経験(体験) その2 (第162話)

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 前回の続きです。

 全ての体験は自分自身の真実を決める為の材料になります。そして自分自身の真実がどのようなものであるのかということは、とりもなおさず、その人がどのような存在であるのかを示しているわけです。全ての出来事は、自分自身がどのような存在であるのかを、宇宙に示す機会(チャンス)であると「神との対話」にも書いてあるのですが、それをあわせて考えると、私達は、体験することにより、自分自身を構成しなおしていく、新しい自分自身を創造し続けているという作業を続けているということになるのです。

 私達は、自分自身の魂というスタンプカードに経験から得た叡智を記録させることで、自分自身を作り上げているのです。そしてその過程で重要なことが、経験(体験)するということなのです。前回は社会的な体験について説明したのですが、今回は個別的な体験について書きます。

 個別的な体験というものは、いわゆる普通でいうところの体験なのです。例えば、仲間はずれにされたことが無いと、その時にどのような気分になるのかということは理解できません。喧嘩をしたことが無ければ、それがどういうものなのかはわからないのです。まあ全ての基本的な感情などは実際に体験してみないとそれがどのようなものなのか理解できないのです。まあここの部分は当たり前すぎるくらい当たり前のことですよね。

 さて、基本的な感情や体験について、それを終わらせたかどうかと言うことは、先ほど書いた魂というスタンプカードに記録されるのですが、それが上手く出来ないと、同じ体験をいつまでも続けるということに成ってしまうのです。

 魂(狭い意味で精霊は含まない)は、感情の記憶装置なのです。これは感情というデータを完全な形で記憶することが出来ます。体験を終了したときには、心の中でその感情がおこり、それを魂が記憶するという手順がふまれるのです。そして一度記録された体験の記録は「叡智」とよばれるその人の賢さとして永遠に記憶されるのです。この過程のことを感情的理解といいます。

 全ての体験は感情的な理解として、自分自身に叡智をたくわえる為に行われているのです。ですから感情的な理解が無ければ最終的にそれが終了したことにはならないのです。感情的な理解についてもう少し書きましょう。

 ガレリオの話の延長で例を考えてみましょう。地球が丸いと言うことは、まず最初に社会体験により教えられます。まあ学校の先生からその様に聞くということで考えてください。その段階では、「先生が地球は丸い」というから、丸いのだろうという段階なのです。このときにはまだ感情的な理解にはなっていないのです。その後で、先生が地球儀を持ってきて見せたとします。生徒はその地球儀をみて、「おお、なるほど地球はこんな形をしているんだ」という様に、地球が丸いことをより体験的に、感情的にとらえるのです。それにより多くの生徒は感情理解において地球が丸いということを知るのです。しかしまだ続きがあります。まだ全ての生徒がそれで納得するというわけでは無いのです。そこで感情的な理解までしなかった生徒もいるはずなのです。その様な生徒はいずれ、アポロなどで宇宙から地球を写した写真や映像をみて、「ああ、やっぱり地球は丸かったんだ。」とはじめて納得したりするのです。実際のところ、私達の世代の場合、宇宙からの写真をみて本当に地球は丸かったんだと感じた人も多いと思います。(私もそうだったんです。)

 ちょっと余談ですが、地球儀の段階で感情的理解をした人の中の一部の人は、実際に赤道の線が地球に入っていたり、国境に線が引いてあるというように勘違いすることもありえるのです。なにしろ感情的な理解をしたときの地球にいろいろな線が引いてあったのですから、その様に考えてもなにも不思議なことでは無いのです。まあ、どちらの場合も私達の感情的理解というものをしるうえでは、参考になる事例だと思います。

 感情的な理解ということを、もう少し別な視点から説明すると、私達の体験で(頭脳が)知った情報を感情(フィーリング)という魂の言葉に翻訳して覚えるということなのです。何しろ魂の中では日本語を使っているわけではありません。フィーリングという全宇宙共通語を使って記録されているのです。だから体験を終了するということは、自分自身の中に特定のフィーリングを作り出すという意味なのです。

 先ほど書いた、同じ体験を何度も繰り返すというケースの場合は、感情的理解がされていない為に、なんども同じような現実を自分の周りに作り出してしまうということなのです。では、なぜ感情的理解が出来なくなってしまうのでしょうか。いくつかの原因がありますが、基本的には表面の意識がそれを邪魔してしまっていると言うことが出来ます。

 「べき論」というのも、その障害になります。例えば「べき論」の強い人が「人生で失敗などは許されない」と考えていたとします。そういう人は、自分の失敗に分類されるような体験があったとしても、それを素直には認めるようなことはしません。失敗したと考えることを極力嫌っているのですから、心の中でいろいろと理由を作ってその体験を捻じ曲げてしまうのです。それがごく些細な失敗を含んだ教訓であっても、失敗自体を避けているのですから、その体験を直視しないで無視してしまうのです。その結果どうなるかはわかりますよね。その時の経験は感情的に翻訳されること無く、無駄になってしまうのです。それはその人が自分の成長のチャンスを見逃したということであり、同じテーマの体験をその意味に気づくまで繰り返さなければ成らないという意味でもあるのです。

 まだ他にもあります。何でも他人のせいにする場合です。言い方を変えると自分が被害者だと考えている場合なのです。霊的な現実においては、自分自身の身の回りに起こる全てのことは自分自身が何らかのエネルギーで引き寄せているものなのです。体験という出来事も当然のことながら、自分自身が自分自身のために引き寄せているのです。これはわかりますよね。それは自分に起こったことの全ての責任は自分自身にあるということなのです。くどいですがもう一度書きます。表の意識では認識していなくても、自分自身がその体験を必要としているから、その出来事が起こっているのです。だから、自分は被害者で自分自身には何の責任も無いと考えているということ自体が問題なのです。それは何かの出来事の結果を感情的に理解する前に、怒りや同情を求める気持ちに変えてしまうのです。それでは感情的な理解として体験を終了させる暇など無くなってしまうのです。

 悪いことに、自分に責任があるとは思いたくないようなこととは、自分にとって好ましくない現実であることがほとんどです。本当はその様な体験ほど早く済ましてしまって他のもっと楽しい体験をしたいところなのですが、結果は逆になってしまうのです。(感情的理解という)最後まで体験しなかったので、その必要な体験はまだ終了していないのです。このような場合どうしたら良いかというと、失敗を味わってしまえば良いのです。すごく悲しいかも知れません。つらいかも知れません。でも一度それをしてしまうと、それは魂に記録されてもう同じ事を体験する必要はなくなるのです。そしてその記憶が叡智となってその人を大きくするのです。「我に困難を与えよ」と言った人がいました。それはそういうことを踏まえてのことなのです。

 実は感情的理解と叡智とでは、そのレベルにおいて違いがあります。そのこと少し説明します。争いという観点で考えてみましょう。争いとはなにかは、いちど争ってみれば判ります。どのような事を争いというのかは、いくつかの種類の争いを実際に体験することによって感情的な理解に達することが出来ます。さて争いというものがどのようなことかは分ってもまだそれだけでは終了にはならないのです。それは争いというものがいかに不毛で、双方を傷つけるもので在るのか、争いが最終的にもたらすものとは何なのか、そして争いをつうじては勝者などはどこにも存在し得ないということを、何度も争い続けながら体験的に感情的な理解を積み重ねたうえで、はじめて「どんな理由であろうと、争いごとは好ましくない」という叡智として記録されることになるのです。

 今、戦争をやっている人たちはどうでしょうか?生活の為だと言いながら、争いを続けている人はどうでしょうか?簡単に言ってしまえば、まだ争いごとの体験の途中なのです。なぜなら、自分の主張を通す為なら争うことは正当なことだと考えているのですから。その様に考えている限り、争いは続くのです。当たり前ですよね。止めようとは思っていないのですから。そしてその人たちは叡智として記録されるまで、続けるのです。問題は、欲に目がくらんでいたり、「べき論」で考えていたり、他人に責任を押し付けて怒っていたら、それを叡智として完了することが出来ないのです。補足しておきます。私は加害者のことばかりを言っているわけではありません。被害者も基本的には同じなのです。被害者の体験も加害者の体験と本質的には同じエネルギーなのですから。

 感情的理解というものも、ある程度の段階があるということは理解できますよね。私達に起こってくる全ての体験は、感情的な理解を積み重ねて、知っている状態にもって行くためにあるのです。そして、その人が何を知っているのかということが、その時点でのその人をあらわしているのです。

 さて、特殊なケースなのですが、感情的なデータから体験が始まる事もあります。例えば、瞑想中や霊的な夢のなかで何かを思い出したとします。そこで思い出したものは感情的なフィーリングなのです。それもやはり実際に体験してはじめて魂に記録されることになります。その過程は人のよりいろいろと考えられるのですが、私の場合などでは、時間を掛けて思い出し、それをこのページに書くなどして体験に変えているわけなのです。人によっては、直感的に感じた段階で、感情的な理解にまで消化できる人もいるかもしれませんが、私の場合はけっこう面倒な手順をふんでいるのかも知れません。まあ、それが私のスタイルなのだと考えていますが。(このような場合、すでに感情的な理解が済んでいる場合もありえます。)

 もうひとつ、体験のもとになるものがあります。例えば私が「神との対話」で読んだことが実際におこったりすることです。私のページを読んだとき、それにタイミングを合わせてそれを裏づけするようなことを体験している人もいると思います。そのようなことは自分でリクエストを出しているんだと考えてください。その方法は、「思い巡らす」ということなのです。一体何を書いているんだろう、これはどのような意味なのだろうと意識が思いをめぐらすことで、それを理解する為の体験が訪れてくるのです。それの思い巡らした内容が霊的な内容であったのなら、それは霊的な体験として現れることが多いでしょう。まあ、それはひとそれぞれなのです。自分の潜在意識がどのような現実をリクエストしているのかは、その人の問題なのです。もしそれに気づいたのなら、それを自分が起こした小さな奇跡だと考えて味わってください。味わうことで感情的な理解がされるのです。ちなみに「神に質問する」というのも、同じことなのです。その答えは体験として返ってくることも多いのです。

 体験というものは、普通に生活していれば自然に自分におとずれてきます。大事なのは、それを自分の体験として感情的な理解にしてしまうかどうかと言うことなのです。それは、あるがままに生き、人生を楽しむ、という心構えでいることで、感情的理解が効率よく行えることだと思います。いろいろな欲や必要性という幻想にとらわれていたり、べき論や被害者意識は障害になってしまうのです。

 どんな体験でも、楽しんでください。

(2004/08/29)


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