矛盾 (第105話)

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 更新の頻度が悪くなっています。気乗りしないときには無理して書くのは嫌なので最近はペースが落ちているのですが、それでもそれなりに書くことを書かないと先に進めないので、今日は軽い話題で矛盾について書きます。

 真実が人それぞれに異なると言うことを理解している人にはもう当たり前のことになっているとは思うのですが、矛盾と言うものはあって当たり前なのです。何かと何かが矛盾するのはおかしいと考えていると、それは大きな視点での理解を妨げることになるのです。

 私達の起源である生命(いのち)の世界には、もともと何もありませんでした。そこには法則すらも無かったのです。そしてその何も無い世界から多くの生命(いのち)が思考という創造活動をすることによって世界が出来てきたのです。その過程でぞれぞれの思考には何の制限も無かったのです。ですから言ってみればけっこう好き勝手にいろいろな創造をすることが出来たのだと考えられます。ちょっと考えてみてください。無数の生命(いのち)がかってにいろいろな創造をしたのですから当然互いに相容れない創造と言うものが沢山出来てきます。それが矛盾というものの原点なのです。ですから矛盾と言うものは創造の元始の直後からあったのです。そしてその矛盾というものは決して無くならないし、それで上手くいくようになっているのです。

 さて私達は矛盾と言うものを本能的に嫌っています。というのはそれなりの秩序だった世界でないと安心出来ないからなのです。その為実際の生活の中でも、そしてとりわけ科学の世界では矛盾と言うものを敵視してしまうのです。この敵視というのは誤解されそうなので言い方を変えると、自分の考えに矛盾したものは受け入れない、またその原因であると思われる相手の人を攻撃すると言うような形で現れるのです。

 本当はこの世界はいくつもの矛盾に満ちているのです。むしろこの矛盾を避けていたら世界が成り立たないのです。それでもそれぞれにそれなりの秩序が必要になりますから、生命(いのち)は自分の真実と矛盾の少ない世界に集まるのです。この現在の地球もそんな風にある程度共通した真実を持った生命(いのち)が集まってきているのです。といっても全く同じ真実を持っているわけではないので、この世界でも矛盾はたくさん起こります。

 少し別な角度から補足をします。矛盾と言うのはその人の視点から見た場合に、そのことの真実と整合性があるのかどうか、その人の社会通念(常識)とあっているのかということが問題に成ります。それはどの視点から見ているのかと言うことが非常に重要な要素なのです。多くの矛盾はもっと別の視点から見ると矛盾でもなんでもないということも多く起こるのです。ただそのような視点に立つことはなかなか難しいのも事実なのです。

 さて、もうおわかりだと思いますが、矛盾をなくそうと考えるのは自分自身の真実をより強固にするという一面があります。通常の人生で、限られた状況のドラマを楽しみたいと思った場合は、それは何も問題に成るものではありません。しかしより広い視点に立つこと、自分自身により多くの自由を与えたいと考える場合にはむしろ矛盾している様に見えるものも受け入れていくスタンスが必要になるのです。矛盾をなくそうとすることは、自分自身を制限することを意味しているのです。

 私達の思考においても、実に様々な制限の要素が働いているのですが、矛盾を容認できないということも非常に大きな思考的な制限なのです。矛盾を容認できるようになってくると、心はより自由になり、その為に人を攻撃すると言うようなことはなくなっていくのです。もともと相手の真実をそれなりに尊重した場合、攻撃しなければならないようなことはめったに起こらなくなるのです。

 小さな子供が自由なこころでいられるのも、矛盾を探さないからだと言うことも出来ます。子供にとって、それが筋が通っていようが、理屈にあおうがあわまいが関係ないのです。

 とはいっても矛盾を許容できる広い心でいることは、なかなかたいへんなことかもしれません。

(2003/10/12)


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