神の部分 (第156話)

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 私達は「全てのもの」である神が、自分自身を体験する為に神自身の中に作った相対性の世界という幻想の中にいる訳です。それは言うまでも無く私達が神の一部だということなんです。神を「全てのもの」と定義するということは私達自身がその部分であるということを定義するということなんです。まあ、あまりにも当たり前すぎるようなごく単純なことなのですが、そのことすら単純にその様に考えられないケースが多いというのも、私達がいかに幻想にはまり込んでいるのかということなんです。

 神は「全てのもの」で、自分自身を体験する為に世界(各種の宇宙など)を作ったわけなのですから、神はその全てを体験しているということなのです。しかし「全てのもの」のままでは直接いろいろな体験をすることは不可能なのです。例えばですが、謎解きをしようと思っても、その答えを知っていたのなら謎解きを楽しむ(体験する)ことは出来ないのです。そこで神は自分自身の一部を各部分に分けて様々な体験をしているのです。そして言うまでもなく、各部分に分かれて様々な体験をしているのが私達なのです。私達は「神の部分」なのです。

 今まで何度も同じ事を書いてきたような気がします。でも繰り返しますね。なぜならここで書いているのは答えでは無いのですから。答えではないということは何を意味しているのでしょうか。それは私達が自分自身をどのような神の一部であるのかをひとりひとりで定義する為に、まず前提として理解しておかなければならないことだからなのです。私達が神の一部であり、それは神々の一員であるということでもあるのですが、それを前提にして始めて、自分自身とはどのような存在(部分)であるのか定義することが出来るのです。

 自分とはどのような存在で在るのかをなぜ定義するのかというと、私達の魂が自分自身とは何もので在るのかということに関心を持っているからなのです。もともとどうあがいても神の一部なのですが、それでもどのような神の一部でいるのかということは自由意志に任されているのです。だから魂は神の中でどのような部分でいるのが楽しいのか、いつも探しているのです。自分が宇宙の中で、どのようなポジション(セクション)に位置する、どのような存在で在るのかということなのです。それは「すべてのもの(神)」の中で、どのような部分であるのかというレベルの話で、表面の意識からみるとかなりスケールの大きな視点で考えているのです。

 さて、話を少し変えます。神が全てのものであるということは、その中に全ての体験が含まれていて、そして誰かがその体験を経験していると言うことになります。それは誰かが加害者をやっているし、誰かが被害者をやっているということでもあります。加害者はその行動で神の一つの側面を体験しているし、同時に被害者も神の代理でその経験をしているということなのです。双方とも神の体験をしているのです。双方とも神の一部なのですから当たり前のことですよね。

 ここで疑問を持つ人も出てくると思います。加害者はおよそ神らしくない行動をとっているのに、それでも神なのか?というような疑問か、それがすこし変化した疑問だと思います。この答えとしては、まず善悪という価値判断を離れてみることがひとつのポイントなのです。加害者はそれなりの役目をこなしているのです。その野蛮な行為を行うことにより、神の一部の側面を表現しているのです。だから、彼も神なのです。神というものは全てのものなのですから、その中にはきわめて野蛮な行為も含まれているし、それがあるためにその分だけ神の世界も広がっているのです。しかし、野蛮な行為と言うものは神性が高いというわけではありません。それは最も神性の下がった状態での神だと理解する必要があるのです。

 まだ納得できない人がいると思います。変な言い方なのですが、この部分は逆に簡単には納得して欲しくない部分でもあるのです。それは、それだけ重要なことであり、良く自分自身で吟味してから納得して欲しいということなのです。上の話をもう少し続けますね。どんなに極悪人でも、その行為や思考は神の身体をつくっているということなのです。もちろん俗に悪いといわれているようなことばかりではありません。私達の思考や行動全てが神の身体を構成しているのです。なにしろ私達は全て神の一部なのですから、これも当たり前のことなのです。

 さてもう一つすごく大事なことがあります。それは私達の誰一人として他の人と同じではないということなのです。それは一見すると似た体験であっても、他の人が全く同じ体験をするということはないということなのです。なぜ大事なことかわかりますか?それは全ての人間(存在)が、全くのオリジナリティをもった経験をしているということで、それぞれが確実に「体験としての神の身体」を構成しているということを意味しているのです。もう少し普通の言葉で書くと、全ての人間(存在)が特別な存在だということなのです。それは私達の全てが、神にとって欠けがいの無い存在であるということなのです。もしも私達のうち誰か一人でも存在しなかったとしたら、世界はその部分が欠けた状態に成っていたということなのです。それは「全てのもの」が、今あるよりもずっと小さかったと言うことになるのです。

 上のことは何を意味していると思いますか?それは、私達が何をやっていても、存在しているということだけで、神の役に立っていると言うことなのです。だから、もし何も理由を見つけることが出来なかったとしても、自分を愛することが出来るのです。それはそのように認識できれば喜びの素になるのです。もっと神を喜ばせることも出来ます。それは私達が喜びでいることなのです。私達は神の一部なのですから、私達が喜ぶと言うことは、とりもなおさず神が喜ぶということなのです。親になった経験がある人ならわかるでしょう。親にとって一番嬉しいのは、子供が喜ぶことです。それは理屈ではないですよね。私達が喜んでいるとき、神が喜ぶのは当たり前の話なんです。

 私達は、生きているだけで神に貢献しています。そして命は永遠になくなることは無いのですから、当然何をやっても、またやらなくてもそれなりに貢献しているということに違いは無いのです。それは「やらなければ成らないことなど、ひとつも無い」ということなのです。それに実際いつかはやるんですよね。なにしろ時間はたっぷりあるのですから。

 話をすこし戻します。神性の高さの話に戻りましょう。実は喜びでいるというのは、それ自体が神の姿勢であって、神性が高い行為なのです。先ほどの加害者の行動について考えると、その行動は神性が高いというわけではありません。さて、加害者のように神性の低い状態でいることでも、神に貢献しているのなら、それでも良いのではないのか?と考える人もいるでしょう。全て承知の上でそのままでいるのなら、それはそれで良いかも知れません。でも大事なことを忘れてはいけません。誰かに何かをした場合、それは自分自身に返って来ると言うことです。それは加害者として発したエネルギーが宇宙を一回りしてきてまた自分自身に戻ってくるということなのです。それは自分自身を苦しめるということに他ならないのです。まあ、それを承知で加害者でいることを選ぶのならそれはそれで良いでしょう。それはそれで宇宙に貢献しているのですから。

 さて、少し話を整理しましょう。私達は何をしても良いのですが、その結果の責任は自分で負わなければなりません。それだけのことなのです。その為にという言い方があっているか難しいのですが、自分の為に、どのような自分でいたいのかという自分自身に対する問いかけが必要になってくるのです。自分がどのような自分でいるのかは自由なんですから、自分の在りたい自分でいれば良いのです。くどいですが、それはあくまでも自己責任なんですけどね。

 もし地球人のほとんどが神性に目覚め、程度の低い行動をしなくなったらどうなるでしょうか?「全てのもの」の一部がなくなってしまうのでしょうか?その様な心配はいりません。すでに過去の記憶の中に愚かしい記憶が残っています。それにどうしてもまだその様な経験を続けたいという人がいたとしたら、宇宙の別の神性の低い世界に転生することも出来るし、過去に戻るというてもあります。パラレルワールドを考えても良いし、その点では困ることなどは無いのです。

 私達にとって、すでに体験を済ましている神性の低い経験をいつまでも続けることが良いことでしょうか?それは各人が自分で決めれば良いことなんです。

 私としては、「全てのもの」という巨大な一つの生命(いのち)の中で、自分自身が納得できる自分の在り方を見つけることが、一番楽しいことだと思うのです。

(2004/08/17)


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