否定 (第160話)

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 「否定」をテーマに書きます。通常だと否定という思考や行動は、ネガティブな分類をされるでしょう。もともと何をもってネガティブというのかも人によって違うのですから難しいものがあるのです。変な言い方を承知で書きますが、ネガティブと言われているものが、本当にネガティブなことなのかという検討も必要になるし、ネガティブは良い事だというケースもありうるのです。まあ、気が向いたらネガティブについて書くかもしれませんが、今回は「否定」ということを中心に考えてみます。

 もともと否定という言葉の意味は、それは正しくないと判断し、それを表明することです。ということは、もともと人によって何が正しいのかが異なることを前提に考えると、この否定自体も個人的な解釈としてしかありえないと言うことなのです。だから言葉を変えて否定を説明すると、「私はその様には思わないよ。」という意味なのです。

 いきなり何を言いたいのかややこしくなってしまいました。もう少し補足します。もともと真実は人によって異なるのですから、否定といっても、本来なら「私はその様には思わないよ。」というのが、最も過激?な意志表明であるくらいが好ましいのです。それを「貴方は間違っている。」というような形で否定を考えた場合には、それは単なる否定だけではなく、「攻撃」も含まれてくるのです。攻撃の要素は、その表現の仕方によりかなり変ってきます。そしてときには、攻撃が99%で本来の否定は1%しかないというケースもあったりするのです。

 今回、否定について書いているのですが、攻撃の要素はある意味論外でもあるのでここでは考えないことにします。

 さて、本題に入ります。最終的には「否定」の意味を考えることになるのですが、その前にちょっと余談ですが例を書きます。ガレリオが地動説を唱えたときを想像してみて下さい。ガレリオは当時の人たちから「否定」されたのです。何故でしょうか? 理由は簡単なのです。まず最初にガレリオがそれまでの常識を否定したからなのです。このガレリオの話をもう少し突っ込んで説明します。

 もともと人になしたことは、自分にしたことになるのです。要するに自分が放出したエネルギーが帰ってくるのです。ガレリオの否定も同じことが起こっていたんです。まずガレリオが地動説を考えたとき、今までの常識は間違っていると考えた訳です。まあ、当たり前の成り行きですよね。地動説を唱えるということ自体が当時の常識を否定するということなのです。そしてガレリオは常識を否定したのです。そしてその結果として宇宙の摂理が働いて、ガレリオに否定的なエネルギーが帰って来たのです。それは当時の人々がガレリオの地動説を否定するという形で表面化したのです。

 いろいろな視点から考えることが出来ます。人によっては、「当時の常識があまりに幼稚だったから悪いのであって、正しいことを言ったガレリオが悪いのではない。」と考える人もいるでしょう。それについて私の意見を書きます。当時の常識が幼稚だといっても、それは相対的に比較した場合の話なのです。実際、今現在の常識も幼稚な部分が多くて大した違いは無いのです。ガレリオの地動説に反対したからといって、当時の人たちが悪いわけでは無いのです。当時の人たちは、自分達で気づかずにガレリオが放出した「否定のエネルギー」をガレリオに返しただけなのです。じゃあ、ガレリオが悪いのか?というと、そんなことも無いのです。ガレリオは地動説を唱えることで人類の進歩を進めたわけで、その過程で古いものの一部を否定することはどうしても必要なことなのです。結局はだれも悪くは無かったのです。

 さて、上のことをふまえてもう少し考えてみましょう。「否定」自体は時として必要なことなのです。とくに何かを進歩させようとしたら、それまでのもの少なくとも一部は「否定」することが必要になります。だから誰でも自分の真実において何かを否定するというのなら、それはそれでOKなのです。でも気をつけなければなりません。「否定」は「攻撃」に変り易いのです。その人が出したエネルギーと同じものが帰ってくるのですから、「否定」のつもりで「攻撃」してしまうと、今度は「攻撃」されると言うことになるのです。だから、賢いやり方としては、「否定」はしても「攻撃」しないことなのです。それにその案件が自分自身の在り方に影響を与えてしまうような場合、言い換えれば自分が自分らしい自分でいる為に障害になる場合以外には、否定する必要も無いのです。気にしない(無視する)というのが、賢い方法なのです。

 もうちょっと過激なことを考える人がいるかもしれません。「進歩する為に障害になるような宇宙の仕組みはおかしいのではないか。」と、考える人も少数いるかと思います。その部分をもう少し説明します。ガレリオが「否定」のエネルギーを放出したとき、同時に否定ではない前向きなエネルギーも送っているのです。それは真実をハッキリさせて、人類が進歩することにたいする意欲といったら良いのでしょうか。その様なエネルギーもガレリオに帰ってきているのです。それはガレリオにとっては、自説を強化するような働きに作用するのです。少し別な言い方をすると、ガレリオは自説に反対されることによって、そこからエネルギーを受け取っていたと言うこともいえるのです。まあ、どちらにせよ、ガレリオにせよ、反対の立場に立った人たちにせよ、それなりに必要な体験が出来たと言うこともなのです。総合的な視野に立てば、結局のところ完璧なのです。

 同じ「否定」であっても、「自己否定」ということになると、状況はかなり変わります。最初に書いたように「否定」とは、「私はその様には思わないよ。」という意味なのですから、自分を否定するということは本来なら不可能なことなのです。うまく説明しにくいのですが、自己否定は「自分が考えていることを、それは私が考えていることではない、と考えること」になってしまい、無理が出てくるのです。そしてそれをしようとすると、自分自身を傷つけるという結果しか残らないのです。だから自己否定はしてはいけません。もともと真実は人によって異なるわけで、自分自身を否定する必要など全く何も無いのです。

 「自己否定」について、ちょっと補足しておきます。「私は何をやってもだめだ」と考えている人がいたとしますよね。そういう人は、自己否定しているのではなく、無力な自分を肯定しているのです。それは自分はいつまでも無力でいたい、と考えていることなのです。ですからそういうのは本当の意味での自己否定では無いのです。まあ好ましくない考えであることは同じなんですけどね。

 まとめます、何かを否定したくなったら、それは否定しても良いのです。でも攻撃に成らないように気をつけてください。何かを否定している自分を感じたとしても、それは自分が自分であるためにそれをやっているのであって、何かを否定しているということで自分自身を責める必要は無いのです。むしろ頑張って何かを否定しようとしている自分自身を祝福しても良いのです。それは自分自身の強さを表しているのですから。とはいってもできるなら進歩のための否定であって欲しいものです。進歩を阻害する為の否定は良い結果にはなりにくいですから。

(2004/08/26)


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