望月流意識学 (第134話)

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 ちょっと気分を軽めに持っていくために、タイトルを望月流意識学としました。もともと真実は人それぞれにあるわけで、何がどうだと言ったところで、「私はこう思うよ」という範囲を出るものではありません。最終的な真実はそれぞれの人の中にある訳で、このページのことだけではなく、世の中の全ての文章に当てはまることなのです。

   その点で言うと、○○学とかいうのも結局は「私はこう思うよ。」の範囲を超えるものではないのです。というようなわけで、望月流意識学と勝手に名前をつけましたが、実際は前回の続きです。(笑)

 前話を書いて、そこそこの量になったのでいったん終わりにしたのですが、どうもおさまりません。まだ半分しか書いてないんです。というわけで、前回書く予定だった実存主義哲学を参考にした意識に対する話をしようと思います。と、書いたのは良いけれど、ここで哲学の用語を引っ張り出してきても、私が面倒なだけでなく、読む人の理解も面倒になると思うので、やはりいつも通りのスタンスでいきましょう。

 ここでいう実存主義というのは主にサルトルのことなのですが、もちろんサルトルはスピリチュアルなアプローチで実存というものを考えたわけではありません。ただ全ての物がエネルギーであり、そこに意思があるという前提を考えると、その理論は単なる考え方ということだけではなく、実際に起こっていることだと考えざるを得ないのです。

 私達の本質が意識のようなものであることから、意識ということを考えましょう。今までもこのことには少し触れてはいるのですが、意識とは、○○を意識するというように、動詞で使われることがあります。名詞で使う場合は、気絶して意識が無くなった、などというような使い方をします。私達の本質の意識というのは、どちらかというと動詞で使う意味の方が正しいのです。

 少々くどいですが、何度も書きます。ただエネルギーしかない状態で、最初に自分自身はどのような存在かと考え始めたのは、第1意識とよばれる、いわゆる神なのです。自分とはどのような存在かと考えるということは、とりもなおさず、自分自身の観察を始めたということなのです。それは神は第1意識であると同時に第1観察者であるということなのです。

 それぞれが単純ではあるものの非常に複雑に関係しあった意思をもったエネルギーのなかで、何かを観察するということで、自己(意識)を持つことが出来たのです。もともとは単なる意思しか持たないエネルギーが、意識を持つということは、何かを観察していなければなりません。観察していることではじめて自己のアイデンティティが維持できるのです。

 上手く説明しにくいので、いくつかの例をあげましょう。もし私達が何も観察しなくなったときどうなるのでしょうか? 想像してみてください。まず自分の外の物を一切無視します。もちろん無視というのは観察するのをやめるという意味です。そして自分自身の内部の思考や感情も無視します。といっても普通だと無視したくても出来ないのですが、例えの話ですから、それらがなにも感じられないとします。すると私達はそこにいるのかどうかも判らなくなります。というか私達の意識もなくなるのです。別な言い方をすると、自分というものが認識できなくなるのです。

 それはどういうことを意味するでしょうか、もし私達が観察することをやめたら、自分というものがわからなくなるのです。それは観察者でいなければ、意識として存在できないということを意味するのです。神が誕生した時もやはりそれが当てはまるのです。というか、本当の意味で観察者でなければ存在できなかったのは、第1観察者である神だったのです。なぜかというとまだ第2観察者が出来ていませんから。

 あらためて書きますね。観察者とは見る人なんです。自分以外に何もない初期において神は一体何を観察していたのでしょうか?もちろん自分以外にはないですよね。だってそれしかないのだから。

 さて、ちょっと話をかえます。存在ということについてです。特に物として存在するものについて説明が必要になります。そしてその部分が読者がもっとも疑問に思える部分だとおもうのですが。

 直感的な人のために、直感的な答えを先に書いてしまいましょう。世の中の全ての物は、神の一部であると同時に神がみている夢なのです。神は自分自身を観察する為に夢を見ているのです。だってそれ以外に神が観察できるものがあるでしょうか?もし自分が何もない場所で、何かを見ていないと意識として存在できないのですから、他に見るものはないですよね。この世に存在しているものとは、神が夢の中でみているものなのです。もちろん夢といってもそれは神の夢であり、私達の見る夢より格段にリアリティがあり、データの保持もしっかりなされているのです。

 さてあまり直感的でない人のために、もう一つの説明もしておきましょう。アインシュタインが証明したように、全ての物はエネルギーで出来ています。地球上の物質も元は全てエネルギーだったわけです。たとえば貴方の家の机でも何でも良いのですが、全てエネルギーが変形して物質になっているのです。そしてその机がなぜ机のままで存在しているのかというと、その机を構成している木材なり金属なりがその形を保持しているからなのです。

 私達は通常机をエネルギーとして認識はしていません。しかし形が変ったとしてもやはりエネルギーなのです。そしてその机を構成している物質はエネルギーとして現状の形を保持するという意思(ベクトル)をもってそこに存在しているのです。私達の時間を遡って考えて見ましょう。私達の宇宙の最初はビックバンとよばれるものです。それは私達から見るとものすごく膨大なエネルギーの爆発であり、その時にはまだ分子などという物質も無く、陽子、中性子、電子などが出来、それがそれぞれ集まって、それぞれの分子が出来たわけです。そのことから考えるとどう考えても、物質が先に在ったのではなく、エネルギーが最初にあったということに成ります。

 さて再び自分が最初の意識を持ったエネルギーだと想像してみてください。貴方は意識の中で爆発を起こしました。そしてその爆発の後それらのエネルギーが相互干渉して物質になる物理法則のようなものを決めています。ルール(物理法則)は決めてあるのですから、あとはその爆発がどのように展開していくのか、そしてその中でどのようなドラマが展開されていくのか、観察していればいいんです。

 爆発したエネルギーはもちろん神の一部なのです。そしてその法則を決めたのも神なのです。そしてその宇宙がどんなに大きくなろうとも、神の意識の外側には出れないのです。だって外側などはないのですから。このようにして出来た我々の今いる宇宙などは、神の夢だといっても何も不思議ではないと思います。

 余談ですが、もし今までの話の中で、途方もない大きさについてや、途方も無く大きいエネルギーが疑問の種になるようでしたら、その人は相対性の罠にはまっているのです。たとえば私達個人が持っている意識エネルギーであっても、無限に細分化していくのなら、細分化した方からみると無限にみえるのです。量や大きさなどは意味は無いのです。

 まあ理解に個人差はあると思いますが、今の世界は神の夢のようなものだということは、信じれなくても話の意味は理解できたと思います。そこでもう少し大事な補足が必要なのです。先ほど書いたように神は観察者でもあります。それは自分の夢を観察することで自分自身がどのような存在であるのかを認識する意識だと言うことなのです。そして我々の世界が存在し続けているのも、神が夢を見続けているからだということが出来るのです。これをもうちょっと別な言い方をすると、神が観察者として観察しているので全てのものが存在できると言うことなのです。さらに別な言い方でいうと、神が観察することで物質のエネルギーが自己を保持するという意思をもっていられるのです。ラムサはこれを神の愛だと表現しています。これは観察者効果というもので、観察者が被観察者の存在に大きな影響を与えているのです。

 さて、話を進めます。ここでサルトルに戻りましょう。サルトルは存在するものを物質と非物質でわけて考えています。これを簡単にいえば、目に見える物質と目に見えない意識とに別けているのです。ただしここでスピリチュアルな観点で訂正が必要なのですが、たとえば目に見えないものであっても、本当は物質だというものもたくさんあります。たとえば幽霊の身体(幽体)であったり通常のエネルギー、そして感情や思考であっても、エネルギーの世界からみると立派な物質として認識できるものなのです。その論理でいうと、全てのものが物質ではないのかと思う人もいると思うのですが、実は見えないものがあるのです。それが意識という観察者なのです。この見えるものと見えない部分の違いはもちろん私とサルトルの視点の違いなんです。(とはいっても、その論理的な組み立ては参考になるのです)

 サルトルは意識や心などを「対自存在」という言葉で、そして物質を「即自存在」といっています。細かく書いても混乱するだけだと思うので、私流の解釈で説明します。「対自存在」というのは自分自身を観察できる存在という意味です。それはとりもなおさず意識のことです。そして「即自存在」というものは自分自身を観察できないものという意味で、エネルギー的に言い換えると(形を保持するという)意思をもっていても、自分とは何か考えない(意識を持っていない)エネルギー物質だということに成ります。

 要するに前話で書いた、アイデンティティをもったエネルギー意識と単なる意思だけのエネルギーの違いのことをいっているのです。それはとりもなおさず、私達の本質と他の物質との違いであるわけなのです。

 ものであるところの「即自存在」というのは、すでに説明した物質のことです。その意思は「ただ○○である。」ということなのでしょう。重要なのはそこには私という言葉はつかないのです。意識をもった「対自存在」が自分のことを考えたとき、「私は○○である。」と成るのです。実はこの「私は」がつくかどうかがとても大事なのです。簡単に言うと「私は」という言葉は宇宙(人生)を創造するときのキーワードなのですから。というか、なぜそれがキーワードになるのかというと、そこに意識が存在しているのかどうかの違いだと理解していただきたいものです。

 では「対自存在」である私達の本質について、もう少し突っ込んでみましょう。私達の本質は意識であると同時に観察者なのです。本当は意識という言葉と観察者という言葉は同意語なのです。このことは生きるということを理解するうえですごく重要なことなのです。

 私達の本質が観察者であるということは、私達はいつも観察していなければ存在できないということを意味しているのです。もちろん私達が死んだ後も、意識は観察を続けているんですよ。観察者が観察を止めた時は、無になるときなのです。といっても時間のない世界での話しなので、すでに観察してしまったものがなくなるというわけではありません。ありえないことですが、もし観察を止めたとしたら過去も未来も全て消えてしまうのです。というかその人にとっては全てのものが消えてしまうのですが、消えてしまったので消えたことにも気がつかない、というようなことになってしまうのでしょう。

 ちょっと話がそれました。私達の本質が観察者として何を観察しているのでしょうか?世の中を観察していると思いますか?それは違うのです。厳密にいうと私達の心(頭脳、思考)に映った世界を観察しているのです。それは言い方を変えると、私達自身を観察しているということになるのです。

 さてもうお解かりかと思います。私達は「自分とはどういう存在なのか?」を、いつも観察している存在なのです。それが私達の本質がやっていることなのです。そしてそれは私達の本質に意志や経験、エゴなどをあわせたもっと広い意味での私達の根本的な目標に成るのです。これは「神との対話」流にいえば、「魂はいつも私達が何もので在るのかに関心を持っている」と言う事なのです。

 私達が生きるということは、宇宙(神)に対していつも「私はこういう人間です。」と表明し続けるということなのです。

 自分の周りに起こる全ての出来事は、自分自身がどのような人間(存在)であるのかを表明する為の機会として起こっているのです。それ以外の何物でもないのです。

 まだ関連した話は続くのですが、長くなってきたし、疲れたので、次にします。読んでくださってありがとうございます。

(2004/06/04)


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