望月流意識学(続) (第135話)

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 前回の続きなのですが、「魂が私達の本質ではないのか?」という質問をいただきました。良い質問をしていただいたと思います。その部分の説明をしながら意識学を続けたいと思います。

 繰り返しになりますが、私とは何かと考えることが出来るということが、自己のアイデンティティをもっているということで、それが単なるエネルギーと意識をもったエネルギーとの違いになります。さて「魂」についてなのですが、この言葉も人により異なった使い方をしている言葉です。ラムサのように細分化して言うと、精霊(内なる神)の記憶装置として魂は存在しています。そして「神との対話」の中では、その両方を含めた自分の見えない部分を魂と呼んでいるようです。

 狭い意味で魂を考えたとき、それは私達の器官のひとつだと考えることが出来ます。私達は自分で思っているよりもずっと大きな身体を持っています。それはこの地球の3次元での身体だけではなく、もっと周波数帯の高い世界にも身体を持っているのです。それらの見えない部分にある体の中でも重要な部分に魂という器官が存在していると考えてください。

 じゃあ魂は単なる器官に過ぎないのか?と思う人もいるかもしれません。いえいえそんなことはありません。私達の身体の構造自体もこの3次元の意識の方からでは正確には把握出来ないのですが、私達が自分の中を観察しているとき、明らかに表面意識の自分とは異なった意識で出来事に反応しているものが存在しています。その反応は主に魂から来ているものなのです。まあ簡単に言ってしまえば、魂も意識を持っているということに成ります。

 私達の本質といっているのは、一般的には意識として認識しているのですが、実際は観察(意識)することの主体である、観察者なのです。そして観察者というものは、物ではなく、そして単なるエネルギーでもないのです。うまく表現できないのですが、働きであり、動きであり、概念であると言った方があっているのかも知れません。いえるのは、私たちの世界ではどう見ても物には見えない「出来事」でさえ物として認識できる世界でもなお、物としては認識できないものなのです。

 なかなか上手く説明できないし、わかってもらえるかあまり自信はないのですが、神の説明の話で、いろいろな側面を説明しました。その中でも法則としての神の側面のように、物ではないものが観察者なのです。だから観察者とは神だと言っても間違いではないし、私達が観察しているときの主体である観察者もそれと同質なものだと言うことが出来ます。(おそらく突き詰めていくと同じものなんでしょう。)

 さて魂の話に戻します。自信があるわけではないのですが、このように考えることが出来ます。私達の本質である観察者が、私達の3次元の身体を通して観察した結果が私達の表面意識で、同じ観察者が私達の魂を通して観察した結果が魂の反応であると考えられるのです。

 ちょっとたとえ話で補足をします。たとえば目で見ているものと、耳で聞いているものは同じものであっても違った認識をすることがあります。その場合、視力という観察の道具と、聴力という観察の道具が同時に使われていて、それぞれの情報が必ずしも一致するというわけではないのです。それと同じように、私達の身体や表面の意識(価値観など)をとおして観察したものと、魂を通して観察したものは同じ観察結果にはならないのです。そして、そのどちらも同じ観察者であると考えることが出来るのです。(違和感を感じるかも知れませんが、私達の身体もそして魂も、私達の本質から見ると観察の為の器官であるということも出来ちゃうんです。)

 ここで別な言葉を使いましょう。「観察者」というのは別の言い方で言えば「生命(いのち)」ということになるのです。この言葉は同じものを別な側面から把握したものだと考えもらって良いと思います。もし観察者という言葉に抵抗感を感じるのなら、「生命(いのち)」という言葉に置き換えてたほうが理解し易いかも知れません。

 ついでに書いておきますね。最終的には「生命(いのち)」はひとつということは、最終的には観察者もひとつということを意味しているのです。もちろんそれは神なんですよね。

 さて観察者の分裂について書くことにしましょう。先ほどもふれたのですが、観察者が何を使って観察をするか、あるいはどこから見るのかによってその見え方は異なってきます。もともと一つの観察者であったものも、その立場を変えることでいくつもの観察者に分裂することが出来ます。それは異なったものを見ることで、それぞれが別々に自分とは何かを考えられること、すなわちアイデンティティをもつことになるということです。

 書いていての勘なのですが、どうも分裂するのはアイデンティティであって、観察者自体ではないような気がしています。まあなんでもそうなんですが、少し込み入った問題になると、どこから見たのかという視点の違いなどで、矛盾しているようなことも本当はそうでなかったりするし、微妙なニュアンスの違いが時には大きな見方の違いにつながったりするのでまいってしまいます。あまりこだわるとそこで思考が空回りするだけなのでここは良くわからないけれど、もともと一つの観察者(神)がいくつものアイデンティティにわかれていると言うことで良しにします。

 あらためて考えてみると、それぞれが分裂しているように感じている個々のアイデンティティも、観察者のレベルではそれほど分裂したものではないんでしょう。もともと分裂しているという意識も幻想であると「神との対話」などにも書いてあるのですから。アイデンティティというものが、そういうものだと考えるしかないかもしれません。結局は、どこまでが自分なのかというそれぞれの見方によってしまうという、前回の話につながってしまうわけです。

 余談ですが、このページの意識について書こうと思ったとき、自分自身の観察者としての目に見えないものについて書こうと思っていたのですが、あらためて読み直してみると、神という言葉がかなり頻繁に出てきています。意識について考えるということは、神について考えることになってしまうんでしょう。まあ私達がひとつのものであるのなら、それは当然の結果なんでしょうね。

 さてさて、観察者の力について話をうつしましょう。ラムサの話の中でも最初の段階でエネルギーが見られることで固まり物体になるということが説明されています。それは何を言いたいのかというと、最終的には全てのものが観察されることで物体として存在しているということなのです。これは言い方を変えると観察するものがそれを創り続けているということなのです。それは「観察者=創造者」という意味なのです。私達に創造力があるというのは、私達の本質が観察者であるということなのです。

 この観察者の持つ創造力というものについて、説明が必要でしょうか? ちょっとどのように説明したら良いのかわからないです。上に書いたことを念頭において、ラムサの本なり、ビデオをみるとより感覚的に理解し易いと思います。

 観察されてることによって存在するものというものは、ものとして存在する全ての物にあてはまります。たとえば私達の思考もそして感情もエネルギーの世界ではものですから、意識(観察者)によって意識されて始めてそこに存在するのです。これは何かの出来事に対する私達の反応なども、その観察者としての見方により変ってくると言うことなのです。それを私達の現実に当てはめると、何事も受け取り方(考え方)しだいで変ってくると言うことなのです。

 この観察者というものに対する説明は、かなり観念的に感じて架空のことのように受け止める人も多いとおもいます。しかしこの観察者というものをある程度理解すると、いろいろな事がつながってくるのです。まあ世の中の一つの側面として考えてくれるだけでも良いと思います。

 次回には、観察者としての存在と自由についてもう少し書こうと思っています。今日はここまでにします。

(2004/06/06)


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