逝く人へ (第155話)

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 死というものは、本来なら必ずしも受け入れなくてもいいものなのですが、現実的には地球上では輪廻転生がほとんどの魂の受け入れる現実として存在しています。それは普通の人は死ぬということを意味しています。身近な親しい人が死期をまじかに迎えた場合どのようにしたらよいのかというご質問をいただきました。それについて書くことにします。

 多くの場合、死というものを恐れている為に、生きている間に死というものをあまり深く考えていない人が多くいます。もちろん、この「魂の部屋」を読んでいるくらいの人はもう死というものが、どのような事を意味しているのか理解していると思います。ここで問題にするのは、まだその様な理解の出来ていない(身内などの)親しい人が死期を迎えた場合にどのようにしたら良いのかということです。

 さて、難しいのはその人の考え方がどのようなものであるのか、実に人それぞれだと思われることです。もしかしたら死を最後まで怖がり、輪廻転生のことを話しても聞こうとすらしない可能性もあるのです。普段ならそれ以上無理に話をすることも無いのですが、死というものが目の前に迫ってきている場合にはそうも言っていられないものです。

 生命(いのち)は永遠であり、死んでもその人がいなくなってしまうわけではありません。基本的にはなにが起ころうと大きな問題は無いのですが、いくつか出来るなら避けたい状況というものがあるというのも事実なのです。

 まず一番避けたいのは、死ぬまでの間に、本人が恐怖で苦しむことです。それは必ずしもそれを周りの人に見せるとは限りません。じっと怖さをこらえている可能性もあるのです。そんな場合、「愛は安心させること」というのを思い出してください。とりあえず本人を安心させてあげることが大事なのです。どのような方法が良いのかはその状況で変ってくると思うので、なんともここでは書けないのですが、例えば、さりげなく生まれ変わることを伝える為に、「今度、生まれてくるときは、何をする?」というような会話も良いかもしれません。とりあえず大事なことは本人が落ち着くことなのです。

 私達は、普段からも多くの存在に見守られています。死期をまじかに迎えたとき、俗に言うお迎えが来るわけなのですが、それは昔の知り合いなどが、安らかに死のときを迎えることが出来るように本人のフォローに来てくれるのです。人によっては1週間くらい前から本人に接触してきます。本人が落ち着いてさえいれば、それらの援助を受け入れることが出来るのです。全ての人がそうだと言うわけでは無いのですが、多くの場合、死をまじかにすると俗世間的な我欲というものは急速に薄らいでゆきます。それはその人の魂が優位に立ち神性(意識レベル)が上がってくるのです。だからお迎えも見えるようになるのでしょう。同時にその人にもいくつもの気づきが来ることもかんがえられます。今まで生きているときには、判らなかったことを自然に理解できるようになったりします。

 上のような状態になれたなら、ある意味ではもう心配する必要はありません。それは死というものを素直に受け入れたということなのです。その人の魂は死後のステップを通って安らぎの場に行き、いずれ次の人生の計画を練ってまたこちらに戻ってくるのです。

 さて、落ち着いて死期を迎えることが出来なかったらどうなるのでしょうか?そのような場合の方が厄介ではあります。どのようなケースが考えられるでしょうか。まず本人が何かにすごく執着を持っている場合がもっともその可能性が高いのです。それような執着の多くはきわめて現世的な欲望であることが多く、その意識が強いと死期をまじかにしても神性(意識レベル)が上がってこないのです。その様な場合、せっかく親しい人などが迎えに来ていてもそれに気づくことも出来ません。お迎えの人が恐怖をなくす様にいろいろと手をうってくれてもそれを無視してしまう結果になるのです。

 執着が強い場合、どうしたら良いのでしょう。出来るなら本人がまだ生きているときにそれに気づくことが好ましいことなのです。なぜかというと、その様な執着はこちらの世界にいる間に手放す必要があるからなのです。死の後は住む世界が変ってしまうのですから、こちらの世界で作った執着を別な世界で手放すのは大変なことなのです。これは執着とよばれるものだけではありません。例えば生きている間に迷惑をかけてしまった誰かに謝りたい。とか、誰かと仲直りしたい。なども生きている間に解決しておきたい問題なのです。その様な想いは、別の世界に行っても想いとして残ってしまい。それを解決する為に次の人生の計画の中に、その解決を盛り込まなければならなくなってしまうのです。もちろんそれは誰に強制されるというものではなく、そうしないと気がすまないというレベルの話なのです。結果的に、死ぬ間際までに解決できなかった問題は次に持ち越しということになり、次の人生に余分な制約をつくってしまうことになるのです。

 本人が何かに執着しているとか、心に引っかかっているものがあると感じた場合、送る方としては一応そのことに話を持っていって見てください。上手く行くとは限りませんが、何もやらないよりずっと良いとおもいます。本人は一旦は怒るかもしれません。しかしきっかけとしては大事なことだと思います。人間というものは、そういう時は段々と素直になっていくのです。それは先ほどの意識レベルが上がってくると言うことなのです。例えば、いままで普通に生きているときにはいえなかったようなこと、謝罪の言葉や感謝の言葉、そして愛の表現などもその時には出来るのです。極端に言えば、人が変ったと思えるくらいの違いが出てくるのです。それが生きている間に心の中にためてしまった、想いを昇華するチャンスなのです。

 もし本人が誰かに会いたがったのなら、出来るだけ会えるようにしてあげてください。それはすごく大事なことなのです。もしどうしても会えないのなら、手紙を書くように誘導してあげてください。本人が書けないような状態なら、代筆でも良いし、テープレコーダを使っても良いでしょう。そこで本人が生きている間の清算が出来るようにしてあげてください。

 本人が誰に言うべきことを伝えるなどが出来ると、そのひとの意識レベルはまたあがります。その意識レベルは死後に、どのような世界に行くのかということにも関係があるのです。どこに行くのかは、その人の意識レベルが決めるからなのです。

 さてさて、現実的な話として、こちらの世界に執着が強すぎた為に俗に言う成仏できずにこちらの世界にずっと留まってしまう人たちもいます。それは肉欲に溺れたり、酒に溺れたり、はたまた暴力的な意識が強すぎたりした場合なのです。このような状態になるのは、かなり特殊な状態だと思います。それに準備するまもなく突然死んだ場合などが多いと思われるので、ここでどうしたらいいかというのは、難しいのですが、基本的にはいつまでもこちらの世界にいて、意味も無くふらふらしているより、早いとこ成仏して、次の人生を楽しむ計画を立てたほうがずっと良いということを理解することが大事なんです。

 送る立場の人にとっても、実は同じような意味があります。本人にいえなかったことを直接伝える最後の機会なのです。同じ意味で思い切って、気持ちを伝えましょう。実際は亡くなった人は残された人の気持ちや考えていることは全て理解できる状態になります。しかし、相手に伝わるということと、直接表現するということでは、やはり違いがあるのです。

 どちらにせよ愛を表現するには、それはチャンスなのです。その時を逃してしまうと、同じ愛を表現する機会はしばらくやってきません。表現したい愛を感じていながら、それを言い出せなかったというようなことが無いようになってほしいものです。

 最後に、とても大事なことなのですが、出来るなら本人に自分自身を愛して欲しいのです。それは「自分自身を全面的に許す」ということなのです。そしてそれは過去を過去として終了させるという意味にもなります。許すことが愛であると理解していれば、次の人生で自らをつらい境遇にするようなことは避けられます。自分をいじめることが愛では無いのですから、俗に否定的なカルマというものは、本人が自分自身を許せない為に余分なこだわりを持って新たな人生に制約を付けてしまうことなのです。それはそれを選ばなければ避けれることなのです。そのことを理解することが大事なのです。それは自分を愛するということと同じ意味なのです。

 残される人は、悲しむ必要はありません。無くなる人の魂は自由な中で今までの苦痛や苦労から開放されるのです。送る言葉は、「ありがとう。」で良いのです。いつまでも一緒にいたいとか、死なないでというのは、本人が気持ちよく新たな生活に向かう為には、かえって好ましいものでは無いのです。執着を生むようなことは出来るだけさけてほしいのです。死ぬということは、決して全ての終わりというわけでは無いのです。むしろ新たな旅立ちをするということなんです。それを応援してあげてください。

(2004/08/11)


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