チャクラのバランス (第132話)

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 しばらく更新が滞ってしまいました。その間何をやっていたのかと言うと、内面的にはそれなりの気づきを感じ少しずつでも進歩していたと思うのですが、現実側の私はゲームにはまっていました。ちなみにやっていたのは「チュウリップ」と「ぼくのなつやすみ2」なのですが、どっちも待ったりと遊べてお勧めだったりします。^^

 今回もご質問を頂いたのがきっかけではあるのですが、同時に私の最近の気づきもまぜて書こうと思います。

 かなり前の話なのですが、私のページを読んでいるとディスプレイの画面が揺れると言われたことがあります。もしかしたらこれ以外でも何か特殊な現象を体験した人もいるかもしれません。たとえば家の中で音がするとか、ひどいときにはコンピュータが壊れてしまったりすることもないとはいえません。

 ここでそのような現象の原因を説明しておかなければなりません。何かしらのことがおこってもそれは私のせいではないのです。文章を読んだ人の意識がある特定の部分に反応して急に活性化するために、本人は意識していなくても自分の周囲に強力なエネルギーを放出しているのです。私が文章に特別な念をこめているからその様なことが起こると言うわけではなくて、読んだ人の意識がいろいろな現象を起こしているのです。

 まあ具体的に感じられる現象を体験する人は実際にはかなり少ないとおもいます。むしろ頭痛がするとか、おでこが痛くなるとかというような体験の方が多いと思います。実際、土曜日のセミナーでお会いした人の半分くらいの方は、その前後に頭痛をうったえているのです。(耳鳴りの人もいるかもしれません) 私自身は「神との対話」を読んでいるときこの体験をしました。

 エネルギーの感知(第115話)で書いたのですが、このような現象は悪いことではありません。むしろ喜ばしいことなのです。なぜならチャクラが活性化してきているということなのですから。

 私のページを見に来る人は、すでにハートのチャクラはある程度は開いていて、その次の気づきを求めてここにたどりついているのです。それはある程度の準備はすでに出来ていて、自分の力でこのページにたどりついたのですから。まあ何を言いたいのかと言うと、読者の方のほとんどの方は私とほぼ同じような霊的なレベルにあると考えられると言うことなのです。そして、その時に起こる現象などが今回のテーマなのです。

 頭部のチャクラ(ラムサでいう第7、第6シール)は知ることにより活性化していきます。この知るということは気づきでもあるのですが、霊的な夢や瞑想などでそれを感じるということでもできます。方法はいろいろあるのですが、もっとも簡単な方法はやはり気づきなのでしょう。「神との対話」や「ラムサ ホワイトブック」などで知識にしたものを、自分の気づきや体験で自分自身の真実にしたとき、それが起こるのです。

 従来から言われてきた、あるいは思われてきたことなのですが、頭部のチャクラを活性化するためには、厳しい修行などをして、下のほうから徐々に開発していかなければならないというのは誤った認識なのです。もっともなぜその様に考えられたのかは比較的簡単に理解できるのですが、参考にそのことにも触れておきましょう。

 あらためていうまでもなく、頭部のチャクラは知識に関係した部分です。これはハートのチャクラのように、やさしさなどの情に関係した部分とは別のものなのです。やさしさなどは人間が本来本質的に持っているもので、それを気づきや体験により思い出してくればその部分を活性化させることが出来ます。あえて言えば、別に教科書なども必要ないのです。それに比べて知識に関する部分ではどうでしょうか? この部分の開発には知識が必要になるのです。いずれは本当に必要な知識は「神の思考」から引っ張ってくるのですが、それが出来るようになるまでは、外から知識の補充が必要になるのです。

 さて、大昔からもその基本と成る知識はあったのですが、それは多くの場合、門外不出という形で隠されていたり、そうでなくてもそれを説明する適当な言葉が無かったり、あるいはそれを理解するだけのベーシックな理解が無かったりでごく一部の人たちにしか役には立たないものだったのです。

 その様な状態で、要するに適切な教科書や参考書がない状態で知ることが出来るのでしょうか?その場合、先ほど最も簡単だと言った「気づき」が出来にくいのです。結局のところ瞑想などで少しずつ宇宙の真理を感じて、少しずつそれを自分の真実にするという方法しかなかったのです。

 実際は頭部のチャクラの活性の為には、知れば良いのです。今、「神との対話」があり、「ラムサ」の本があり、(私のページも僅かながらもお手伝いにはなっているかと思うのですが) ベーシックな知識は比較的簡単に手に入ります。頭部のチャクラの活性化のきっかけとしてはそれで充分なのです。一度活性化をはじめれば、それぞれの人が自分なりの方法で「神の思考」とつながる方法を自然と身につけることが出来ます。そうなったらもう心配は要りません。自分自身の真実を積み重ねていけばいいのです。

 話がすこし長くなりましたが、簡単にまとめると、従来思われてきたよりもずっと簡単に、頭部のチャクラが開発される世の中になってきたのだと言うことを言いたかったのです。

 さて問題のご質問の部分に入ります。この方は遠隔リーディングを受けて頭部が開いていているのに下が閉じている、このままでは発狂するかも知れないといわれたそうです。もちろん下のチャクラを開くようにした方が良いのですが、それほど心配は要らないと思います。この関係でいくつか書いておいたほうが良いと思われることがあるのです。

 あらためて書きますが、従来に比べて頭部のチャクラの活性化はかなり容易になってきました。したがって、ご質問者のようなケースは今後も増えると思われます。というか私自身、そうなんです(笑)。さて、ここでいくつか書きたいことがあるのですが、どういう順番で説明した方が良いかわからないので、とりあえずバタバタと書きます。気にくわない部分があったら飛ばして読んでください。

 まず発狂とはどのような事を言うのでしょうか?当然のことながら、発狂というの判断をするのはその本人ではないですよね。その見た人の価値観で理解できない人を言ったり、行動したりしたら発狂と判断するかも知れません。実際問題、「私は神だ」といってまわる人がいたとして、それの度が過ぎたら、その人は気違い扱いされるでしょう。まあこのような場合は、本人があまりにも個人的な世界に入り込みすぎてしまった為に、世間との折り合いを欠いてしまったと考えることも出来るのですが、本人にとってはいたって正常なつもりでいるのでしょう。ただ周りの人から見たら「発狂」しているんでしょう。

 もっとも本当に発狂しているケースもあるのでしょうから難しいところではあります。もっというと、逆にほとんどの人が狂っていると感じる人がいても全然おかしくないし、その方が霊的には正常だったりもするかも知れません。

 話をもどします。私のように知識優先になった場合、どのような問題が起こるでしょうか?簡単に言えば、価値観の崩壊と再構築が必要になってきます。それは徐々に起こるのが普通なのでしょう、しかし人によりある程度急に起こる可能性もありえます。その過程で、通常の人では理解できないような精神状態に成ることもありえるのです。でもそれは発狂とは違いますね。ある程度精神的に不安定な時期をとおりこさなければ成らないかと思いますが、心配は要りません。なにごとにせよ、心配するのは良くありません。もしこのような時期を自分が迎えていると思ったのなら、「私は気がついた、周りの人たちはまだ眠ったままなのだ」と冷静に考えましょう。あわてず、じっと、生きている喜びを感じていましょう。たぶんその時にはそれが出来るはずです。世間の視線を気にする必要はありませんが、無視するのもどうかと思います。その時は人を避けて、ひとりの世界にこもっていてもいいと思います。別な言い方をするのなら、人生の新たなる祝福されるべき時期に向かって準備を始めているのですから、その邪魔を世間の人からされるのはもったいない、ということなのです。

 さて、もう一つあります。これは価値観の再構築の過程で起こることなのか、それともずっと続くことなのか良くわからないのですが、生きている喜びを感じる一方で、生きていくためのいろいろな事が面倒に感じてくるのです。うまく説明出来ないのですが、つらいことなどを含めてなにごとに対してもその喜びを理解できるのですが、その一方で生きていることにうんざりしてくるのです。「生きている喜びを感じたから、もう生きていなくても良いよ」というのでしょうか?死ぬことが怖いわけではなく、むしろ簡単に死を選んでしまいそうな自分が怖いといった方が良いのかも知れません。

 意識の望む世界と現実として感じている世界とのギャップが大きすぎるのでしょうね。世の中、馬鹿ばっかだけど、その馬鹿の中にも神をみなければならないし(非難すべき理由がないことを理解しているという意味です。)。レベルの低い意識とはあまり関わりたくない、かといって、それはその人たちにとっては必要なことだし、彼らは彼らの役割をはたしている、だけど私には干渉しないで欲しい。といった気持ちもあったりします。

 もう少し別の切り口で説明すると、あるがままでいることに喜びを感じていると、無理して現状を変えよう、変えなければならないという気持ちも薄れてきてしまうのです。といって、現状維持でこの現実にととまっているということは、後退を意味するわけでそれも面白くない。かといって、現実とよばれているドラマに没頭する気にもなれない。

 これらの考えはおそらくそれほど珍しいことではないかと思います。上のチャクラが先行しすぎるとこのような状態に成るのだと思うのです。変な例えですが、「レストランのメニューを見てどれを食べても味が予想できるからもうどれも積極的には食べたいとは思わないよ。」という感じなのです。一方でハートのチャクラが優先の場合はどうなんでしょう。多分ですが「どのメニューも感動という味付けで、ベリーデリシャス、全部食べつくそう。」という感じなのでしょうね。これはこれで良いとおもいます。

 この件で最後に付けたしをしておくと、「神との対話」のなかで、人生に嫌気を感じているというのは良い兆候だと書かれている部分があります。この人生の後でそう何回もこちらに戻ってはこないという意味なのです。幼稚園の卒業ももうじきだということなんです。

 さてさて話を戻します。上のチャクラが開き易くなったといっても、やはりハートのチャクラは大事なのです。やはりバランスの取れた状態でいることのほうが望ましいのです。さて、上のチャクラが開いてきて、ハートのチャクラがおくれている場合どうしたら良いのでしょうか?まあ、ここが今日の一番大事な事かも知れません。今まで書いてきたような人の場合、ハートのチャクラをより開かせる為には二つの方法が考えられます。それを簡単に言うと、下から行く方法と上から行く方法なのです。もちろん両方からでも良いのですが。

 まず下からの方法なのですが、生きることの中でやさしさ(愛)を体験し、実践していくことでそれが出来ます。またはヒーリングなどで自分の丹田(肛門の上)の生命エネルギーをあげていくことで可能になります。なぜ下からなのかというと、生命エネルギーは下から上がっていくからなのです。そして現実世界でのエネルギーも下にあるのです。ただこの場合、単にエネルギーだけをむやみにあげるというのでは危険かも知れません。行動を通してやさしさを表現する、体験するということが基本であると思われます。(下だからといって劣っていると言うわけではありません。単に身体の部分の下ということです。)

 さて、上からの方法なのですが、これは知識をベースにアプローチすることになります。もともと上のチャクラが開いている人はその様な理解が出来るということですから、「愛」をより深く理解することで、ハートのチャクラの活性化につなげることが出来ます。まず理屈でもいいから「愛」を理解し、それを感じるのです。知ることにより、全てのものが愛で出来ていると言うことを理解すれば、自然にハートのチャクラが活性化するのです。というか知る過程で胸がぐっと来るでしょ、それはハートのチャクラの活性化に役立つのです。だから何かを知るのでも「愛」を知ることに重きを置いた方が良いのです。

 またまた話を発狂の部分に戻します。胸のブロック(第116話)で書きましたが、私自身いまだに胸のブロックを完全にははずしたわけではありません。まだ残っています。なぜこのことをここに書くのかというと、今の状態でむやみに胸のブロックを完全にはずしてしまうと、発狂するかも知れないような苦しみを感じてしまうと思うからなのです。というか昨日もちょっと試したら、やばかったのです。頭ではわかっていても、この世の中には悲しいことがいっぱいありすぎますから、それをそのままいっきに感じたらたまったものではありません。

 修行中に発狂したというケースがあるとしたら、頭部のチャクラを開けるつもりで、ハートのチャクラを全開にしてしまったの可能性が高いのではないかと私は思っているのです。まあどちらにせよ、問題は無理してチャクラを開けようとした為におこることなので、普通の人が心配する必要はないと思われます。基本は普段の生活の中にあり、その人に必要なことの多くはその人も気が付かずにやっていると思われます。(気が付かないから、やっているんですけどね)

 私もいつになったらハートのチャクラを全開に出来るかわかりませんが、あせらずにやります。「神との対話」にもありますが、チャクラの開発などは、見えない筋肉を鍛えるようなものですから、こつこつと少しずつやることが大事なのだと思います。けっしてあせる必要はないのです。大丈夫です。もう前進を始めているのですから。

 もうひとつ、ネックとなる首のチャクラなのですが、これは自由に関係しています。あるがままの自分を認め、自分自身を自由にすることで開いていくと思うのですが、まだ私も途中なんです。^^

(2004/04/20)


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