると、車のライトがやっと届く辺りに、何かゆっくり動くものがいる。

 ライトの光に反射して目が光った。
「罷熊だ」
 すると、ヌーの柵を壊したのは罷熊なのか。罷熊の力だったら、こんなことが出来るかも知れない。でも、どうして檻を出たのだろう。

 罷熊の檻は高さ二メートルある金網フェンスでできていて、他の動物と違って日中でもそこから外には出していない。

 瀬戸は車をゆっくり走らせて罷熊の檻に近付く。やはり、金網フェンスが壊されていた。

「壊れたところへ近寄ってくれ」
 木川も今度は外へ出ようとはしない。
 車をまっすぐ壊れたフェンスに近付ける。

 フェンスは約二メートル幅に切断され内側に倒されていた。
「溶接器で切ったみたいだな」
 金網の切口は溶けており、丸く滑らかだった。

 ヘッドライトはフェンスの中を横切って、罷熊が寝泊まりするコンクリート製の建物を照らし出し、そこに信じられない光景を浮かび上がらせた。三百キロもある巨大な罷熊が腹を裂かれ、内臓をまき散らしぼろきれのように横たわっている。

「おい、車を回してあの中が見えるようにしてくれ」
 瀬戸は木川の指示通りハンドルを何回か切ってライトの光が建物の中に入るようにした。

 他の七頭がまだそこにいる気配はなく、床が黒く染まって見える。あの罷熊の血が広がっているのだ。血の臭いをかいで興奮した罷熊が檻の外に出ているらしい。

 これは厄介なことになったなと木川は思った。
「連絡しよう」
 瀬戸が情けない声を出して言う。

「ちょっと待て。こんなことをした奴がまだ園内にいるかもしれん。一回りしてから連絡しよう。どうせ罷熊は園内の何処かにいるんだから」

 瀬戸が物音を聞いて起きてから、たいして時間が経っていない。車で入った形跡はないし、重い溶接器を持ってこんなに早く園外に出られるはずはない。

 車はサファリ動物園を外と隔てるフェンス沿いに走った。
 あの罷熊をどうやって殺したのだろうか。
「銃声を聞いて起きたのか」

 木川は瀬戸が銃声を聞いて目が覚めたのではないかと思い尋ねた。
「いや‥‥‥、わからない」
「おい、あれは‥‥‥」

 突き当りに、今は冬なので何も植えてないが、花壇がある。車の走れる道はそこで金網フェンスから離れるように直角に曲がっている。その手前五メートルほどのところの金網がないように見える。

 近づくとやはり金網フェンスは罷熊の檻と同じように切断され、内側に倒れていた。

 木川は携帯ライトを手に持ち車を降りてそばへ行った。フェンス際の柔らかい土の上に熊の足跡と共に、直径三十センチほどある円形の跡を二つ見つけた。

 何だろう。溶接器を置いた跡かなと考えたが、それ以上詮索している暇はない。罷熊がここから園外へ逃走したことは足跡から歴然としていた。もう二人だけではどうしようもない。木川は車に戻り瀬戸を促した。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 園外へ逃走した罷熊は八頭の中の五頭であった。二頭はまだ園内にいたところを係員が総出で取り押さえた。

 動物園側は事態が取り返しの付かないことにならないうちにと、夜が明ける前に市当局と警察に届け出た。

 動物園側の説明を受けた市と警察はこんな事態を引き起こした犯人の捜査もさることながら、緊急を要する罷熊の対策を練った。

 動物園側は罷熊の飼育には全く動物性の食物を与えていないので、人間を襲うことはないだろうと言っていたが、今の季節では山の中に食料はない。たとえ山の中に逃げたとしても、いずれ人家の近くに来て食物をあさることになる。そうなれば人間を襲わないという保証などあるわけがなかった。見つけ次第射殺することに方針が決まった。

 罷熊が腹をすかす迄、どのくらいの時間があるかという質問に、動物園側は餌は毎日与えているので、たぶん二日くらいは持つはずであると回答した。

 猶予は二日しかない。多くみても三日のうちに五頭の罷熊全てを捕らえるか殺さなければ人の被害が出るおそれがありそうだ。

 県警の機動隊に出動命令が下った。

 サファリ動物園から南東に向かって一.五キロメートルほど下ったところに裾山という戸数が約三百八十戸の集落がある。市当局はそこの住民に警報を出した。

 徒歩では外出しないように、外出するときは必ず車で行くこと。
 戸締りを十分にして、二階のある家はなるべく二階で就寝すること。
 避難する知合いの家がある人は避難する方が好ましい。
 などであった。勿論裾山にある小、中学校は休校となった。

 この処置に少し大げさ過ぎやしないかという意見も出たが、大正の昔、北海道開拓時代に一頭の罷熊のため数村の住民が家を捨てて避難した事実があると、郷土史家として知られている市会議員が声を大にして言ったので市としても万が一を考えこのような警報を出したのだった。この市会議員はサファリ動物園ができる時、反対派の旗頭に立っていた一人でもあった。

 住民は、一部の酪農家を除いては、余り深刻に受けとっていないようで、明るい中は徒歩で近くに外出する人々も結構見受けられた。しかし、日が暮れるとさすがに外出する者もなくなり、警戒中の機動隊員が数人のグループで、携帯ライトを持って見回る姿が見られるだけになった。 初日の今日、愛鷹山に捜索に入った機動隊の一グループが一頭しとめたという連絡が入っていた。

 動物園側の話によると逃げた五頭の中、二頭は成長してから捕らえられたので野生に帰るのは早く、危険かも知れないとのことである。

 罷熊は愛鷹山方面ばかりでなく富士山の方へ逃げたものもいるらしく、昼ごろ富士山スカイライン方面から走ってきた車から目撃の報告があり、捜索隊はそちらの方にも出動した。だが、発見できず、夕方手ぶらで帰ってきた。

目次次へ