愛について、パート2 (第146話)

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 愛について書きます。以前のページの中で、愛とは何なんだ?と書きました。その時から思っていたのです、「ここで疑問を投げかけているから、愛についていろいろな気づきがやってくるな、」と。そういうことが徐々に当たり前になってきていることが、とりあえず嬉しいのです。

 愛についての気づきは、わりといろいろな角度からあったのですが、だからといってそれをすぐページに書こうという気にもなれなかったのです。前話のとき、「愛は周波数」と感じたのですが、ただ単純にではなく、「愛は周波数を○○」という印象で、その○○がわからなかったのです。もちろん前話のなかで書いたように、愛は周波数を上げるという効果があるのですが、この○○は、それとはちょっと違うことなのです。

 さて、大事な話の前には、いつもことわり書きが必要になります。真実は人により異なっています、そしてこれから書くことは私が感じたものであり、私の真実なのです。これから書くことは、参考にはなると思いますが、読んだ文章が御自分の真実と合わない場合もあります。このように考えている人もいるんだということで読んでください。

 さていきなり話がそれるのですが、前回、意識レベルの話を書きました。この意識レベルは頻繁に上がったり下がったりします。おそらく一定のリズムで上がったり下がったりを繰り返しているのですが、私ももちろんこの意識レベルの変化により、その時々の考え方、感じ方に変化が出るのです。簡単に言えば、意識レベルが高いときは、「愛している」と思うだけで、愛が湧いてくるのですが、意識レベルが低いときは、「愛している」と思っても、なかなか愛の感情が湧いてこないのです。

 意識レベルが低いときに「愛」を感じようと思って、「愛している、愛している」と考えても、それは自分の心から愛を搾り出そうとしている印象すら受けるのです。その時に心を観察していて思ったんです。うーん、なんでだろう?なぜ愛が湧いてこないのかなあ?と思いながら、それを続けたのです。そしてそのうち、「愛する」ということは、躍動(波動)を作り出しているということだということがわかったのです。この意味を細かく説明することにします。

 愛というものは、エネルギーの側面もあります。愛することで波動を作り出しているというのは、エネルギーを作り出しているといっても良いのです。本当は作り出しているというより、引っ張り出して来ているんですが、まあそれはここではおいておきます。全てのものがエネルギーで出来ていて、全てのエネルギーが波動(周波数)を持っていることはすでに書いています。愛するということは、その波動を作り出しているということなのです。

 さて、単純に考えてください。私達の身体(見えない方も含む)はエネルギーで出来ています。そのエネルギーと基本的に同じものが愛のエネルギーなのです。だから、愛することでエネルギーを作り出すということは、とりもなおさず自分自身の(霊的な)身体を作っているということになるのです。この部分が今回の話の核になる部分なのです。ここでは単純にそう感じてください。細かな補足説明をこの後でします。

 誰かを愛するというような場合、それは愛のエネルギーを送るということになるのです。単純にエネルギーを送るという事をもう少し考えて見ましょう。それは自分自身の一部を送るということになるのでしょうか?それはある意味そうなんです。大袈裟な言い方をすると、誰かを愛するということは、自分自身の一部(エネルギー)を相手に送ることなのです。じぁ、愛していたら自分自身がいずれなくなってしまうんではないのかと思う人もいるかもしれません。そこで宇宙の大原則の登場なのです。なんであれ相手にそれを送る(贈る)ということは自分自身にそれを与えることになる、という法則がここで活きてくるのです。

 人にエネルギーを送ると、それは返って来るのです。それがどこから返って来るのかというと、必ずしも送った相手からではないのです。まあ、簡単に言ってしまえば、神様からそれが送られるのです。この神様からという言い方に抵抗感があるようなら、エネルギー(いのち)の宝庫から、自動的に補充されると考えてください。それは同じ意味なんです。この補充されるエネルギーは送った量よりも多く補充されるのです。だから結果的に愛することで自分自身のエネルギーを強化することになるのです。

 ちょっと、ここまでの話の前提というか、そこから導き出されることを書き出してみます。愛のエネルギーで私達の霊的な身体が出来ています。これは「私達は愛である」ということが出来るということなのです。そして当然のことながら、愛の宝庫(供給元)である神も愛なんです。そして全てのものがエネルギーから出来ていると言うこと、そのエネルギーの元が神の愛のエネルギーであることを考えると、世の中の全てのが愛で出来ている。愛で支えられているということにもなるのです。

 さて少し別な側面から愛について考えて見ましょう。愛というものはエネルギーなのです。ここで重要なのことは、全てのものが愛で出来ているからといって、全てのものが純粋な愛と言うわけではないということなのです。ここにも言葉の制約が出てきます。この言葉の制約の部分を細かく説明しますね。純粋な愛とそうでない愛との違いなのです。愛というものはエネルギーなのですが、そのエネルギーはいろいろとその形を変えていきます。愛の一部は変形して別な形を取ったとき、それは純粋な愛の形ではなくなるのです。でもやはり愛なんです。ここで言う純粋な愛というのは、愛の元もとの形、全ての物の原材料になるエネルギーのことを言っていて、それ以外のものが愛ではないという意味ではないのです。要するに愛というエネルギーのある特定の状態を「純粋な愛」という言い方をしているのです。

 さて「純粋な愛」とは、どのような状態のエネルギーのことをいうのでしょうか?この理解はかなり重要な部分だとは思いますが、同時にちょっと難しいかもしれません。でもこの純粋な愛を理解することは、視野を大きく広げてくれることにもなるのです。

 「神との対話」のなかで、「愛という感情は、全ての感情の総和である」という表現がされています。それは色でたとえると全ての色が混ざり合った白であるということなんです。この色というものも、周波数であることはわかりますよね。光の周波数が変ることでその色が変るわけです。そして全ての色を均等に混ぜると純粋な「白(純白)」になるのです。純粋な愛とは、この純白のようなエネルギーのことを言うのです。それは何もフィルターのかかっていない状態なのです。

 言葉を作ってしまいましょう。純粋な愛のことを「純白の愛」と言った方が、その本質を把握しやすいと思います。それは愛とは純白なエネルギーということなのです。純粋なエネルギーと意味が違うのはわかりますよね。純粋なエネルギーと言った場合、それは混じり物がないという意味であり、例えばそれが意志のような場合、純粋な意志はものすごい力を発揮するのですが、それは愛の場合はその純粋さはかえって制限になってしまうのです。人により解釈が違うとは思うのですが、純粋な愛の場合の純粋とは、純白のことを意味していることが多いのです。この部分が言葉の壁となって、愛というものを理解する為の障害にもなっているのです。

 「純白」というものを理解すると、そこから自然にある程度の答えにたどり着きます。まず神の愛について、考えて見ましょう。純白なエネルギーとは全ての周波数を含むエネルギーの総体のことをいいますよね。神はどうなんでしょう。もともと神は「全ての物」なのですから、それは全てのエネルギーを含んでいるということになるのです。そして文字通り、神は総体なのです。これは単純な理屈なのです。神が「すべてのもの」であるということは、それは神のエネルギーを全体として見ると、純白だと言うことなんです。神の愛は純白だということがわかりますよね。

 「純白」というものは、全ての物を拒絶していないということでもあります。それは善悪などの価値判断を全くしないという意味なのです。もし何かを判断して、それに評価を付け加えたりしたら、そこの段階で純白は、純白ではなくなってしまうのです。先ほど書いたように、神の愛は「純白」なのです。もともと神が「純白」なエネルギーなのですから、それでなくなることはありえないのです。屁理屈に聞こえるかも知れませんが、そういうものなのです。だから神は絶対に制限はしないのです。だからどんなにひどい事をやったとしても、絶対に神から拒絶(制限)されることは無いのです。言い方を変えると、もし神が誰か一人でも拒絶したとすると、それは神が自分自身を拒絶(否定)したということになるのです。だからその様なことは、絶対にありえないことなのです。神の愛は無制限なのです。

 「純白」というものは、同時に自由を意味します。これなどは、私の場合自然につながって考えてしまうのですが、ちょっと説明が要るでしょうね。と、書いたものの説明が思いつかなかったりします。まあ、先ほどの制限しないがほんの少し変るだけで、自由になると考えてください。良い説明かどうかわからないのですが、「純白」なエネルギーというものは、全てのものが含まれているわけです。エネルギーで全てのものが成り立っているということを考えたとき、全てのものを総体(ひとつのもの)としてみたとき、やはり「純白」であるということなのです。それは私達が何を考え、何をやっても、すべてのものの中から出ることは無いのですから、やはり「純白」の世界のどこかにいるということなんです。それが私達が自由だ、自由にしていてかまわない、ということの説明なのです。まあ、何となく感じてくれればそれで充分なのです。というか、感じる事の方が大事なんです。私は感じるための手助けとして、いろいろ書いているだけなのですから。

 さて、今までは総体(ひとつのもの)としての「純白」について考えたのですが、もっと小さい個人個人の視点で考えてみます。相手に愛を送った場合に「純白の愛」は、どのような効果が出るのでしょうか?全ての周波数が含まれたエネルギーとして考えてください。それは相手がどのような意識の状態であっても、それを受け取ることが出来るということを意味するのです。当然、そこには相手が必要としている周波数のエネルギーが入っているということなんです。何しろ「純白」というのは、無制限なのです、相手を限定する必要はないのです。

 愛を送るということと、想いを送るということの違いを説明します。想いというのは、ある特定もしくは狭い範囲での周波数帯のエネルギーのことだと理解してください。これは送る方の人により、すでにフィルターをかけられた愛だとも言うことができるのですが、その想いは「純白」では無く、色がついているのです。もし相手の人がその色を必要としていなかったり、拒絶していた場合はどうなるでしょうか?その想いは相手まで届かないのです。下手をすると、想いを送ったつもりの人の所にそれが帰って来て、心の中に「届かなかった想い」としてそのエネルギーが残ってしまったりするのです。それはつらいものなんです。その想いはずっと居座っているのです。もちろん後からそれに気づけばそれを取り除くことは可能なんですが、中にはなかなか捨てられない想いもあったりするんです。その想いが強ければ強いほど捨て去るのに忍びなくなってしまうのです。理屈では、その想いをふたたび愛にしてしまえば良いのですけど、それもなかなか難しかったりするのです。

 愛の場合は純白に近ければ近いほど、相手に届き易くなります。まあそれでも相手次第で届きにくいことはあるのですが、もともと愛の形であれば、相手に期待をしないですから、「届かなかった想い」のようなダメージは受けなくてすむのです。この愛と想いの違いは、言葉で言うのは簡単なんですが、実際にそれを行うときはなかなか難しいものがあります。それに自分の愛を純白に近くするのはかなり大変なことなんです。もともと「純白な愛」を表現することは、私達が一人前の神であることの証のようなものですから、今の時点で出来なくてもあまり気にする必要はありません。ただその心掛けはしていた方が良いと思います。

 相手に届かないことがある想いは、それには危険性が潜んでいるわけなのですが、だからといってその想いを悪者にする必要もありません。愛と想いは、ある意味ではすごく似ているのです。いきなり純白の愛を送ろうとしても、むしろその方が無理があるのです。むしろ想うことからはじめて、それで傷つくことがあってもまた想う、その想いの幅が広がることで愛につなげていくという過程を取ることも選択肢の中の一つなのです。これは一つのルートであるということです。もちろんまだ別のルートもあるんですが。

 いきなり人を愛するには問題があります。それは愛ではなく想いである可能性が高いからなのです。愛のトレーニングと言っては変なんですが、まず自分自身を愛することからはじめてください。とにかくこれが一番大事なのです。自分自身を愛するということは、自分自身の全てを許すということ、もっと言うと自分の全てを肯定して、判断することで自分自身を苦しめるようなことをしないということなのです。その際には、判断自体をやめて、ただありのままの自分を認めると言うのが、もっとも好ましい自分の愛し方なのです。

 自分を愛することを、もう少し私風に解説します。ありのままの自分を愛するということは、自分が持っている全ての波動を認めるということなのです。何となくわかりますか?ちょっと極端な言い方に聞こえるかも知れませんが、自分自身の持っている全ての波動を認めるということは、その時点の自分にとって最も「純白」に近い状態の愛であると言うことなのです。自分自身を愛するのと同じ方法で、同じような愛を送くることが、その愛を「純白」に近く保つことなのです。ですからまず自分自身を愛してください。そこで愛というものを実感した後、あたかも自分自身を愛するように他の人達を愛すればいいのです。(出来なくても努力目標だと考えてくださいね。)

 さてもう一つの大事な要素について書きます。というのは愛としてエネルギーを送ったらその分をまた受け取ることが出来るのです。しかしその際にも重要なことがあります。神のエネルギーは「純白」です。その全てを受け取りたかったら、自分もそれに同調していなければならないのです。そのために必要なことは、自分の制限をなくすことなのです。それはあらゆる判断をしないで、来たものをそのまま受け入れる意識の状態に成っていることが望ましいのです。それは「神の意識」の状態といっても良いし、「空」の状態といっても良いんでしょう。理性を止めて、ただ感ずるままに任せるという状態でも出来るでしょう。私はまだこの状態には成っていません。でも世の中には、それが出来る人がいるのです。もちろんそれが天性の才能であるなどとは考えないでくださいね。大事なことは誰でも、意識(こころ)の持ち方でそれが出来ると言うことなんです。

 もちろん誤解しないでくださいね。上に書いたようにことは、ある意味かなり高度な意識状態でのことなんです。そして、私を含めてまだ出来ない人のほうが圧倒的に多いのですから、出来なくても気にする必要は無いのです。ただそれでも意識の制限が少なくなれば少なくなるだけ、受け取れる量は増えていきます。だから、あせらず少しずつ自分自身の中の価値判断などの制限をとって、神の意識に近づいて行くことを心がけたらいいんだと思います。

 「純白」のエネルギー非常にパワフルなエネルギーなのです。それには最高レベルの周波数も含まれているわけですから、そのエネルギーを元にいろいろな事が出来るようになります。まあ最高レベルのエネルギーでなくても、そのエネルギーは喜びに変換できますから、あればあっただけ良いと思います。

 最後に私の魂からのメッセージを書いておきます。「愛は自分を強くします。大きくします。それも、とほうも無いくらい。」、頑張って愛してください。愛することで魂は喜びを感じています。そしてそれは私達自身も気持ち良いと感じることなのです。だから理屈ではないんです。ただ気持ち良いから愛する。それでいいんだと思います。

(2004/07/11)


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