○ 三日目−−−−−−−−−−−−−−−

 咲畑は田川に朝食だといわれて起こされた。
 頭が重い。元来、低血圧気味なので、この歳になっても寝起きが悪い方である。その上、昨夜は寝床のなかで伊奈田に来てから起こった出来事について自分なりの解釈を求めて、考えを巡らせていたので、なかなか寝つかれなかった。

 顔を洗い、居間兼食堂に行くと勝間田と渡辺が朝食をとっていた。
「今日も、お願いしますよ」といいながら、隣に座る。
 昨夜、勝間田に麻生寺、真木寺、間聞寺、この三寺を案内して貰う約束をしてあるのだ。

 朝食後、昨夜の地震の話が蒸し返された。あの地震は、やはり実際にあったとしか考えられない。
そして、公民館にいた人達だけに激しく感じたのは、地震の起こる前に、田川の言動にみんなが注目していて、感覚が過敏になっていたからではないかと咲畑は話した。

「しかし、変なことが起き過ぎると思いませんか。私が起こした事故も、やはり、おかしいと思います」
 あの時、確かに、前へまっすぐ続く道が見えていた。車のライトに照らし出されたアスファルトの路面を、渡辺はいまでもハッキリと目に浮かべることが出来る。

「渡辺さんは、車のテールランプを見て、走っていたと言いましたね。そして、仕事が忙しくて疲れていた」
「確かに、疲れていました。でも、話しながら運転していましたから、眠ってなどいません」

 渡辺はそうでしたよねと、勝間田に同意を求める。
「私の友人に精神分析医がいるが、彼は、こういった現象を我々が納得するように、いつも説明してくれる。彼がこの話を聞いたら、恐らくこう説明するかも知れない」

 まっすぐな道路を運転していると、刺激のない単調さから、しばしば、ドライバーは眠気を催してくる。それを抑えて運転していると、次第に注意力が低下し、方向や時間の感覚が失われて、夢のなかにいるような感じになり、頭のなかにいろいろな空想が浮かんでくる。

やがて、それが現実のイメージとなり、はっきりと見えるようになってくるという特異な精神状態に陥る。幻覚というのは、まさに、こんな時起きるそうだ。

「渡辺さんの場合は、少し違うが、やはり同じように説明できるだろう」
 渡辺さんは車のテールランプを見ながら運転していた。おそらく、そのテールランプは道の曲がりと共に、単調に左右に動いていただろう。渡辺さんは勝間田さんと話をしていた。

話の内容はつい先ほど見たこと聞いたことだ。殆ど思い出す努力が必要ないほど簡単に話せることだから、無理に意識することもない。

 単調なフリッカーの往復運動を見つめさせることは、催眠の導入によく使われる。眠り込むまでの精神状態は催眠状態とよく似ているそうだ。テールランプがフリッカーの代わりになって、渡辺さんは次第に意識できる範囲が狭くなってきて、夢のなかに居るような状態になった。

そうなると、先ほど話したドライバーと同じ精神状態になり、空想したことがハッキリとしたイメージとなって見えてくる。

「恐らく、渡辺さんは意識下で、曲がった道より、まっすぐな道を走りたいと思っていたのだろう。そして、それがイメージ化され、道がまっすぐついているように見えてきたのでしょう」

 渡辺自身は納得してないようだが、勝間田は教授の説明通りだろうと思った。しかし、昨夜の殴り合いはなんだったのだろう。渡辺がただ幻覚を起こして、棒を振り回したなどという説明では納得できない。

 沢田親子も同じような状態になったのだ。
「あの場合は、たぶん‥‥‥」
 咲畑は極限状態における意識の喪失ではないだろうかという。

 戦争などにおいて時々例があるのだが、余りにも恐怖が大きいと意識の短絡が起こり、自己の保存だけが最優先にされる。昨夜の場合は地震が起こる前に風祭さんの言動と田川君の指摘で、我々は十分過ぎるほど臆病になっていた。

 そんな時、突然地震が起き、咲畑自身でさえも心臓が止まるほど驚いた。三人は他の人以上に驚き、そして恐怖の極限状態に陥り、意識を失うまでには到らなかったが、その認識の範囲が狭くなり、幻覚を見るような精神状態となったのかもしれない。

 三人が異なった地震の被害状況を幻視したのがその証であろう。
 更に三人は外に出てからも、個体保存の本能を誘起するような幻覚を見て、あのような行動をしたと思われる。

 おそらく、その幻覚も、各々異なったものだっただろう。
 陽一君が走って逃げて、残りの二人が殴り合ったことがそれを語っている。
 渡辺さんと沢田さんが殴り合っていたのは、初めに、どちらかが幻覚を見て殴りかかったからだ。

 それによって、もう一方も、自分を守らなければならない幻覚を見たのだ。また、三人とも外に出てから見た幻覚を全く覚えていないのは、意識の喪失が、更に進んだためだろう。

 誰でも夢を見て起きたとき、その内容をハッキリ覚えている夢と、見たことだけは覚えているが内容を思い出せない夢とがあるはずである。

「頭のなかから聞こえてきた、あの騒がしい音は何なのですか」
 田川が尋ねた。あの音は我々ばかりでなく、たまたま、あの場に居合わせた四人の学生も聞いている。幻聴とは思えない。

「そうだな‥‥‥」
 咲畑にも、あれが何だったのか判らない。もしかすると、外に出た三人が起こした行動と関係があるかもしれなかった。

 木部がそろそろ東京へ行く仕度をするといって立って行った。車ではなく、船で行くらしい。
 咲畑もそれを見て、我々も出かけましょうかと勝間田を促す。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 田川が路地を抜けて公民館の前まで来ると、なかから渡辺が出てきた。二人連れだって行くと、木部を見送り、船着場から戻って来る田島にであった。

 その後ろから、部落の人が三人、船で来た荷物を重そうに運んできて、雑貨屋に入っていった。船着場の先を見ると、船がバックで出て行くところだった。

 沖に出た船は向きをかえ、前進を始める。船着場の突堤に釣り人が大勢いて、ひっきりなしに、竿を上げ下げしている。

「鰯らしいですよ」田島がいう。
 釣り好きの木部は、伊奈田に来て以来ずっと釣りをしたがっていたが、その暇がなく、先ほども恨めしそうに横目で見ながら船に乗り込んだらしい。

「面白そうだな。行ってみましょうか」
 渡辺がいうと、釣りをやるのなら、車のトランクに木部課長が持ってきた釣竿があると田島がいう。

「いや、いまは止めておきましょう。先生が帰って来るまで調べておかないと怒られますからね」
 咲畑に集落内をもう一度詳しく調べておけといわれたのだ。

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 風祭は朝の風に吹かれ、護岸の上から海を見ていた。船が出て行く。海は穏やかで、遥か彼方の対岸まで遠望できた。
 風祭の心は揺れ動いていた。

 この伊奈田の地は、いままでと何か違う。依頼されたように簡単に片付けてしまうと、大変なことになるような気がするのだ。
 風祭が過去に受けた仕事の中には、霊現象と関係なく、依頼者の精神的なものである場合も、しばしばあった。

 そんな場合でも、霊的なものだとして、適当なまじないや祈祷をしてやると、依頼者達は心を安めるものである。
 この伊奈田の仕事を依頼された時、内容がちょっと変わっている上、適当に早く解決してくれと頼まれたこともあって、そんな部類に属するものかもしれないと思っていた。
 それ故、ここへ来るまでは今回の仕事を短時日で片付けるつもりでいた。

 また、この仕事は自分一人ではなく、咲畑達と共同で調査しているが、こんなケースも初めてではない。以前にも、自分と同じ霊能者と一緒に仕事をしたことは何度かある。

 風祭は自分の知名度とこの業界における自分の力に自信がある。いままで、共同で仕事をした者達は、風祭が結論を下すと誰もが同意し、異論を挟まないのが常であった。

 今回、一緒に仕事をするのは、全くの素人ばかりなので、なおさら、風祭の意のままに決着させることが出来るはずだった。

 到着した当初はさしたる感じを受けず、予想していたようなところだと思っていたのだが、この伊奈田という地は異様な雰囲気を持った場所であることが次第に判ってきた。

 田川がいっているように、ここには確かに何かがある。
 しかも、風祭が過去に経験したことのないものだ。
 そして、この伊奈田の場合、何処から手をつけてよいのか見当もつかない。

 風祭の感覚では全てが正常でありながら、また全てが異常のように感じる。だから、いまは咲畑教授の指図通り動くしかない。それが、最も無難であった。

 教授は何か異常なことを探せといったが、昨日、集落のなかを見て回ったとき、既にそれを見つけている。水田の小道で感じたあの霊気だ。

 微かではあったが、確かに山の方から出ていた。これからもう一度確かめてみるつもりで、水田の脇の道を辿っていった。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 咲畑は勝間田と一緒に廃寺になった麻生寺にいた。
 残っている本堂は、なかへ入ったら、崩れてしまうのではないかと思うほど荒れている。人の住まなくなった建物はたった二十年でこんなになってしまうものかと思った。

 咲畑は本堂へは入らず、周りを隈なく歩き回っていた。
「何かを探しているのですか」
「うん、何か証拠がないかなと思ってね」

 木村住職のいうように、三つの寺を空海が建てたとしたら、その形跡のようなものが存在していてもいい。
一千年以上、昔のことだから、無くなってしまっても不思議ではないが、痕跡くらいは残っていないかなと思って探している。

「石碑のようなものなら、残っている可能性があるのだが」
 勝間田はここへ来て、いままで目に入ったものを思い浮かべてみた。石碑は何処にもなかったが、一つ、それらしきものに思い当たった。

「門の近くに、角のとれた丸まった石がありました」
「どこですか」咲畑は、先にたって、門の外に向かう。
「でも、ただの石かも知れません」

 それは右側の門柱から一メートルほど離れたところにあった。周りには雑草が生い茂り、そのなかに埋もれている。咲畑は草を手でむしり、上に乗っている砂を手で払った。

 径が二十センチほどの四角に近い丸い石である。
「何か字が彫ってあるな」
 幾度も表面を擦って眺め透かしたが、何が書いてあるかよく判らない。

 永い年月、風雨に晒されていたために、殆ど消えかかっている。
「水があれば、読めるかもしれん」
「持ってきましょう」

 勝間田は車をとめてある橋の側に戻り、そこから川に降りて、転がっていた清涼飲料の空き缶に水を入れてきた。
 石の上に水をかけて手で擦ると、勝間田の目にも何か文字らしいものが、彫ってあるのが判ってきた。

「上の一字は梵字のようだな。下は結界と読める」
 空海はここに結界を張ったのかも知れないと咲畑は呟く。
「いや、真木寺、間聞寺にも、もし、これがあったらのことです。それに、この結界の石は相当古いものらしいが、これだけでは空海がどうこうしたとは言えませんがね」

 だが、この石は明らかに境界を示す印だ。
 誰がこの石をここに埋め込んだとしても、もし、他の二つの寺にもあれば、麻生寺、真木寺、間聞寺を結ぶ境界線で、他の地域と伊奈田が存在する地域とを隔離していたと考えてもおかしくない。

 そして、結界を張る意味は大きく分けて二つある。
 女人禁制の山などに張る場合は立入禁止の意味であり、もう一つは、結界を張ったなかのものが外に出て行かないようにする場合がある。

 ここに、もし結界が存在するとすれば、後者の意味であろう。伊奈田の在る地域に、何者かは立ち入ってはならないとする兆候は一つもない。

「すると鬼ですか‥‥‥。結界のなかにいたものです」
「いや、鬼というものは古代の宗教的概念です。後世では別のものだったかも知れない。そして、現代では‥‥‥」

「現代では‥‥‥。まさか、いまでも居るというのですか」
「何とも言えない。何かが居るのかも知れないし、居ないのかも知れない。それは風祭さんと田川が結論を出してくれると思っています」

「結界のなかでは、死んだ者が生き返って、悪さをするのですか」
「そうなるとホラー映画のパターンですね」咲畑は笑いながらいった。

 内心、そんな考えが全くないわけではない。だから、咲畑は、勝間田が棺を覗く度に、変わりがないか確かめていたのだ。

「僧侶だけが死んで、一般の住民は何ともないというのは不思議ですね」
「いや、そうではない。住民が災厄を被らないように、僧達が防いだのです。だから、僧達が災厄を受けた」

「身代りですか‥‥‥。その災厄は死者がもたらすのですか」
 葬儀のあるときだけ、僧達が伊奈田に来るのだから、そう考える他にはないだろう。しかし、葬儀を一週間やることで、その災厄がなくなったとしたら、これは何を意味しているのだろうか。

「昨夜の乱闘騒ぎも、もたらされた災厄かも知れない。ことによると、地震もそうだったのかも‥‥‥。あの地震は我々だけしか知らない。他の人たちは地震を感じていない」

 地震が起きた後、誰も外には飛び出してこず、公民館の前の道には我々だけだった。たとえ、小さな地震でも感じたなら、住民の誰かが外に出てきてもいいはずだ。

「でも、我々は葬儀を七日間しています」
「うん、しかし、我々は知らずに葬儀を妨害しているのかも知れない。例えば、棺にドライアイスを入れたり、棺を動かしたりしたこと‥‥‥。私が焼香炉を転がしたのも、そうかも知れない」

 勝間田は、咲畑の空想的な思考が、どんどん広がって行くことに呆れると同時に、心の何処かで、その話に頷いている自分があることに気づいていた。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 田川は狭い路地に入って行った。山が家のすぐ近くまで迫っている。
 集落の北端で、この先には家がなく、このまま山の斜面を登って行けば、松江山古墳に到達する。

 田川が両手を広げ、弥次郎兵衛のような格好をして、ゆっくり回り始めた。
「何か在るんですか」渡辺が言った。
 田川は静かにというように、右手の人差指を立てて合図をした。

 少しずつ回転して、もっとも山側にある家に、躯の正面を向けて手を下ろす。
「この家からだ」そういって、二人を見た。
 瓦屋根の平屋で、他の伊奈田の家と変わりない。

 家の裏は切り立った衝立状の山が迫っており、その向こうは海で、海岸にある祠の裏側にあたる場所だった。田川は声をかけてガラス戸を開けた。そして、一歩下がって顔をしかめる。

 家のなかは薄暗く、入口のすぐ脇は炊事場だった。鍋や食器が見え、ガスレンジの脇には炊飯器が置いてある。正面の障子が開けっ放しになっていて、座敷の左側に古い箪笥が置かれている。

 奥の襖は締め切られており、その向こうにも部屋が在るらしい。
「あの襖の向こうにいる」
 田川は靴を脱いで座敷に上がり、躊躇しながらも襖に手をかけた。

 しかし、滑りが悪く、簡単に開かない。もう一度、力を入れて引くと、きしんだ甲高い音を上げて、大きく開いてしまった。
 襖の向こうを見て息を飲み、そのまま立ちすくんでしまった。

「おまえら、そこで何やってんだ」突然大きな声が降ってきた。
 振り返ると入口に髪を乱した黒い人影が立っていた。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 水田の小道に立って、山の方をじっと見つめた。確かに、霊気が感じられる。
 水田の向こうに、戸田から大瀬崎に通じる公道が走っていて、山側に栗林があり、その奥は桧林になっている。

 風祭は方向を確かめるため、目を細め精神を集中して、他からの刺激を遮断した。
 あの桧林のなかかららしい。公道へ出るルートを探したが、畦道を行くしかなさそうだった。

 公道へは草につかまり息を切らせて登った。
 舗装道路の上に立ち、もう一度方向を確かめる。今度は、何も感じられない。
 やはり思った通りだ。遠回りをしていたら、方向が判らなくなってしまっていただろう。

 こういうことは、いままでも度々あった。同方向の線上でも、位置によって、何も感じないことがよくあるのだ。

 栗の木は既に小さなイガが沢山ついていた。
 枝をくぐって行くと、すぐに傾斜がきつくなり、栗畑は終わっていた。
 先は潅木や笹が茂っていて、風祭には登れそうもない。

 道路に戻り桧の林を見あげると、上の木立の間に路肩らしきものが見える。
 伊奈田から真城峠へ行く道があることを思いだした。その道がこの上を通っているらしい。

 伊奈田へ下る道を左に見送り、暫く行くと右から真城峠への道が合流していた。
 両側は桧の林で、下生えも草や潅木がびっしり生えており、見通しは全くきかない。

 道に沿って、右下方に沢が流れているらしく、流水の音が遥か下の方から聞こえてくる。
 道が大きく左へ曲がって登っていた。下から見えたのはこの辺りだ。

 ハンカチを取り出し、額と首の周りの汗を拭った。呼吸を整えてから、心気を集中する。
 何も感じられない。

 水田の小道で感じた霊気は昨日も今日もあった。
 おかしい、何か変だ。
 霊が自分の力だけで、こんな完璧に霊気を隠し封じ込めることは出来ないはずだ。

 木立の間から、伊奈田の海が集落の一部と共に見えている。
 突然、躯がぴくっと反応し、先ほどの霊気と違うものを感じ始めた。
「何だ」景色が、霞がかかったように、ぼやけだしてきた。

 いつの間にか、霧が風祭を包んでおり、足元が見えないくらい濃くなっている。
 こんな穏やかな天気の良い日に、霧が発生するなど考えられない。

自分の経験が危険だと知らせていた。寒気がし、脇の下から冷たいものがスッと流れた。動いてはならない。走って逃げたい衝動をぐっと堪えて立っていた。

「どうしたね。ここで、何してるのかね」
 突然耳元で声がしたので、振り返ると棒を持った老人が立っていた。
 風祭も見知っている重田老人だった。

 気が付くと霧など、もう何処にもかかっていない。
「いえ、ちょっと景色を眺めてたんです」ハンカチで、額の汗を拭った。
「山芋掘りに行ってきたんだ。ほれっ」

 重田は右手にぶら下げていた大きな山芋を目の前に持ち上げてみせた。棒と思ったのは山芋掘りの道具らしく、先に四角い刃がついている。

「山芋掘りの時期にはちょっと早いが、掘り易いところにあるものは、早いうちに採らないと他の人に掘られてしまうんだ」
「そうですか」風祭は、重田老人と一緒に、道を戻り始めた。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 勝間田は真木寺の門のなかに車を乗入れ、初めて来た時と同じ場所に車を止めた。
 咲畑は車を降りて、周りを見渡す。
「木村住職に尋ねれば、探す手間が省けると思いますが」

「いや、もう尋ねた」
「なんだ、それなら早いですね。何処ですか」
「ないそうだ」咲畑は、あっさりという。

「だが、木村住職はここの住職になって、まだ一年だ。見落としている場所も在るかも知れない」
 真木寺は、麻生寺と較べ、境内は相当広く、あんな小さなものを見つけ出すのは大変だ。

 二人は二時間以上かけて境内を捜しまわったが、麻生寺の石のようなものは、とうとう見つからなかった。

「千年も昔のことだ。残っているのが不思議かもしれない。麻生寺の場合、残っていたのは奇跡的だと思わねばいかんだろうな」
 咲畑は額の汗を拭い、ポケットからティッシュペーパーを取り出し鼻をかんだ。

「風をひいたらしい。鼻水が出てしょうがない」
 昨夜、風呂に入った後、気温の低い公民館に長く居たせいらしい。
 これでは麻生寺でたてた結界の仮説も裏付けがない。

 あとは間聞寺に在ることを期待するだけだが、見つからない可能性の方が大きい。
「大きい槙の木だなあ」墓地と道の境に立っている槙を見上げた。
「高野槙ですよ。この寺には沢山在ります。ほら‥‥‥」
 勝間田は墓地のあちこちにある槙を次々と指さした。

「高野槙か‥‥‥。この木はね、前期古墳時代には木棺の材料になったんだよ。有名な邪馬台国の卑弥呼の頃だ。その時代の古墳を発掘すると、棺は全て高野槙の大木を二つに割ってくり抜いて作ったものだ。その頃は、あんな高野槙の大木がいたるところに在ったのかも知れない」

「卑弥呼の棺も木棺だったのですね。松江山古墳もそうですか」
「いや、あの古墳はもっと新しいから、石棺だ。六、七世紀のものだと言われているから、後期古墳時代だね」

「鋸もなかったのに、どうやって大木を割ってくり抜いたのですか」
「人間の知恵は大したものだよ。自然を利用して、やってのけたんだ。彼らはそれをいつも早春にやったらしい。初めに、小さな楔子を打ち込んで、小さな割れ目を作る。その割れ目に水を注ぎ、放置して氷を張らせる。水が氷になると膨張するので割れ目が広がる。それを繰り返して、大木を真っ二つにしたらしい」

「前期古墳時代の棺が高野槙製というのは、何か意味があるのですか」
「うん、槙は万葉仮名で魔木とも書く。古代では、木には精霊が宿っていると信じられていた。すなわち、草木、全てにシャーマニズムが絡んでいたともいえるのだ。したがって、槙は魔木に通ずるというわけで、魔除の意味があった」

「鬼を封じ込めるということですね」
「そうだ。うん、そうか‥‥‥」
 咲畑は宙を見つめるような目をしている。何かを思い付いたらしい。

「やはり、ここには結界が張られたんだ」
「どうしてですか。ここには麻生寺で見つけた石は在りませんでしたよ」

「うん、おそらく、あまりにも時が経っているため、無くなってしまったか、地中深く埋もれてしまったのかもしれない」
 咲畑教授は、何か別の証拠に、気が付いたらしい。

「あの槙の木だ。あの木は、大きさ、太さからいって数百年、いや、千年近く経っている」
 勝間田は槙の木を見上げた。確かに、ここにある槙の木は大きくて太く、そのくらいの年輪を重ねているように見える。

「ここに結界が張られた時、あの木は魔除の木として植えられたものかもしれない」
 槙が魔除の木というのは古代の信仰だが、空海が生きていた時代はまだ古代の匂いが残っており、また、空海自身、シャーマン的なところが多分にある。
この地に魔除として、槙の木を植えたことに奇異を感ずることはないだろう。

「でも、麻生寺には在りませんでした」
「うん、おそらく、枯れたり、切り倒されたりしてしまったのだ」
「どうして、そんなことが言えるのですか」

「寺の名前だ。ここの寺名は真木寺だ。真木と槙は同じ意味であり、これだけの槙の木があるから、真木寺と呼んでも何の不思議はない。ところが、麻生寺も間聞寺も読み方を変えればどちらもマキ寺と読める。偶然だろうか」

 勝間田はなるほどと思った。全く気が付かなかった。
 関連のない寺が読み方を変えて、偶然マキ寺と読めるなら、何とも言えないが、つながりのある寺が三つともマキ寺と読めるとなると偶然というより、そこに何か意味があるとした方がより自然である。

「すると、昔は三つの寺共、マキ寺といっていたということですか。そして、三つの寺を万葉仮名で区別していた」

「うん、確かに、真木寺は万葉仮名だが、他の二つは違う。おそらく、寺が建った頃は、三つとも、真木寺といっていたのかも知れない。だが、三つの寺を区別するために、後世の人が別の漢字を当て填め、次第に呼び名が変わって行ったとする考え方もある」

 それとも、寺を建てた者が最初からそのように名付けた可能性がある。
 世間を一段上から見下して生きた空海が本当にこの寺を建てたとしたら、この方が正しいかもしれない。

 空海らしさ、真剣さのなかにたかをくくった態度が感じられるではないか。
「三つの寺は魔除の目的で建てられた。そう考えていい。そうすると、三つの寺を結ぶ線は、結界と見なしていいのではないか」

「真城峠もマキ峠と読めますね」
「そうだね。あの峠の位置は結界のなかだ。昔は、あそこにも、槙の木があったのかも知れないな」

 二人は車に戻り、戸田の間聞寺に向かった。
 間聞寺でも、結界を示す石は見つからなかったが、樹齢が真木寺のものと同じくらいの槙の木が二本在った。

「結界と海で囲まれたところで、何かが、跳梁していたのですか」
「うん、しているのかもしれん」
 勝間田は運転している目を、ちらっと咲畑の横顔に向ける。冗談でいったのではないらしい。

「結界のなかには、伊奈田の他に集落が四つ在ります。それらの集落には伊奈田のような習慣はありませんよ」
「たぶん、他の集落は伊奈田のように、古くからあるものではないでしょう。いかがですか?」

「ええ」勝間田は頷いた。
 確かに、結界を張った時代には伊奈田しかなかったのかもしれない。
 他の集落に行けば判るが、そこには伊奈田のように古さを示す痕跡など、どこにもないのだ。

 それに、寺を造るには或程度交通の便を考えねばならない。当時、伊奈田の近辺は陸路からの接近は困難だったに違いない。それ故、実際は伊奈田だけの小さな地域を囲めばよかったのだが、そうはいかなかったので、結界の領域を大きめに張ったのだろう。

「もし、そんなものが居たとして、実際に結界は封じ込めるのに役だったのですか」
「さあ、どうですか」宗教的または信仰的な意味しかないかも知れない。

「この地方に残っている、初七日迄祭壇を飾るという習慣はどうなんでしょう。いまの話からだと伊奈田の習慣と関係ないことになりますが」

「こういう解釈はどうでしょう」
 この地方には複数の何かがいた。ところが、次第に少なくなっていき、空海が結界を張った頃には数が少なくなって、伊奈田近辺だけになっていた。

 それとも、他にもいたが、空海が気づかなかったということもある。
 そう考えた方が妥当かもしれない。やがて他のそれは居なくなり、伊奈田だけに残った。

 たぶん、伊奈田の環境がそれの存在に適していたのだろう。従って、他の地域には形式だけ残り、伊奈田だけは未だに初七日まで葬儀を続けることになった。

「でも、伊奈田の葬式が七日間になったのは、あの記録をつけなくなってからではないですか」
「そうか、そうだったね」咲畑は、暫く沈黙して考える。

「そうか、それで墓地面積が小さいのか‥‥‥。あの記述を誤って解釈していたらしい。あれは他の土地と同じように『伊奈田の地』で七日間葬式をしたと書いてあるのだ」

 伊奈田に墓地があったので、当然のことに気が付かなかった。伊奈田の古さに較べて、墓地面積が小さく、古い墓がないのは、昔は各々三つの寺に埋葬されたからなのだ。恐らく、それまでも、七日間葬儀をやっていたのかも知れない。

 しかし、伊奈田ではなく寺でやっていて、僧達は遺体を無事に寺へ運ぶために、伊奈田へ行ったのだ。そして、僧達はそのためにあのお堂のなかで祈祷をした。

「何のためにですか」
「無事に、遺体を寺まで運ぶためだろう。遺体が鬼にならないように‥‥‥。いや、わからん‥‥‥」

「そうすると、伊奈田で葬式を七日間やるようになったのは、何か判らないが、その方が簡単なためですか」
「そうなるかな‥‥‥」咲畑の返事は自信なさそうだった。

「周辺の、他の土地では既にやっていたのに、何故、伊奈田だけ‥‥‥」
「周辺にもいたのに空海が気が付かなかったという、先ほどの説は取り消す。もうその頃は、周辺の土地では、七日間の葬儀は儀式化された慣習だったのだ。だから、伊奈田も儀式として寺でやっていた。空海がそうやるようにしたのかも知れない」

「何故ですか」
「鬼を退治するためかも知れない。しかし、三つの寺は負担に耐えきれず、伊奈田で葬儀をするようにしたのかも知れない。ふふん、‥‥‥かも知れないばかりだ」

 咲畑の口元が微かに笑っており、そして突然声を上げて笑いだした。
「何とも馬鹿げた話だな。いい歳をした大人が、こんな空想を真面目くさって話している。笑ってやって下さい‥‥‥。こんな馬鹿らしいことを探っている、いや、でっち上げているのは何故だと思いますか‥‥‥。お金が欲しいからなんですよ」
 吐き捨てるようにいった。

 咲畑は金のために全く自信のない専門外の調査を引受けたいきさつと、そのことに、ずっと後ろめたさを感じていたことを話した。

「金を稼ぐことに、後ろめたさなど感じる必要はありません。そんなことに拘っていたら、私などは後ろめたさで押し潰されてしまいます。旭日屋の要求通り、先生は立派に仕事をしています。彼らも先生の専門は承知しているはずですし、客の満足いくように働いて、それで報酬を貰うのなら、何も恥ずかしいことではありませんよ」

「何とか格好のついた報告をしようとして、藁にもすがる思いで僅かな情報を頼りに調べた結果、こんな話が出来上がってしまった。勝間田さん、あなただって本当のところ信じていないだろう。こんな話を誰が信じるね。これじゃ、詐欺みたいなものだ」

「そんなことはありませんよ。先生の話は十分説得力があります。正直なところ、初めは私も眉に唾をつけて聴いていました。でも、いまは半分くらい信じてます」

「半分か‥‥‥、やはり詐欺だな」
 咲畑は自嘲を込めた苦笑いをする。
「いえ、話は全て信じています。先生は、私が疑問に思ってした質問に、納得のいくように答えてくれました」

「そうか。でも、詐欺師は口が旨いんだよ。信じられない後の半分は何かな」
 咲畑の最後の言葉から、先ほどの自嘲気味の調子は消えていた。
「半分は‥‥‥、その何かをこの目で見たら信じます」

「無理だな‥‥‥」咲畑は呟くように小さくいう。
 本当のところ、そんなものが存在していると、咲畑自身も考えては居ない。

午後遅くなって伊奈田に帰り着いた。集落のなかが騒がしい。駐車場へ行くと、いままで見かけなかった人達がいる。何かあったらしい。二人は不安を抱きながら車を降りた。

 民宿『さわ』に戻ると、田川と渡辺、そして、田島がしかつめらしい顔を寄せてヒソヒソと話をしていた。
「何かあったのか」咲畑は玄関を入るなりいった。

「あっ、お帰りなさい。民宿客の学生が怪我をしたんです」
 昨夜、地震があったとき、我々と一緒に公民館にいた男の大学生の一人が、海岸の岩の上から落ちて怪我をしたそうであった。

 駐車場の右手の、崖の下はごろた石の海岸が続いており、そのなかほどに海の中へ突き出るように高さ五メートルくらいの石がある。学生はその上から落ちたらしい。重傷だと田川がいった。

「つい、いましがた、救急車で運ばれて行きました」
 その時、木村住職が居間へ入ってきた。咲畑と勝間田は挨拶をして、真木寺を見せて貰ったこと、そして結界の仮説を話した。

「実は、そのお話と関係あるのかどうか判りませんが、気になることがありました」
 咲畑が帰ってきたら、話そうと思って、待っていたのだという。
「今朝の葬儀が終った後、あの四人の大学生と話をしたのです」

 彼らは大学のヨガ研究会に所属しており、サークル活動の一環としてここにやって来たのだそうだ。
 研究会の一人が、先月、たまたま伊奈田へ遊びにきて、ここで瞑想すると、たやすく定に入ることができることに気が付き、彼ら四人はそれを確かめにきたという。

 場所によって、瞑想がやり易いところと、そうでないところがあるのは住職も知っている。だから、別に不思議なことではないと思ってそれを聞いた。

 彼らはここで瞑想して、確かにたやすく定に入れることを体験したが、瞑想状態になると、何故か非常に恐ろしいという気持ちが沸き上がってきて、覚めてしまうと話した。

 そして、岩から落ちて怪我をした板垣という学生が、何故、そうなるのか、確かめたいともいっていた。
「私はその話を聞いて、先夜の、田川さんの言葉を思いだした。確か、田川さんは真っ黒い空気が幾筋にも裂けて、吸い込まれて行くようだといってましたね」

 田川は黙って頷く。
「田川さんが表現したものは、まさに三昧耶の行を言葉に現したものなのです」
「サンマヤの行?」咲畑が繰り返した。

「そうです」行法にはいろいろな種類があり、私達、真言密教の修行僧は修行のカリキュラムに従って行の修練をする。
 そのなかに三昧耶という行法があって、この行はある程度修行を積まなければ、やってはならないものとなっている。

 何故なら、この行は恐ろしい幻覚を生じさせるもので、過去にそのショックで精神に異常を来たしてしまった者もあるからだ。
「ある程度、他の行で心を鍛えた者でなければ、それに耐えられないのです」

 あの時、田川さんが身体を震わしていった言葉を聞いて、私はすぐ三昧耶の行を思い浮かべたが、まさか行法も知らない人が、と思って黙っていた。

 しかし、板垣という学生の話しで、再び三昧耶を連想した。
「この行法は、普通は簡単には出来ません。ある程度の心の準備が必要なのです。そうしないと心が怯んで、なかなか三昧耶の行に入れないものなのです」

 ところが驚いたことに、部屋に戻ってから、試みに行法を行ってみると、簡単に三昧耶の行に入れるのだ。これは危険だと思い、学生に注意しようとしていた矢先、事故が起こってしまった。

「ここに居ると、我々も発狂するというのですか」
「いや、そうではありません。瞑想法を知らなければ、なんともないでしょう。学生達はヨガ研究会に属しており、まがりなりにも瞑想の方法を知っている。恐らく、あの学生は石の上で瞑想していて、三昧耶に入ってしまい、抜け出そうともがいて、石の上から落ちたのだと思います」

「そんな恐ろしいものなら、途中で止めたらいいではないですか」
「ある程度深く入ると、なかなか抜けでられないものなのです」
「どうして、そうなるのですか」咲畑が尋ねた。

「伊奈田には、そんな気が満ちているのかも知れません。場所的なものが原因しているのか、何かがそうさせているのか、私には判りません」
「学生達は、まだいるのかな」咲畑は彼らの話を聞いてみたいと思った。

「いえ、救急車と一緒に自分達の車で出て行きました」田島が答えた。
 咲畑達の話はまだ続いていたが、勝間田と渡辺は公民館へ向かった。
「喪家から、野具の注文がありました」渡辺が歩きながらいう。

「どんな物だ」
 渡辺は手で形を示しながら説明を始めた。いままで見たことのない形で、伊奈田特有の物らしい。

 野具−野道具ともいう−とは、地域特有の葬具のことをいい、埋葬時に添えるものだ。一般的な葬具は店に在庫があるが、野具はその都度葬具屋に作って貰わねばならない。

 勝間田は大仁町にある葬具屋に作って貰えといった。
「断わられました」
 店に電話して、制作の手配を頼んだところ、注文の野具は出来ないと葬具屋がいってきたそうだ。

「組合が圧力をかけてきたらしいですね。葬具屋が申し訳なさそうに、遠回しに、そう匂わしたそうです」
「そうか‥‥‥、やりそうなことだ」

 胸くそが悪くなるような手を使ってくる。葬具屋は組合に背いたら仕事がなくなってしまう弱い立場にある。

 サンエイ仏商は組合などに一切入っていない。
 開店した当初、組合へ入れと再三勧誘されたが、入れば自由な価格で商売が出来ないと思い断わり続けた。組合は自分達の利益ばかりを考えており、葬具屋に圧力をかけたことも、明らかに客のことを無視した行為である。

「しかたがない。清水まで行くしかないな」
 大仁町を除くと、近くには清水市にしかない。あそこまで行けば、組合の手も伸びていないだろう。

 渡辺が変な顔をして、勝間田を見ている。
「そうか‥‥‥、いいよ、私が行く」
 渡辺は、伊奈田を離れることに、まだ拘っているらしく、勝間田の言葉に、ほっとしたように肩を下げた。

 勝間田は公民館にいる老人達にもう一度野具の仕様を詳しく聞いた。
 埋葬まで、あと三日の猶予しかない。電話で注文してもよいのだが、形や仕様を詳しく説明しなければならず、従って、誂え通りに作って貰うには、直接葬具屋に会った方がいいのだ。

 またドライアイスがなくなる頃だが、年寄り達がいい顔をしないので補給は止めることにした。
「ここで、何か見つかったか」

 教授の留守中、風祭と田川は集落の中を調べたはずだった。
「こんな頭のでかいおじいさんを見つけました」
 渡辺は両手のひらを頭の脇に持って行き、開いてみせる。
 田川が異常な感じを受ける家を見つけたので、入ってみると奥の部屋に頭の大きなおじいさんが寝ており、驚いて見ているとお婆あさんが帰ってきて怒られてしまったという。

「たぶん、一発屋だ」
 勝間田は惣菜屋のおばちゃんの話を思いだしていった。一発屋は死んだのだろうといっていたが、そうではないらしい。

「一発屋?、何ですかそれは」
 おばちゃんから聞いた話を渡辺に話した。
「ふーん、ただの占い師ですか。田川さんは何か異常だといっています」

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 夕食後、風祭は水田の小道で感じた霊気のことを咲畑に話した。
 咲畑は一緒に聞いている沢田に、あそこに墓地があるのか尋ねた。
「この前も言ったけど、あそこに墓地があったという話は聞いたことはないし、あんな急な斜面に墓地など造るわけがありませんよ」

「もしかすると地縛霊なのかもしれませんが‥‥‥」
 あそこで感じる霊気自体は問題ではなく、風祭が気になるのは霊気を隠そうとしていることである。

「霊、そのものが隠れようとしているのか、他のものに霊気がそがれているのか、どちらなのかによって解釈も違ってきます」
「もう一度行ってみましょう」咲畑は立ち上がった。

 まだ外はうっすらと明るく、田川、田島、渡辺、そして沢田も一緒に後に続いた。蜜柑畑を横切って水田の小道に出た。
「この辺でしたね」咲畑が立ち止まって山の方を見上げる。

 風祭はその方向に向かって立ち、暫くじっと眺めていたが、
「おかしい‥‥‥」と呟く。霊気が全く感じられなくなっていた。
「霊気を何かが隠すこともあるわけですか」

「霊自身がその気を隠す場合もありますが、でも、その場合はすぐに判ります」
 神社仏閣があったり、高圧電線が近くを通っていると、霊気が隠されることがあり、また、その土地によってそうなり易い場所もある。

 伊奈田の近くに神社仏閣はなく、高圧電線も通っていない。
 風祭は真城峠に通じる道から、伊奈田を眺めたときに受けた何かを思いだし、明日、もう一度、あそこへ行ってみようと思っていた。

「この方向に、別の古墳があると考えたらどうでしょう」
「違うと思います」
 古墳は余りにも古く、松江山にある古墳からも、そのため、殆ど霊気が感じられない。

 この手がかりを、これ以上、詮索することは無理らしいと咲畑は思った。
 残るは、田川の見つけた頭の大きな年寄りの方だ。

 しかし、沢田の話によると、その年寄りは、昔は占いなどをやって、近隣に知られた存在だったが、現在は身体が弱って寝たきりのただの病人らしい。

 既に陽は落ちていた。暗くなった足元に注意しながら戻り始める。
 蜜柑畑の中は真っ暗で何も見えないので、水田の脇を外灯のともっている海岸の方に向かった。海岸の松林まで到達し、広い道を民宿の方に戻りかけると、木の根元に何か白いものがあるのが目にとまった。

「誰か倒れている」
 渡辺が側に行って、躯に手をかけ揺すったが、何の反応もない。頚に手を当ててみると脈動はなく、死んでいた。

 ポケットからライターを取り出し火をつけた。服装からして釣り人らしい。
「これは‥‥‥、坂江さんだ」渡辺は意外なので驚いた。
 もう一度確認したが、間違いなく坂江庄一だった。

 サンエイ仏商の近くに、店を構えている不動産屋だと咲畑に話す。
「うん、そうだ」沢田も知っているらしく、頷いていた。
「本当に死んでいるのですか」咲畑が念を押した。

 何故、こんなところで死んでいるのだろうか。病気で倒れたのかも知れないが、一応、警察に届けた方がいいということになり、田島が電話をかけに集落の方へ走りかけた。

 その時、護岸沿いにやって来る人影が眼に入った。
「木部課長」田島は驚いて立ち止まった。
 東京に居るはずの木部が伊奈田におり、手に釣竿を持っていた。彼は、明日、戻って来る予定なのだ。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 咲畑は遅くなって、やっと警察の事情聴取から解放された。
 死んでいた坂江は真城峠で道を教えてくれた男だった。誰かに殺されたらしい。

 いろいろ質問されたが、彼が殺された事情など知っているはずがない。この伊奈田に滞在している理由を尋ねられたので、正直に答えたが、頭の少し薄くなった捜査主任は鵜呑みにはしてないようだ。

 そんなことより、咲畑は木部のことの方が気になっていた。
 彼は釣竿を持って突然現れ、東京に行かずに船着場で一日中釣りをしていたといっている。

 田島は、今朝、確かに木部を船着場まで送って行ったので、それを聞いて驚いていた。木部のいうことを信じれば、朝から、ずっと船着場に居たことになる。

 朝と晩に鰯が回遊して来るので、その時は、よそから来る釣り人で船着場は混雑するが、昼間は殆どいない。
 その、人が少ないとき、彼が船着場に居たのであれば、誰か気が付いてもよさそうだったが、咲畑は勝間田と共に出かけていたし、沢田も田川達も誰も船着場に気を配っていたものは居なかったのだ。

「あんな日差しの強いところに飯も食わず、一日中いたなんて信じられません」
 木部はネクタイを締めスーツを着ており、とても強い日差しのなかにいられる格好ではない。

 それに、見たところ、顔も日に焼けておらず、田川のいう通り、船着場に一日中居たなどとは信じられない。何故、そんな嘘をいっているのだろうか。

 田島が部屋にやって来た。
「木部課長は部屋で寝ています。だいぶ、疲れているようです。やはり東京に行ってますね」

 田島は東京に電話して、確かめたという。木部は昼頃本社に現れ、確かに午後一時からの会議に出ている。
「何故、あんなことをいっているのでしょうか」
 そんなこと咲畑には判らない。

目次