私達の本質 (第133話)

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 私達の本質が意識だということ、それをもとに在るということを考えて見ました。もうちょっとひらたく言うと、自分とはどのような存在なのか?ということなのです。

 今回は、ちょっと哲学的な印象を受けるかも知れませんが、今回の話は哲学から始まったのではなく、意識としての存在である私達が、神から分かれた後どのような推移で自己を確立し、そしてそれに嵌っていったかを考えていたら、すでにある哲学とかなり近い答えになってしまったということなんです。

 まず最初にあったと考えられるのは、ある種のエネルギーであったと考えましょう。このエネルギーはほんの小さなものでも良いのです。というか、もともと何も無い状態でそこにほんの僅かでもエネルギーがあるのなら、それはそれを細分化することで無限のエネルギーになるのです。もともと比較対象するものがないのですから、量というものは関係ないのです。なにしろそれが全てですから。唯一であるということは、その中では絶対的な無限性があるということを意味するのです。(わからなかったら、気にしないでね。)

 まあ、量のことはおいといて、そこには意思をもったエネルギーだけがあったと考えてください。なぜ意思をもったというのかというと、エネルギー自体がその運動により。あるいはそこに含まれたデータパターンにより、個別?の行動ベクトルをもっているということを意味するのです。ここも、まあちょっとわかりにくいかも知れませんが、言い方をかえると全てのエネルギーはその流れで意思を内在しているのです。まあ、エネルギーで出来ている全ての物に意思があると考えてください。

 さて、そこでの意思というものは、それぞれはおそろしく単純なものです。あくまでも例えなのですが、乾電池で流れる電気エネルギーは、電荷の高いものから低いものに流れるという程度のものでしかありません。ただそれだけのようなものを意思と表現することには抵抗を感じる人も多いかも知れませんが、もっと複雑なものでも基本的にはその様な原理で構成されているのです。コンピュータもエネルギーの流れをコントロールすることで成り立っているわけで、エネルギーの原理からいえばずいぶんと単純なことの組み合わせなのです。

 話を進めます。そこに在ったエネルギーがもつ、それぞれのごく単純な意思が複雑に関係しあって、意思がアイデンティティをもったのです。この場合のアイデンティティとは、自分自身は一体何なのか?自分というはどのような存在なのか?ということを考える(感じる)能力と考えてください。言い方を変えると、多くの意思が関係しあって意識が発生したということです。それが私達の本質である意識のスタートなのです。

 もちろん最初の意識は神だということが出来ます。最初の意識はただそれだけだと自分自身がなんであるのかという疑問に答えることが出来ません。だから自分自身ではないもの、別の意識を自らをコピーしてつくりあげ、それを観察することにしたのです。意識というものは、何々を意識するというような言い方をするように、何かに関心をもつ、フォーカスすることでそれが存在できるのです。だから自分自身を知るために自分の一部を観察対象として創ったのです。それが私達の本質なのです。

 さて、純粋な意識としての私達の出来たばかりの頃を想像してみてください。もちろんまだ身体を持っているわけではありません。なかなか難しいと思います。何も無い状態でどうして自分を把握することが出来るでしょうか?その時の感じは想像することは難しいのですが、当然の結果として出てくる結論は予想できます。自分自身が何ものかを考えることで自分自身が始めて存在しえたのですから、より深く自分自身を探すことで自分の存在を確認することがそれらの意識の存在目的になるのです。まあ、そうしないといられないのいうことなのです。

 私達は、その生い立ちの境遇(環境)からして、自分自身が何もので在るのかを探求しなければならないという宿命を持っている。ということもまったく不可能なことではないのです。その段階になると、より自分自身を知りたいという欲求が発生してきます。それは意志に成るのです。順番に並べるとこうなります。「意思」、「意識」、「意志」ということになり、私達が自分とはなにかと考えている限り私達のベースは「意識」になります。

 さて、ちょっと余談気味なのですが「意志」についてふれます。意志は意識から発生していますが、意識本体ではありません。エネルギーであるというレベルでは意識と同じなのですが、そこには目的はあってもアイデンティティは存在しないのです。俗にいう「念」というものはこの種類のものです。「生霊」というような現象も意志だけが意識から遊離してしまったものだと考えられます。意識からの派生物としては「想い」というものも存在します。もちろん誰かを慕うというようなものもあれば、「怒り」や「妬み」などあまり良くない派生ぶつもあります。

 ここで大事なことは、意識から派生したもの、「意志」であったり「想い」、「怒り」などなどは意識としての存在である私達を考えたとき、あくまでもそれにくっついているおまけであり、私達の本質ではないということに成るのです。たとえば、誰かに深い恨みを持っていたとして、その人が、「貴方の本質は恨みですね。」とか言われたらいやでしょ。そんなことはないのです。本質はもっとクリーンな意識なのです。ただいろいろとお荷物をしょっているだけなんです。私達の本質をたどっていけば、限りなくクリーンな意識なんです。このクリーンさは言葉では説明できないのですが、とにかくクリーンな存在なのです。このことを神といっても、間違いではないくらいクリーンなのです。

 またまた余談気味なのですが、もう少し付け加えます。私達の本質は神のようにクリーンな意識です。そしてそれは愛に満ちているんです。「神との対話」の中で、「全ての人の中に神をみなさい。」というようなことが書いてありました。人を見るとき、その内面の美しいクリーンな意識をその人の本質だと考えてみることが大事なんでしょう。もし誰かが、およそ神らしくない行動を取っていたとしても、それはその人がしょっているお荷物がその人をそうさせているだけであって、そのお荷物がその人の本質ではないように、その人もたまたま今その様な体験をしているのだということなんです。(私自身もけっこうお荷物をしょっているようです。)

 さて話をもどしましょう。あらためて自分自身とは何なんだと考えてみてください。世間の一般的な人は自分の身体を自分自身だと思っているようです。もちろんすすんだ理解とはいえないですよね。ここを読んでいる人ならその様なレベルの低い考え方はしていないとはおもいます。それ以外でも、自分自身の地位や職業、あるいは持っている財産に自分自身の存在価値を見出しているケースもあります。たとえば高級車に乗っていると、何となく自分が偉くなった、あるいは上流社会の一員に成ったというような気がしたりします。もちろんブランド物を持っていても似たような感覚がおこると思います。もちろんそれらは単なる錯覚ですよね。それは自分自身がどのような存在なのか理解できていないからなのです。私達が自分自身を考えるとき、実にいろいろなものをベースに考えるのですが、それらはほとんど錯覚なんです。

 さてさて、いろいろな錯覚を取り除いて自分自身がなんであるのか考えるのは結構難しいことなのです。そのことを生まれたばかりの意識に当てはめて考えてみてください。特に身体を持っているわけではなく、あるのはたまに自分以外のものからの何らかの働きかけと、それに対する自分自身の反応だけなのです。結局のところ、何かに対しての自分自身の反応を観察して、間接的に自分が何もので在るのかを知るしかなかったんでしょう。そうゆう意味では人を自分自身を知る上での鏡だと説明されるのも納得のいくことなんです。

 話を進めます。自分が何なのかわかりにくい中で、もっとも簡単な方法が何かになることなんです。もっと別な言い方をすると、たとえば自分の身体をつくりその中に入ることなのです。まず純粋なエネルギーの中で空間が作られ、そこに身体という自己認識の道具をつくり、それになる。そうすることで、自分自身というアイデンティティがより強く作り出せるのです。もし自分自身というアイデンティティが出来ていなかったらどうなるんでしょう。それを簡単に言ってしまえば、自分自身と他人との区別がつかないということなんです。そこには自分自身の名前もありません。別に名前など要らないんです、それぞれが自分自身をどのように認識しているのかという違いがあるだけで、だれが何々さんとか言うことはもともと不可能なのです。

 またまた余談ですが、上に書いたような世界では自分自身は自分自身が認識しているものなのです。たとえぱ、Aという意識とBという意識があったとします。AはBも自分だと考えていて、BはAは自分ではないと考えていたとします。なにしろ身体のない世界ですから、どちらが正しいのかというようなことに判定を下すのは不可能なのです。結局はそれぞれが認識しているようにそれぞれの世界が出来る(みえる)のです。その結果、AにとってはAもBも自分であるのに、BにとってはAは他人であり、自分はBだけだということに成るのです。

 このことをもう少し突っ込んで考えて見ましょう。もし誰かが私は「すべてのもの(神)」だと認識した場合、他の人がどのように認識していようがそれに関係なくその人は「全てのもの」になるのです。世界には私しかいなかった(唯我独尊)と悟り得ることも可能なのです。これには自分の全てを知るということがついてくるはずなのです。そして、自分の全てを知るということは世界の全てを知るということになるんでしょう。

 話が最初に考えていたものよりずいぶんと膨らんでしまいました。書いていて自分でも勉強になったなあと感じてたりします。(笑) いったいこれって本当に私が考えているんでしょうか?まあそれも自分だと認識していれば自分の考えなんでしょう。同じ理屈ですね。

 さてさて、今までの話の延長でいくと、もう一つみえてくるものがあります。私達の旅は、まず自分自身というものを知る(自己のアイデンティティをもつ)ために身体に入りました。そしてその体験で自分と言うものを強く意識するようになります。もちろん最初は自分というものが目に見える身体であったりするのですが、自己という概念を作り出すためには必要なことなんです。そして徐々に自分というものがもっと別なものである、もっと大きなものであるということに気づき、自己というものの定義を拡大していくのです。そしてある程度以上に拡大したとき、世界の全てがまた自分になるのです。その状態はいろいろな言い方で説明できるのでしょう。たとえば全ては、一つであった、自分が神の一部であったことを理解する、神の元に帰る、ひとつのものを体験する、ふるさとに帰るという言葉が私個人としては胸にきます。

 最初の方で、哲学ということばを出したのですが、意識の世界を考えていくとそのモデルはサルトルなどの「実存主義」の考え方に非常に近いことが、単に概念としてではなく現実としておこっていると書くつもりでいたのです。話がちょっとばかりずれましたが、それなりのまとまりはあるようなのでここら辺でやめます。意識がどのように存在しているのかというようなことをもうすこしつっっこんで考えるのなら、サルトルなども参考になると言うことだけにしておきましょう。

 最後に誤解のないように断っておきます。ここでいう身体というのは、この3次元世界(地球)での物だけを意味しているのではありません。ラムサ曰く、私達は7つの身体を持っているのです。たとえば霊的な世界にいる私達の分身(ハイヤーセルフ)や神々なども身体をもった存在です。身体を持たなくても自己意識を保持できるようになったとき、私達の生まれ故郷の「ひとつであるもの」に帰れるのです。ここは誤解を招きやすい部分なのであえて追加しておきます。

(2004/05/31)


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