三、

 井上孝夫は屋上のアンテナを見に行き、異常のないのを確かめて、無線機の前に座った。

 定時の通信にはまだ早いが、受信状態の調子を見たいので、早めにスタンバイした。

 ここ一週間、シンガポールのアマチュア無線家と交信している。昨夜は電離層の状態が悪く交信が旨く行かなかった。今夜もその点が心配だがとにかくやってみなければ判らない。

 井上は岩手県の工業高校を出て上京し、希望通り無線機の組立工場に就職してもう三年過ぎていた。小さな会社だが満足している。

 半年前に待望の無線機を購入し、現在、周辺機器もぽつぽつと部屋の中に飾られつつある。部屋の広さは六畳ほどなので、三分の一はその機器で埋まってしまっていた。

 仲間の中には井上が足元にも及ばないような装置を持っているものもいるが、自分もいずれはそれ以上の設備を備えてやろうと秘かに思っている。

 通信のおかげで交友関係が広くなったのも楽しいことで、都内、国内はもとより外国にまで数人の友達ができて、英語で話して自分の意志が相手に初めて伝わった時は非常に嬉しかった。外国人には自分の東北なまりの英語が、どう聞こえただろうかと後で考えて、思わずニタリと笑ってしまったこともある。

 交信時刻までにはまだ時間があり、いつものように受信波長をトラック無線のところに合わせた。トラック無線の交信は面白い会話が聞けるので、時々退屈しのぎに聞いているのだ。

 彼らの交信手順は乱暴で、決まったパターンはないが情報交換の時などは符丁を使ったりすることもあって、あれこれ適当に解釈しながら聞いていると時間の経つのも忘れてしまうほど面白い。

 今夜は受信状態があまり良くないようだ。少しボリュームを上げ、トーンも調節する。ザーっと波のような音が大きくなった。

「‥‥‥兎は環状線に乗った‥‥‥数分‥‥‥」
 符丁で交信しているのが聞こえてきた。交信が雑音で時々途切れる。
 電波がビルなどに遮られるのだ。発信車が走っている証拠だった。

「‥‥‥俺は海老名で休憩する。そっちは‥‥‥」
 別の交信が入ってきた。微調整のダイヤルを回して波長の修正をする。
「トラップ進入せよ‥‥‥三台後方を‥‥‥トラップ進入‥‥‥」
 やはり受信状態は良くない。

「トラップ進入完了‥‥‥」
 相手の応答が入った。何をやっているのだろう。いつものトラック同志の交信とは明らかに違う。これだけ雑音が多いのに割合よく聞き取れ、言葉もハッキリしている。だいぶ交信慣れしているようだ。

「こちらは博多祇園会‥‥‥応答‥‥‥」
 これは別の交信だ。

 眼の端に何か動いているものを感じ、焦点を合わせるとカセットのリールだった。昨夜使った時、メインスイッチを切っただけで録音装置のスイッチを切り忘れていたらしい。

 すると今の交信が録音されている。スイッチを切ろうと手を伸ばしたが途中で止めた。
 録音はいつでも消せるので、このままにしておこうと思った。

「現在、信号待ち。兎の位置は」
「トラップの三つ後ろにつけている」
 車は首都高速を走っているらしい。それもここから眼と鼻の先のような近くを‥‥‥。

 それにしても、音はか弱く小さい。こんな近くならボリュウムをしぼらなければならないほど大きく聞こえてくるはずだ。出力を小さくしているのかも知れない。たぶん交信相手も同じ首都高速を前後して走っているのだろう。

「現在、兎はトラップの二つ後ろ。宝町を過ぎたら、トラップを仕掛ける」
「了解」

 トラップ‥‥‥、わなじゃないか。兎をわなで捕まえるのか。井上は子供の頃を思いだした。井上の田舎では、使い古した漁網を兎の逃げ道に張って追い込んで捕らえる。わななどは使わない。わなで兎が捕まえられるもんか、わなで捕まえるのは狐や狸だ。

「間にいる他の兎を逃がしたら、トラップの口をあける」
「了解」
 暫く、沈黙した。

「あっ、兎が二匹入った。‥‥‥やむをえん実行だ」

 

 新聞受けから朝刊を取ってきてテーブルの前に座った。昨夜、午前二時過ぎまで頑張ったが、シンガポールとの交信は旨く行かず、寝不足で頭がボーっとしている。

 焼き上がったトーストを口にくわえながらスポーツ覧をひろげる。昨夜の神宮球場は延長の末巨人がヤクルトを下していた。今年は久しぶりに巨人が優勝するかもしれないなと思いながら、紅茶を一口飲んで頁をめくった。漫画を読んで隣の記事に眼を移す。

 交通事故の記事だった。首都高速で車が二台炎上したとある。昨夜、午後九時二十分頃汐留トンネル付近の羽田方面に向かう車線で、ワゴン車と乗用車が接触し、側壁に激突、大破し炎上したという内容だ。

「車が二台‥‥‥、兎が二匹‥‥‥」

 井上は昨夜聞いた交信を思いだし、トーストを口にくわえたまま、紅茶のカップを手に持ち無線機の前に移動する。またメインスイッチを切っただけで、レコーダーのスイッチを切り忘れていた。

 テープを巻戻し、昨夜録音した先頭から再生してみた。ザーザーという雑音しか聞こえない。音量を上げてみたが、雑音が大きくなるだけだった。微かな会話の声がザーッという雑音の中に聞き取ることができるようにはなったが、内容は全く判らない。

 録音時に音量が調節されてなかったのだ。
「ちぇっ、ぼろレコーダーめ」井上は諦めた。
 今度のボーナスで自動的に音量を調節するレコーダーを買おうと思った。

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 今年の梅雨はどうも空梅雨のようだ。ニュースなどによると東京の水瓶である各ダムの貯水量は三十%を切っているらしい。給水制限が行われているので、高台にある重田の自宅などは水の出が極端に悪く、そのため風呂は一日置きにしか入れない。

 太り気味でよく汗をかく重田にとっては大変辛いことだった。その上、この冷房温度の二十八度という制限は往復びんたに等しいものである。

 しかし、それとは逆に重田の気分は爽快の一語に尽きると言えた。
 取締役会議で新工場についての重田の提案が、まったく反対もなしにほとんど通ってしまったのだ。自分でも信じられないくらいであった。

 これで本社に対する重田の面子は十分過ぎるほどたったと思う。以後、本社は重田の功績に対して何等かの処置をしてくれることは間違いないだろう。

 重田は皆の前では口にこそ出さないが、自分を富士オートマトンに派遣した昭興生命を未だに本社と呼んでいる。

 こんなに自分の思い通りになったのは、偶然、田上企画設計部長が交通事故で死んだせいもある。あの事故死を知った時、不謹慎だと思いながらも、つい心の隅で喝采を送ってしまっていた。

 しかし、もっと驚いたのは株主総会の前日まわってきた総会の根回し用の文書だった。こんなことは異例である。それには現常務の三人は子会社や関連会社に出向することになっており、その他二人の平取締役が辞めさせられることになっていた。

 そして、総会でその後がまの常務に富士オートマトンの小口の株主である複数の会社から押された者達が就任した。この者達は富士オートマトンにとって、重田同様社外の人間である。

 重田はこの者達を面識があるという程度に知っていたが、まったく思いがけないことだった。社長の園島、専務の重田、その他二人の取締役は留任であった。

 重田は文書が回ってきた時、社長に電話して尋ねた。
「なんだ、君は知らなかったのかね」
 電話の向こうから、以外だというような口調が返ってきた。

「株主には逆らえんよ」
 社長はそう言って電話を切った。
 園島は重田が知らないことに驚いた様子だった。すると裏で本社が動いたに違いない。

 事前に、重田に何の相談もなかったことにちょっと不満だったが、自分の役目は別なんだ。だから、本社は重田に相談しなかったのだと自分に言い聞かせた。そのうち本社から何か言ってくるに違いない。

 重田は、今まで、本社から言われる通りことを運んでいる。本社の意図を承知しているつもりだった。

 過去、幾多の例があったように富士オートマトンを乗っ取るとまでいかずに、ほどほどに経営に口が出せるようにし、本社の利益のために操れるようにするのである。

 それが昭興生命のやり方なのだ。だから、意図が成功しても園島社長のような創業者社長を決して追い出すようなことはしない。おそらく園島社長は薄々感づいているだろう。

 それにしても、今回の措置は本来の昭興生命のやり方ではない。ことによると仕組んだのは昭興生命ではないのかもしれないという思いが頭をかすめた。

「片倉様がお見えになりました」
 秘書課の女の子が電話で連絡してきた。
 片倉惣一、昭興生命の保険調査部の主査である。ここ一年ほど昭興生命と重田の間のメッセンジャーを務めているが、重田は昭興生命にいた頃はこの男を知らなかった。

「失礼します」

 ドアのところで片倉はいつものように背筋をピンと伸ばして挨拶をした。頬骨の高い、なめし皮のようにつやのある皮膚を持った男だ。

 重田はこの男を見るといつも子供の頃見た幹部候補生の軍服姿の兄を思いだす。

 重田が機嫌よく椅子をすすめると、片倉は姿勢ただして座り、鞄から書類を取り出した。受け取って目を通す。いつも通りの報告書の写しだけだったので、がっかりした。

「総会について、本社では何か言ってなかったかね」
「いえ、特別にはありません」
「そうか‥‥‥、君自身何か耳にしなかったかね」

 片倉はちょっと首を傾げ、再び「特別にありません」といった。
 この男はただのメッセンジャーで、本当に何も知らないのだ。
 酒井常務に電話して聞いてみようと思った。

 片倉の帰った後、重田は昭興生命の酒井常務に電話をした。彼とは昭興生命にいた頃から親しくしており、今でも時々一緒にゴルフをしたりする間柄でもある。

 酒井はいつもと変わらない大きな声で電話の向こうから、
「やあ、暫くだね」と言う。
 重田は聞きたいことがあると言った。

「何だね。そうそう、今度は旨くやったそうではないか。おめでとう」
「ありがとう」
 酒井のおめでとうという言葉にほっとした。自分は本社の思惑通りことを運べたらしい。重田の疑心はほとんど解けてしまった。

 何を聞きたいのだと尋ねてくる。
「いや、今になってはどうでもいいことだけど、今度のやり方はちょっと乱暴だったなと思ってね。もっと時間を掛けるべきではなかったのかな」

「うん‥‥‥」暫く間がおかれる。「まあ、とにかく結果が良ければいいではないか」

 今、言いよどんだのは何だ。結果がよければとは何だ。
「そっちで、今度のような手段を取らざるをえない事情があったのかね」

「うん‥‥‥、いや、ないよ。とにかく成功で終ったんだ。今度ゴルフにいこう。こちらで準備して連絡するよ」

 電話は切れた。酒井の言葉はなんとなく歯切れが悪いように思え、それに、急いで電話を切ったような気もする。裏にまだ何かあるのかも知れず、酒井は、たぶん、それを知っているに違いない。

 重田は自分が昭興生命の一員でなくなったことを感じた。まだ何かが計画されているらしいが、それが知らされてないということはもう重田はその計画に必要ではないということだった。

 重田は考えを巡らした。今になって思うと納得のいかない点が幾つかあることに気が付く。葵精工のスーパーZ5−TAROとゴッドL言語を採用する件だ。何故これらを採用しなければならないのか重田は説明されてなかった。

 普通なら昭興生命と株式で提携関係にある日本カッパードのコンピューターの採用を働きかけるはずで、昭興生命のホストコンピューターも日本カッパード製であり、スーパーZ5−TAROは葵精工及び死んだ田上の話からファクトリーオートメーションに向いたコンピューターであることは判っているが、それだけではゴッドLの採用にこだわる理由は説明できない。

 技術に詳しい田上が他の言語でのプログラミングを主張していたことからも、ゴッドLにこだわる必要はないのだ。技術的にも政策的にも理由は見つからない。

 まだある。何故、多賀三郎という社員を新工場に配属しなければならないのかということだ。重田は本社から指示を受けた時点では多賀三郎という社員を知らなかったが、人事の記録を見ると途中入社で、年齢は三十五才、学生時代ラグビーの選手としてならしたらしく、かって一部リーグの会社に選手として所属していた。

 彼は運動選手には珍しく、工学部を出ており、その後、その会社を辞めて、メカトロニクスの技術者として富士オートマトンに入社している。

 会社を辞めた理由は、脚を痛め、選手を続けられなくなったためだという。

 東富士工場に出張した際に、重田は多賀三郎を遠目で見たが、確かに運動選手らしく体格も大きく引き締まった躯をしていて、本社にいる青白い企画設計部の技術者とは大きな違いだった。

 しかし、それが新工場への配属理由であるはずがなく、重田は機会があったら、多賀三郎と話してみようと思った。たぶん、そうすれば何か判るかも知れない。

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 外から帰ってきたばかりの篠山直美部長刑事は係長の大木に呼ばれた。
 係長の机の上には書類の他に型の古いカセットラジオがのっている。

「実はこれなんだけどね」
 大木はカセットラジオをあごでしゃくって示した。中にカセットテープがセットされている。

「一度、聞いてみてくれ。それから話す」
 大木はスタートのスイッチを押した。無線通信の会話らしい。音が震えるようで聞き取り難いが、話している言葉は判る。

 聞き終ると大木はどう思うねと尋ねた。
「どうって‥‥‥、無線ですね。兎をわなで捕まえるようなことを言ってますけど、何かの符丁ですか」

 大木はうなづいた。

「これを録音した男はそう言っている。六月十三日の首都高速の事故を覚えているかい」
 篠山は黙って首を振る。

「ほれ、車が二台とも燃えたやつだ」
 篠山は思いだした。日にちは覚えてないが、確か夜であった。新橋付近で起きた事故だと記憶している。六月十三日のことだとすると一ヶ月以上も前のことだ。

「その事故とこれが関連あるのではないかと言うんだ。どう思う」
「もう一度聞かせて下さい」
 篠山は自分で操作してもう一度テープを回す。テープから聞こえる声は兎を追い詰めている内容だった。しかし、首都高速を兎が走っているわけがなく、兎を車とすれば、他の車がその車に何か仕掛けようとしていると解釈できないこともない。

「確かに交信者は首都高速を走っていますね。小松川分岐点、宝町、そしてその先は丸の内ランプで、事故はその先で起こったのですね」
 係長はそうだと言って座っている椅子をくるっと回した。

「時間は一致してるんですか」
「うん、私もそう思って先ほど交通課に問い合わせたんだ。事故が起こったのは午後九時二十分頃だ。この録音もその頃したと言っている」

「このテープは‥‥‥」
 大木は篠山が最後まで言わないうちに後を引き取って答えた。
「NBBラジオ局の根上貞男という男が持って来た。録音したのは彼ではない。彼のハム仲間が偶然録音したものだそうだ」

 根上のハム仲間の名前は井上孝夫というと大木は付け加えた。
「どうしてその事故とこのテープを結び付けたんでしょう」
 篠山はカセットラジオを軽く叩く。

「録音した翌日、新聞を見ていて気が付いたのだそうだ」
 大木は手に持っているボールペンを指先で激しく振った。
「翌日‥‥‥。それで届け出たのは一ヶ月後ですか」
 篠山はおかしいではないかという口ぶりだった。

 大木も同じように思ってテープを持ってきた根上に尋ねたらしい。
 録音装置のスイッチを切り忘れて偶然録音したものなので、音の調節が適当でなく、ノイズがひどくてそのまま再生しても会話が聞き取れなかった。井上はハム仲間の根上がフィルターをかけて聞きたい音だけ抽出できる装置があると話していたのを思いだして、それを彼に依頼してきた。

 フィルター装置はNBBラジオ局のものだ。装置が空いている時を待って処理したのと、録音した井上が届け出るのを迷っていたので遅くなったらしい。

「おそらく、装置を局に無断で使用したのだろう。周りの眼を盗んで処理したんだろうから時間がかかったのも無理ないんではないかな。それに録音した本人が迷っていたので替わりに根上が持って来たんだよ」

 篠山は納得してうなずいた。

「とりあえず篠さんに当たって貰おうかなと思ってね」
 ボールペンを振りながら、それで篠山を指した。
「殺人ですか」

「うん、ありうるな。そうでない方がありがたいけどね。もし当たってたら応援を出すよ」

「どっちだと思いますか」
 篠山は両手を机に乗せ大木の方へ身を乗り出した。
「うーん‥‥‥、難しいな」
 大木はボールペンで頭を軽く叩きながら、また椅子を左右に回した。

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