望月流意識学(続々々) (第137話)

魂の部屋に戻る

 こんにちわ、もしかしたら、こんばんわ、かもしれませんが。いつもページを読んでくださってありがとうございます。特に最近の望月流意識学については、特にそう思ってしまいます。だって、関心のない人にはかなりつまらないものだと思うし、もともと直感的に納得しているものを何故、このように面倒に考えるのか疑問におもったり、書いてあることがいまいち納得できないで、変にストレスがたまっている人もいるかもしれません。

 毎度書いていることなのですが、ものごとはその視点が違って見れば異なって見えるし、おまけに見た人のフィルターがかかってしまうものです。いきなり余談なのですが、ものごとを自分勝手なフィルターにかけて自分自身の世界を創造していくことが出来るのも、創造主(神、観察者)の愛のおかげなのです。それは私達の根本的な部分の自由と言うものが神の意志により保障されているということでもあるのです。うーん、余談と言いながら、なぜか本題の確信に近いところに話がいっています。まあ、深く考えずに今回は自由について考えます。

 さて、話を始めのほうに戻します。様々なベクトルをもったエネルギーが複雑に絡み合って、何かの拍子で自分とは誰だ(何だ)と考え始めたのが、全ての最初であるのは理解していただいていると思います。その自分とは何だということを考えることは、そこにアイデンティティが存在するということになり、それを観察することで意識の本体が観察者になったわけです。この部分はここ数回のおさらいのようなものですが、ちょっとニュアンス的に私の考えに変化が出ています。というのは、観察者が観察する対象にアイデンティティが含まれていると考えているのです。

 この部分はこのようにもとらえることが出来ます。私達個人個人は自分とは何ものだと考えることが出来る存在で、アイデンティティをもっているのです。それは単にもっているというよりも、私達自身(特に表面意識)がある種のアイデンティティそのものだということも可能なのです。さてそのアイデンティティは観察者によって観察されているのです。その観察者とは、もうわかりますよね。(同じことを言い方を変えて何度も書いているような気がします。)

 意識すること(観察者)と、アイデンティティは、コインの裏表のようなもので、どちらか片方では成り立たないものなのです。いつも同時に存在しているのです。その為に観察者も単に意識の一部として考えられたり、両方がごっちゃになって考えられたりすることも多いのです。でも、このことは覚えておいて下さい。私達と神との関係は、この両者のような関係なのです。これは、もともと一つのものだということの説明でもあるのです。

 さて、今回の本題に入ります。私達の本質は、観察者という目に見えないものであり、動きなのです。それは「神」でもあるのです。それではあらためて考えてみてください。私達は何かを観察する観察者という側面と、私は何者であるというアイデンティティの表裏一体の二つのもので構成されています。それを別な言葉に代えると、「私達は自分がなりたいものになり、それを観察することにより、自分自身を知る存在である。」と言うことになるのです。

 私達はもともと何ものにも制約されない意識(アイデンティティ)であり、それが今、たまたま人間をやっているということなのです。ですから、もし自分自身の原点に帰るのなら、いつでもなんにでも好きなものに成ることが出来るのです。それは当然のことなのです。もしかしたら、この部分も疑問に思う人もいるかもしれませんが、これは私にとってあまりに当然の結論なので、かえって説明が出来ません。まあ、あえて説明するとしたら、私達は何かになるということを自由に想像できますよね。私達が今身体を持っていなかったら、その想像したものでずっといつづけることが出来るということです。なにか想像して、それになった気分になる。それは意識の世界では現実になるのです。いまそれが出来にくいのは、すでに人間という体の中に入ってしまっている為に、それが簡単には出来ないだけのことなんです。

 さてさて、いよいよ本題です。本来の私達は何にでも成ることが出来ます。それは自分をどんな存在なのか知る為でもあるのです。別な言い方をすると、何かになっていないと自分が何ものであるかわからなくなってしまう、ということなのです。なんであってもなりたいものになれる、というのは究極の自由なのです。それ以上の自由はいくら考えても存在しないくらいの自由なのです。「神との対話」のなかでも、「魂は自由である」、「愛は自由である」というような表現がされています。自由というものが、いかに存在するということにとって重要なことなのか、そして何故それが愛なのか?ここの部分はご自分で感じてください。

 究極の自由を手にしている私達ですが、それでも問題が全く無いと言うわけではありません。先ほどちょっと書いたように、何かになっていないと自分がどのような存在なのかわからなくなってしまうのです。私達が人間の身体を使っている間はこのような心配は全くありません。私なら「望月 仁」というアイデンティティが生きている間は必ず存在しているのです。もっとも、死んだからといってすぐにアイデンティティがなくなるわけではないのです。ただ私達の本質をさかのぼっていくと、いつも何ものかである必要を抱えているのです。(この必要というのは、普通の必要とは意味が違います。もともとアイデンティティ自体が何ものかであることなんですから)

 ここで話はサルトルに戻るのです。サルトルは人間の意識のことを考えて、「呪われた自由」と言っています。まあこの表現には抵抗を感じる人もいるかもしれませんが、他にこの言葉のような意味の言葉が見つかりません。自由というものはやはり祝福されるものであり、「祝福されるべき、呪われた自由」と言い直したいところです。意味はたえず自分自身を確認していなければならない存在である、それは呪われたように宿命的なものである。というような意味なのです。

 まあとにかく、実存主義の中に存在の核心にせまったものが在ったということは、書いておきます。そしてその関係で、もうひとつ書いておきます。実存主義の中で、私達を「対自存在」と考えていることは前に書きましたが、観察者が自分を観察したとき、その観察を行っているものは、その時に考えている自分ではないものだという、パラドックスになってしまいます。もう少しわかりやすく書くと、「自分とは何だと考えている私の本質は何だ?と、考えている私の本質は?と、考えている私の本質は?、、、」というようになってしまうのです。でもこれは意識の本質はものではなく、働きだと理解することで片付きます。(ただ、この論理は無を考えるときに意味がある様に思うのですが、ここではおいときます。)

 あらためて考えてください。私達の本質である観察者とアイデンティティは理解できたでしょうか?それは神の存在の原点であり、魂の欲求の原点なのです。特に魂(精霊)は、私達がどのような存在で在るのかということに関心を持っています。それは魂の世界から、私達の人生を評価するときの基準にもなっているのです。

 あらためて書くと、魂(精霊)は自分がどのような存在で在るのかをずっと確認し続けているのです。それは何度も何度も、私達が何回も人生をやり直すよりも、ずっと昔から自分とはどのような存在であるのかを確認し続けているのです。魂は「呪われた自由」により、いつも自分自身を再創造し続ける宿命にあるのです。そして、その繰り返しの中で、今度はもっとうまくやろう、もっとこうしたい、という魂の欲求を持つようになるのです。

 魂の欲求とは、通常の場合は自らの成長なのです。それは、もっと大きな自分になること、より神に近づくことを望むということになります。ここに私達の成長の喜びというものが発生してくるのです。

 私達のこの現実での生活すると言うことは、私達が自分はどのような人間で在るのか、自分の魂にたいして、そして宇宙に対して、神に対して思考や行動を通して表明し続けるということなのです。まず「あるがまま」の自分を表明して、そしてより大きな自分に挑戦する。それが私達の生きる目的なのです。もちろん、どのような自分でいてもそれは個人個人の自由なんです。でも、死後自分の人生を振り返ったときに自分で納得できるような人生である様に努力したいものです。

望月流意識学、とりあえず完。

(2004/06/14)


魂の部屋に戻る