思いやり (第148話)

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 最近の話の内容がなかなか理解しにくいものだということを意識するあまり、私の中で少し強引な部分が出てしまっていたのかも知れないと、すこしだけ反省などしています。ただ話の内容自体は私の真実として、間違ってはいないし、誰でも本当に理解しようと思えば理解できるということは、再び書いておきます。

 でも、本当は無理して理解しようとする必要もないというのも、これたま真実であったりもするのです。要するにそれを知りたい人は、知ることが出来るけど、それは私には良いよ、と感じる人はあまり気にすることも無いのです。なぜかというと、道は本当にいろいろとあるのです。それはその人数の数だけそれがあるわけで、こうでなければいけないということは、絶対に無いのです。

 もともと、あくまでも私の場合の体験、気づきについて書いているのであって、私の方法以外にもたくさんの方法があるという前提として書いているのです。それは私は私の真実を語るということなんです。根本的な原則の中に、「やらなければ成らないことなど、ひとつも無い」というものがあります。これは「愛は自由」だという観点からみても、しごく当たり前のことなのです。もちろん「何をやってもかまわない」というのも、同じ理由で根本的な原則だといえるのです。

 なぜこのようなことをあらためて書いているかというと、私達の習慣として、「何々でなければいけない」という考え方が染み付いてしまっているので、私がその様なつもりで書いていなくても、そうしなければいけない、それが正しい方法だ、というように読み取ってしまいがちなのです。これは地球人が徐々になおしていきたい習慣なのです。

 例えば、この前の「愛についてパート2」で、愛のエネルギーとしての側面を説明しました。でも、愛にはまだ別な側面がいろいろあるのです。それこそ愛についても、その解釈が人の数だけあってもおかしくないのです。だから、エネルギーとしての側面を理解して欲しい為に、それなりに力を入れて書いたのですが、他の形の愛を否定したものではないということを、あらためて書いておきます。

 今回は、思いやりについて少し書きたいと思います。思いやりというのも、もちろん愛の形のひとつなんです。エネルギーとしての愛が最も馴染みのうすい、とっつきにくいものだとしたら、思いやりというのは、もっとも理解し易い、なじみのある愛なのです。

 「思いやり」というのは、相手のことを思いやるということで、自分がもし相手の立場だったら、どうだろうか?と考え、その時にして欲しいことをしてあげるということをいいます。この「思いやり」という言葉自体は良く使われることばなので、それほどの説明は要らないと思います。今回は、もう少し突っ込んで「思いやり」に関連したことを書きます。

 さて、大事なことがいくつかあるのです。「思いやり」という言葉は、かなり定着した言葉なので、誰でもその意味を理解し、その気になればそれを実行に移せると思っている人も多いかと思います。ところがぎっちょん(古いギャグです)、思いやりの心でいることは、ある程度の意識のレベルにいないと出来ないことなのです。

 もう少し別な言い方をしましょう。「思いやり」というのは私達が人生の中で体験して知ることのひとつなのです。それは、まだ「思いやり」というものを理解していない人もおおぜいいるということなのです。なぜこのことが重要なことなんでしょうか?例を上げて説明します。  Aさんは、やさしく、思いやり深い人です。Aさんにとって、「思いやり」というのは何も特別なものではなく当たり前のことなんです。Aさんにとっては、全ての人が「思いやり」を持っているということが当たり前のように感じられるのです。ところがBさんという人がまだ、思いやりというものの大切さを(感情的に)理解していなかったらどうなるでしょうか?AさんがBさんを見ると、冷酷で情けを知らない人だとみえるのです。まあ、そう見えるのは当たり前なんですが、Aさんは自分自身の常識に照らし合わせると、「思いやり」を理解できない人などは考えられないのです。そんな人がいる訳はないと思っているのです。だからBさんの態度に思いやりのようなものを感じられなかったとき、Bさんが悪意をもってわざと、冷酷な振る舞いをしているように見えてしまうのです。わかりますよね。AさんはBさんの行動の中に悪意を見てしまうのです。

 では、本当の意味でBさんのことを思いやってみましょう。実はBさんは悪意でその様な行動をしているのではないのです。まだ「思いやり」というものを完全に理解していないのです。その為に、Bさんの行動は思いやりの無いものになってしまっているのです。それはBさんに悪意があると言うのではなく、まだBさんが未熟で無知であるということだけなのです。人間は何事も感情的にそれを理解しなければ、それを実感したり、表現したり、行動に移すことが出来ないのです。言い方を変えると、Bさんはまだ「思いやり」を覚える途中であり、今はそれを理解する為にいろいろな行動をしているというわけです。それは、Bさんの本質が悪だというようなことではないのです。Bさんの本質も他の人と同じように純粋な神なのです。まだ体験の途中だということだけなんです。

 なぜ、「思いやり」について、今のような話が必要になると思いますか?心やさしい人には信じられないかも知れませんが、まだ「思いやり」を理解していない人達が結構な比率でいるのです。今ここを読んでいる読者の人も、ひとりやふたりはその様な人を思いつくと思います。そのことを理解すると、以前より許すということがしやすくなります。もちろん、許すということも大事な「思いやり」の表現なのです。

 古くは、「罪を憎んで、人を憎まず」といいました。今だとこれが「全ての人の中に、神をみる」ということなのです。彼らは、自分自身を苦しみの中におきながら、「思いやり」を理解しようとしている私達の仲間なのです。私達もかってはそれをやってきたのです。それを知れば許せないはずは無いですよね。そしてもっと深い「思いやり」を示すことも出来るでしょう。

 深い「思いやり」というのは実は誰にでも出来るものではありません。なぜなら相手と同じような心の痛み、苦しみなどを自分自身で経験したことがなければ、本当の意味で、同情し、思いやることは出来ないのです。だから相手を思いやることが出来るということはある意味では、心の勲章みたいなものなのです。それはその人が体験し乗り越えてきたものをそのまま表しているのです。このことからも、思いやりの無い人を責めてはいけないということになりますよね。

 さて、もうひとつ「思いやり」について書きます。相手の立場になって同情してあげるというような場合、その相手は精神的な苦痛の中にいるのです。それは苦痛という体験の出来ない世界では決して体験できないということでもあるのです。もちろん、究極においてはその苦痛も幻なのですが、それでもその苦痛がどのようなものかは体験してはじめてわかるものだという事は真実なのです。何を言いたいのかというと、いろいろな愛の表現の中でも、「思いやり」や「同情」という形の愛は、この世界でなければ体験しにくい種類のものなのです。

 ラムサは、本の中で、天使達は人間にたいして同情できない、それは彼らがまだ人間として生きることの苦しみや制約を体験していないから、決して人間に対して同情することが出来ないんだ。というようなことを書いています。それはすでに人間として「同情」や「思いやり」のバージョンを増やしている私達の方が、旅としては遥かに進んでいるということなのです。だから人間としてこの世界に生きていることは非常に価値のあることだと言っています。もっともなことだと思います。

 話をすこし変えます。愛したいと考えても、それにはどうしたら良いのか解らないというケースも多くあると思います。そんなときは、無理して愛そうとする必要はありません。何事であっても、こうしなければならないと考えるのは、自分自身に制約を作ってしまうことになります。それは自分自身を愛する為の障害になってしまうんです。そのような時、「思いやりのある人間」でいることを心がけているくらいでも良いと思います。それだけでも十分価値あることなのです。

 ついでにといっては何ですが、「思いやり」について、もう少し突っ込んでみます。思いやりというのは相手の立場に立つということで、自分自身の視野を広める働きもあります。それは一つの出来事を二つ以上の側面から観察するということになるのです。それは2倍の体験、2倍の気づきにつながるということなんです。そして、「思いやり」のなかで表現されるやさしさは、自分自身の波長を上げて、自分の成長を早めるという効果もあるのです。こういうことって実際はみんな関連しているんです。私はその中の例を少し上げただけなんです。簡単に言えば、人に優しければ(愛していれば)、その結果として何倍もの見返りがその人にあるということなんです。

(2004/07/16)


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