嫉妬 (第121話)

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 怒りと並ぶネガティブな感情のひとつ「嫉妬」について書きます。前話の怒りを書くときのついでに書いても良かったような軽いないようです。(現象として現れたときは厄介だけど)

 嫉妬とは、羨望(せんぼう)が素直に表現できずに歪められたものです。そして独占欲がミックスしてまたまた厄介なものになります。

 羨望とは、「うらやましい」、「私もそうでありたい」という気持ちです。これはこのままだと祝福の意味も持ちます。この言葉を言われたとき、言われた人は素直に嬉しいんです。だって祝福してもらっているんですから、嬉しくない訳は無いのです。

 さて、問題は何故「羨望」が素直に表現されること無く、「嫉妬」という大変醜いものに変ってしまうのでしょうか? 基本には教育の問題があります。「人のものをうらやましがってはいけません。」と言うものが価値観のベースにあるのです。

 ひとつ例をあげて考えて見ましょう。子供達が遊んでいたとします。一人の子供が隣の子の玩具をうらやましがったとします。そして子供ですから、それをとったりしちゃうことはよくあるんですよね。そんな時におとなは先ほどの「人のものをうらやましがってはいけません。」という言葉を言ってしまうんです。さてそれで良いんでしょうか? 問題の本質は、他の子供の玩具を欲しがったということではなく、独り占めしたかったというところにあるのです。言ってみれば独占欲が要素として加味されて、その子供がその様な行動に出ているのです。

 簡単に言えば、こともが「うらやましがる」と言うことは自然な感情であり、なにも悪いことではないのです。問題はその玩具を自分のものとして独占したいと思ったところにあるのです。本当はその玩具でみんなで仲良く遊ぶのが一番楽しいんですよね。悪いのは「羨望」では無く、「独占欲」、「所有欲」なのです。

 今の社会では、独占欲や所有欲といったものは資本主義経済のベースとなるものとして考えられていて、それが社会の混乱の大きな原因であるということなども認識されてはいません。そのくせ無実の「羨望」が悪者にされているのです。

 さてさて問題はその羨望が嫉妬に変ってしまうことなのです。ここを読んでいる人ならわかると思いますが、「羨望」という感情も当然エネルギーなのです。そのエネルギーが適切な出口が無い為に心の奥で溜まりながら「嫉妬」に変質して行くのです。

 「嫉妬」のエネルギーが表面に現れたとき、それはかなり強烈なものがあります。「怒り」と変らない破壊力をもち、そしてしばしば「怒り」をも伴って現れてきます。とうぜん本人の感情のコントロールの限界を超えてしまうこともあるのです。まあ「嫉妬」については詳しく書かなくても、誰でも経験があるでしょうからわかりますよね。

 「嫉妬」が明確に外に現れない場合で、自分自身の中に影響を与えることもあります。むしろこちらの方が厄介なのかもしれません。それは「嫉妬」の感情のはけ口として、自己の正当化という形で現れます。これにはいろいろなパターンが考えられますが、一番わかり易いのは、自分に出来ないことが他の人に出来るときなど、「そんなこと出来ても意味は無いよ。」とか「本当はそんなこと出来ない方が良いんだ」などと価値観を変えてしまうのです。他にもいろいろなバリエーションがありそうですが、それは考えてみてください。

 さて嫉妬により価値観を変えてしまうというのはどういうことを意味するのでしょうか。それはとりもなおさず、その人の真実を歪んだものに変えてしまうということなのです。そしてその人のゆがんでしまった真実は簡単にはもとには戻らないのです。それは本人が気づくまで、その人の人生にあまり良くない影響を与え続けてしまうのです。単純な「怒り」に比べて悪影響の大きい部分はこのところにあるのです。

 ではどうしたら良いのかということなんですが、これは案外簡単なことなんです。何かあったつど「羨望」を言葉や(メールの)文章にしてしまえば良いのです。怒りのエネルギーは相手にぶつける訳にはいかないのですが、羨望のエネルギーならそれで良いのです。むしろその方が良いのです。先に書いたように「うらやましい」というのは、祝福の意味もあるのですから。

 愛という観点から考えたとき、「祝福」は大事な要素です。「うらやましい」という気持ちを素直に表明するなら、それは「愛」の行動でもあるのです。だから「愛」を大事にしたかったら、素直に褒めてあげればいいんです。そして、「うらやましい」と言って祝福してあげれば良いのです。簡単でしょ。^^

(2004/02/09)


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