心の新陳代謝 (第165話)

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 今回の話は、ちょっと変った印象を感じるかも知れません。というのは、私達のアイデンティティに関する考え方からすると、簡単には受け入れにくいのではないかと思うのです。ですから、あくまでも私個人の真実という形で書きます。毎度書いていますが、絶対的な真実というものは存在し無いのですし、それにほとんどのものが見たいように見えてしまうのですから、私が何かを書いたとしてもあくまでも、私個人の真実だというしか無いのです。

 ちょっと余談なのですが、何故見たいように見えてしまうのでしょうか?それは私達の世界も神の世界の一部だからなのです。この世以外の場所では私達の考えたことはすぐに現実になります。そこにあるのは私達が創造するものであるという根本的な存在意義があるのと同時に、私達のいる相対性の領域自体がその為のフィールドだからなのです。そしてその創造の原則は、どこにいても適用されるのです。その違いは、この世ではそれが実現するまでに多少時間が掛かるということなのです。私達が何かを見たとき、私達が見たいと思っているようにしかそれが見えないということは創造の一部なのです。(その現象は私達の気持ちの持ち方次第で強くもなり、弱くもなるのです。)

 さて、本題に入ります。しばらく前に見た夢の中での話しです。簡単に説明すると、私が寝ているとき、何かが私の中に入ってきたのです。それは私の理解を超えたものだったのです。この理解を超えたというのは、私がまだ体験していないためにそれがどのようなものか理解できなかったという意味なのです。それは私の左手の薬指にくっついて来ました。そこで私はそれを受け入れたのです。私がそれを受け入れようと決めた後、それは私の薬指から私の中に入ってきたのです。

 その時、私がどのように考えたのかというと、そのものの正体が良くわからなかったので、ほんの少々の不安はありましたが、これでなにか新しい経験が出来ると思ったのです。夢の中でそれがどういうものなのか探ってみました。その後でみた夢は、案の定、私が今まで見たことも無かった夢だったのです。説明すると私の理解を超えた夢を見ているのです。理解を超えた夢なので、それこそ何か夢を見ているのだけれど、その夢がどのようなものか判らないのです。ただ、「このような夢は今まで見たことも無かったなあ、新しいタイプの夢をみているのだ」と感じながらそれを見ていたのです。

 一体どのような意味の夢だったとおもいますか。おそらく説明のそのまんまのことがおこっていたのです。私はそれを私の新しい側面として受け入れたのです。そのことはその時に直感的に理解していたのです。そして自分の中で何か変化がおきるということも期待していたのです。

 結果的に何が変ったのかというと、把握できる部分だと、サルサ(音楽)が好きになったのです。サルサを聞いていると魂が踊りだしてくる感じで、喜びを感じ、体が自然に動き出してしまうのです。その時に、音楽やダンスの中にも神がいるんだということを体験を通じて感じたのです。最近はその時のようにサルサで喜びが込み上げてくるということはあまりなくなりましたが、やはり良く聞いています。それになんとダンス教室にサルサを習いにいき始めたりしているのです。週に一回なのですが、それがまあまあ楽しいのです。

 余談のついでなのですが、サルサでは腰を横に動かします。それがなんと背骨のエネルギーの流れをかなりスムーズにしてくれるのです。もともと腰の部分にエネルギーの流れの悪い部分があったのですが、その障害がかなり緩和されてきたのです。もしかしたら、サルサが好きになったのは、そのエネルギーの流れを良くすることが目的であったのかも知れません。それは私の魂が意図したのかことかどうかは判らないのですが、どちらにせよ私には好都合のことなのです。それにいろいろな問題も自然に解消していくのだろうという安心感にもつながる出来事なのです。

 というわけで、話の本題に入ります。今までのは前置きだったのです。私は私の新しい側面を受け入れたのです。それはどういうことを意味しているのでしょうか?それはある種の意志をもったエネルギーなのです。その意志をもったエネルギーを私が受け入れたためにそれは私の性格の一部を反映するものになったのです。それは私の一部なのでしょうか?今の時点では、彼(あえてこの表現をします)は私の一部なのです。それは私の中にはもともと私でなかったものが入って私が構成されているということも意味しているのです。それを拡大的に考えると私の性格を作っているエネルギーのほとんど全てが、実は後から入ってきたものであるという可能性があるということなのです。

 話を理解し易いように、例えで話をします。私達の肉体は新陳代謝をしています。それは食べ物などで摂取された栄養が私達の細胞になったりした後、いずれ老廃物として排出されていくわけです。だから身体を構成している物質は徐々に入れ替わって行くのです。そして数年立つと私達を構成している物質はほぼ完全に入れ替わってしまう訳です。しかし私達の身体は相変わらずそのままあるわけで、変っているという認識はあまり持たないものなのです。それと同じことが、私達の見えないほうの体でも起こっていると考えられるのです。もっというとそう考えた方が自然なのです。というのは物質の形の肉体の細胞よりも、エネルギーとしての身体の構成要素の方がずっと流動的だと考えられるのですから。

 私が一体何を言いたいと思いますか。私達の性格を構成しているエネルギーや私達の感情、そして思考の癖のようなものも、すべて本当は入れ替わり続けているということなのです。もちろんその中でも根源的な性格などは変らないと思うのですが、その根源的な性格がいつも前面に出ているわけではありません。それにその様な根源的な性格は神の性格でもあるわけで、多くの人はそれが隠されてしまっているのです。

 上に書いたことは何を意味しているのでしょうか?一つは私達が真剣に変ろうと思ったのなら、それは可能であるということなのです。それは私達があまり意識できないくらい深い部分から私達が変ることも可能であるし、それはだれでもそのように変わる可能性があるということなのです。

 もうひとつ、少し視点を変えて考えると、私達の本質は、その時々の感情や思考や癖などではないということなのです。逆なことを書いているように感じるかも知れませんが、それは私という定義をどこに持つかの違いなのです。このように考えてください。肉体は輪廻転生で入れ替わっていきます。それは私ではあっても永遠不滅の私の本質ではないということになります。それと同じように、感情や思考、癖なども入れ替わりゆくもので、永遠不滅の私の本質ではないと言うことなのです。じゃその本質とは何なのか?と質問されるとちょっと説明に困る訳です。人によっては「ただ在るもの」という表現でそれをいうわけなのですが、私もまだそこの部分の理解にまでは達していないのです。いずれわかると思っていますが、その時に言葉で説明できるのかは、それもわからないのです。

(2004/09/14)


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