「存在の目的」 (第114話)

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 「存在の目的」について、書いてみます。これについては多分に哲学的なもので、あくまでも私はこのように考え、感じているということです。そしてこれらは私の真実であるというよりも、これから私の真実にしようかと考えているものでもあります。他の人にとってはあくまでも参考にすぎないということを承知の上で読んでください。

 私は昔から何の為に生きているのか考えることが良くありました。少し以前にも、そして最近もそのことを考えていました。ここらへんは非常にまぎらわしいのですが、このような存在意義を考えるとき、いくつからレベルの質問がごっちゃになってしまうことがよくおこるのです。その為本当に知りたかったレベルの答えにまだ到達していないのに、別なレベルの答えを持ってきて何と無くわかったような気になってしまうと言うこともおこるのです。

 たとえば神との対話では、「神であることを体験し、思い出し、神に戻ること」が目的であると説明されています。これは私達の旅の目的地を説明してくれているものであり、何故その様な旅を続けているのかという理由(原因)の説明ではないのです。私がここで「存在の目的」と言っているのは、今なぜ旅を続けているのかと言うことを考えているのです。言い方を変えると、ここで問題にすることは旅の目的地ではなく、旅の理由だということを理解してください。このことをしっかり理解していただかないと後の話がつじつまの合わない論理の飛躍だらけのものに見えてしまうでしょう。

 前の神との対話の文章は、ラムサの言い方だと「未知を既知にする」という言い方になります。まだ知らないいろいろなものを知ることにより自分自身の真実(世界)を広げていくことが、聖なる神(大いなる全てのもの)から与えられた唯一の使命であるとラムサは説明しているのです。基本的に神との対話と同じことを言っていると思うのですが、あえてその違いを強調すると、神との対話では旅の目的地を行っていたのですが、ラムサの場合は旅の方法を言っているというスタンスの違いはあります。しかしまあその違いは今回のテーマに限定して考えるとそれほどの違いではありません。ラムサもこの文章では私達の存在の理由には触れていないのです。

 なぜ私達は生きているのでしょうか?私達の本質が意識、生命(いのち)というものであり、それは死んで無くなってしまうものではなく、なぜいろいろな姿で行き続けているのでしょうか?何故そのようなことを続けなければ成らないのでしょうか?生きるということはどういうことなんでしょうか?それにはどのような意味があるのでしょうか?このような疑問を一言でまとめたのが「存在の目的」なのです。

 ここで確認しておかなければならないことがあります。「存在の目的」というのは私達の目的ではありません。私達ひとり一人がどこを目的地にしようがそれは自由なんです。何をしようと基本的には自由なんです。しかしそのことが私達の「存在の目的」とは直接は関係はないのです。「存在の目的」を必要としそれを定めているのは私達ではないのです。少しケースとしては違いますが、わかり易く極端なケースで説明します。たとえば自動車があったとします。自動車の場合その存在の目的は、乗るため(交通手段)と言うことに成ります。では交通手段を必要としているのは誰でしょうか、それは自動車ではなく、乗る人(運転手)と言うことに成ります。「存在の目的」を持っているのは、自動車そのものではなく、乗る人(運転手)であるということなんです。

 これは全てのものに当てはまることなんです。存在するもの自身が、その存在の目的を持つということはありえないのです。少なくとも普通の視点ではありえないことなのです。ですから私達の存在の目的に関してだけは私達の内に答えを見出すことは出来ないのです。(ここはある意味非常に確信に迫った部分です、最後にここに帰ってきます。)

 さて、私が今問題にしている「存在の目的」ということは、神との対話もラムサも触れていないのでしょうか?実はというほどのことでもないのですが、両方とも「存在の目的」ということに触れているのです。ただその言い方が直接的ではないために、どこの部分と言うことを指摘するのが難しいのです。もし気が向いたのなら、この文章を読み終わった後で、どこでその様なことに触れていたのか探してみることも可能だと思います。

 ということで、話は徐々に本題に入っていきます。まず私達の存在の目的を持っているのはいったい誰なんだと言うことなのですが、それは容易に想像できます。というか他には考えつかないのですが。どんな言葉を使いましょうか、聖なる神、大いなる全てのもの、創造主、まあいろいろな呼び方ができます。でもまあ創造主という言葉がここでは一番あっているかも知れません。なぜって「存在の目的」という観点で考えているとき、それは何を必要(目的)として創造主が私達を創造したのかということになるのですから。

 私がこのようなことを考えているとき、「機能」というキーワードが来ました。これは私達の生命(いのち)の一つの側面をあらわしていると同時に、「存在の目的」にも深い関係のある言葉でした。最初は生命(いのち)と機能という言葉はなんとなく不釣合いな感じもしたのですが、まあ気がついてみると何とぴったりな言葉なんでしょう。他の言葉ではこんなにも簡単に言い表すことが出来ないような言葉だと思います。少し前ならすごく感動したのでしょうが、最近はもう当たり前に感じてしまっている自分に気がつきます。せっかくの内なる神からのアドバイスなのですから、無駄にするわけには行きません。ここにしっかり書いておきます。

 では「機能」という言葉の意味するものを少しずつ説明します。まず「機能」という言葉には、それが「何らかの目的を持っていて、意味無くそこに存在するものではない。」という意味を含んでいます。それは私が最もベースとなる部分で持っていた疑問でもあるのです。「私達が存在することに目的なり意味があるのだろうか」という疑問にたいしては、意味の無いことではなく、私達が存在することは神にとっても意味があるということなんです。

 神からの視点でいうと、私達は機能の一部だと言うことになるのです。といっても、それだけだとピンとこない人もいるかと思うのでもう少し詳しく書くことにします。

 機能という言葉から派生する言葉としては、システムと組織という言葉があります。まあこれらの言葉は兄弟みたいなものですから。(理由は書かなくてもわかりますよね。)私達の生命(いのち)はシステムであり組織であり、機能であると言うことが出来るのです。同時にそれは私達の「存在の目的」をもあらわしているのです。(ここの部分は人によっては論理の飛躍に感じるかも知れないけど、、感じてね)

 念のため、それぞれの視点から見た生命(いのち)を書いてみます。私達の生命(いのち)はデータとしての側面も持っています。それは私達の意識がエネルギーが持っている情報の集まりでもあるわけで、それはシステムとして機能することにより私達の意識の活動が成り立っているのです。それはそれなりに複雑な組織で構成されているわけで、その組織という要素が私達の意識が分解してばらばらになってしまわないように働いているのです。

 私達の本質は肉体ではないのですが、この機能というものの理解にはあえて身体のことを考えるのも良いかと思います。私達の身体は非常に複雑な組織で、システムとしてかなり完全に機能しています。といっても脳の機能の十分の一しか使っていないのですが、まあそれでも生きていけるということは、逆にすごいことでもあるのです。私達の細胞はひとつひとつがそれなりに、いわゆる細胞組織として、システム的に働いているのです。まあこんなことはいちいち書かなくても生物の授業でならっていますから、くどく書く必要は無いでしょう。では、私達の見えない部分の身体はどうでしようか、当然、複雑なシステムで成り立っているわけです。その核である意識という私たちの本質も、それが被創造物であるということから考えても、システムとして出来ていると言うことなんです。

 話をもどします。システムとして機能するように創造された私達に望まれている機能とはいったいどのようなものでしょうか?ある意味ではここが最も重要な部分かもしれません。ここでラムサの「未知を既知にする」という我々の使命が出てくるのです。この言葉は二通りの意味が考えられます。というかその主語をどこにもって行くかの問題なのですが、まずその説明をする必要があります。

 まず、神々である私達を主語においた場合です。「未知を既知にする」というのは、旅の方法であると先に書きました。もちろんそれは旅の目的でもあるのですが、しかし旅の最終目的としての到達地点(目的地)を意味しているのではありません。これは私達にとって未知であるものを知ることにより既知であるものにし、それが私達の成長であり、私達の旅であるということになります。これは神との対話での「体験し、思い出し」に相当する意味になります。まあこれは普通に考えた場合の意味ですから、それほど難しい話ではないですね。

 もう一つの場合の主語なのですが、この場合は創造主としての神と言うことになるのです。ただこの場合は、創造主という言い方よりも、「大いなる全てのもの」と言った方がしっくり来ます。要するに「全てのもの」という意味での神であり、それは神は全てのものであるということと同時に、全てのものは神であるという意味の神なのです。もちろんこれは同じものを言っているのですよ。

 さて、「神」を主語においた場合のことをもう少し詳しく書く必要があります。全ての最初は何も無かったわけです。ということは、その神でさえまだ潜在的な可能性でしか過ぎなかったということも出来るのです。神が自分自身のことを思い巡らし、そして神々(私達)を創造しそれによって、何も無かったところから全ての世界が出来上がって来たのです。この場合の「未知」とは何のことを言うのでしょう。それは潜在的な可能性のことを言うのです。くどいですが、最初の最初、本当の初めには、全てのものが潜在的な可能性でしかなかったということなのです。そして既知にするとは、神々の誰かがまだ潜在的な可能性の一つに気づき、それになる(体験し知る)ことで、それを創造し、それによって世界の一部が作られるということなのです。

 まあ神を主語として考えたとき、「未知を既知にする」というのは、そのものずばり新しいものを創造をするということであり、その行為自体が「全てのもの」である神を成長させるという意味に成るのです。私達の世の中の全て、それは物質的なものばかりではなく、概念であったり、法則であったり、ユーモアであったり、芸術であったり、本当に全てのものがこのようにして作られてきたのです。そしてそれらを実際にやってきたのが神々としての私達なのです。

 少々くどいかとも思いますが、あえて書いてしまいます。我々が創造して何かを作り出すということは、それは神の身体を作っているということでも在るのです。全てのものである神の身体は私達、神々が作り出しているということが出来るのです。

 さてその様に考えたとき、私達の機能が少し見えてきたと思います。私達が持っている創造力というものは、機能という側面から見た場合には私達の本質そのものであるということになり、決してお情けで私達に与えられた能力ではないということでも在るのです。「神はその世界(神の身体)の作り手として、神々(私達)を作った」ということなのです。

 神との対話の中で、我々は神の細胞のようなものであると表現された部分があったと思います。これはこのようなことを意味しているのです。それでは我々が神の細胞であるということをベースにしてもう少し考えて見ましょう。人間の細胞のことをたとえにして考えるのもよいと思われます。私達の細胞はその属する器官によってその性質を変えています。しかしそれでも元になる構造はみんな同じで、その何を役割とするかによりその構造を変えています。もとは一つの細胞で、それが分裂して出来ているのですから、器官ごとの細胞の機能の違いというものは、からだのどこの部分にありどのようなデータが与えられているのかによっておこって来ているのだということは理解できると思います。

 では、私達の場合にそれを当てはめるとどのようなことになるのでしょう。幸いなことに私達は自由なのです。それはありとあらゆる潜在的な可能性を現実の物とするためには、基本的に自由であることが必要なんです。自由な創造力があって始めて全てのものを創造できうる可能性が出てくるのです。それは同時に、もし私達の自由を束縛するとしたら、それは神自身の可能性を著しく限定するものになってしまうのです。ちょっと話がそれましたね。とにかく私達は自由なのです。人間の細胞のように自分がどのような機能を担当するのかが決められているわけではないのです。ただ自分自身に与えたデータによって、私達自身を決めているのです。だから私達は自分自身が望むのであれば、どのような神の細胞にもなることができるのです。その点だけ人間の細胞と違うのですが、それ以外には本質的には大きな差は考えられません。

 さて神の細胞としての私達の存在の目的とは何でしょうか。すでに新しい物を創造することで神の新たな側面を作り出すことは出ています。しかしそれだけではないのです。人間の場合も細胞が身体を維持しています。これはそれと同じことが言えるのです。(ここも論理の飛躍を感じるかも知れませんが、そうなっているんです。)私達が存在していることにより、神の身体が維持されているのです。まあもちろん神が存在し続けているから、私達が存在していられるという側面の方が実際は強いのですが、まあ結局は両方があってはじめてそれぞれの存在がありえると言うことなんです。

 組織という観点で考えて見ましょう。すべからく組織というものは、一応それなりの目的を持っています。しかしそれと同時にその組織を存続させるという使命というか性格を持っています。まあ逆に言えば、組織として存在する限り、自分自身を維持する機能が備えられているということです。これは私達の生命(いのち)が在りつづけるということを考えると、私達はそれなりの組織を持っているということがいえるのです。(この自分自身を維持するという機能は神が行っていると考えることも可能なんですが、それはある意味同じことなのです)

 さてさて、いろいろな事を短い(?)文章に詰め込んでしまったので、ちょっとわかりにくくなってしまっていると思います。ここらで大胆な結論と行きましょう。「私達の存在の目的とは、存在を続けることにある。」と言うなんか人を喰ったような結論になってしまうのです。貴方の身体の細胞は何の為に存在しているのかと考えたとき、ひとことで言うなら、それは貴方が存在を続ける為であると言うことになります。私達だけでなく、動物も、植物も、私達の地球も、宇宙も、山も、海も、自然も、全てのものは神の一部であり、その存在の目的は神が存在する為といえるのです。そしてそれはそのまま私達が存在を続けるということなのです。

 ラムサの言葉の中に、私達が何もしなくても、存在しているということだけで大いなる貢献をしているのだというような意味の文章があります。それは私達の存在自体が私達の貢献であるということなんです。

 だから私達は在ることを喜びながら、存在を続けていれば良いのです。それが私達の「存在の目的」なのです。(なんかこの説明だと納得できない人もいそうだけど、これが私の在るという喜びの元になる考え方なのです。)

(2003/12/03)


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