経験(体験) その1 (第161話)

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 ガレリオの話の関係で、例えば私達はどのように地球が太陽の周りを廻っているということを経験するのでしょうか?というニュアンスの質問をいただきました。実に鋭い質問だと思います。もっとも質問をくれた人はそのこと直接のことを聞きたいのではなく、今まで何度も出で来た「経験」ということについて、もう少し突っ込んで意見を聞きたいということなのです。というわけで、「経験」あるいは「体験」という言葉で私が書いている意味をもう少し詳しく書くことにします。

 私が「経験」あるいは「体験」という言い方で話をしているものは、具体的に何々をやったことがあるという意味で使っているのではありません。「知識(哲学)は体験を通して、真実になる。」と説明した方が良いでしょう。霊的な意味での体験とは、それを自分自身の真実にする過程で行われる自分自身の内的作業のことを言っています。かえって解りにくかったりしたらごめんなさい。

 例を上げてみましょう。私の子供に「カラスは何色か知っている?」と聞いてみたんです。返事はちょっと考えた後で、「普通は黒だよ。」というものでした。ちょっと子供の心理を憶測してみましょう。「普通カラスは黒いと言うけれど、そんな質問をするというのは、もしかしたら何か意味があるかも知れない。本当は黒ではなく微妙にほかの色なのかも知れない。でもまあ、普通は黒というな。」というような感じでしょうか。まあ一般的にはカラスは黒いということは知られている事実なのです。さて、ある人がいたとします。その人が出会った人100人中100人が「カラスは黒く見えるけど、本当は紫なんだよ。」といったとしたらどうなるのでしょう。最初のうちは、「カラスは黒っぽく見えるけど、近くでよく見ると紫に見えるのかもしれないな」という程度に考えるのでしょう。でもいつしか、その人がカラスの色を聞かれたとき、自信を持って、「カラスは黒く見えるけど、本当は紫なんだよ。」と答えちゃったりするんです。

 そんなことあるかなあ、と思う人も多いでしょう。でも、同じような実例もあるのです。私達が子供の頃、信号の色は、赤、青、黄色と習いました。親切にそういう歌まで習ったりしたのです。「青になったら進め」というのが頭の中に深く浸透していたのです。当然のことながら、信号の進めの色は?と誰かに聞かれたら、青と答えたでしょう。でも実際は青ではないんですよね。かなり昔の話ですが、私自身が信号の色が青ではなく緑だと気がついたとき、ちょっと驚きました。ずっと青いと思っていたのです。(実際は緑でもなく、青緑が正しいと思います。)

 全然本題とは関係ない話で恐縮ですが、日本人は青と緑の区別が曖昧なところがあって、昔は緑のことを青と呼ぶことも多かったようです。例えば青大将という蛇はきれいな緑色をしているんですよね。その場合の青は明らかに緑色を意味して使っているんです。

 話を戻します。信号の緑を何故、青として認識してしまっていたのでしょうか?みんながそう言っていたからなのです。それをちょっと大袈裟な言い方で言い換えてみると、「信号の進めの色を青と呼ぶ現実社会を経験していた為に、信号の色は青だと思い込んだ」と言うことになるのです。さて、やっと本題です。ガレリオの地動説と天動説の場合はどうでしょうか?当時の人が普通に考えると天動説の方が正しく思えたでしょう。なにしろ太陽も星空も実際に自分達の周りを廻っているのがみえるのですから、それはその人たちにとっては真実なのです。彼らは天動説を正しいと考える社会を体験していたのです。その社会体験を通して、天動説を信じていたのです。

 さて、体験の一つのパターンがここにあります。社会体験という間接的な体験を通しても真実を作るという作業が行われるのです。それを簡単に言ってしまえば、みんながその様に考え、そう言ったりしているとその体験を通して、それが真実に見えてくるのです。かっての地球で、地獄が信じられたのも、カルマが信じられたのも、いつの間にか多くの人がそれを言うようになった為に現実に見えてしまったということなのです。

 さて、前々話で書いたのですが、地獄などないという体験をどうしたら出来るのでしょうか?理屈は同じことなのです。地獄があると考えている人とは付き合わない、地獄など無いと知っている人と社会体験を共有すればいいのです。もっとぶっちゃけた話でいうと、私のページの中で、地獄など存在しないと私が書いたものを読むのも体験になるのです。もちろん私ひとりの意見だけではまだまだ足りません。他の人で地獄など無いと言っている人の文章を読むとか話をするなどの、社会体験を積み重ねれば良いのです。もともと地獄があるという体験も、そこに行ったわけでは無いのですから、同じように社会的な体験から作り出されたものなのです。このような体験のひとつひとつの効果はそれほどでも無いのですが、繰り返されることによって、その影響は大きくなるのです。

 このような体験は実はシンプルではありますが、非常に重要でもあります。もし覚醒して神々の仲間入りをしたいと思っているのなら、深い付き合いをする人は限定した方が良いのです。私達が神々の一員であると考えていない人達と、あまり多く社会体験を共有することは、自分自身が神であるという体験を望んでいる場合にはマイナスに働いてしまうのです。今までの話をもう少し別な言い方ですると、私達は集合意識の中での真実に影響されてしまいやすい、と言うことになるのです。

 付き合う人(社会体験)により、自分の真実を作るということに関して、もう一つ補足しておきます。実は、人の話を聞くよりも、人に話すほうが真実を作るうえでは有効なのです。わかり易くいえば、人から「地獄など無いよ」と言われるより、人に「地獄など無いよ」と話す方が、何倍もその効果が高いのです。私は私の意見をこの「魂の部屋」で書いている訳なのですが、それを読んだ人がそれを受け入れて自分の真実にする効果よりも、私自身が自分の書いたことを私自身の真実として強化するという効果の方がはるかに大きいのです。なぜそうなのかという説明はちょっと難しいんです。それこそ体験してみればわかることなんですが。

 考えてみてください。100人の人から「地獄など無い」と言ってもらうより、100人の人に「地獄など無い」と言う方がずっと簡単ですよね。そしてその方が自分自身の真実を強化する力が強いのですから。覚醒の為には、自分自身の中の制限を取り外し、新たに自分自身の定義をしなおし、それを自分の真実にする必要があるのです。ここで書いた方法は、その為の基本テクニックだと思ってください。それでもある程度は話す相手は選ばなければなりません。明らかに反発が返ってくるような人にそれをすると逆効果になってしまうこともあります。だから付き合う人、一緒にいる人が大切なんだということになるのです。

 体験を他の人に話すことを「シェア」といいます。この意味はもうわかりますよね。自分の体験を話すことで強化するのです。そしてそれを聞いた方もそのおこぼれにあずかることが出来るというわけです。シェアとは、聞く人のためでもあるのですが、それ以上に話す人の為になることなのです。考えてみると「魂の部屋」も、シェアなのでしょうね。
(余談なのですが、実はこの原稿を書き終わって読み直しているときに、「シェア」というタイトルのメールをもらったんです。その時までシェアという言葉なども忘れていて、当然この文章にも入れていなかったのです。誰からのメッセージか判らないのですが、「シェアのことを書いた方が良いよ。」という意味のメッセージなのでしょう。というわけで、このシェアの部分を後から追加したのです。これは私にとって一つの体験であるのですが、この出来事の意味をどのように解釈して、どの部分の自分自身の真実の強化につなげるのかというのは私の自由でもあったりするのです。今回の場合は、全てがひとつであることの表れとして解釈することにします。誰かが私の文章を監修していると考えることも出来るのですが、、)

 ガリレオに話を戻すと。彼が「太陽が地球の周りをまわっているのではなく、地球が太陽の周りをまわっているのだ。」と人に説明するたびに、彼の中で地動説の信念が強化されていったのです。もっとも私はガリレオではないので、実際のところはもちろんわからないです。でも、私がこうやってガレリオのことを書くことにより、私の中ではガレリオもそうだったに違いないという確信が強まってゆくのです。まあ、結局はそんなものなんです。

 もうひとつ、別な補足をしておきます。その様に考えているということで、同じように考えている人を引き寄せるケースがあります。それは考えることで、その思考エネルギーを放出しているから、同じ体験を求めている人と出会うということになるのです。例えば、「地獄など無い」ということを体験したいと考えていた場合、同じように「地獄など無い」ということを体験したいという人と出会います。そして互いに、「地獄など無いんだよねえ。」などと話になったりします。あくまでも例えばなのですが、美術館などで地獄絵図などがあったとして、それを見ているときにたまたま話をすることになった人と、「地獄などというもので脅かされて、昔の人は自信をなくしちゃったんですよね。」とか話をすることになったりしたら、それはそれで立派な体験になるのです。もちろんこれはあくまでも私の想像で、実際にそういうことがあるかも知れないという程度の話です。

 あらためて書いておきます。唯一絶対の真実などというものは存在しません。真実とはひとりひとり違うのです。そして私がなぜそれを重要視しているかというと、自分自身の真実は自分で作ることが出来るのです。それをしないと真の覚醒の状態に自分を持っていくことが出来ないのです。ただ漠然と自分の前にある現象だけから自分の真実を組み立てていくと、覚醒など考えることも出来ないのです。

 体験について書き始めたのですが、体験の中でも「社会体験」について書くだけで、かなり長くなってしまいました。もちろん実際に何かを体験することで、気づきを得て、それを叡智にするという場合は、「感情的理解」の為の感情的経験が必要になります。それについては、その2ということにします。

(2004/08/28)


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