愛について、パート1 (第118話)

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 ここしばらく愛について考えていました。そして当然のことながら幾つかの小さなイベントがおこり、それを当然のように考えている自分に気づいたりもしています。ということで、今回は愛について書きます。といっても「愛」というものを正しく理解することは難しい問題であることも確かなのです。そして「神」という言葉と同じように「愛」という言葉も多くの勝手な解釈により、わかりにくくなっているのです。今回は中間報告という意味あいで書くので、あえてパート1として書くことにします。パート2がいつになるのかはまったくわからないです。

 さて、最初に書いておきます。私達は愛を探すたびをしているのです。それは自分自身を探すということと同じ意味なんです。ですから、今の時点で愛を全て知っているということは、まずありえないことなんです。愛の全てを理解(体験)すると言うことは私達の旅の終わりをも意味するのです。だから今、愛についてよくわからないと感じていても全然問題は無いのです。むしろすでに愛を完全に理解していると考える方が自分自身を限定してしまうという観点から考えると少し問題があるのです。(もちろん心の奥では知っているんですよ。)

 まず、今までわかっていることを書いておきます。「愛は自由である」、「愛は結果を必要としない」、「愛は意志である」、「愛は許すこと」などがすぐに思いつきます。今回は結果を必要としないという観点から、考えを展開していきたいと思います。というのは愛にはいろいろな側面があり、その一つを取ってこれが愛であるということは出来ないのです。誰かが何かの体験を通して「愛」を感じても、それは間違いなく愛ではあるのだけれど、ただそれだけでと愛の全体像を知ったということには成らないのです。

 さて、人を愛する為にはどうしたら良いのでしょうか?愛したいとおもっても、「さてどうしたらいいのだろうか?」と考えてしまう人もいるかもしれません。そうなんです、愛というものがどんなものなのかある程度理解していないと、どうしたら良いのかわかんないのです。もしかしたら、愛というものを頭で理解していて、それを実行するすることに抵抗を感じ、とても出来ないと考える人もいるかもしれません。その場合もまだ愛というものを良くわかっていないということだと考えて良いと思います。なぜって、すでにみんな愛しているのですから。(この意味はあとで書きます)

 とりあえず意図的に愛する方法について考えます。比較として恋愛を出しましょう。愛にも恋愛にも、両方に必要なものがあります。それはその対象なのです。もちろん愛の場合は自分自身を愛することがすごく大事な事なんですが、その場合でも自分で自分だと考えている対象があるのです。では恋愛に必要で愛に必要のないものは何でしょう。それが結果なのです。たとえば誰かを好きになる、それと誰かを愛する、それはいっけん似てはいます、でもこの部分が根本的な違いなのです。その違いは恋愛の場合、期待となって現れます。だから少々極端に言えば恋愛とは相手に何か期待することなんです。それと比べると愛とは相手になにも期待しないということなのです。

 さて恋愛の場合、一度に何人も対象に出来ますか?それは何人かは出来るでしょう。その様な人もいます。でもたいていの場合は、相手も期待を持っていますから、いずれトラブルが発生します。まあ恋愛の場合それもしかたありません。とくに愛を伴わない恋愛の場合はなおさらです。

 愛の場合はどうでしょうか?相手にたいして何の期待を持つことはありません。期待を持つということで、それは純粋な愛ではなくなってしまいますから、そうなんだと説明するしかありません。まあ相手に対してなにも期待をしないということが、愛の大事な要素であると言うことも出来るのです。

 相手に何も期待することが出来ないと考えると、愛することってすごく難しいことだと思うかもしれません。確かに相手に期待しないと言うことは、それは大変なことであるのも事実なのです。でもこのことは少々皮肉な事ながら、もともと期待をしていない場合は比較的簡単に愛することが出来ると言うことなんです。

 例をあげてみましょう。誰かの子供が何かの障害を持っていたとします。その障害が重いものであるのなら親は、その子供に対してそれなりに生きていくことしか期待しません。その子供に対していろいろとやってあげてもそれらは見返りを求めないものになります。それは立派な愛なんです。

 別の観点で考えて見ます。相手になにも期待しないと言うことは、たとえ相手がその人をどんなに嫌っていてもそれは問題にはならないのです。いってみれば相手の意思に関係なく、愛することが出来ると言うことなんです。この意味を良く考えてみてください。もしいまこの瞬間にでも、貴方がこのように宣言したとします。「私は地球上の全ての人を愛する」、それは貴方が全ての人を愛していることを意味するのです。もちろんただ言っただけでは、その瞬間の気持ちだけにとどまってしまいます。でもその意識を持ち続ければ、それは実際可能なことになるのです。その様に人生が出来上がっていくのです。恋愛のように相手の承諾は全く必要ないのです。ただ愛するという意志がありさえすれば、それは可能になるのです。

 だから、誰でもほんの少しの勇気さえあれば愛することは可能なのです。

 さて、愛し始める方法は簡単なのですが、実際にはどういうことを意味するのでしょうか?愛にはいろいろな側面があります。たとえば愛しい人に万難を廃してでも会いに行く、それも愛でしょう。しかし、すごく会いたいのに、じっとそれを我慢するというのも愛になるのです。たとえば恋愛は愛が無くても可能です。でも何らかの事情できれいに別れようと思ったとき、愛が必要になるのです。

 もっと別な要素もあります。たとえば誰かが貴方に対して非常に失礼な態度をとってきたとします。神との対話にある様に「今、愛ならどうするか」と考えて見ましょう。この言葉は自分がいまどこにいるのかという羅針盤の役目をしてくれます。その人がどのように考えるのかが、その人の在りようをあらわしているのです。だからもちろんのこと正解などはありません。ただその様に考えたその人(自分)がそこにいるということなんです。無視する人もいるでしょう。丁寧にその人の行為が自分にとってどのように見えたのかを指摘するする人もいるでしょう。対立して争う人もいるかもしれません。どのような態度を取ったとしてもそれはあくまでも自由であるのです。しかし、愛を実践しようとした場合は、いちど「今、愛ならどうするのか」という思考のフィルターにかけてみる必要があります。いちどそのフィルターを通した行動は、それはそのことの愛の表現になるのです。

 ちょっと説明がわかりにくかったかも知れません。別な言い方をすると、何をするにせよ、愛しているんだというエッセンスを加えることで、それはその人の愛になるのです。そのエッセンスを与えてくれるのが、「今、愛ならどうするのか」という、魔法の言葉(思考)なのです。結果的に実に様々な愛がそこに存在しえると言うことは想像できると思います。愛とはその様にいろいろな形があるのです。それをまた別な言い方をすると「愛とは意志である」ということにもなるのです。

 もう一度簡単に書くと、もし貴方が全ての人を愛そうと思ったのなら、「今、愛ならどうするか」ということを考えていればいいのです。それだけで、それが貴方の愛の表現になり、貴方の愛し方なのです。

 ひとつ補足をしておきます。「今、愛ならどうするか」を考えるとき、「愛とは自由である」ということを考えていた方がより高度な愛の選択が出来るとおもいます。そしてもっと大事なこと、それはまず第1に自分自身を愛することなのです。

 自分を愛することについて、あらためてふれましょう。自分を愛するということは、自分自身を許すこと、それは今の自分を受け入れると言うことでもあります。自己嫌悪しないということであり、今の自分自身の在り方に対して、必要以上の期待をしないということでもあります。そしてそれは欲(執着)をなくしていくと言うことにもつながります。結局のところ、自分自身を愛するということは、今に生きるということにかなり近いことなんです。(同じと言い切っても良いとおもうけど) そして自分自身に出来るだけ自由を与えることなのです。自分を制限している、自分自身の考え方を少しずつ捨て去っていくということなんです。カルマなどという考え方も出来るだけ早く捨て去った方がいいのです。カルマにとらわれていると、新しい自分の在り方をつくれません。それは今の自分を制限していることに他ならないのです。

 ついでに書いておきますが、カルマ云々を言っている間は、自分自身に本当の自由を与えることは出来ないと思うのですが、まあそれでも、自ら自分自身を制限するというのもその人の自由意志であるのなら、勝手にしてくださいというしかないですね。でも、自分以外の人に対して、カルマがどうのこうのと言うことは、明らかに制限であり、(少なくともレベルの高い)愛の行動だとはおもえません。

 さて、もう少し突っ込んで愛を考えて見ましょう。実はというほどではないけれど、意図的ではない愛も存在するのです。たとえば先ほどの例で書いたような、失礼なことをしてきた人がいた場合、それを全く無視するよりも、そのことを冷静に相手に対して指摘してあげた方が相手の為になります。それは相手の成長に手を貸しているのだと考えることが出来るのです。何の為に生まれてきたのか?その理由を考えたとき、相手が本当の自分自身を思い出させるための行為は愛の行為と言うことが出来るのです。それを言い方を変えると、誰かに何かをすること、それの全てが相手の為にもなるのです。それが相手がその時の自分を確認する為に必要なことなんですから。

 そのことをベースに考えると、実は何をやっていても、その行動は愛なのです。ただ、愛のレベルが違うだけなのです。そしてそのレベルの違いも互いに旅の途中であるということを考えると、愛すべきことなのです。先ほどの例で、たとえ反発して争いになったとしても、それはお互いの成長の為のステップであるのなら、愛の行動なのです。とはいっても、自分の中に本当に神性を見つけたかったら、レベルの高い愛を目指すことは必要であることは書いておきましょう。

 意図的でない愛という観点で言えば、じっと見ているということも愛ということになります。「愛とは、余分な手出しをせずに、じっと見守っていてあげる」ということでもあるのです。これは聖なる神の姿勢を考えればみえてきます。もちろんこのただ見ていると言うことは、無視すると言うことではありません。「愛を持って見守る」ということなのです。それは時として言いたいことも言わないということでもあるのです。そのベースには、「愛とは評価しないこと」という側面があるのです。難しいのは、言うべきことを言ってあげるのも愛なのでその使い分けが必要になります。

 この視点から考えると、この世界で人と触れ合うこと、生きていることじたいが愛の行動であると言うことにもなるのです。それは全ての人がそれぞれのレベルで他の人を愛しているということであり、同時に全ての人からそれぞれのレベルでの愛を受けているということでもあるのです。

 さて、愛についてもう少し別な視点から考えて見ましょう。愛は意志であり、思考の中にあり、言葉として表現され、そして行動として表れます。そして生きていることが愛の行動の一部でもあるのです。いってみれば、どこにでもあるのです。これって何かに似ていませんか?そうです、もうわかっていると思います。全てのものの中に愛が存在しているのです。簡単に言ってしまえば、神と同じなんです。神と同じところに愛があるのです。というか、「神は愛である。」、逆にも出来そうですね。「愛は神である」(わを〜、これを書いたらこみ上げてきました。)

 この文章を書くとき、「神は愛である」ということは書こうと思っていたのですが、そうなんですね、逆も大事なんですね。「愛は神である」という言葉に自分で書いて感激してしまいました。^^

 なんか思わぬところで、結論が出てきてしまいました。感激です。

(2004/01/12)


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