イメージトレーニング (第122話)

魂の部屋に戻る

 昨年の話です。ラムサのセミナーから帰ってきてそれほどはたっていない頃です。まだ私の中に高揚したものがかなり残っていたころです。この説明は体験しないとわかりにくいかもしれませんが、心が高揚し、エネルギーを豊富に感じ、それこそ馬鹿みたいな幸せ感を感じたりしていた頃なのですが、それはある意味かなり現実離れした状況であり、残念ながら現実の社会にもどってくると、徐々に以前の状態にもどってしまいます。もちろん普段の状態に戻るといっても全く同じようななってしまうのではありません。私の体験として知っている状態に近づいていることは確かなのです。

 今回は、そのころ体験した些細な出来事を書くことにします。これは私自身の真実としてもぜひ強化して自分のものにしたいことなので、あえてここに書くことにするのです。なぜかというと、自分がこのことをより知っている状態に近づけるためには、それを誰かに知ってもらうのが一番早道なのです。

 「自分が欲しいものを、人に与えよ。」というのは、このような場合にも当てはまるのです。これは「自分がより知りたかったら(知っていることとして確定したかったら)、それを人に教えれば良い」ということなのです。これは体験をシェアするということで、このようなことはシェアされた人だけでなく、シェアする人に意味のあることなんです。

 さて、それでは本題に入ります。私がある人と話をしていたとき、何かの弾みでその人の手にとげが刺さってしまったのです。そこはその人の事務所だったのでその人は机からとげ抜きを出してきてそれを取ろうとしたのです。ところがとげが刺さった場所は右手の指なので、右手を使うわけにはいきません。おまけにとげは透けて見えているのですが、すっかり横になって埋まってしまっていて、どちら側から取れば良いのか全くわからないような状態だったのです。

 そんな状態でしたから、私が取ってあげるといってとげ抜きを受け取ったのです。とげの頭が少しでも出ていればとげを抜くのは大変なことではありません。でもしっかり埋まっていたのです。その時ふと思ったんです。「ああ、これはとげの抜けた状態をイメージすればいいんだな。」 そこでやってみたのです。とげの抜けた瞬間のイメージをおでこの部分に置いてみたのです。

 そして、自分でも取れるとは思っていなかったりですが、ちょん、ちょん、ちょんと、とげを抜くような動作をやってみたのです。そしたらなんと、三度目の"ちょん"でとげが取れちゃったのです。まあ普通の人が考えたら、偶然にも取れちゃったと思うところなのですが、世の中には偶然というものなどはありません。要するに、私がイメージした、とげの抜けた瞬間が現実としておこったのです。

 信じられない人もいるでしょうから、もう少し説明しますと。私が"ちょん"とやったのは、ねらってやったのではなく、ただなんとなく「ちょん、ちょん、ちょん」とやっただけなのです。で、自分でも取ろうとしてはいなかったのです。まさか取れるとは思っていなかったけれど、とりあえずその様な動作をやってみただけという感じなのです。だから取れたとき、私自身びっくりしたのです。「あれ?なんで取れちゃうの?」というような感じだったのです。

 後で考えてみると、これは現実の創造の一つのパターンなのです。もともと全ての物が創造されたものなのですが、その方法は実に様々でいろいろなケースが考えられます。この場合は、(偶然に?)とげが抜けるという出来事を私が創造したということなんです。

 さてある意味ここからが本題なのです。現実創造するとき、出来事を創造するということが最も現実的な創造なのです。だって空間からパンを作り出すというような創造は普通の人には出来ないでしょ。誰でもが自然に行っている創造というのは、出来事の創造なのです。で、今回はとげ抜きという些細な出来事の創造だったのですが、実はこれはこれで実に大事なことを教えてくれたのです。

 このとき、何故、とげを抜くという出来事が創造できたのでしょうか、とげが抜けなくて苦労したという経験は誰でもあると思います。その場合と何が違ったのでしょうか?まず、私がとげが抜けるという出来事をイメージしたのです。これはイメージトレーニングでスポーツ選手などが上手くいったときのことをイメージするのと同じことなんです。まあ言ってみれば、スポーツ選手はイメージトレーニングで自分の近い将来の自分の成功という現実を作る為の指令を与えていると考えることが出来るのです。

 そのほかにもまだ重要な要素があります。その時の私には欲が無かったということなんです。というのも、変な話なのですが、そのとげの刺さった人は私にとってすごく大事な人ではありませんでした。だから、とげが取れても取れなくても、あまり気にしていなかったのです。だから結果的に無心になって「ちょん、ちょん、ちょん」ができたのです。もし相手が幼いこどもであったりした場合、早く取ってあげたいなどの考えがおこり、それが欲につながってしまうのです。

 なぜ欲があったらいけないのでしょうか? この場合は、とげを抜いたのは私の内なる神(精霊)だったのです。私の内なる神が私の行動をコントロールして偶然のようにとげを抜くことを可能にしたのです。実際のところ思わぬところで、内なる神(精霊)が私達の行動に関与していることがあるようなんです。ただ私達はなかなかそれを理解出来ないのです。癖になっているようなこともそうなんですが、無意識のうちに何かをしていることってありますよね。いえることは行動の全てを表面の意識がコントロールしているわけではないと言うことなんです。

 普段行動をコントロールしているのは、表面の意識です。要するに狭い意味での私達(表面意識)なのです。そして通常の場合、からだのコントロールの優先権はその狭い意味での私達が持っているのです。しかし何か特殊な現実や奇跡的なものを望む場合には、からだのコントロールを潜在意識の方にゆだねることが必要だったりするのです。その時、表面意識が欲などの強い想いを持っているとそのコントロールを手放せなくなってしまうのです。もちろん表面意識の強い想いというのは、欲だけではありません。自分がやってやろうという気負いや失敗にたいする不安、その他のいろいろな想いが邪魔になってしまうのです。

 スポーツ選手が何かどでかいことをやった場合、しっかりイメージトレーニングして、競技の瞬間には集中力をベースにした無念夢想の状態に成っているのでしょう。そうすることで自分自身の内なる神が奇跡をおこせるようになるのです。

 現実を創造するとき、欲は邪魔者になるのです。そもそも何々をしたいとか、何々を手に入れたいという希望からスタートしていますから、それを現実にしたいと思ってもそれを欲しがっている間は手に入れることは出来ないのです。結局のところ、「私達は欲しいと思っているもの以外の全ての物を手に入れることが出来る。」ということなんです。

 表面意識を中心に考えると、世の中はなんとも皮肉な構造であるとも見えたりもします。

 ついでに書いておきますね。ニール氏が「神との対話」した方法は自動書記という方法で、手が勝手に動いて文章を書くのです。これなども原理的には同じことなんです。手のコントロールを内なる神(精霊)に委ねることにより、それが可能になるのです。(私がそれを意図的に出来ると言うわけではないですよ。何しろ私はいろいろ考えすぎるたちなのですから^^;)

(2004/02/12)


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