狸の話

 富士の裾野や箱根の近辺では、夜に車で走っていると動物をよく見かけることがある。深夜、仕事の帰りに小涌谷から湖尻へ抜ける道で、イノシシと正面衝突をしそうになったことが二度ある。また、湖尻峠から裾野へ下る道では、しばしば狐がヘッドライトの前を横切ることも経験している。その狐の話しであるが、習性として狐が持っているものなのか、個体の癖なのかは判らないが、かって我が家の近くにヘッドライトすれすれに横切ることを好む狐が棲んでいた。
 暗くなってから、家路を走っていると、時々左の方から畑の中を黒い影が疾走してくるのが目の端に入ってくることがある。その黒い影は全速力で車の進行方向へ突っ込んでくる。そして、次の瞬間、ヘッドライトの光の中に飛び込み、一瞬だけ全身をさらして、右側の暗やみに消えていく。
 私は変な趣味のある狐だなといつも思っていた。
 ある時、娘が帰宅途中に、あの狐が車にはねられて死んでいるのを見たと告げた。
 とうとう、はねられたか・・・。あんなことをしていればいつかは車にはねられてしまうのではないかといつも心配していたのだ。
 翌朝、出勤の途中、死体があると教えられた場所を見てみたが、それはもうなくなっていた。たぶん、誰かが襟巻きにでもしようと持っていってしまったのかもしれない。犬の死骸だったらいつまででも放置されているのに・・・。
 狐がいなくなって、随分経つが、最近、同じ場所でおかしい出来事があった。
 やはり、帰宅の途中である。そこは道路の左が畑で右側が灌木の木立になっているところだ。木立の間から、動物がちょろちょろと出て来るのがヘッドライトの明かりの中に見えた。すぐに、狸だとわかった。狸は車にはまったく気付いていない様子で、車の進行方向に首を向けたまま道路へでてくる。咄嗟にこのままでは轢いてしまうと思ったので、ブレーキを踏んでスピードを落とした。狸はむこう向きのまま道路の真ん中まで出てきた。
 私の車は一メートルほど手前で停車した。狸はまだ車の存在に気付かず、やはり向こうを向いたまま、今度は斜めに車に向かって来た。狸の姿はフロントフェンダーの陰に入り、私の視界から消えた。その途端、コツンと小さな音が響いてきた。
 狸がバンパーに頭をぶつけたのだ。一瞬の間があった。
 狸は車の存在に気付き、慌てふためいて出てきた木立の中に飛び込んでいった。
 狸はライトの光でよく見える方向ばかり注意して、その光源になる車の接近をまったく考えていなかったらしい。そして、車にぶつかった後の一瞬の間が何ともおかしかった。
 如何にも狸らしい間抜けさではないですか。

「海と山で同じ音を聞いてしまった」

 私は暇があると(いや、暇がなくとも無理矢理つくってしまうのかも)海へ、山へ遊びに行く。先日、連休の初日の早朝、暗いうちに起きて、戸田へ釣りに行った。
 夜が明けて間もないというのに、既に先客が沢山いる。車のナンバーを見ると多摩とか八王子とか、すべて他県ナンバーである。おそらく、ここで夜を明かしたのだろう。
 ここまで来る途中に朝の定期便(読み方はいろいろ)をもよおしたので、私は観光便所(何故か戸田ではそういう)に愛車のピカピカロードスターを横付けにした。濡れている木製の階段を滑らないよう注意を払いながら、かつ、急いで男性用に向かった。
 そこへ一歩踏み込んだとたん、中から、パパーンッ、バリバリバリ(ブッブッブーッ、ブリブリブリだったかもしれない)という炸裂音が聞こえてきた。私は思わず足を止めた。
 朝からとんでもない音を聞いてしまったと思った。
 及び腰で、そっと覗いてみると、数個ある個室の一番手前の扉が閉まっている。
 発生源はあそこだなと思いながら、入ろうとすると、さらに実弾の音が鳴り響いた。
 気がつくと、私の生理的欲求はおさまってしまっていた。
 それならば鼻の曲がらないうちにときびすを返し、車に逃げ帰った。案の定、釣りはまったく不調だった。昼過ぎから、彼岸の法事があるので、また夕方来ようと思い粘らずに帰宅した。
 坊さんが来るまで、少し時間があったので、御殿場にある知り合いの園芸店へ約束してあったトルコキキョウの苗を貰いに行き、インターネットで本を探してくれと頼まれてしまった。そして、坊さんがお経をあげている隙に検索し、ダウンロードした。坊さんが帰った後、再び、園芸店へダウンロードした内容を記録したフロッピーディスクを届け、釣りに行こうとしたら、天候が崩れ、大雨になってしまった(すでに午後5時であった。いつも何と忙しいことか!)。
 翌日、早朝、墓参りに行く愛妻(愚妻と同義語:ねんのため注釈を付けました)を新幹線まで送り届け、富士山へ行く支度をしているとテレビがオリンピックの女子マラソンの中継を始めた。面白そうなので、つい高橋尚子がゴールするまで見てしまった(金メダルバンザイ)。
 愛車のオンボロスプリンタージャガーベンツ(海と山は別の車)のハンドルを握り、10時20分頃水ヶ塚の駐車場に着いた。車を降りると、昨日と同じように生理的欲求が生じた。ただし、小さい方である。すぐ側にあるトイレへ駆け込んだとたん、再び、パパーンッ、バリバリバリという、まだ耳に新しい例の音が響いてきた。まさか、戸田の人が富士山へなどとは思わなかったが・・・。昨日の今日なので、小用を足しながら、音からして今日の実弾は少し柔らかめだなと想像する程度のゆとりができていた。須山登山道を御殿庭まで行き、幕岩を回って駐車場に戻ったのは午後4時30分であった。
 二日連続、大変な音を聞いてしまいウンが尽きたのか、連休の間、海も山もまったく収穫無しであった。その上、8回裏まで見ていた野球も巨人の優勝する瞬間を見逃してしまった。ああ、ついてない(何が・・・ウン?)。

「釣り人」

 私はよく海釣りに行く。本来は山奥に入って岩魚を釣る源流指向の渓流釣りが好きだったが、寄る年波や、暇はあっても軍資金の乏しさから、次第に近くて簡単に行ける海釣りばかりになってしまった。海の魚のよいところは美味しいことである。また、いろいろな釣り人と逢って、話を聞くことができるのも楽しい。話しかけても返事もしない気むずかしい人もいるが、時には隣に入って一言声をかけた途端、言葉の自動販売機みたいに止めどもなく喋りっぱなしになってしまう人もいる。同じ釣り場で、行く度に見かける人がいる。そんな人とは名前は名乗りあわないが、結構親しくなってしまう。
 秋から冬にかけて、昨年あたりから戸田の岸壁でよく見かける人がいる。たしか、静岡か清水の方から来るといっていた。つい先日、御浜の方で釣りをした後、その岸壁に移動して彼の隣に入った。いつもと同じように、椅子に座りアミエビをコマセに使い、オキアミを刺し餌にして、かごの遠投釣りをしている。私は声もかけずに5メートルほどの間隔を開けて釣り始めた。暫くして、隣を見ると竿が弓なりにしなっている。竿を持っている当人はしかめっ面をして、リールも巻かずにただ海面を見つめているだけだった。
 根がかりか・・・。私はそう思って自分の釣りに戻った。
 再び暫くして、隣を見ると彼はつまらなそうに、ようやくリールを巻き始めるところだった。ウキが見え、手元に来るにつれて竿先が激しく動き出した。
 あれっ、根がかりではないのかと思っていると、後ろを通りかかった地元の漁師が「イナダか」と大声で叫んで覗き込んできた。
 彼は相変わらずゆっくりとリールを巻いている。やがて、魚体が見えてきた。
 大きい、本鰹のように見える。
「平ソーダのでかいのだ」漁師が叫んだ。
 まさか・・・、こんな大きいソーダガツオがいるわけがないと私は思った。
「タモはねえのか」漁師が周りを見回した。釣り人は私を含めて4人いたが、全員小物釣りなのでタモアミ等誰も持っておらず、彼のハリスは1.5号なので、こんな大きな物をぬきあげるわけにいかない。
 何も言わないで、突然彼が竿を漁師の胸に叩きつけるように渡した。漁師は思わず反射的に竿を握った。そして、彼はそのまま何処かへ走って行ってしまった。
 竿を持たされて漁師は奇声をあげながら、獲物をあやし始めた。
「あっあっあっあ・・・、とっとっととっと・・・、たったったたったー」
 魚が方向を変える度に、律儀に発声を変えている。彼はなかなか帰ってこない。
「何処まで、行ったんだ。とっとっととっとー・・・・」
 駐車場の方を振り返ってみていると、遠くの方に彼の姿が見えた。手に小さなアミを持って悠々と歩いて来る。走ってくればいいのにと私は思った。
 漁師は相変わらず奇声を発し続けている。
「たったったたったー、氷はあるのかな、おっおっおっおー・・・」
 漁師は奇声を上げている合間に、もう、彼が持ち帰る時のことを心配している。そんなことは釣り上げてからすればいい。
 戻って来た彼の手にあるのはヘラブナ釣り用のヘナヘナなタモだった。
「こんなのしかなかった。もう逃げちゃったかな」
 人ごとのような顔をして水面を覗き込んだ。漁師と彼は協力して獲物を取り込んだ。
 釣り上げた魚をバケツの中に入れ蓋をしてようやく釣り場に静寂が戻った。
「それ、平ソーダじゃないですよね」と私。
 身体の模様からして本鰹ではないのは確かだった。おそらく、スマかハガツオの類じゃないかと思っていた。しかし、自信はないのでバケツの蓋を取って見ることはしなかった。
 以前、先刻の漁師がカガミダイをマトウダイと観光客に教えていたのを目撃したことがある。漁師が魚の種類を沢山知っているとは限らない。彼らは図鑑を見て覚えるわけではなく、自分達が獲ったものから覚えているのだ。
「今年は水槽に入れる魚がさっぱり釣れない」
 再び、釣りを始めた彼がぼやくように言った。彼は水槽に海水を入れて海の魚を飼っている。その魚を釣りに来ていると以前いっていたのを思い出した。
「それスマかもしれない。刺身がうまいですよ」と私。
「もう、4回来ているけれど、今年はコバルトスズメだけですよ。小鯛が一匹もつれない」
 会話が一つも噛み合わなかった。彼にとっていま釣れた魚などどうでもいいのだ。ただ釣れたから持って帰るだけらしい。
 しかし、彼の仕掛けの針は大きいし、餌も大ぶりのオキアミを付けている。どうやってあの仕掛けで、コバルトスズメを釣ったのだろうと考えてみた。針の大きさはコバルトスズメの頭より大きいのだ。
 私は小鯛など数え切れないほど今年は釣って放流した。突然、釣っているのが馬鹿らしくなったので、別の隣の人に残った餌を引き受けて貰い、帰り支度を始めた。

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