宗教について(その2)

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 宗教について(その1)は雑話のコーナーに書いたのですが、それは社会問題的な要素もあったためにそのようにしたのです。しかし後で考えるとどうも「魂の部屋」の方があっているかなと思い始めました。(実は「幸せのすすめ」コーナーの方が良いという考え方も出来たりします。)

 と言うわけで、このコーナーに移してしまったので、若干スタンスが変わります。どのように変わるかというと、社会問題としてより、考え方に比重がおかれると言うことです。

 「それぞれの意見」の中でも出てきたのですが、「方便」と言うのがあります。単に「方便」というより、「嘘も方便」と言った方がなじみがあります。意味合いとしては教えに導くための仮の教えと言う意味です。

 「嘘も方便」という言葉もどうも世間一般では正しく認識されていないと思います。極端に言えば、「結果が良ければ嘘を付いても良い」と言うように解釈されています。これは嘘を肯定してしまい、このことを自分に都合の良いような解釈をして、勝手なうその理屈を言ってはばからない人(国会議員など)が世の中に多いのも考え物です。

 仮に神という言葉で言いますが、神の教えは本来言葉で言い表すことは出来ません。仏教でも、キリスト教でも、イスラム教も、ヒンドゥー教でもユダヤ教でもそのことの本質は変わらないと思います。この場合の神が各宗教で同じであるかどうかと言うことははっきり判りませんが、私が思うにはたぶん同じものであると思っています。

 たまたま「方便」と言うのは仏教で使われる言葉ですが、上に書いたような理由で実はどの宗教でもあてはまることだと思います。

 神の教え(悟りなど)は、本来感じるものです。これを感じた人が信者を導くのですが、ごく一部の人以外にはこの事を正しく伝えることが出来ません。その為、しかたなしに言葉に翻訳をしなければならないのです。普通の信者は言葉で理解するしか方法がないのです。この言葉に直す段階で神の「感じ」は「方便」になってしまうのです。これらの言葉は初期においては極力その本質を表そうとしているのですが、そもそも言葉で表現出来ないものを言葉で伝えて行くのですから、まるで伝言ゲームのようにニュアンスなどが変わっていってしまうのです。

 この事は、古くからの宗教全てに共通していることであると言えるのですが、まあしかたのないことでしょう。結局本質は同じものである筈なのに結果的に全然異なったような宗教になってしまうのです。

 別な言い方をすると、各宗教のほとんどの教義は「方便」なのです。もちろん私がこれらの「方便」が価値のないものだと言っているわけではありません。それぞれが「真理」を探求するための手助けとして考えられたものですから、意味があると思います。これは「真理」を山の頂上に考えた場合、色々な登山道があると言うことなのです。

 過去の歴史の中で、宗教が原因で戦争も起こっていますし、様々な対立も起こっています。これらは解釈の違いであって、本来根本的な対立ではないはずです。言ってしまえば、登山道の違いなのですから。

 「弓と禅」と言う本を読んで、あらためて感じたことは、「真理」につながる道は決して宗教だけではないようです。たとえば「弓道」も極めれば、「真理」の一部を感じることが出来るのだと言うことが書いてあります。(直接そう書いてあるわけではない)

 私は各宗教(新興宗教も含む)がその違いを非難しあうのは、本来間違えた姿勢だと思うのです。それぞれの宗教が正しく「真理」に向かっているのなら、それぞれの宗教に意味があると思います。これはたとえば宗教だけでなく、弓道でも剣道でも道を極めることが出来るのならあまり違いは無いように思うのです。(実は、このようなことを考えると日本の仏教もあまり非難できない。)

 前から何度も書いていますが、宗教にもまがい物があります。しかし外から見ていてもその宗教が「真理」につながっているかどうかは、正直よく判りません。しかし目安として絶対に言えるのは、金儲けでやっているような宗教は本物であるわけはありません。疑わしい宗教もけっこうあるのですが、ここで私がその名前を出す必要も無いと思います。

 「宗教法人」などが税金対策の為に売り買いされたりしているようですが、なんともな〜。というのが正直な感想です。

 私の個人的な意見では、宗教(人の信心)を利用して金儲けをするなどということはもってのほかで、そのような人達はきっといつか、何らかの方法で償いをしなければならなくなるでしょう。私からみたら最低レベルの人間だと思います。

(1997/06/18)


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