四、

 篠山は地下鉄を降りて地上に出た。時計は間もなく午後七時になる。

井上孝夫のアパートは蔵前にある。この辺りはいろいろな問屋が軒を並べており、昼間は歩道にまで荷物がはみ出して、人通りも多く賑やかなところであるが、この時刻には既に大半の店がシャッターを下ろしていた。

 篠山が歩いている通りから遠くないところを隅田川が並行して流れている。十年ほど前までは、どぶ臭いにおいがこの辺りまで漂っていたものだが、近頃は川がきれいになりそれもなくなっている。

 篠山はまずテープを録音した井上孝夫に会って話を聞こうと思い、勤め先に電話を入れた。勤務が終ってからなら会えると言うので、篠山が井上の自宅に行くことになった。

 更に交通課に行って、六月十三日の事故のデータを貰ってきた。事故の当事者は二人とも死んでおり、どちらも同乗者はなかった。事故原因はおきまりのスピードの出し過ぎと、後続ワゴン車の前方不注意による追突ということになっていた。乗用車の田上洋介は即死、ワゴン車の熊田慎一郎は救急車で運ばれる途中死亡していた。

 篠山は井上のアパートを見つけた。

 倉庫か車庫か判らない建物に挟まれた古い木造の二階建てで、なかに入ってみて、この建物は昔料亭だったのを改造したのではないかなと思った。場所は浅草に近い。この辺りは以前料亭が沢山あったところだと聞いたことがある。

 井上孝夫は部屋で待っていた。六畳ほどの部屋に、篠山にはよく判らない通信機器と思われる機材が沢山置いてあった。慌てて周りを片付けた跡がある。おそらく、いつもはもっと散らかっているのだろう。篠山は自分が上京してきた頃を懐かしく思いだした。

「すごいね。これは‥‥‥」
 篠山は部屋の中を見渡しながらつぶやいた。
 井上は照れながら自分等はまだたいしたことはない。仲間の中にはもっと凄いのがいると言う。井上の言葉には北の方の東北なまりがある。

 たぶん秋田か岩手だろうと思った。
「岩手県の出身かな」
 井上は岩手県の北上だと答えた。

「私も東北出身だ。と言っても福島だけどね」
「そうですか」井上は白い歯を見せて笑う。
 篠山はテープの会話をどうして六月十三日の首都高速の事故と結び付けたのか尋ねた。

 井上孝夫は交信を傍受し、録音をしたいきさつから話し始めた。初めはゆっくり言葉を選ぶように話していたが、次第に口調は早くなっていった。

「あの交信を聞いていて、おかしいなと思ったんです。うちの田舎の方では兎を罠なんかでは捕まえません。網を張って追い込んで捕まえるんです」

 成るほどと思った。篠山の記憶に残っている兎狩りもみんなで網に追い込むものだった。

「勿論、あの交信が何かの符丁であって、本当に兎狩りをしてるとは思ってませんでしたよ。トラック運転手の交信は、よく符丁を使ってますからね。でもおかしなことを言っているなということが頭に残ってたんです。それで翌朝、事故の記事を見て、兎を車かそれを運転している人に置き換えたらと思ったら、その事故が時刻も場所もぴったり合うんです」

 井上は右手の人差指を立てて、何度も篠山の方に突き出した。
「それで、事故は人為的に起こされたのではないかと思ったわけだね」
「そうです。交信の中でトラップと言っているでしょう」
 篠山がうなずくのを見て続ける。

「二つの意味に使われてるみたいですね。ひとつは罠に使った道具そのもの、もうひとつは罠全体、すなわち状況迄を含めた意味に使っていると思います。<トラップ進入>は道具の方をさしてます。僕は、ごろ合わせみたいですけど、このトラップはトラックみたいな大型車を指しているのではないかと思います。それから<トラップを仕掛ける>のトラップは交信している車を含めて罠全体を意味してます。そう解釈すると交信の意味がよく判ってきます」

 篠山は井上孝夫の説明を聞いているうち、彼は何度も繰り返してテープを聞いてこの結論を出したことを知った。

「交信はトラップとそれを支援するもう一台の車との間で行われていたと思います。そして、<あっ、兎が二匹入った>は不測のでき事が起こったことを意味しています。なぜなら交信者は思わず<あっ>という言葉を発しているからです。それに兎の数え方は二匹でなく二羽です。慌てた証拠かもしれません。でも兎の数え方は誰でも間違えますから一概にそうとも言えませんね」

 井上はまた白い歯を見せて笑う。篠山はその白い歯が清潔な印象を与えるなと思いながら、黙ってうなずいた。

「さらに後に続く<やむをえん、実行だ>という言葉で裏付けられていると思います」

 篠山にもその通りかも知れないと思えてきた。ここへ来るまでの間、幾つかの反論を考えて用意してきたが、今はそれを持ち出す気がなくなっていた。

「トラップ−わな−に車が二台入るとは思ってなかったのでしょう。対象の車はどちらかの一台だけだったはずです。わなに掛ける前に、兎とトラップの間にもう一台車がいたようです。それが一緒にわなにかかったとしたら、対象は後ろの車でしょう。しかし、兎が二匹入る前に、暫く沈黙の時間がありますね。交信が聞こえなかったのかそれともなかったのか判りません。僕は交信はあったが、聞こえなかったと思うんです。実はテープを聞いた後、首都高速を走ってみたのです。あの辺りは道路が宝町辺りから下に潜っていますね。トンネルではなく上は開いていますけど所々上に橋が架かっています。ですから交信は僕のところから聞こえないこともありえます。この間に前の車をやり過ごして兎をわなに導いたところ、後続の車が続いて入ってしまったと考えることもできます」

 篠山は頷いた。時間帯からいって沢山の車が走っていたはずであるから当然考えられることだ。

 翌日から、篠山は死んだ二人の身辺を調べ始めた。
 田上洋介は富士オートマトンの社員で企画設計部長ということであった。会社からの帰宅途中あの事故にあったらしい。富士オートマトンの本社と羽田の自宅を尋ねて聞込みをした。もう一人の熊田慎一郎は狛江市に住んでおりコーヒー豆の卸商で、商売で千葉へ行った帰りにあの事故に逢ったらしい。

 自宅と店で話を聞いたが、一つ引っかかることが出てきた。高額の生命保険をかけていることである。熊田慎一郎は三十二才で、自宅で逢った子供もまだ小さい。保険の掛金の支払いは店がしている。経営者だから当然ではあるが、保険金が二億円というのは多いような気がする。

 篠山は昭興生命の代理店へ行ってみた。契約は一年二カ月前で、受取人は奥さんになっていた。そして、それ以外のことは本社の調査部で聴いてくれと言われた。

 大手町にある昭興生命の本社に出向いた。篠山の相手に出てきた保険調査部の社員は片倉といい、貰った名刺に保険調査部主査とあった。

「あの件のお支払いは既に準備されてます。調査の結果は何の支障もございませんでしたので、近いうちに支払われると思います」

 篠山は高額な保険金でもこんな短期間で支払われるのかと驚いた。
「二億円というのはちょっと多いとは思いませんか」
「そんなことはありません。私どもでは御契約時に調査をさせていただきますが、熊田様の場合もっと高額でもよろしかったと思います」

 熊田は三千万以上の収入があるらしい。篠山より十才以上も若い男が自分の給料の六倍以上の収入がある。ため息が出そうだ。

 熊田の店の財務状況も調べてみた。多少の借金はあるようだが何の曇りもない良好な状態だった。近所の聞込みでも夫婦仲は良かったらしく、妻が保険金欲しさに夫を殺すなどとは思えない。

 それに、テープの中の兎は首都高速環状線を走って小松川分岐点に来ている。熊田は千葉からの帰りで、途中都内の何処かに寄った帰りでなければ、小松川方面から環状線に合流したことになる。熊田は巻添えを喰ったのであり、兎は田上洋介であると思った。

 篠山は事故の通報者にやっと会えた。大宮市に本社をおく、薬品販売会社の布川という営業マンだった。最初に問い合わせたとき、一週間、富山に出張しているとのことだったので、帰ってくるのを待っていたのだ。

 大宮駅で待ち合わせして、近くの喫茶店に入りアイスコーヒーを注文した。
 布川はあの晩事故を起こした車の五、六台後ろを走っていたらしい。

 篠山の質問に、「ええ、前の方に大きなトラック‥‥‥、いやトレーラーだったかもしれませんが、いました」と答えた。

「事故を起こした車の前にですか」
「そうです。左側の車線をゆっくり走っていました。私は右側を走っていました。事故を起こしたのはトレーラーの後ろにつけていて、追越しをかけた車でした」

「トレーラーの動きはどうでした。幅寄せかなんかしませんでしたか」

「そうですね」布川は思いだそうと眼を宙に据える。「事故の起こったのとほとんど同時にちょっとお尻を振ったように見えましたけど」

「事故はどんな順序で起きました?」

「追越しをかけた二台の車のうち、後ろの車が追突したと思います。そのショックで前の車はトレーラーの後輪に触れたようです。火花が見えました。道が左にカーブしていたところなので、そのあと二台の車は右側の壁に叩きつけられました。ほんの瞬間でしたからね」
 布川はコーヒーに手を伸ばした。

「どうして、追突したんでしょう」
 篠山は先をせかすように質問した。

「前方不注意ですよ。前の車がスピードを緩めたのに気付かなかったんでしょう」
 布川は当然のことをなぜ聞くのだという表情を浮かべた。

「どうしてスピードを緩めたんでしょうか」
 篠山の質問が判らないらしく不思議そうな顔をする。篠山は続けた。
「普通、追越しをかけた場合スピードを落とさず、一気に抜くでしょう」篠山は相手の顔を覗き込む。

「言われてみればそうですね。どうしてでしょう」
 布川は口に含んだコーヒーを飲み下してから答えた。
「トレーラーが幅寄せしたと思いませんか。大型になれば前の方の操作が遅れて後輪に現れます。先ほど同時にお尻を振ったと言いましたね」

「そうです。その通りです。事故の前にハンドル操作をしなければ同時にお尻を振りませんね。気が付きませんでした」
 布川は同意した。事故の状況は篠山が思っていた通りだ。これであのテープの裏付けが取れたと思った。これは巧妙な殺人だ。そう篠山は確信した。

「そのトレーラーの特徴を覚えてませんか」
「さあ、後ろだけしかみてませんからね。ジュラルミン製のボディだったと言うことしか覚えてません」
 布川はストローを手に持ったまま言う。

「でも、巻き込まれないで良かったですね」
「偶然、その直前にスピードが緩みましたから、私の前にいた数台の車も巻き込まれませんでした」

 偶然ではない。トラップの支援車が巻き込まれるのを恐れてスピードを落としたためだ。
「そうだ。事故が起こる直前、両車線共に車間距離が随分開きました」
 突然思い出したかのように市川は言った。
「左車線も‥‥‥」

 巻き込まれないため車間距離を取ったとすれば、支援車は二台いたことになる。合計三台だ。ちょっと大掛かりではないかと篠山は思う。
 事故車のすぐ後ろにいた車を覚えているか尋ねてみたが、布川は覚えていなかった。

 死んだ田上洋介は一介のサラリーマンである。調べによると資産があるわけでもなく、個人的な恨みを買う過去もない。会社では多少は人との摩擦はあるらしいが、勢力争いや昇進などが絡んだ妬み等からのもので、殺人の動機になるほどのものではない。

 そんなことは篠山のいる世界でも日常茶飯事である。もっとも中には例外もあるが、そんな動機で犯罪を犯すのは精神異常者だと篠山は思っている。精神異常者が交通事故を巧妙に装って、組織だったことをするはずもない。

 あの交信の会話は、録音した井上孝夫も言っていたように、無線通信に馴れた口調だった。あの事故を演出するために余ほどの訓練をしたか、普段から交信馴れしているかである。無線を使っている職業は沢山あり、トラック、タクシーや各種配送車の運転手等大勢いる。

 篠山は今日の報告を大木係長にした。
「それじゃ、ますます本物だな」
「そうです。今までの聞込みでは、状況は井上孝夫の推測を裏付けてます。しかし、動機らしいものが少しも見えませんね」

 篠山は机に両手をついて体重を乗せた。
「まだ、始めたばかりではないか」
 大木はまたポールペンを指に挟み振り回している。

「そうですけど、普通はこれくらいで見えてくるはずですけどね」
「田上が常務になるはずだったと言う話はどうなんだ」
 椅子を回転させ横を向いた。

「彼を押し退けて重役に座る者が居れば、多少は動機らしく見えますけど、居りませんし、例え居ても、ああいう世界では時が来れば、敷かれたレールに乗っている人は自然と重役の椅子につけるものらしいですよ」

 篠山は机を離れ、椅子をひっぱってきて座った。
「そうだな。熊田の線ももう一度どうかな。見落としているところがあるかもしれないぞ」

「それはないと思います。絶対とは言いませんが・・・」
 篠山は熊田の線はないと確信している。動機があれば田上洋介の方であると思っていた。

「あの事故が本当に仕組まれたのだとしたら、熊田を巻き込んだ手違いは別として、相当手際が良いと言うべきだな」

「そのことです。組織的な臭いもしますね」
 次はどうすると尋ねられたので、篠山はトレーラーを追うといった。
「どうやって追いかける」
 大木は横を向いたまま尋ねた。

「田上が富士オートマトンを車で出て首都高速に乗ったとすれば、一番近いのは護国寺のインターだと思います。彼らは田上の帰宅の道順を知っていたに違いない。ですから途中にトレーラーを待機させていたはずです」

「護国寺は池袋線だよ。確か<環状線に乗った>と言っていたはずだ」
 椅子を回転させ篠山の方を向いた。

「そうです。あれは待機しているトレーラーに首都高速池袋線を走ってきた兎が、いま環状線に入ったと言うことを知らせているのです。トレーラーは西神田から小松川分岐点の間の何処かで待機していたと思います」

 大木は立ち上がって壁の地図を見た。
「銀座方面の入口となると、西神田と神田橋、それと呉服橋だ」

 篠山はインターの入口近くに大きなトレーラーが長い時間とまっていたとすれば、誰かが見ているかも知れないと期待している。日数が経っているので忘れられていることも考えられるが、トレーラーを追う方法は他に思い付かない。

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