修道女ベルナデッタ (第131話)

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 ご質問を頂きました。私が今まで関心をもっていなかった分野ではありますが、私の今までの理解の中である程度答えられると思い書くことにしました。とはいえ、これから書くことはあくまでも私の考えであり、絶対にそうだと断言するものではありません。(と言いつつ、断定的な書き方をしてしまいますが)

 私が別の文章で説明するよりわかり易いと思うので、とりあえず、ご質問をそのまま貼り付けます。
興味深く読ませて頂いています。ふと疑問に思ったことがあるのですが、人間をはじめ全てのものが、ある種のエネルギーであるという考え方は物理学的にも矛盾がないと思っています。人間について言えば、生きている間は肉体としてのエネルギーと、意識としてのエネルギーが統合されているのが普通ですよね。寿命がきたら、意識のエネルギーは肉体から分離して、肉体は自然現象の一つとして骨になっていくと思います。ここで疑問に思ったのが、キリスト教でいわゆる聖者として認められている方です。例えばフランスのルルドには、修道女ベルナデッタのご遺体が安置されています。(名前を忘れましたが、パリにも同じような場所があります。)100年か200年かは忘れましたが、死後かなりたってからお墓を掘りおこして、遺体が生前と全く変わっていなかったということで、正式にバチカンの法王庁から奇跡であると認められて、聖者に認定されています。現在では、ガラス越しで(いわゆる白雪姫のような状態で)対面できるようになっています。テレビのドキュメンタリーか何かで見たことがありますが、美人とかいうレベルではなく、神々しい様な「慈愛に溢れた美」という感じだったのを覚えています。レポーターの女性は、そのご遺体と対面して、言葉を失ったまま涙を流していました。こういう場合、なぜ肉体は腐敗しなかったのでしょうか?もし、納得できるような考えをお持ちでしたら、是非聞かせて頂きたいとおもいます。よろしくお願いします。
(「ルルドの泉」を発見したベルナデッタの遺体が安置されているのは、フランスのヌヴェール市にある、サン・ジルダ−ル修道院だという御指摘を他の方よりいただきました。)

 さて、まず最初に肉体の死について説明します。私達の本質は意識をもったエネルギー体であり、それは生命(いのち)でもあります。だからこの世での死というものは単に肉体が機能をとめるという意味だけであり、多くの人が考えている死というものは幻想だということが出来ます。それをもう少し別な言い方をしましょう。

 私達がこの世に生きているということは、私達の意識がこの世界にフォーカスしていると言うことなのです。もともと私達の本質は時間も空間も無い場所にあるわけですから、今現在地球に生きていたとしてもそれは本当にここにいると言うわけではないのです。しかし意識としての構造があり、その中に死後の世界も含めた現実が存在しています。その現実として死を考えたときは、次のようなことになります。(まぎらわしい書き方なのですが、何事も視点により見え方が違いますから、事後の世界をも含めた現実というレベルで話をするという意味です。)

 あらためて私達がこの世の中に生きているということは、この世に籍を置いているというように考えることが出来ます。だからもし私達の住所を言い表すとすると、「第22番宇宙、銀河系内太陽系地球内、第1天界人間」という風にでもなるのでしょう。ここで大事なことは私達の住所は魂のある場所なのです。この魂のある場所というのは、私達の本質がある場所という意味ではなく、相対性の現実の中で、自分自身の魂がどこにあるかという意味なのです。私達が人間として生きているということは、魂の住所はこの地球上の私達の身体と重なった場所に置いてあるという意味なのです。(実際には魂はすごく大きいので全部がこの世に来ているわけではないのですが)

 このままだと少しややこしいので、例をあげます。私達が深い眠りのなかで霊的な夢を見ていたときのことを説明しましょう。その時私達の意識は身体から抜け出しているというのはもちろんのこと、この世界(第1天界)からも抜け出して別の世界にまで出張しています。まあ体外離脱というやつなのですが、その時離脱するのは私達の意識の部分なのです。(記憶装置としての)魂は身体に残っているのです。私達が夢の世界でどのような体験をしたとしても、必ず目が覚めたときこの地球上の自分の身体の中に戻ってくるのは、この身体の中に魂を置いてあるからなのです。

 死後、三途の河を渡ってしまうと通常は生き返ることはありません。臨死体験でまたこの世に戻ってくるほとんどのケースはそのラインを超えていないケースなのです。このラインを超えるというのは、肉体と魂のつながりをきるという意味なのです。それは魂が別の世界に引越ししたということなのです。まあ早い話、スピリチュアルな次元で死というものをいうと、体から魂が抜けたときをいうのです。

 では修道女ベルナデッタの場合はどうなんでしょう? おそらくまだ魂と身体の繋がりを切ってはいないのだと思います。霊的にいえば仮死状態と言っても良いのでしょう。まだ三途の川を渡っていないという意味です。さて、これだけでは話の説明になりません。何故その様な状態でいるのか?どうしてその様な説明になるのかと言うことがここでの本題なのです。

 とりあえず何故、身体が腐敗しないのか?という説明をしなければ成りませんよね。これは魂が抜けていないとなぜ身体が腐敗しないのかという意味でもあります。魂と身体がつながっているのは、チャクラと呼ばれる部分なのです。このチャクラとは、エネルギーの通路なのです。このエネルギーの中には感情や思考、そして喜びのエネルギーも含まれるのですが、いわゆる「気」というものが主なものだと考えられます。最近は気孔の研究も進んできて、その存在は理解し易くなっています。簡単に言ってしまえば、そのエネルギーが身体の腐敗を押さえているのです。

 水晶パワーであるとか、ピラミッドパワーなどのエネルギーで不思議なことがおこるとは知られていますよね。他にも気孔水のようなものもあります。いろいろ説明しなくても、生命エネルギーである「気」がふんだんにあれば身体が腐敗しないということは、それほど理解しにくいことではありません。

 もう一度書くと、修道女ベルナデッタは魂を身体から切り離してはいないためにまだチャクラが存在しているのです。そしてそこからエネルギーがたえず供給されているのです。だから腐敗しないのです。

 さて、通常ではおこりにくいこのような現象が何故おこったのでしょうか?もっとも大事で基本的なことを言えば、修道女ベルナデッタの意志だということができます。というかそれ以外に考えようがないのです。その意志もそれなりの理由が考えられます。それをすることによりどんなメリットがあったのでしょうか?これが今回一番書きたかったことなのです。

 私達はこの世の中で生活しているわけなのですが、実際には私達の知らないところで様々なバックアップがされています。私達の現実を維持する為はもちろん、私達の成長の為、あるいは自分で作った落とし穴にはまって苦しんでいる人を助ける為、あるいは病気の治療、癒しといった様々な援助がされているのです。それらのことをやるときにひとつ障害があるのです。それは私達の世界とは周波数帯が異なった世界からの働きかけであるために、こちら側でのエネルギーも必要になるのです。その為にたとえば治療行為をしようと思ったとき、こちら側に身体を持っているヒーラーのエネルギーが必要になったりもするのです。

 さて修道女ベルナデッタが、地球に生きている人たちの為に何かをしたいと考えたとき、もっというと自分の自由をいったんは捨ててまで、世の中の人の為に尽くしたいと思ったとき、この世界に籍を置いていた方がメリットがあると考えられるのです。それはチュクラを通してエネルギーをこちらの世界に届けることが出来ると言うことなのです。そのエネルギーは私達が直接は認識できないようなことで世の中の為になっていると考えられるのです。

 まあ実際のところ、修道女ベルナデッタがどのような活動をしているのかは私にはわからないのですが、世の中の仕組みから考えると、彼女が何かしらの精神的な活動をして世の中に貢献し続けているというのは間違いの無いことだと思います。その様に考えないと、彼女が自らその状態を望んだのかということの説明が出来ないのです。彼女は自らの望んで、愛の為にまだそこにいるのです。(魂はこちらにいても意識はどこにいるのかは別ですが) もしかしたら彼女はずっと夢を見続けているような状態でいるのかもしれません。

 愛というものの力なんでしょう。考えると胸が熱くなりますね。彼女に限らず多くのサポートしてくれている存在に対して、私達は感謝の気持ちをいつも忘れないでいたいものです。

(2004/03/26)


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