微妙な感じ (第106話)

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 路はいっけん行ったり来たりの繰り返しのようでいて、それでも少しずつ進んでいます。最近の私の場合は、私自身の心掛けに問題あるのでしょうが、以前のように劇的な気づきとかはあまりなくなっています。それでも全く何も無いというわけでもないのです。最近はなにが疑問であるのかわからないときもあったりするのです。というのは、たぶん疑問、もしかしら疑惑に近いものかもしれないのですが、ことばに出来ないものがふと湧いて来たりすることもあるのです。

 もうすこし細かく解説調に書くことにします。最初の頃の疑問は表面の意識で考えていますから、普通に文章にすることが出来る(いわゆる概念としては既知の)ものだったのです。それはそれなりに答えを得ることが出来たのですが、そのうちもう少し突っ込んだ疑問になってくると、その答えが言葉では簡単に表現できないものになってくるのです。言葉ではそれを表現することが出来ないものが、この世の中にはまだまだ沢山あるのです。(単に私達の言葉がまだまだ未熟だと言うことでもあるのです) さてさて、その後に起こることが、今私に起こっていることなのです。と言うのは、言葉に出来ない答えに対して、また新たな疑問が湧きます。それは今度は言葉にはできない疑問が起こってくるのです。そして当然事ながらその答えは言葉には出来ないものなのです。

 これらの言葉に出来ないものとは、感情や感じなのですが、これは以前にかいたテレパシーのところを読んでもらえば理解できると思います。これは「魂のことば」(精霊と魂のコミュニケーションの道具)という言い方のほうがわかり易いかもしれません。おそらく私達が普段意識しなくてもこの現象は興っているとおもいます。そんな時私達の表面意識はそれが言葉に変換できない為にストレートには理解できないのです。ちなみにそのようなときに表面意識が感じるのは「微妙(びみょう)」という感じなのです。

 私達が何かの拍子に微妙な感覚を感じたとき、そのときおそらく魂は新しい知識を得ているのです。それはこういうことです。その人の理解においてまだ理解されていなかった概念がその人の中に芽生えた(あるいは教えられた)のです。それはまだその人が理解していないことなので表面意識は「微妙」な感覚としてだけしか捉えることが出来ないのです。しかしその微妙な感覚は魂は理解することができます。というかそういうものをためて保管して置くのが魂の大事な仕事なんです。いちど魂に保管されたものの表面意識にとってはまだ未理解である「微妙」な感覚は、今度は精霊の力によって、それを追体験すべく何らかの出来事として表れます。その出来事により表面意識がその「微妙」と感じたものがどんな物であったのかを理解するのです。なんどかの体験のうちに表面の意識にとってもそれは既知(体験済み)のものとなって、今度以前と同じような状況に遭遇したとしても、なにも「微妙」に感じないで明確にそのことを理解できるのです。この明確に理解できると言うことは、すでにそれに対応する言葉を知っているときにはそれを使うし、そういう言葉がなくても、気持ちの中では「そういうものだ」と割り切って考えることが出来るのです。

 結局ある程度の段階からは言葉では表現できなくなってきて、何かあっても「そういうものだ」と説明するしかなくなってきてしまうのです。このコーナーの更新が減っているのも、そんなわけなんです。

 今日は、メールで頂いた質問に答えるつもりで書き始めたのですが、最初から横道にそれてしまいました。次回に質問の返事を書くことにします。

(2003/10/22)


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