慈悲、慈愛、無償の愛 (第139話)

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 質問をいただきました。

 私は、どうも、慈悲、とか、慈愛とか、無償の愛とかいう言葉が、好きではないのですが、その意味を勘違いしているかもしれないので、教えていただきたいと思っています。

 ご質問に対する直接の答えにはならないかも知れませんが、ご質問の文章を読んで感じたこと考えたことをそのまま書きます。

 まず言葉というものなのですが、それは多くの場合複数の意味やニュアンスをもっています。それに加えて人それぞれに意味する範囲が違っている為に、いろいろとコミュニケーションが難しいものがあります。同じ日本語を使っていても実際はかなりその内容に違いがあるのです。そして好き嫌いも個人的な背景が関係してくるもので、そこにも曖昧な要素が入ってくるわけです。だからその言葉がすきでも嫌いでも、どっちでも良いんですよね。と言っただけでは返事にはならないのでとりあえず、私の考えをそれぞれに書くことにします。

 「慈悲」という言葉は私も好きではありません。でもまあ、辞書で調べた意味をコピーします。(1)〔仏〕 仏・菩薩の衆生(しゆじよう)をあわれむ心。楽を与える慈と苦を除く悲とをいう。(2)いつくしみ、あわれむ心。また、情け深いこと。「―の心」「―を乞う」「―を垂れる」「お―でございますからお見逃し下さい」 とまあ大辞林では出ています。辞書だとこんなものでしょう。

 私が慈悲という言葉があまり好きではないのは、私が連想するシュチエーションにあります。それは「お代官様、お慈悲でございますからお見逃し下さい」という印象なのです。なぜここでお代官様なのかというと、まあ本当は何もえらくないのに、大きな顔をしている連中の代名詞なのです。もともと何故その様な慈悲が必要な状況になったのか?おおもとの責任は、代官、お前にもあるのではないのか?代官よお前は、そんなに偉いのか?みんな命としては、平等なんだぞ。そもそもそんな見下したような状況で慈悲などといっても、、、、。とまあ、そんな風に発想が続いてしまうんですよね。

 もともと慈悲という言葉は、「かわいそうだなあ、何とかしてあげたいなあ」という気持ちのことを言うのでしょう。これだけだと何も悪い印象はないですよね。ついでに書いておきますが、もう一つ、「自分は安全なところにいて、自分に危険がない範囲で手をかしてあげよう。」というようなイメージもちょっとあったりもするんですよね。まあもっと違う立場に立てば、その場合の安全な立場というのも幻想だし、かわいそうだと思われている立場も幻想の一種なのです。ということは、先ほどの慈悲の状況も、結局はどちらもその体験をしたい為、好き好んでそれをやっているという考え方も出来てしまったりするのです。だから、お代官様のご慈悲で打ち首を免れた農民(勝手に決め付けてる)が、その慈悲の行動にどのようにでも感動し、代官も慈悲深い自分自身を体験したのなら、それはそれで良かったじゃない。となるわけです。そもそも誰がどのような理由で感動したとしても、それはその人の自由だし、体験なんですよね。

 結局何が言いたいのかというと、どのようなことで感動しようとも感動できたら良いんです。たとえば、空の青さに感動したり、空の広さに涙を流す。いつも見ている空なのに、そういう感動ってすばらしいですよね。いろいろな人生のドラマの中での感動もそれと一緒ですよね。何が良くて何が良くないなんてことはないんです。だから慈悲という行為に裏の意味(上下の立場関係)を感じていてもいなくても、本人達が感動しているのなら私がとやかく言うことでもないのですよね。でも、何と無く私は慈悲という言葉の裏の意味が好きではないのです。

 ちょっと今まで書いたところを読み返してみました。ふと思ったんですが、善と偽善との違いはもしかしたら、感動が伴っていたかどうかと言うことになるのかも知れません。もちろんこの場合に重要なのは、それぞれの感じ方でそれぞれの意味が変るわけです。たとえば、与える方が偽善的な心情であったとしても、それを受け取る方がそれを善として受けた場合、双方で善か偽善かが一緒にはならないこともあるということです。もっとも偽善というものがあるのかどうかも、ちょっと検討の必要が在るのかも知れませんが。毎度のごとく、どの物差しを使うか、どの視点から見るのかでいくつも答えが出てきそうです。

 「慈愛」というのは、我が子を愛するようないつくしみの気持ち。 と出ています。うーん、慈(いつく)しみって何なんだ?と思ってまた調べたら、「いつくしみ 【慈しみ】<慈愛。恵み。」。あらあらあら、これでは辞書からでは何も参考に出来ないですね。やはり言葉というものはあまりあてになるものではないですね。(笑)

 さて、あらためて「慈愛」という言葉を考えて見ます。この言葉は私はあまり使ったことはありません。そもそも私が理解している「慈愛」が世の中の標準的な意味かどうかわからないのですがとりあえず説明に挑戦してみます。この言葉はもしかしたら子供を持ったことが無いとわかりにくいかも知れません。まずは、守ってあげたいというニュアンスがあります。守ってあげたいというのは、大事にして危険には近づけたくないという感じでしょうか?それにいろいろと気にかけるという感じもある様におもいます。この気にかけるというのは、そこそこ必要なだけ面倒をみてあげるという感じでしょうか?

 慈愛を自分自身の身体に当てはめた場合、あまり無理な運動をせず、適度な運動で健康を守るという印象ですよね。えーと、書いているうちにだんだんと自信がなくなってきました。もっと別なニュアンスがあるような無いような、結局自分自身でそれを感じてみないことには判らないですよね。それにもしかしたら、人によって異なった感情のことをそれぞれ「慈愛」と呼んでいるのかも知れませんし。^^;

 あえて私がこの言葉に抵抗を感じる部分としたら、「慈愛」という感じの中で、自分の子供とか家族、自分の仲間、自分が支配下において面倒を見ているものを対象にしているという感じがある部分でしょう。そういう意味では「慈愛」という言葉は「博愛」という言葉とある意味対立する感じも無いわけではありません。(結局は、あくまでも私の印象にすぎないのですが)

 さてさて問題はみっつめの「無償の愛」ですね。ただ愛と言うだけでも、それはいろいろな側面があるし、そもそも愛の根本的な本質を私が理解しているのかどうかも断言できなかったりするのです。「神との対話」のなかでも愛についていろいろな説明がされています。それがあまりにもいろいろな言い方で説明されていることを考えると、神様でも愛の全てを言葉では表現できないのかもしれません。愛とは全ての感情の総和であるといったり、愛は自由だとも言うし、印象的なのは愛とは意志であるという表現もあったように思うのです。そして世界を根本的な部分で支えているエネルギーのような感じもするし、全ての存在を支えている仕組みでだともいえそうだし、愛は神であると言った場合など文字どおりに、そのようにも思えるわけです。それに全てのものがいずれ調和に向かって収束していくという根本的な原理とかなり密接な関係があるようにも思っているのです。まあ、あまりいろいろと言わないで、「愛とはやさしさである」と言っても胸に反応があるわけなんですが。

 というわけで、(ドンナワケダ)、「無償の愛」については、気の向くまま少し書いてみます。「無償の愛」という言葉があるということはそうではない愛、「有償の愛」があるのか?という疑問がでてくるわけです。もし有償だったらそれは愛ではなくビジネスになりますよね。でも「有償の愛」などは存在しない、と言い切ることも難しいかもしれません。たとえば看護医療や老人介護などで愛を実践しているケースもあるでしょう。それに有料でヒーリングしている人でも愛を感じているケースもあるでしょう。その様な意味では、有償か無償かという問題と愛かどうかの問題は別な問題なんでしょうね。

 別な視点から書くと、愛なんて無償で当たり前だという意見にも、私としては一票入れたいところです。ただ広い意味ではただ生きているだけ、存在しているだけでも愛しているし、愛されているということを考えると、ここでは意味の無いことを書いているような気もするのです。

 「愛することは、ただそれがすばらしいことだから愛したくなる。愛していること、ただそれだけで幸せである。」と感じられる場合、他には何もいらないんです。何もいらないのですから無償で当たり前だということになりますよね。愛とは評価しないことでもあります。条件がつかないということなんですよね。差別をしていたら、それだけで愛ではなくなってしまいそうだし、それに愛ってすごく自己満足的な側面もあるんです。(もちろん悪い意味ではないです)

 ふと思ったんですが、「無償の愛」と「無条件の愛」を混同している人もいるかもしれません。このふたつは、全く意味がちがいます。「無条件の愛」とは、直接的には神が私達の完全なる自由を保障しているという意味になります。それは先ほどの「愛は自由である」につながります。ついでに書くと、私達が真に自分を愛するとき、自分自身に自由を与えることになります。それにさっき書いた「愛は評価しない」というのも無条件から出てくることなのです。なにしろ評価するというのは、条件をつけると言うことなんですから。

 ついでに書いておきます。「無条件の愛」という言葉を、宗教家やそれに類するスピリチュアリストが言った場合、はたまた、まだ人間を経験したことのない天使などが使った場合などは、たぶんまた違った意味になるんでしょう。その場合、全て無条件に受け入れて愛しなさい。とか、無条件に奉仕することなどというような使い方もしそうです。まあ誰がどのように考えても一向にかまわないのですが、私としては「奉仕=愛」という考え方は根本的に間違っていると思っています。愛の一部として奉仕はありえますが、奉仕は愛ほどは大きくはなりえないのです。それに自分が受け入れるものは自分が気に入ったものだけでいいんです。何かを無条件に受け入れるということは、愛とは全く関係のない話なのです。(もちろん受け入れるのも本人の自由なんですが)

 それにしても、あらためて愛の本質ってなんなんでしょう。やっぱ、神としか言いようがないのかも知れませんね。なんとなくまた言葉が出てきました。「愛とは生き方である」、そんな風にいっても間違いでは無いようです。

(2004/06/22)


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