愛での世直し (第129話)

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 ありがとうございます、ご質問のメールを頂いてこれを書きます。愛で世の中を変えるにはどうしたら良いのか?というテーマです。

 今まで何度も書いていることなのですが、この世の中は霊的なレベルが低い意識(集合意識)により多くの影響をうけ、こころある人たちからみるとなんともやりきれないものがあるのも事実なのです。そこでなんとかもっと良い世の中にしたいと考えるのは人情として当然であると同時に、自分自身の神性の表現としてさけて通れないものでもあります。

 スピリチュアルなことに興味がある人は、愛の力で世直しをしようという考え方を一度ならず、見たり聞いたりしていると思います。で、愛の力で世直しをするためにはいったいどうしたら良いのか?という疑問がででくると思うのです。頂いたメールも意味としてはその様な意味だとおもうのです。

 さてこれから書くことにはいくつかの前置きが必要なのですが、まあそれは今回は置いておきましょう。簡単にちょっとだけ書くなら、本当に世直しをしなければ成らないのか?というレベルから考えた方が良いのですが、そこからはじめると本題にいく前に話がそれてしまうからです。

 と言うことで、話を中略して、愛で世の中を変えるためにはどうしたらいいかということにあえて話をしぼります。実は、というほどのことでもないのですが、「神との対話」のなかにその方法も書いてあるのです。ただその方法がいっけん地味な為、多くの人があまり重きを置いていないのではないかとおもいます。ちょっとだけもったいぶってその結論は最後のほうに書くことにします。まずはその様に考える前提というか基本的な考え方を説明しなければ、その結論にも意味を感じなれないのではないかと思うからです。

 世の中の問題の多くは、極端な言い方をすれば、愛の欠如、もしくは愛の表現の欠如が原因であると言うことが出来ます。それにはいろいろな理由があります。そしてそれはそれでしかたが無いし、それで良いんだという側面も持っています。(この話もちょっと置いておきましょう、ほかのページで間接的に説明しています。)

 愛の欠如が問題であるのなら、愛で充足してあげれば良いのではないかと思うかもしれません。これはある面では正しいのですが、そうでない部分もあります。もともと愛の中にいるのですから、、。

 それでは本題に入ります。愛の原則をかんがえてください。「愛は自由」、「愛は許し」なのです。もし誰かが世の中の問題点を感じ、それを直そうとしたとします。その時に危険なのは自分の方が正しいという意識を持ってしまうことなのです。これは多くの宗教が犯してきた間違いを個人でも犯してしまうということなのです。

 自分の方が正しいと考えているとどうなると思いますか?「愛は自由」、「愛は許し」という感的から考えると、そのとたんに愛が変質してしまうのです。このゆがみは攻撃性という形で現れます。そして「愛は安心」という観点でもそれが外れてしまうことになるのです。

 さてさてもう少し別な側面でもいえます。相手に対して、(それが相手の向上の為であると思われることでも)何かの働きかけをした場合、それを相手が攻撃だと受け取った場合、その愛の行為が相手まで届くでしょうか? そのもとの行動が愛をベースにしたものであっても、簡単には受け入れてもらえるものではありません。  なぜその様なことになってしまうのでしょうか? それは多くの人が不安をベースに思考して、自己嫌悪というものから自分を守らなければ成らないと考えている為なのです。愛というものの中でもいろいろな要素があるのですが、その中で最も基本的な愛の幻想は、自分を守るということなのです。「愛は安心」という観点から、自分自身を安全な状態にしておきたいという本能に近いレベルの愛(自己愛)により行動しているからなのです。もちろんこの愛が悪いと言っているのではありません。ただ、本当は自分を必要以上に守る必要は無いのです。本当は「何も怖いものは無い」のです。

 自分を守るという愛が誤った形、抑圧された形で現れてくるのが「自己嫌悪」なのです。それは自分より外に神を見ているからなのですが、このことは、いずれべつのページでもっと突っ込んでかんがえます。ここにこだわっていると先に進めません。^^

 とりあえず、自己嫌悪の関係でまとめるとこのようになります。「自分自身を愛(安心)するという思考がゆがんでしまっている為に、逆に自分自身を許すという愛、自分自身に自由を与えるという愛を忘れてしまっている状態」であるといえるのです。

 世の中の非常に多くの人がこの「自己嫌悪」の罠にはまっているのです。その結果どのようなことがおこっているでしょうか?人からの(愛をもった)冷静な指摘ですら、うっかりすると攻撃として受け止めてしまうのです。この現象は個人だけでなく、組織でも、社会でも同じように現れているのです。

 さてさて話をすすめます。このような状態ですから、せっかく世の中を良くしようと働きかけをしようとしても、少しでも攻撃的な色合いがでると相手は防御体制をひいてしまいます。その結果事態は一向に解決しないばかりか、かえって悪い結果につながってしまうこともあったりするのです。

 愛の原則にかえって考えて見ましょう。「愛は自由である」という原則で考えると、たとえ相手がどのように考え、どのような行動を取っていたとしても、それはその人の問題なわけで自分自身に直接影響が無いのならば本来干渉すべきものではありません。それに「愛は許しである」という原則で考えても、許してあげるのなら、相手を非難の対象にすることは無いということもいえるのです。要するに愛で考えた場合、相手(個人も社会)にたいして攻撃的であったのなら、それはストレートな愛ではないし、相手の心に染み渡ることもないのです。

 ちょいと余談気味なのですが、世の中を変えたいと思うようなとき、まず相手なり社会なりへの愛が必要だということはわかりますよね。でもそれが素直に出来るようになるためには自分自身を愛していないと出来ないんです。本当はすべてのことが素直に自分自身を愛しているのなら、話はずいぶんと簡単だと思うのです。

 では相手に攻撃的な印象を与えずに、それなりの理解(叡智)を伝える為にはどうしたら良いのでしょうか?ここがポイントですよね。これは急がばまわれ、というのは実際には他には有効な手が無いともいえるのですが、結局のところ、それぞれの人が自分自身で価値観を変える事が必要になるのです。その為には社会意識(集合意識)を変える事が必要になるのです。結局それが唯一の方法なんです。

 社会意識を変えるということは何を意味しているのでしょうか?簡単に言うと世間の常識を変えるということなのです。実際のところ常識というものは私達が考えているよりもかなり流動的でいいかげんなものなのです。だから徐々に常識を変えていくことが世の中を変えることに成るのです。「神との対話」の中でも「常識を見直す人になりなさい。」という書き方がされています。実はこれは世の中の直し方でもあるのです。そして同時に社会に対しての自分というものの位置づけの創造にもなるのです。(自分が何もので在るのかということです。これは意外に重要なのです。)

 またまた余談気味ですが、私は選挙が近づくとちょと憂鬱な気分に成ります。どの政治家も臆面も無く、選挙戦を勝ち抜く、選挙とは戦いであるという発想で考えています。考えてみてください。愛の発想では戦いというものは、好ましいものはありません。もともと世の中の為に立とうと考えていた政治家がいたとしても、この選挙戦という戦いの場で、意識レベルは落ちてしまうのです。まあ自分が勝つために相手を蹴落としてでもという発想の人たちが政治をやっているわけで、このままで世の中が良くなる訳はないのです。

 実際のところ、戦いというものが好ましいものではないという社会意識や常識が出来てこないと、このような選挙の大きな矛盾もなおらないのです。今の世の中では、「勝てば官軍」や弱肉強食という意識が強すぎてしまうのです。このような意識は体験の中で早々に卒業して欲しい物です。

 結局のところ、社会を変えようと思ったらまず自分が変わること、自分を愛すること、そして相手を愛せるようになることが早道なんです。そして世の中のレベルの低い常識をひとつひとつ見直して、自分の意識をより高い意識に持っていくことが、社会意識を引き上げる方法なんです。

 愛で世の中を変えようと思ったなら、人を責めるのではなく、その根本原因であるレベルの低い社会意識を変えることが大事なのです。その為にはマナーも大事です。子供がおもちゃを独り占めして喜んでいるのと同じようなことを、おとなたち(政治家や官僚、そして経済界人など)がやっているんだということに気づき、その考え方を広めたりすることがその方法なんです。

 もちろん真実が人により異なっているように、愛も人それぞれです。それはその人その人の精神的な輝きなのです。自分の持っている輝き(愛)で世の中を見直し、その浸透を図ることが大事なのです。

(2004/03/22)


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