望月流意識学(続々) (第136話)

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 前回の終わりで、意識と自由について説明すると書きましたが、予定を変更して、前回の続きを書きます。

 前回の文章を書いている途中で、意識の本体(観察者)は分離しない、分離するのはアイデンティティだけだと直感したのです。その原稿を書き始めるときには、意識も分離すると思っていたのです。というのは私達の意識の構造を考えたとき、どこかのレベルでは分離が行われていないと私達のアイデンティティを把握、説明出来ないと思っていたからなのです。ですから、その時の直感だけだといくつか疑問が残ってしまうと思っていたのです。

 そこであらためて、分離するのがアイデンティティだけだとしたらどのようになるのか、考え直してみました。そしたらなんと、今まで疑問に思っていたことなども、その考え方ですらすらと説明できてしまうのです。そんな訳で、今回はアイデンティティの分離と融合という観点で説明しようと思います。

 さてまず最初に問題の核心である、「意識の本体(観察者)は分離しないで、アイデンティティだけが分離することがあるだろうか?」という疑問にぶつかるわけです。私の直感は、そうだといっているんです。そこでいろいろ考えていたら、私達の身近に非常にわかり易いサンプルがあることに気がついたのです。そのサンプルをもとに考えると、そのような現象がおこっていても全く不思議ではないし、私達の表面の意識でも把握し易いと思ったのです。まあ、もったいぶらないで、そのサンプルについて説明することにしましょう。

 今、私はコンピュータでこの原稿を作っています。その私が使っているコンピュータは、私の打ち込みで原稿を作る作業をしているのですが、同時に音楽も流しています。おまけにさっきまでは、ウインドウズの自動更新でなにやら処理をしていました。それはどのように見えるでしょうか?一つのコンピュータがいくつもの仕事を同時に処理をしているように見えるのです。

 コンピュータのことを詳しくない人のためにちょっと細かく説明しましょう。コンピュータは中心部を簡単に言えば、高性能の電卓みたいなものなのです。そしてそれは通常だと一度には一つのことしか出来ないのです。しかし実際のコンピュータは同時に複数の仕事をしているように見えるわけです。原理はというと、それがごく簡単なことなんです。コンピュータが[A]、[B]、[C]というみっつの仕事を同時にやりたい場合、まず[A]の仕事を少しやります。そしてすぐ[B]の仕事をまた少しやります。そして[C]の仕事をすこしやり、次に[A]に戻るというように、[A]、[B]、[C]、[A]、[B]、[C]、[A]、、、という具合に順番にこなしていくのです。それが非常に高速に行われている為、私達からみると、コンピュータがみっつの仕事を同時にこなしているように見えるのです。言い方をかえると私達からみると、コンピータのなかに三個の処理装置があって、それぞれ全く別な仕事をしているようにも見えるのです。

 さて、上の例では、ひとつの計算装置と三つの作業の関係のことだったのですが、これと同じようなことが、意識とアイデンティティの間でおこっているということが出来るのです。たぶんまだ納得できない人もいると思うので、少々くどいですがもう少し説明を続けます。コンピュータが何かを計算するとき、それは働きであり、コンピュータの動きなのです。それは観察者が何かを観察するということにかなり近い性質のものなのです。そして、コンピュータ上で行われている、それぞれの作業というのは、その作業が独自の条件下で必要な答えを出す(判断する)という、アイデンティティがもっている特性とかなり近いものがあるのです。

 重要だと思われるので、もう少し具体的な例にして見ましょう。とりあえず私の場合として説明してみます。まず、私の本質であるところの意識(観察者)がいます。でも重要なのは、私とはいっても、今ここで原稿を書いている表面意識にアイデンティティを置いている私以外にも、もっと別な私がいるわけです。たとえば過去生での私もそれぞれアイデンティティを持っているわけです。本来時間というものはないのですから、今というこの偉大なる瞬間においては、過去生の私は、その時代の名前をもってそこに存在しているのです。そして当然の事ながら、過去生の自分が存在しているのであれば、未来生の自分もすでに存在しているわけです。そしてもっと重要なのは、私自身のハイヤーセルフ(私の本体)のなかにも私の分身がいるのです。それは言葉の定義にもよりますが、魂の中にも自分というアイデンティティをもった私がいると言うことなのです。

 それほど難しい話ではないと思うのですが、まあ、私といっても、いくつも名前を持っているし、こちらの世界に来ていない部分の私もあり、かなり複雑になっているのです。さて、そこでいろいろな時代の私がいて、それぞれ別々な生活環境で、全然別なことを考えているわけです。彼らはいったい本当に私なんでしょうか?もしかしたら、ただ、その様に思っているだけかもしれない?などという疑問を持ったことあると思います。その疑問の答えが今回の説明なのです。ひとつの本質(観察者)がさながらコンピュータの並行処理のように観察を行っていたら、たとえまったく別々のアイデンティティをもっていても、私ということになるのです。(コンピュータの話はあくまでも、理解する為の例として考えてください)

 「神との対話」のなかでも、私達がその気になれば一時に複数の場所にいることも可能だし、いくつもに分かれることが出来ると書いてあります。それは私達の本質である観察者が同じで、いくつもの人格(アイデンティティ)をもった私が存在していられるということなのです。そして現に私は大勢いるのです。

 さてある意味、問題はここからです。私がおおぜいいるのなら、ここで原稿を書いている私は将来どうなってしまうんだろう?要するに、今ここで生活している「望月 仁」という人格(アイデンティティ)は、死んだ後どうなるんだろう?というような疑問がでてくると思うのです。このような疑問は、少々かたちが変ったとしても多くの人が感じているのではないでしょうか。この疑問の答えになるのが、アイデンティティの融合(合体)なのです。これもわかり易いように、くどめに説明します。

 私というアイデンティティの集団(それぞれの私のこと)の記憶の全ては、驚くほどの明瞭さをもって私達から見えない部分の身体の中に保管されているのです。この明瞭さというのはちょっと言葉では言い表せないくらいなのですが、私の場合は以前書いたように特殊な夢の中で体感したものです。実はこれは記憶というよりも、それぞれのところ(時間)に存在しているものをみるというようなことなんです。だから私達の曖昧な記憶などとは本質的に違うものなんです。これらの明瞭な記憶(データ)をみると、思い出すというよりもその場で体験しなおすといった方が感覚的に当たっているのです。

 なぜ、いきなり私達の記憶のことを話したかというと、実はこれが重要なポイントなのです。私が死んで、私の本体(ハイヤーセルフ)と合流するとします。私は死んだ直後は死後の体験をして、自分自身の葬式をみたり、生きている間に世話になった人やら、家族や親しい知人を訪れたりするでしょう。そして相手がうまい具合に深い眠りに入っているようなら、夢の中で挨拶などするんでしょう。でもいずれ、俗に言う成仏という段階をへて、自分自身の本体の中にもどって行くのです。この本体の中というのは特定の場所のことではありません。意識が本体と合流することを意味しているのです。

 自分の本体に戻るとどうなるでしょうか?まず本体の方から、それがどのように見えるのかというと、自分自身の仲間(分身)が戻ってきたというように感じるわけです。さて、では「望月 仁」というアイデンティティをもった私はどうなるのでしょうか。私は昭和30年に日本で生まれ、それから死ぬまで3次元の地球での体験により、他の私とは別な考え方、価値観を形成してきています。いくら意識の本体が他の私達と同じだとはいっても、違うところがあります。それは今の地球での経験なのです。

 考えてみてください。私と私達と何が違うのでしょう。くどいですが経験が違うんですよね。この経験の違いというのは、実は記憶の違いでもあるのです。さて、私は死んだ後、自分の本体と合流したわけです。すると先ほど説明した過去のデータを見ることが出来るのです。これは思い出すと言っても良いし、再体験するといっても間違いではないのですが、過去生の自分が体験したこと、感じたことを自分自身の体験としてとらえることになるのです。同時に私が体験してきた死ぬまでのデータもこの本体の中にフィードバックされます。すると私の本体にいた私達も私の生きていた間の体験を再体験することが出来るのです。

 さてさて、私と私達はそこで体験を共有するわけです。というかもともとある程度は共有していたんですが、やはり視点が微妙に違いますから、ここではじめて同じ視点にたって同じ体験をするということになるのです。さあ、考えてみてください。意識の本質は同じものです。それはすごく基本的な性格は同じだということでもあるのです。そしてそれぞれが体験を共有したと言うことで、同じ体験をしたということになるのです。だいたい想像できますよね。私は私達と非常ににたアイデンティティをもつことになるのです。そしてその後は同じ新しい情報に対して、同じように反応していくのです。それによりアイデンティティはもともとあったように合流していくのです。やがて完全に融合してしまったとき、私は私達になるのです。

 さて、同じことをあくまでもこちら側の私の視点で考えたらどのように見えるでしょう。死んだ後、過去生や未来生の記憶を思い出して、「ああ、自分とはこういう存在だったんだ。」と再認識して、私達の一員として、こんどは別の時代の私を観察することになるのです。

 結局何を言いたかったのかというと、私達が生まれてくるとき、本体から分離したアイデンティティを持ったのですが、それは死んだ後ごく自然にまた合流するということなんです。それは私というアイデンティティが消えてなくなるという意味ではないということなんです。これが最初に書いた、アイデンティティの融合(合体)なのです。

 ここまでの話をだいたい理解していただいたとします。さて、ここでもう少し視点を広げて見ます。私達の本質である観察者(生命)は、スケールを変えると被観察者でもあるのです。簡単に言ってしまうと、一つの本体に複数の意識(アイデンティティ)という関係をもっと上のほうで考えてください。だいたいのところ、小さい部分でおこっていることは、通常はもっと大きな部分でも起こっているのです。これは宇宙の本質を理解する上での常套手段だと考えてもらっても良いと思います。簡単に言うと、一つの観察者はその上位の観察者の被観察者である。(これは上位のものの一部であると言う解釈でもいいんです。)これをさかのぼっていくと、どうでしょう。最終的にはひとりの観察者にゆきつきますよね。前話でも何回か書いたのですが、ここで再び「神」という言葉が出てくるのです。

 私達のアイデンティティが、本質である観察者をずっとさかのぼっていくと、神とひとつになるということを意味しているのです。これは先ほど説明したアイデンティティの融合(合体)をもっともっと大きな部分の自分としたときに、そうなるのです。そしてそれは「全てがひとつのもの」ということにもなりますよね。まあ結局は前回の話と同じことを言っているんですよね。

 というわけで、次回に続きます。

(2004/06/09)


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