「二元論」と「聖なる二分法」 (第163話)

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 二元性についてご質問をいただきました。これに関しては以前からすっきりしないものを感じていたのですが、質問を機に考えてみました。そして気がついたら、それが私が思っていた以上に重要なことだったのです。

 さて、話の前に少しだけ余談を書きます。最近感じているのですが、「神との対話」に書かれていることは、かなり革新的な内容なのです。そこに書かれている新しいパラダイムは、私達が考えている以上に旧体制にとっては衝撃的な内容なのです。今までも何度か書いていますが私はメッセンジャーをやっています。したがって、新しいパラダイムをそれなりに解説して広めることが私のしていることなのです。ということは、私は旧体制の一部を否定する存在であるという側面を持つのです。この否定とは攻撃ではないのですが、その様に見えてしまいがちなことは、ここで書いておきます。私は自分で思っていた以上に急進派だったみたいなのです。(これは旧体制維持派から見ると、私はネガティブな存在にみえているということです。)

 さて話のはじめに「二元論」というものについて少しふれておきます。この二元論のもととなる考え方は、本当に古くから地球上にあるもので、ある意味では人間の思考にかなり影響を与えているものなのです。それは、すべての出来事を二つの極に分けて分類し整理(理解)しようとするかんがえ方なのです。具体的に言うと、陽と陰、善と悪、正と邪、味方と敵、光と闇、天国と地獄などと二つの対立するものが同時に存在することによりそれぞれが同時に存在すると考えるのです。この二元論は古くからあるために、いろいろなバリエーションがあります。それだけ私達の意識の中に定着してしまっているということも出来るのです。

 「聖なる二分法」はというと、似た言葉なので「二元論」と同じように考えている人もいると思うのですが、それとは違うものなのです。ある意味で言えば、むしろ正反対の考え方だと言うことができるのです。それはふたつ以上の異なったものを考えるときに、それぞれが対立するものだと考えるのではなく、それは同じものの状態が変化したものだととらえるかんがえ方なのです。(単に「二分法」と言っただけだと、また別なものになってしまいます。) とりあえず、いくつか例をあげて、その考え方の違いを書くことにします。

 「陽と陰」
 二元論の最も基本的な概念です。全ての物に、表と裏があるという考え方です。これは原理として基本的なことを定義しているだけなので、実際に意味のある考え方ではありません。こんなものは、こじつければいくらでも例を上げられるでしょう。正直に私の感想を言えば、この二極性について、いくら説明を聞いても、単なるこじ付け以外のなにものではなく、説得力を全く感じないのです。まあ、東洋の哲学においては、この二極性をもっとも根本的な原理として、全ての説明しているし、それでその人たちは納得しているようなので、私がどうのこうの言う問題では無いのですが、少なくともこれだけはここで書いておきましょう。それはその人たちの真実であっても、私の真実ではありません。と書いても、この説明にはならないのですが、まあともとも曖昧な概念なので、突っ込んだ説明すらも困難なのです。
 「聖なる二分法」的にこれを考えるとどうなるのでしょう。もともと「聖なる二分法」の価値観の中では、全ての物は一体であるということなのですから、無理して陽と陰に分けて考えることなどナンセンスなことなのです。それを言うと、「表があるのなら、裏もあるだろう」という意見も出てきそうなのですが、全てのものが一つのもののそれぞれの側面なのです。その側面は非常にたくさんあるのです。それをたった二つに分類しようということ自体が無理なのです。

 「善と悪」
 「陽と陰」という曖昧なものより、「善と悪」ということの方が説明が楽ですね。「二元論」的に考えると全ての行いは、善行と悪行に区別されます。実際は曖昧で区別できなさそうなものにまで、無理やり善か悪のレッテルを貼り付けるのが「二元論」的な考え方なのです。もともと、善も悪も、どのような視点から(誰から)それを評価するのかで異なってくるというのが(最近の)私達の理解なのです。無理やりどちらかに当てはめようとしたがる「二元論」は、あまり理解のレベルが高いものだとは言えないのです。
 「聖なる二分法」的な立場に立って、「善と悪」を考えるとどのようになるでしょうか?これはちょっと説明が厄介なのですが、誰が何の目的で何をするという、いくつかの条件に照らし合わせてみないと善なのか悪なのかという判断は出来ないのです。そしてそれをもう少し突っ込んで考えると、その人の成長(理解)レベルにより、善悪の基準が異なってくるのですから、安易に自分自身の基準で人の善悪を判断するというのは、それこそ好ましいことではないということになるのです。しかし、自分自身の中には、しっかりと自分自身にとっての善悪の基準を持つことが大事なことではあります。それは自分(その人)がどのような存在で在るのかを示すものとなるのです。まあこのことをあえて別な言い方をするなら、善悪の物差しは自分自身の中に持つものだという理解になります。誰にでも該当するような絶対的な善悪の基準などは存在しないのです。補足しておきますが、「聖なる二分法」で「善と悪」を考えたとき、どちらの方がより神性が高いかという比較論になります。そういう意味では、善とは神性の高い行いであるというのですが、悪もまた、神性は低くても同じものであると考えるのです。

 「正と邪」
 「善と悪」に似ていますが、「正と邪」の場合にはそれにプラスされるものがあります。私の場合、「正」といえば「正義」が思い浮かびます。この正義という言葉は、「私のほうが正しい、だから私と同じように考えるべきだ」というような、ニュアンスがあります。このニュアンスに重きを置いた場合、正義という言葉は愛とはかけ離れたものだと思わざるを得ません。邪と言うのは、「よこしま」とも読みます。これは「それはよこしまなもので、本来なら存在すべきものではないが、二元性の為に正があるとどうしても存在してしまうもの」というニュアンスになります。ここらへんになると、そっくりその様に考えている人もいそうです。言うまでも無く、どちらも愛とはかけ離れた発想だと思います。あらためて言うと、自分の考えや価値観を相手に押し付けた段階で、それは愛から遠ざかって良くのです。
 「聖なる二分法」的には、「善と悪」と同じようなことがいえます。それに「よこしま」なものなど、存在しないのです。なぜなら全てのものが神(の一部)なのですから。それぞれが神の一面を表現しているのです。それらは同じように大事なものなのです。それはそのものの今の状態がそうであるという意味だけで、それ以上の意味は無いのです。あらためて言うと、「存在すべきではないもの」などは無いのです。

 「味方と敵」
 敵味方という判断の方法は、あまりに私達の価値観の中に浸透してしまっています。その為にそれが「二元論」に立脚した価値観だということもあらためて指摘しておく必要があるくらいなのです。自分のまわりの存在を無理にでも、敵か味方かに分類したがるというのは、「二元論」的な要素が丸出しなのです。例えば、少しだけ違う意見を言っただけで、「彼は私とは違う、彼は私の敵だ」と分類したがる傾向があったりするのです。「味方と敵」については、これ以上の説明はいらないでしょうね。
 「聖なる二分法」的には、もともと敵などは存在し無いのです。あえて言えば、自分自身と考え方の多くの部分で共感的な人と、自分とは共感しにくい人がいるだけなのです。それも、案件ごとに共感の程度は違うしのですから、簡単に分類など出来るはずも無いのです。それに大事な事があります。自分自身の周りに現れてくる人たちは、全て私達自身がどのような存在で在るのかをはっきりさせられるように、私達の人生に現れてくるのです。貴方の人生に現れてくるそれらの人たちが、友好的であっても、敵対的であっても、貴方自身が自分自身のありかたを選択する為に、貴方の人生にエキストラ出演してくれた人たちなのです。それはたまたま敵のような役をこなしてくれているのです。本当の意味での敵などは、どこにも存在しないのです。

 「光と闇」
 この「光と闇」という言葉は、実にいろいろな意味で使われています。この「光」というのは、希望だったり、善であったり、神であったり、まあ普通に考えて好ましいと思われるものに対して使われます。そして「闇」はそのつどその反対の意味で解釈されるのです。ケースがいろいろとあるので、簡単にまとめることは出来にくいので、一つだけ「神の光」と考えた場合の解釈を説明します。単純に光が当たっている部分は明るいけど、光のあたっていない部分は闇になるということなのですが、これを拡大解釈して、「ある側面に神の光が当たっていると、その反対には光は当たらない、するとその部分は闇の部分として存在してしまう。それがはどうしても世界の中に闇の部分が必要悪として存在してしまう理由だ。」などと説明したりするのです。こうなると完全に二元論ですね。
 「聖なる二分法」的に考えるとどうなるでしょうか。もともと全ての存在が神なのですから、神の光が当たらない部分などは存在しないのです。少なくとも神の光が原因となる闇などというものはありえないのです。あえて「光と闇」という言葉をそれに当てはめると、「光」とは神の存在を身近に感じ、愛と喜びと感謝に満ちている状態、「闇」とは、神を身近に感じることが出来ずに、不安と不満を感じている状態だということになります。ここで大事なことは、その両者の違いは単に状態の違いであって、そのものの本質的な違いではないということなのです。もし「二元論」で考えたときは、闇の存在はその本質からして闇だと考えるわけで、その違いは大きいのです。

 「天国と地獄」
 これも二元論のバリエーションといっても良いのですが、他のものとはちょっと違いがあります。それは私達のいる世界をそのどちらでもないものとして考えているからなのです。詳しく言うと、「天国」という場所があり、「地獄」という場所がある、通常の二元論だと無理やりどちらかに割り振ってしまうのですが、私達の世界は「天国」というほど魅力的に感じていないし、かといって「地獄」ほどひどいところでもない、要するにどちらにも分類する勇気が無かったのです。結果としては、二元論としては変則的なものに成っているのですが、考え方の根本には二元論的な要素がたっぷり入っているのです。もともと「地獄」などというものは存在し無いのです、だからそれに対応する意味での「天国」もまた存在しないのです。
 「聖なる二分法」的な考え方をしてみましょう。それは同じものの状況の違いと考えることなのです。それは「地獄」という状態と「天国」という状態として説明することが出来ます。それは同じ場所(何処)にいても、その人の状況によりその状態が変化するということなのです。だから、「光と闇」の部分で説明したように、神を身近に感じていれば「天国」、神が側にいるのにそれに気がつかないことを「地獄」の状態ということも出来るのです。くどいですが、これはその人の状況のことを言っているのであって、場所としてはそんなものは存在しないのです。

 さてさて、「二元論と聖なる二分法」を代表的な事例に当てはめて説明してみました。その共通の部分を整理してみましょう。二元論とは、ものごとを二つに分ける発想なのです。それはもともと複雑で簡単に白黒のはっきりしないものにまでそれを当てはめようとする考え方なのです。白黒という色について補足すると、実際の色としてはグレーの方が色の種類としてはずっと多いし、むしろ純粋な白や黒を見かけることは少ないのです。というわけで、実際にはかなり無理がある発想法なのです。

 「聖なる二分法」の場合は、反対に見えるものでも、本質は同じものであり、ただその時の状態の違いだと考える訳です。先ほどの白黒という色で考えると、白黒を含んだ全てのグレーはその明るさの違いであると考えるだけなのです。他の例だと「悲しみ」は「喜び」の波長が下がったものだと説明されるのです。それは悲しみを嫌うのではなく、悲しみの波長を上げていくことで喜びに変えることが出来るということなのですが、二元論的に悲しみを好ましくない感情だと決め付けて拒否してしまった場合、その様なことも出来なくなってしまうのです。

 ちょっと話がそれましたね。「聖なる二分法」というものは、同じものがそれぞれ異なった状態にあると考えるわけで、これは全てのものが一つであるという発想に沿ったものなのです。それに比べて二元論というのは、その違いを明確にするという意味があり、基本的には分裂を前提に置いた発想なのです。重要な部分はこのところなのです。理解レベルのあるところまでは「二元論」でもそれなりに納得できるかも知れません。でも、もっと理解のレベルをあげていくと、二元論ではあまりにも物足りないのです。貴方はどちらを自分自身の真実として受け入れますか?もちろんそれは自由なのです。(ちょっといやらしい書き方ですな。)

 最後にちょっと書き足します。今回、「二元論」と「聖なる二分法」ということで、書いたわけなのですが、ちょっときつい書き方だと感じた方もいるかもしれません。実はこの文章自体は、二元論的な白黒をハッキリさせるような書き方をしているのです。というのは「二元論」といっても、実際にはいろいろあるわけで、ある意味では中途半端な二元論も多く存在しているのです。そしてそれはそれなりに意味のあることなのですが、今回は問題点を明確にする為に、あえてグレーの部分は切り捨ててあるのです。そういう意味で、この文章は二元論的なのです。「聖なる二分法」を説明する為に、二元論的な手法を使うというのも、ちょっと面白いですよね。^^

(2004/08/31)


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