感じると言うこと

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参考岩清水さんからのメール(メールを頂いてから10日もたってしまいました。今日やっと関連の話です。)

長文です。接続を切ってから読んだ方が良いかもしれません。

 今回は感じると言うことについて書きます。霊の存在とか、超能力と何の関係があるのだと思う人もいると思いますが、私が気づいたことの中でこの「感じる」ということが極めて重要な要素に成るのです。

 まずこの「感じる」と言うことの意味なのですが、この言葉もいろいろな意味を持っています。また人それぞれにとらえ方が異なっています。一般的に何かを言い表すときに何種類の言葉があるのかがそれに対する関心の程度を示しています。「感じる」という言葉の意味は細分化されていません。一般的に考えることに社会的な重きが置かれているからです。「感じる」の意味が曖昧でその解釈で論点がそれてしまいそうなのでちょっとくどいと思いますが書いておきます。

 私の言う「感じる」とは、うれしい、悲しいなどと感じる感情の状態のことを言うのではありません。(似てはいますが)どちらかというと「ひらめき」に似たものだと考えて下さい。

 通常人間は言葉で思考しています。考えことをするときも頭の中で文章を組み立てています。しかし「ひらめき」と言うものは言葉で出てくるものではありません。

  「ひらめき」というのは頭の中で漠然と、しかし「つじつま」があっていて、起承転結などと言うものもなく、その問題に対する答えがまるで「ブラックボックス」の中を通って答えが出てきたような、問題も過程も結論も全部一緒に成っているものなのです。へんな説明ですが、今ので解る人には解ってもらえると思います。良く理解出来ない人に別の言い方で書きます。

 正しい言い方ではないのですけど、コンピュータのプログラムで言えば、思考は日本語という高級言語(フォートラン、コボル、パールなど)で行われます。それに対して「感じる」というのはアセンブラ(コンピュータが直接理解できる機械語)なのです。右脳、左脳の働きの違いと言うことも出来るかと思います。

 もっと正確に言うと、「感じる」と言うことはアセンブラと言うよりもメモリー(記憶装置)から特別な処理をせずにデータを取り出すだけ、という言い方も出来ます。予め計算されて処理されたもの(問題も過程(プロセス)も答えも既に出来てる)を読み込むだけですから早いのは当たり前です。

 今まで思考を続けていたものの答えなどが意識の奥で出来上がっていて、それが何かのきっかけで呼び出されたものが「ひらめき」なのです。(後で書きますが、その意識の奥のものは必ずしも本人が作ったものばかりとは限りません。)

 さて「ひらめき」があるとどうなるかと言うことなのですが、アイデアなどが頭に浮かぶのは瞬間的です。これは「感じる」と言うことなのです。既に書いたとおり、この感じたことの中には問題も答えも出ているのですから、それを忘れない内に思考に組み込んでおかなければ成りません。うっかりするとすぐに忘れてしまいます。私自身、グッドアイデアが出て、「なるほど、そうだったんだ」と思っている内に忘れてしまうことも良くあります。

 思考に比べると「感じる」こととか、感情はずいぶん不安定なのです。また意識して思い出そうとしてもなかなか出来ません。例えば、昔よく聞いた音楽などを何かの拍子に聞いたりすると、その音楽を聴いていた当時の感情を思い出すことは誰でもあると思います。このときに思い出すのは、昔の記憶と言うより昔の感情なのです。何かのきっかけ(この場合は音楽)がないと意識して思い出すようなことは出来ません。また、ある程度、歳をとってから誰かを好きに成って、若かりし時の熱い思いを思い出したなどということも経験者は多いと思います。

 さて、「感じる」の説明が長くなってしまいましたが、ここで言いたかったことは人間は思考だけではなく、「感じる」という要素があると言うことをいいたかったのです。この「感じる」ということは誰でも無意識に行っていて別に特別なことでもありません。また、「感じる」ということは思考と互いに補完しあっているのでどちらが重要であるかという問題でもありません。両方大事なのです。

 現在の社会においてこの「感じる」ということは、その不安定さと再現性の少なさの為、あまり重要視されていません。例えば、誰かが何か重要なことを感じたとしても、それは人から「気のせいだよ。」と言われれば、本人も「そうか。」と思い、それはそのままなくなってしまいます。なぜなら本人でさえ思い出せないのですから。これでは、今の科学的思考に相手にされないのはもっともなことなのです。

 話しも長くなってしまいましたが、ここからがある意味で本題です。ここまでしつこく「感じる」の説明をしたのは、リーディングや占い、そして宜保愛子さんの能力を考えるとき、この「感じる」と言うことを抜きにして語れないからなのです。

 私が占いを好きだったことは前にも書きました。いろいろな占いがあるのですが、そのうちいくつかはもちろん自分で試して見ました。実は(と言うほどでもないけど)私も占いが出来た時期があるのです。易(八卦占い)やタロット占いでは一時期かなり正確に出来ました。といっても私の場合、とても実用になるものではありませんでした。自信を持って占いが出来ると言っておきながら、実用に成らないと言うのも変な話です。

 説明が必要でしょう。私が正しく占いが出来た頃でも、成功するのは何分の1以下だったのです。この書き方ではおそらく誤解されると思います。(もちろん、わざとでない)この成功とは、占いの結果が当たったかどうかということではありません。占いと言う行為が成功したかどうかも問題なのです。成功したときの占いはかなりの確率で当たります。

 「なんだそんなの、全て当たらなければ、でまかせを言っているのと変わらないではないか。」と言う声が聞こえて来そうです。私の占いが実用に成らなかったのはこのせいなのです。説明が難しいのですが、占いに成功したときにはある種の確信を感じることが出来ます。その様な「感じ」を感じることが出来なかったときは、はっきり言ってでまかせを言っているのと大差ありません。(ここは、説明の難しい所です。疑問に思うことを言って頂ければ、別な角度から説明出来るかもしれません。)

 占いと呼ばれているものにもいろいろある訳なのですが、私からみて信憑性の高いものも低いものもいろいろあります。もちろんどれも否定も肯定も(論理的には)出来ないのですが、かなりうさんくさいものも数あります。姓名判断(画数で見るもの)とか血液型占いなどは殆ど信憑性を感じません。ただ自分で体験のある易(八卦占い)やタロット占いなどは、易者が本物である条件を満たしていれば当たるものだと思っています。

 易(八卦占い)もタロット占いも本質は同じものなのです。とりあえず易を基に説明を続けます。易の本を買うとたいがい「世の中は陰と陽の二つの要素で成り立っていて、・・・(うんぬん)」もっともらしく書いてあります。私はそんなものは解りません。仮にそれを全て理解したとしても、それは哲学なので占い自体には何の関係のないことです。おそらく書いている人も完全には理解しないで書いていると思います。大事なのは占いの仕組みです。

 易の場合、陰陽(オン、オフ)の6要素(6ビット)の組み合わせで卦(け)を見ます。6ビットですから、卦は2の6乗である64卦しかありません。たった64通りのパターンから意味を引き出すのですから、複雑なことは判るはずがありません。もちろんその64通りのパターンにいろいろな意味づけがされています。その意味づけは言ってしまえば単にこじつけをしてあるのにすぎません。例えば、「天」の上に「地」があるから反対を意味する、というような卦に成ります。またこれは、反対ではなく逆転を意味すると言う解釈も出来るわけです。

 占いを否定する人の意見で「占いは、どちらとも採れるような曖昧な要素で構成してあって、どんな場合でも当たったと言えるようになっている。」と言うような主張は良く聞かれます。(この種類の主張にもいろいろなバリエーションがあるのですが)はっきり言いましょう、その様な主張はある面から見ると確かにもっともなのです。現に八卦の意味などもこじつけなのですから。

 ではどうして易が占いとして成り立つのでしょう。それは易などは「感じる」為の道具なのです。もともと易の占いをする行為などにはそれほどの意味はないのです。易をする行動をとおして、心の奥の方にある「感じ」を引っ張り出して来るのです。その漠然とした「感じ」を卦の解釈をとおして思考に切り替えるのです。ですから、その「感じ」(第六感、あるいは各自のもっている予知能力)を言葉に変更する為には64の卦は曖昧で良いのです。と言うか曖昧でないと困るのです。この変換(逆コンパイル)はほとんどこじつけと同じように見えます。その違いは決定的でありながらかなり微妙なのです。(この表現は理解してもらえないかもしれません。)

 さてでは、誰かに見てもらった易やタロット占いが必ず当たるかと言うとそれは迂闊には信用できません。理由はいくつかあります。まず可能性として一番問題になるのは易者の能力です。インチキ易者もいます。(たいがいテレビの娯楽番組に出てくるような人はあやしいものです。本当にしっかりした能力があればそんなものに出たがる訳がありません。)また全てインチキでなくてもあまり易者としての能力が高くない場合も数多くあると思います。(昔の私程度もしくはちょっと上)このような人の場合精神状態にかなり左右されてしまいます。

 占いをすると言うことは、心の奥深くの「感じ」を引っ張り出して来ることですから、心の中に障害物があると失敗してしまいます。失敗の理由はほとんどがこのせいです。まず、先入観、固定観念はもちろんのこと、恋愛感情、欲、何かに対する強い思い、そして希望(望みと言う意味)などが心の中にあるとそれが障害物に成ってしまいます。出来るだけ白紙に近い状態で占いに望まなければ成りません。自分が関係する恋愛のことを占ってもこれは絶対に失敗します。

 この障害物以外にも何か別の障害物もあるようです。前に書いたように感情とか想いなどは非常に不安定で移ろい易いものです。何かの拍子に心の中のパイプが詰まってしまうことは充分すぎるほど考えられることなのです。

 私もここ何年も占いをやっていません。あまりうまく出来なくなってしまったと言うこともありますが、占いをする必要がなくなったと言うことの方が正しいかと思います。占いをやっていたせいかどうかは判りませんが、私は昔に比べて「感じ」を思考化することに馴れてきました。基本的に私は理論的に積み立てて考える方ではなく、直感型に成ってきました。(それでも、普通の人に比べるとかなり理屈っぽい方かもしれませんが)

 書き忘れましたが、易経(易は中国の易経という本に載っている)の占いの基本は、「このようにしたらどうなるか?」と言うのが正しいやり方です。ですから行動の選択肢が3個あったらそれぞれについて一回ずつ占って見るのです。ただ漠然と今後の恋愛運とか仕事運は見ることが出来ません。占いのターゲットはかなり絞らなければ成りません。ですから当然のことながら一回の占いで、いろいろと細かいことまで判る訳はありません。その様な細かいことまで言う占い師はほとんどインチキだと思ってかまいません。世の中には悪人はけっこういますから。

 また、今言ったように「このようにしたらどうなるか?」と言うのが基本ですから、例えば行動の選択肢を変えて3回占っても、当たるかどうかが問題になるのはその行動を選択した場合だけでしかありません。3回の占いとも良い卦が出なかったので、全然別の行動を選択するという場合も十分に有り得るのです。

 占いによって、将来の予測はある程度出来るのですが、それは既に決まっている将来を予測するのではありません。あえて言えば、因果律の法則(これは人知を越えたもの)に照らし合わせて、行動の結果を予測すると言うことが近いと思えます。(これは、どうして?と言われても説明のしようがない。)

 ここまでの私の考えを支持するも、反論するのもかまわないのですが、実は今日は「占い」のことについて書いただけで、宜保愛子さんの能力についてや、リーディングについての考えを書いてはいません。次回にはこの2つについて詳しく書きます。どれも「感じる」と言うことでは共通しているのですが、感じるものの対象が全く異なります。

 次回予定のテーマに比べると、この占いというものは一番身近で体験しやすいものです。一度体験して見ることをおすすめします。まず女性達の間で当たると評判に成っている人を見つけましょう。このような場合当てずっぽうよりも、口コミで評判が立っている人の方が本物の確率が高いです。お金は掛かってしまいますが、全然別の処、数カ所で見てもらった方がサンプルが増えて良いでしょう。そしてその時の易者の様子をよく観察して下さい。あまり細かいことを言う人はあやしいです。的を絞った占いをして、自分の心の中を探っているような人(なかなか見ても判らないけど)口数の少ない人の方が本物の可能性は高いでしょう。その人が本物のように思ったら、みてもらって言われたことを出来るだけ正確にメモしておきます。結果が判るのは早くて半年後、遅ければ2年以上先に成ります。半信半疑で聞いていた場合、話の内容をその時まで覚えていることの方が不思議です。メモを必ずとりましょう。

 人生で重大な岐路に立たされることは何度もあります。そんなとき、信頼できる占い師を知っていると心強いものです。(もちろん、信じる人だけですが)

 最後に一つ付け加えておきます。私がこのページに書いた多くのことは、私が考えたのではなく「感じた」ものを整理し直して書いているのです。そして、雑話の中とか「幸せのすすめ」とか色々なところに基もとは「感じ」だったものが入っています。たとえば、雑話「どっちがながい?」とか、愛について思うことなど結構あります。これらは、歩いているときなど多いのですが、ぼ〜としているときに話の「感じ」が頭の中に浮かびます。あとはキーボードの前で文章にするだけなのです。私はいつも変なことを考えているわけではありません。

(1997/04/19)


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