感情の出処 (第107話)

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 今回は、いただいた質問の答えです。このような質問に答えることで私自身の考えが整理され、今まで説明し忘れていたようなことをチェックできるので、ありがたいことです。質問にたいする直接の答えになっていない部分でも関連したことを含めて書こうと思います。

 それで質問で、何かしているときに考えてること、ふっと感情が湧いてくることなどあると思うんですがその気持ちは自分の本当の感情なのか、それとも誰かの気持ちを受信しちゃったのかな(謎)なんてなんの根拠もないんですが時々思うことがあります☆もともと全ての思考はある一つのものにつながっているのならありえることなのかもしれませんが相手が思っていること(内面)を思わされるというか気が付かないままに自己の感情として認識するようなケースはありえるのでしょうか? 内面的調和みたいな、、(?)自分の考えてることが相手の意思となり、相手の考えていることが自分の意志にもなるみたいな、、影響は受け合ってるとは個人的に考えてはいます。

「自分を見つめる」とかお話はどこだか忘れちゃったんですが、自己の中にたくさんの人格がいるみたいなところで関連した要素はあると思うんですが、できたらもう少し解説をして下さい すみません

 いきなり少し話がそれるのですが、わかりやすくするために下の部分の質問の答えを先に書きます。自分の中にたくさんの人格がいるという部分なのですが、それはその様に見えるためにそう言ったわけで、今になってはもうすこし補足の説明が必要に感じています。これは私達の本質が何であるのかというかなり基本的な問題に関係してくる非常に重要な部分でもあります。

 私達の本質で私達が認識できるものは、私達の意識なのです。もっと厳密にいえばその意識ですら私達の本質の核というわけではないと思うのですが、意識はかなり本質に近い部分のものであると考えられます。とりあえずは意識が私たちの本質だと考えていてもそれほど間違いではないとおもいます。ではそれが人格なのでしょうか?定義の仕方にもよるのですが、この場合の人格とは、意識と考えと感情のミックスされたものが人格になるのです。 

 ちょっとわかりにくいと思うのであらためて細かく書きます。まず一つには記憶をベースにした思考回路があります。この思考回路が活動した結果その思考が考えてして心の中に現れるのです。この考えを魂語に変換したのがフィーリングであり、感情なのです。さてここで重要なことがあります。思考回路というものはある程度の複雑さはあるものの、わりとシンプルで思考結果にはそれほどのバリエーションはないのです。まあ言ってみれば思考回路は方程式のようなもので、何かの代入(インプット)により、そのつどある程度決まった答え(アウトプット)を出すだけなのです。しかし私達の精神活動はそんなにシンプルなのでしょうか?もっと複雑ですよね。なぜそうなるのかと言うと、この式である思考回路をたくさん持っていて、そのつど使い分けているのです。(この式の少ない人は単純な人なのです)

 さて、ではいったい何がそれらの式を使い分けているのでしょうか?その役目をするのが意識なのです。たとえば、意識して何々をするというのは、特定の思考回路を優先して働かせるという意味なのです。あえて言えば、意識とはフォーカスすることをいいます。フォーカスとはピントを合わせることで、何かを選ぶことでもあるのです。このことを私達の主体が意識であると言うこととあわせて考えると、私達の思考や感情は、私達の本質である意識によってそのつど選ばれて採用されたものだということが出来るのです。

 まあ、私達が表面意識で認識している思考や感情は私達の本質ではなく、その時々の一時的な心の状態であるということでもあるのです。ですから私達が考え方を変えたりしても、それは自分が自分でなくなるというわけではないのです。自分が何を選んでいるのかを変えたと言うことに過ぎないのです。そして同時に個人個人の違いは、その時に何を信じているのかと言う違いだけと言うことになるのです。(ちょっと余談気味です)

 話をもどします。ちょっとまぎらわしいのですが、思考回路や想いはものとして存在はしています。とくに思考回路や想いはある程度似たもの、あるいは特定の共通性のあるものでグループになって存在しているのです。言い方をかえると誰でも幾つかの思考回路とそれから派生した想いというもののセットを複数個持っているのです。

 人格ということに話をもどします。それぞれ人格と見えるものは、実は意識が特定の思考回路のグループに働きかけて表れるものなのです。簡単に言えば、意識がアクセスしている思考回路によって人格が表面化すると言うことで、意識(私達の本質)自体は同じものであっても、その時々にフォーカスしている思考回路が変ることで、全くべつな考え方をもった別の存在がいるかのように見えるのです。言葉の定義の問題になるのですが、もしこれらの思考回路自体を人格として考えた場合、私達の中には複数の人格があると言うことに成るのです。そうではなく、人格と言うものを、私達の本質である意識の選択している状態だと考えたとき、全ての考えや想いは全て自分自身の一部であり、「どんな状態でいても私は私でしかありえない」と言うことに成るのです。

 これで質問の後半の部分の答えになっているかと思います。ついでに書いておきますが、私達が新しい思考回路を普段の生活の中で作り出していけば、それは新しい人格として私達の人格になります。自分自身を変えたいと思うのであるのなら、考え方を変えてみて、それを習慣化させることで可能だと言うことなのです。ちなみに長いこと使われなくなった思考回路はいずれその役目を終え、なくなってしまうのだろうと思っていますが、それははっきりとはわかりません。

 御質問の前半の部分について書きます。ふと湧いてくる感情がいったいどこからのものなのだろうかと言うことなのですが、それはそのつど判断するしかありません。まず一番わかり易いケースは自分自身がフォーカスしている思考回路から感情が起こった場合、自分自身でも何を考えていたからこのような感じようになったと、理解できます。通常これを自分の感情としてとらえるわけです。

 それ以外に自分の感情が湧くこともあります。それは潜在意識の中にある(あるいはその時フォーカスしていない)思考回路からのものなのです。このときに感じる感情は少し意外なものであるかもしれません。たとえば「愛と悲しみ (第48話)」の中で書いたように、本当は愛しているのに表面の意識がそれを自覚していないとき、愛の気持ちが屈折して悲しみとなって表れてきたりします。このような場合、表面意識では自覚していないわけで、なぜその様な気持ちになったのか理解できないのです。そのほかにも、たとえば表面意識では喜ばしいことだと考えているのになぜか暗い気持ちになってしまうとかいうようなケースなどいろいろあります。それらは自分自身の中にある別の思考回路からのアウトプットが湧いて出てきているのです。(直感やひらめきの中にもこのようなものもあります。)

 それ以外にも感情の出所はまだあります。もともと感情はコミュニケーションの道具(魂語)でもありますから、それが自分以外の外部から来たとしても何も不思議にことではありません。ここが御質問の格の部分だとおもいます。

 いままでに何度か書いてはありますが、私達が意識しなくても精霊同士がコミュニケーションをとっていることは良くあります。その影響で何らかの感情が湧いてくることもあります。たとえば人ごみの中にしばらくいると気分が悪くなってくると言うようなものもある意味同じものです。人ごみの雑多な思考エネルギーを拾ってしまった為に不快な気分になってしまうのです。これなどは外部が原因で感情がおこったひとつのケースだと言えます。

 それ以外にも、たまたま誰かと波長があってしまった場合、その人の感情が直接心に流れ込んでくることもあります。また、意識するまでには至らなくても影響をうれていると思われるケースも多くあります。誰でも自分自身の現実を作る為に自分の思考エネルギーを放出しています。それを他の人がひろうという現象だとも考えられます。もともと何かのイベントを起こす場合相手の(精霊の)同意があってはじめて、対人的な出来事がおこります。そういう意味ではその過程で感情をひろっても何も不思議なことではないのです。

 その様にして拾った、あるいは人から送られた感情を自分の物としてとらえるかどうかというのは、あくまでもその人個人の判断の問題であるようにおもいます。もともと思考や感情には明確な境界などはなく、つながっているのですから、そのどこまでを自分のものだと考えるかはその人の自己認識の広さにもよるものだと思えるのです。結局のところ、表面意識が考える自分と言うものはその人が認識している自分になってしまうのです。それに自然に波長が合ってしまったといような場合、たとえそれが外から来た感情であってもその要素は自分自身にあるわけで、自分の感情だと考えるのも自然なことかもしれません。(答えになっているような、いないような(笑))

 あと特殊なケースですが、霊的な夢(多くは幽体離脱している)を見た場合などの特殊な感情などは、自分以外の外から来たものだと考えるのが良い様におもいます。それらは非常に気持ちよくて、普段では感じられないような感覚なのですが、それらには多くの情報が含まれています。その場合など、気持ちよさを重視してとらえるか、その情報の内容に注意を向けるかの違いでその意味が変ってきてしまいそうです。このような場合には、感情は確実にコミュニケーションの道具になっています。その為、その情報の内容で気持ち良さの種類が違います。(このような気持ちよさは、喜びの快感とはまた別のものです。)

 最後にあらためて書いておきます。ここで書いた内容はあくまで私はこのように捉えていると説明しただけで、全然別な、あるいは多少の違いのある考え方を否定するものではありません。大体なんでも見る角度によって見え方が違うのが基本ですから、この考えに馴染めなかったら無視するなり、自分なりで解釈するなりしてください。そういうのも含めて世の中は自由に出来ているのです。

(2003/10/23)


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