喜びについて(補足) (第126話)

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 喜びについて、いくつかの補足と私の新しい気づきを書きます。

 最初に、幸せと喜びの関係を書いておきましょう。幸せとは微かながらも続けて感じている喜びのことをいいます。ぎゃくの言い方をすると、一時に大きな幸せを感じてたとき、それが喜びなのです。ですから、それを心の中に探すとき、どちらを探しても良いのです。

 もし何かで喜びを感じたなら、その時に幸せな感じも味わいましょう。もともと同じものですから、喜びを感じているときには、幸せも感じているのです。そしたらその幸せな感じを覚えておきましょう。それは幸せな感じのほうが長続きし易いからなのです。

 逆に幸せを感じたのなら、その気持ちを高めて爆発させてみましょう。それにより、喜びを感じることが出来ます。この爆発させると言うのは、思考により自分自身の幸せ感を高めていくのです。なにも遠慮などいりませんよ。なぜこんな書き方をするのかというと、理性がそれを止めようと邪魔するからなのです。遠慮などいらないというのは、理性も一緒になって盛り上げることに協力しましょう、ということなのです。

  いずれわかってくると思いますが、喜びを感じる為にはある種のコツがあります。それは意識の持ち方なのですが、言葉ではなかなか説明できないものなのです。あえて言えば、リラックスするという言葉になるのでしょうが、それだけでもないのです。まあ結局は自分でその方法をみつけるしかありません。それにそれは人によって違うかも知れないので難しいところなのです。

 あらためて書く必要は無いかも知れませんが、確認しておきましょう。喜びとは魂(精霊)の持っているエネルギーなのです。誰でもそのエネルギーはあるのです。そうでなかったら今、この世では生きていけないのですから。魂(精霊)の本質は喜びであるということでもあるのです。問題はそのエネルギーをどのように意識できる部分まで上げてくるのかが問題なのです。理性さえへんに邪魔しなければ誰にでも感じることは出来るのです。

 さて、ここからが本題です。問題は喜びを感じるようになってから、その状態をどのように維持していくかに関係あることなのです。

 喜びというのは、考えようによってはある種の麻薬のようなものです。それさえあれば他に何もいらないとさえ思えてしまうような部分があります。さて、喜びを感じはじめるとある問題に突き当たります。この喜びを誰かに伝えたくなるのです。これは人間の性分として普通のことだと思うのですが、残念ながらこの喜びの感じは言葉では表せないのです。だいたいの場合、それを聞いた人からは期待したようなリアクションは帰ってきません。まあ、喜びは感じている人にしかわからないのですからそれは無理ないことなのです。

 時として、誰かに喜びのことを話しても、かえって反発をかってしまうこともあり得るのです。まあしょうがないですよね。相手の人は、喜びの本質を理解していないのですから、それがあくまでも内的な気づきによるものだとは理解できないのです。下手をすると嫉妬や妬みまでかってしまうかも知れません。他人の幸福は自分の不幸だと考えるレベルの人もこの世の中には多いのですから。(皮肉なことに、その様に考えている人は喜びを感じられないんです。)

 もうすこし詳しく書きましょうね。喜びを感じるというのは、その時の意識レベルがある程度以上に無いと出来ないのです。なぜかというと、喜びとは魂(精霊)から来るのですから、内なる神(魂、精霊)とある程度同調していないと、そのエネルギーがこないのです。妬みなどのネガティブな感情の状態でいるということは、魂との繋がりが極めて低い状態なのですから、喜びなど感じられないのです。それはそういうものなのです。

 話をもどしますね。喜びを感じている時、そのことの意識レベルはある程度以上に上がっているということが出来るのですが、その意識レベルだと、人の喜びは自分の喜びだし、自分の喜びはみんなにわけてあげたい、というように考えるのが普通なんです。(そういう状態だから喜びでいられるのです)

 そこで、ふと疑問が湧くのです。「自分だけ幸せを感じていて良いのだろうか?」。喜びを分かち合いたくても、それを理解できる人がそばにはいないし、私だけ幸せでもいいの?という感じがおこるのです。そこで思考がネガティブな方にいって、申し訳ないとかの自己嫌悪のような考えを起こすと、すぐに喜びが遠ざかっていってしまうのです。

 そんな時はどうしたら良いのでしょうか?これが今回の一つ目の主題なのです。喜びを感じている時、その様に感じたら、迷うことはありません。みんなにわけてあげればいいのです。それはこのように念じれば良いのです。「私と関係ある全ての人に、この喜びを送ります。全ての人がすばらしい体験が来ますように。」というような感じて念じるというか祈ると言った方が良いかも知れません。

 これはやってみれば判るのですが、その様に祈ると、身体にそれなりの反応が起こり、結果的にもっと大きな感激がわいてきたりするのです。軽い頭痛がおこり、いかにも念を送っているというのが体感できるのです。(個人差はあると思うけど) 人に喜びの念を送ることにより、自分自身の喜びが大きくなる。結局、人に喜びを与えるということは、自分自身に与えると同じことなんです。送った先の人がそれを受け取れるかどうかは、その相手次第です。でもまあそこまでは気にする必要はないのです。

 必ずという訳ではないのですが、これをやると「喜び」と「愛」がほとんど同じものだということを感じることが出来ると思います。それでも全く同じではないと思うのですが、これは個人個人の感じ方の問題でしょう。

 もう一つの主題について書きます。喜びを感じるようになってしばらくの間は、いつでもすぐにそれを感じられるという訳ではありません。やはり何かきっかけのようなものが必要になります。私の場合は、人に感謝されたり、なにか重要な気づきがあったときなどのきっかけです。まあそれはそれで良いんですけど、ここにもすこし落とし穴があったりします。

 ちょっと持って回った書き方ですが、私自身がこの罠にはまっていたのです。麻薬のような喜びを感じる為に何かきっかけが必要だと勘違いしてしまうのです。それは私の場合ひとつの疑念としておこりました。それはこんな感じの考えが湧いて来ていたのです。

 「私達は喜びを求めて行動している。確かに人に喜ばれるようなことをして自分自身で喜びを感じてはいるけれど、それって目の前に人参をぶら下げられて走っている馬のようなものかもしれない。私達は麻薬のような喜びを求めてひたすら走り回る存在でしかないのだろうか? 喜びの気持ちよさで全て誤魔化されているのではないのだろうか?」

 さすがにこのようなネガティブな考えはページに書くのに抵抗を感じて今まで書かなかったのですが、私自身しばらく前から、この疑念を抱いていたのです。この考え方のどこがおかしいか判りますか? わかってしまえば何ということはないのです。必要性という幻想にとらわれていただけのことなのです。何度も書いていますが、もともと喜びとは心の奥にいつもあるものなのです。それは自分の外を探しても見つけることは出来ないのです。そんなことは私もわかっていたつもりだったのですが、きっかけが必要だと考えることでその幻想に嵌っていたのです。

 私達はいつも喜びと一緒に居ることが出来ます。というか一緒に居るのです。もっというと喜びから離れては存在出来ないのです。だんだんコツをつかんでくると、前より気軽に喜びを感じられる様になってきました。そして判ってきたのです。もともとあるわけなのですから、なにも走り回る必要など無かったのです。立ち止まったまま、いくらでも人参を食べられるのですから、先に書いた疑念はおおもとの土台から成り立たない話だったのです。喜びを求めて行動する必要もなかったのです。ただここにある喜びをいつでも味わうことができるのです。それに気づけはそれだけで良かったのです。^^

 まあこのような疑念を感じるほど、喜びというものが気持ち良いものなんですよね。^^

 「生きることは、喜びである。」 第31話で書いた、神様のメッセージを思い出しました。生きているだけで良いんです。

(2004/03/05)


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