十五、

 甘粕は多賀を見舞いに行った帰りであった。少し長居をし過ぎたらしく、既に午後十時をまわっていた。

 多賀は富士市に在る病院に入院している。二日前、事故を起こして工場から救急車で運ばれるときは意識がなかったが、今日はもうすでに、甘粕と長時間話が出来るほど回復していた。

 左肩を骨折し重傷であったが、幸いにも頭部の方は検査の結果、脳震盪を起こしただけで異常はないらしい。

 富士市からの帰り道は初め曲がりくねって急傾斜を登るが、それを過ぎると道幅も広くなり、緩やかな登り坂が続くだけである。信号一つない道を甘粕はかなりのスピードで車を走らせていた。

 両側は杉と桧の植林地帯で、昼でも薄暗いところであり、夜はトンネルの中を走っているような錯覚を起こさせる。

 この辺りには全く人家はなく、この時間帯では滅多に対向車にも出会わないところだ。ほどなく右側に空間が開け、愛鷹山の山裾が迫るところに着くはずだった。そこに、春から秋にかけては結構商売になるらしいが、冬期は開店休業も同然なドライブインがある。

 周りには数軒の民家が存在し、ドライブインの駐車場の道路際には電話ボックスが置かれている。そして、南富士工場へ曲がるT字路はそのすぐ先にある。
 甘粕はその公衆電話から連絡を入れるつもりだった。

 車を駐車場に入れ、電話ボックスまで歩いて行く。受話器を取り硬貨を入れると発信音が聞こえてきた。やはり、エコーがかかったくぐもった音がしている。

 この辺りの電話は何処でかけてもこんな音がするのだ。

 工場の電話も同様であり、初めてこのエコー音に気付いた時、盗聴されているのではないかと、ここのドライブインの中にある電話を借りに来たことがあった。

 ところが、ここでも同じようなエコー音が聞こえ、それ故その時はかけるのを止めてしまった。

 だが、考えてみれば馬鹿げていた。南富士工場の全回線の盗聴をして何の役に立つのだろうかということだ。

 たぶん、このエコー音はこの辺りの回線特有の音なのだろう。
 そう思い直して以来、気にせず、工場の電話でも報告をしている。

 報告を続けながら、車を止めた向こうの暗い潅木の茂みを見るとはなしに眺めていた。茂みは風で揺れており、車の上にチラチラと白いものが落ちてくるのが目に入り始めた。

「雪か・・・」
 呟きが聞こえたらしく、電話の向こうから問い返してきたが、それを無視して報告を続けた。

 暗い茂みをじっと見ていると、それが次第に近付いて来るような錯覚を起こしそうになり、思わず体の向きを変えて道路の方に目を移した。

 雪は次第に激しくなり、道路は白くなりかけている。積もらないうちに帰った方がよさそうだ。受話器を置き電話ボックスを出ようとすると、先ほどの茂みが柔らかく波を打って車に迫っているのが見えた。

「なんだ?」
 甘粕は思わず車に向かう歩を止める。
 それは車の前を廻り姿を見せた。大きな熊だ。

 サファリ動物園から罷熊が逃げて、警報が出されていたことを思いだした。

 工場の敷地は、周りが金網フェンスで囲われていて、罷熊が侵入する心配など殆どない。だからその知らせを受けた時は気にもとめなかったし、今の今まで、まったく忘れていた。先ほど茂みが動いたように見えたのは錯覚ではなかったらしい。

 車に走り込むには既に遅い。周りを見回したが、ドライブインは灯が消えており、辺りの民家も雨戸を下ろして静まり返っていた。

 警報の内容をよく守ってしっかりと戸締りしているのだろう。

 走って行き、たたき起こして中に入れて貰おうかとも考えたが、家の人が戸締りを開けてくれるまでに罷熊に追い付かれるかも知れない。成功は五分五分だと思うが、そんな危険な賭をするつもりはない。

 静かに後ろへ下がり、電話ボックスの中に戻った。気付かなければそのうち罷熊は立ち去ってしまうかも知れない。

 罷熊は車の周りを二度廻り、離れようとはせず、もう一度向こう側に廻り、立ち上がった。僅かに開いている運転席の窓に鼻面と手を差し込もうとしているらしい。

 車の中に食べかけのイカの足があることを思いだした。帰ってくる途中でコンビニエンスストアーに寄り、酒のつまみにと買ってきたものを運転しながらつまみ食いした残りだった。たぶん車の中からその匂いがしているのだろう。

 罷熊は甘粕が電話ボックスに居るのを知ってか知らずか、しきりと車のドアを引っかいている。

 甘粕は備え付けの電話帳を手に取ってめくり始めた。助けを呼ぶつもりだ。裾山に県警の機動隊が詰めかけているはずであるが、駐在所はない。何処へ電話をしたらいいのか判らなかった。

 罷熊は車のドアを引っかくのを止め、そこから離れるそぶりを一度見せるが、再び元に戻って同じことを始めた。

 甘粕は指で名前ををなぞり、道路沿いにある裾山のガソリンスタンドの番号を探した。そこへかければ、誰か機動隊に連絡してくれるだろうと考えたのだ。なかなか見つからないので焦ってきた。

 罷熊はと見ると、もう引っかくのを止めており、車の向こうにその背中がうごめいていた。

「こっちへ来るな、向こうへ行け」心の中で念じながら、小さく口に出していう。

 ようやく電話番号が見つかり、ポケットの小銭を取り出して投入口へ入れ番号を押す。罷熊に見つからないよう受話器を持ち小さくなって座り込んだ。

 呼び出し音が鳴っているが、なかなか出ない。
「何しているんだ早く出てくれ」
 既に五回目の呼び出し音が鳴っていた。もう寝てしまったのだろうか。

 それとも・・・、甘粕ははっと気が付いた。あのガソリンスタンドは店だけで居住区は別のところなのかも知れない。再び電話帳を手に持ってめくろうとすると、受話器を取る音が聞こえてきた。

 罷熊が車を諦めてこちらに向かってくるのが見えた。甘粕は慌てて受話器に向かって早口で喋り出した。自分のいっていることの順序がめちゃくちゃだと意識していたが、どうしようもなかった。人間が相手ならこんなに慌てたりはしない。罷熊を相手にすることなど一度も訓練を受けていないのだ。

 それでも電話の相手は理解してくれたらしく、裾山にいる機動隊に連絡するといってくれた。

 ホッとして受話器を置く。しかし、それも束の間だった。
 既に罷熊は電話ボックスのそばまで来ていた。
 機動隊が駆けつけてくれるまで十分か十五分はかかる。それまで罷熊は大人しくしているだろうか。

 座ったままの姿勢で、動き回る罷熊を見ていると、突然目が合ってしまい、どうしたらいいのか判らず慌てた。

 目をそらした方がいいのか悪いのか‥‥‥。
 罷熊の顔はとてつもなく大きく、鼻の頭、口の廻り、そして口を開けて見せる牙は濡れて光っている。

 ガラス一枚を隔てて、こんな近くで獣の顔を見るのは初めてだ。不気味に光る小さな目は何の表情も見せず、何を考えているのか全く判らない。意図の読めない強大なものにじっと見つめられることは、今まで経験したことのない恐怖を感じさせられた。

 罷熊の一撃は電話ボックスのガラスなど簡単に破ってしまうかも知れない。しかし、今の甘粕に取っては、このガラスの隔壁が唯一の頼りである。

 罷熊が顔をこすり付け、粘りけのある液体がガラスに付着した。そしてボックスの周りを廻り始める。甘粕も中で一緒にまわった。

 罷熊がドアの側にまわって来た。先ほどのように顔をこすり付けられたら簡単に開いてしまう。そうさせないように、足を伸ばして折れ曲がるドアの中央部の下端を押さえた。

 罷熊はやはり顔をこすり付けてきた。足に恐ろしい圧力が掛かり、ドアが少し動く。歯を食い縛って抵抗する。
 電話ボックスが揺れてミリッという音がした。

 急に罷熊が横を向き、足にかかっていた圧力が遠のいた。諦めたようだ。罷熊が軽くこすり付けるだけで、甘粕は全力でドアを押さえなければならない。恐ろしい力だ。

 罷熊は左側へまわり、また顔を近付け、吐く息でガラスを白く曇らせる。そして、突然立ち上がり、前足を電話ボックスに掛けてきた。

 ぐらっと揺れてきしむ。
 今度は電話ボックスごと倒す気らしい。甘粕も慌てて立ち上がり、電話器につかまり罷熊の力に抵抗する。

 弾けるような音がボックスの中に響いて、ガラスにひびが入った。
「畜生、やられてたまるか」

 必死に罷熊の力に逆らったが、徐々にボックスが傾きだし、ガラスが音を立てて弾け始めた。そして、ついに電話器を持ったままボックスと一緒に横倒しになってしまった。

 大きな音が轟き、ガラスの破片が顔に降り掛かってくる。
 罷熊は音に驚いて巨体に似合わないスピードで脇に飛び退いたが、すぐにボックスの底の方へ移動し、そこから中を覗いてきた。

 甘粕は天井の方へ移動した。罷熊は体を揺すりながら中へ入ろうとしている。それに合わせてボックスが左右に揺れ出した。

 右手が掴んだボックスの枠が動く。右側がドアだ。
 罷熊が体を半分ほどまで入れて来るのを待って右手に力を入れた。
 だが、ドアは僅かに開いただけで、それ以上動かない。横倒しになった衝撃で枠が歪んでしまったらしい。

 罷熊が間近に迫り、その吐く息が生暖かく顔に届いて来る。両手をそえて力を込めたが、ドアはそれ以上びくともしない。上着を脱ぎそれで頭を覆い、ガラスが割れて鋭い牙のようになっている反対側に勢いをつけて飛び込んだ。二、三回転して立ち上がると、雪に足を取られながら車へ走る。そして、座席へ飛び込みドアをロックした。

 外に目をやると罷熊はやっと電話ボックスから出てきたところだった。
 乱れた呼吸を整えながらポケットを探ったが、キーがない。車を下りたとき上着のポケットに入れたのだ。

 白くなった地面の上に自分の上着が落ちているのが見える。
「ドジだな」
 自分を笑う余裕がやっと出てきた。車の中は電話ボックスより安全だ。ここで助けが来るのを待つしかない。

 罷熊は車の方に来ようとはせず、こちらに尻を向けて道路の方を見ている。何かに気を取られているらしい。

 裾山にいる機動隊が来てくれたのかもしれないと思い、道路をじっと見ていたが、いっこうに車のライトは見えてこない。

 罷熊がうなり、牙をむき出している。気を取られているのは道路の向こう側らしい。

 何だろう。他に誰か居るのだろうか。
 目を凝らして道路の向こうの闇を見たが、何も見えない。確かあちら側は楢の林が続いていたはずだった。

 やがて、罷熊は頭を下げると、回れ右して駐車場の奥の薮の中へ去って行った。

 甘粕は上着を取りに外へ出た。雪は先ほどより激しく降っている。風もなくなり、物音は全く聞こえてこない。上着を拾い、雪をはたいて車に戻りかけたが、何か居るような気配を感じて足を止めた。罷熊が去って行った駐車場の方ではなく、道路の向こう側にそれを感じる。

 全く物音がしないと思っていたのは甘粕の錯覚で、耳を澄ますと微かに連続的な音が道路の向こうの闇から聞こえてくる。

 降っている雪に吸収され小さな音になっているが、間違いはない。
 何だろう。耳の神経を全開にする。モーターの音のようでもあり、次第に小さくなって行くような気もする。

 暫く立っていると、やがて音はエンジン音のようになり、今度は大きくなってきた。甘粕は音がいつの間にか車のエンジン音にすり変わっているのに気付いた。どうやら裾山の機動隊がやって来たようだ。

 手に血が付いているのに気付く。何処か怪我をしたらしい。甘粕は寒さに震えながら上着の袖に手を通した。

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