「呪われた自由」(補足) (第138話)

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 久しぶりにサルサなどを聞いたりしています。あまり詳しくないのですが、ラテン系の音楽も良いですね。身体が自然に踊りだしてくるような気分になれます。いつもはどちらかというと静かな曲が多いのですが、そればかりだと気持ちが沈みがちになるようです。あらためていうまでも無く、気分はそういう現実を作りますから、明るい音楽をきいた方が明るい現実になるのでしょう。

 呪われた自由に関してすこし補足が必要だと考えました。意識の本体(観察者、神)が究極的にはひとつしかないということを考えると、それよりもずっとたくさんある私達のアイデンティティの方がより「呪われた自由」の影響を受けるのです。ですから呪われた自由を考えることは、神を考えるというよりも、私達自身のことを考えるということになるのです。

 あらためて書きます。私達の意識(アイデンティティ)は自分が何もので在るのかを確認することで存在しているのです。そして何ものにもなれるという究極なる自由のなかで、何かで在り続けなければなりません。それは「自分自身を創造し続ける宿命にある」ということなのです。この作業はある程度アイデンティティが確立した魂(いのち)であるのなら、おそらくそれほど大変なことではないと思われます。しかし偉大なる創造のサイクルの中で、全て忘れてやり直している魂(いのち)の場合はどうでしょうか?いちど全てのことを忘れているのです。その様な場合、いつも自分が何もので在るのかを意識的に決めることはとても大変なことになります。

 いったい何を言いたいのかと思うひともいると思うので、ちょっと言葉に語弊があるかも知れませんがはっきり書いてしまいましょう。アイデンティティが確立していない魂(いのち)は、自分で自分自身を定義するのが大変なため、自分以外のものを基準に自分自身を定義しなければならないのです。これはこの前に書いた自分自身を知るために、周りを観察する(他の人は自分の姿を映す鏡である)という意味ではありません。まあ簡単に言ってしまえば、「自分が何もので在るのか誰かに決めてもらいたがる傾向がある」、ということなのです。

 「神との対話」をしっかり読んでいる人なら、私が何を言いたいのか分ると思います。自分以外の外側に神を見つけようとする地球人の癖はここから出ているのです。実際は自分が何もので在るのか自分で決めて、その様に在ることが大事なことなのですが、自分で決めることが出来なかった為に、誤った神を想像して、それが自分達が何もので在るのか決めているのだと考えたのです。自分自身の存在の為の物差しを自分以外のものにおいてしまった為に、いろいろな弊害(あえてこういうけど、べつな見方もある)がでてしまったのです。その一つに、自分がどのように在るのかではなく、どのような自分であるべきなのか、という「べき論的」な視点になってしまったのです。

 まあ、このことを細かく書いてもここでは話がそれてしまうので、ごく簡単にすませますが、おかしな宗教などというものを作り出してしまったのです。これは「神との対話」で詳しく書かれていますよね。ついでにあえて書き加えておきますが、何々すべきだというような発言をする人は、自分自身でどのように在るのか決めることが出来ていないのです。そしてそれは結局のところ、自分自身で何ものにもなれるという究極の神の愛を放棄しているということなのです。

 多かれ少なかれ私達地球人が持っている、「他人に自分を決めてもらいたいという気持ち」は自分自身の自由を束縛しているのですが、同時に「呪われた自由」の苦しみをある程度やわらげてくれるという効果があるのです。これはそのままで良いと言っているのではありませんよ。魂(アイデンティティ)が未熟なうちはまあそれもある程度しょうがないでしょう、ということなんです。

 さて、ここからが今日の本題なのです。ずいぶん前置きが長かったような気もしますが、それぞれ重要な部分なので省略も出来ません。私達が自分自身の自由に気がついたとき、一般的には宗教の神の呪縛から逃れて、自分自身に本当の意味での自由を与えたとき、愛は自由であると理解し自分が愛されていると理解したとき、カルマなどというものが自分達で勝手に作り上げてしまったものであると理解したとき、もちろんこれは人それぞれなのですが、その様な祝福のときを過ぎた後、徐々に「呪われた自由」の苦しみが私達を襲ってくるのです。おそってくるというのは、適切な表現ではないかもしれません、というのは、もともとあったもので、私達がそれから逃避していただけなのですから。

 最初は「呪われた自由」の苦しみというものがなかなか理解できないと思います。私自身も自分の自由を喜びながら、同時に何かプレッシャーを感じていたのです。結局それに気づくまで、正体不明のプレッシャーに苦しんだのです。実はこの意識学もこのプレッシャーの中で出てきたんですが。

 さて、「呪われた自由」の苦しみは誰でも味わうのでしょうか?たぶんそうではないと思います。もともと何かをしたい、私は何々をする存在であると、はっきり認識している場合には、もっというと意識的に生きているのなら、このような問題は起こらないのかもしれません。もともとのべき論的な思考が強かったばあいなどや、予定を変更したり、人生に嫌気を感じているような場合には、たぶん、私と同じような苦しみを感じるかも知れません。

 「呪われた自由」について、もう少し書きましょう。もともと自由は何も呪われてなどはいないのです。ただ私達(私と似た人)がその様に受け取る(その様な感じ方をする)ということだけなのです。何事もどのように受け取るのかでその人にとっての意味が変ってきます。だから問題は私達の受け取り方にあるということなのです。もともと当然あるべきものなのに私達が避難していてそれにたいする抵抗力が弱まっていたということも出来るのです。再びそれになれてしまえば、それを当たり前のこととして受け取り、私達の全く新たなる冒険への原動力に変えることさえ出来るのです。そしてこの苦しみはある意味ではもう一つの別の側面も持つのです。それは私達の魂が旅を終えて故郷に帰る為の動機にもなるのです。そういう意味では、「祝福されるべき自由の苦しみ」と言った方がずっと当たっているのです。

(2004/06/20)


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