執念での創造 (第166話)

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 私達の世界は、神の作った相対性の世界の中のほんの一部でしか無いのです。まだまだ途方も無いくらい多くの世界が、相対性の領域には存在する訳です。その相対性の領域では、意識はなりたいもののなんにでもなることが出来る、そして思ったことは現実であるということがいえるのです。今まで何度も書いてきた創造のことを、少し違った書き方をしたのです。簡単に言ってしまえば、俗に言うあの世では、何でも思ったことが瞬時に現実になるわけです。それは思考自体がそのままでその世界での物質なのだということも出来るのです。

 で、私達の生活している世界はどうなのでしょう。多くの人は考えたことがすぐには現実にはなっていないと思います。それにはいくつかの原因があるのですが、その細かいことは置いといて、それでもここで強調したいのは、私達の世界もやはり相対性の領域の中にあり、そこでの基本的な原則は適用されているということなのです。簡単に言ってしまえば、この世でも私達は創造力を持っているということなのです。ただこの世だと思ったことが現実になるまでには時間が掛かるということがポイントなのです。

 ちょっと余談になるのですが、例えば誰かが「世の中なんて、思う通りにはならない。」と考えていたとします。そうするとどうなるのでしょうか?その人の思うとおりにならないということが、その人の現実になるのです。その様な人にとっては私達に創造力があるなどということは、認め難いことなのです。でも、良く考えれば(良く考えなくてもわかるけど)、それはその人の考えたとおりの世界にその人が住んでいるということであって、その人も立派にその創造力を使っているということになるのです。言葉の遊びのように思えるかも知れませんがそれはその様におこっているのです。例えば10人の内の9人以上が、「人生(世の中)なんて、こんなものだよ。」というでしょう。それは、人生(世の中)がその程度のものということを意味するのではなく、それぞれの人が、自分で「こんなものだ」と考えているような現実を作り続けているということを意味するのです。もし誰かが根気良く、「こんなもの」だと思う内容を細かくアンケートにでもして調べたなら、それぞれの人がかなり異なった世界を見ながら、「こんなものだよ」と、それぞれが言っていることがわかるのではないかと思います。

 何を言いたいのかというと、誰でも特別な能力が無くても、それぞれの世界を作り出すということをすでにやっているということなのです。それは全ての人がなりたい自分(自分が考えた自分)になっているということなのです。だから誰でも自分の考え方を変えるとその人の世界が変ってくるのです。ただ、一つだけ問題があります。それは先ほども書いたのですが、それには時間が掛かると言うことなのです。自分がなりたいと思った自分になる前に、自分の考え方が変ってしまうのです。それが現実になる前にもう別な考えをもってしまう為に、それが現実になりにくいのです。

 良く考えてください。この時間というのはかなり厄介な問題だと思えるかも知れません。でも、問題はその時間が掛かるということだけなのです。それ以外には大きな障害などは無いのです。なぜって、みんなすでに自分の世界を創造しているのですから、その能力も資格もあるのです。自然にしていれば良いのです。特別に何か瞑想や儀式のようなことをやる必要も無いといえるのです。ただ長期間、その考えを維持していれば良いのです。そうするのなら、その人がそうなると思えることであるのなら何にでもなれるのです。

 自分自身の最高のバージョンと言うのを考えて見ましょう。それは、自分で考えられるもっとも素晴らしい自分とは何なんでしょう。時間をかけてそのことを考え続けるのですから、最高の自分の姿が良いのです。なぜかというと、つまらない目標だと途中で気が変ってしまうでしょ。何しろ時間が掛かるのです。何年、あるいは何十年とかかるかもしれません。それだけ長い間その考え方を変えずにいるのには執念がいります。そしてそれにふさわしい目標でなければ、その様な執念はもてないと思いませんか?自分自身で本当に価値のある目標だと思えなければ、執念を維持できないと思いませんか?

 例を上げてみましょう。オリンピックで金メダルを取りたい。その様な栄光を体験したいと考えたとします。「オリンピックで金メダルをとる」、その考えを長い間変えずに維持していればそうなるのです。それは心の奥から真剣にそのことを考えているのです。そしてそれが可能かどうかなどいうことも考えないのです。可能かどうかを考えるとまずいのは、可能かどうかを考えるとだめかもしれないという考えも持つことになってしまいます。場合によってはだめだった自分を想像してしまったりもするかもしれません。そして、それを欲しいと考えてしまう可能性も高いのです。だから、「何が何でもオリンピックで金メダルを取るんだ、それ以外は考えられない。」というように考えることが大事なのです。そして実際、その様な人はその様に考えているのです。

 もしその人がある程度年齢になっていて、今からではオリンピックの金メダルは無理だと思ったとします。その様に考えるというのは、すでにその人が「何が何でも」という気持ちにはなれないと言うことなのです。それはそのような執念をもてないということなのです。それは、本当は何でも出来るのだけれど、その人がその様に思えない為に出来ないということなのです。少し変な話だと感じている人も居るかもしれません。その説明も必要ですね。

 私達が生まれてくるときに、だいたいの人生の予定を立てて来ているというのはわかりますよね。で、その予定自体も本当は変更可能なのですが、多くの場合はあまりにかけ離れて変えるのは大変なのです。人生の予定の中には可能性がいくつもあるのですが、それらは全くの自由というわけではなく、計画を立てるときに最高の場合、最悪の場合など一定の枠が設定されているのです。極端な例の方がわかり易いでしょう。例えば金儲けで現世的な成功を体験したいと言う人は、霊的に目覚めるのは金儲けの成功をした後なのです。なぜなら、霊的に目覚めて金に対する執着をなくしてしまったのなら、がつがつと稼ごうという気持ちはなくなってしまうでしょ。その様な場合は、霊的な気づきが起こりにくく計画されていたりするのです。これはあくまでも例えの話で、基本的には矛盾してしまう計画は立てられないと言いたかったのです。だから、その人の本当の目的を達成する為にもある種の可能性に対しては制限がされているのです。

 その制限とは一体なんでしょうか?それは意欲に影響するといって良いと思います。たとえば「オリンピックで金メダルをとる」ということに対して、普通の人は何年もその考えを維持するほどの意欲をもてないのです。その様に考え続けられないと言ったほうが良いかも知れません。じゃ、その様に思えない人はだめなのかと言うと、全然そんなことは無いのです。誰でも自分自身で設定した、自分のテーマに沿ったことには意欲を感じ、非常に粘り強くそれを体験することが出来るのです。別な言い方をすると、自分のテーマに沿ったことなら、かなり大胆なことでも、その人は「自分なら出来る」と感じ、その様に考え続けることが出来るのです。その様なテーマを選ばないと、何年も執念をもってその考えを続けることは出来ないのです。

 ちょっとまぎらわしいのですが、本当はその考え方をずっと維持できるのなら、何でも出来るのです。でも、自分のテーマに沿っていないことだと、考えを維持し続けるのは非常に大変なことなのです。そういう意味では全ての人が何でも出来ると言うわけではありません。でも、全ての人に何かすごいことをやってのけるという可能性はあるということなのです。そしてその可能性は、その人本人が真剣にその考え方を続けられるかどうかで判断されるのです。だから、自分に何が出来るのか、何をやりたいのか、自分の心に聞いてみるしか無いのです。そこで自分の分野が理解できたのなら、それに執念を燃やせばいいのです。それなら絶対に成功するのです。

 「何が何でも、そうでなければ許さない」そういう信念を持ち続けることが大事なことは理解してもらえますよね。私の場合は「300人のキリスト」は、何十年もその様に考えられるだけの価値あることだと思っているのです。あとは流れにそって努力していけばそうなるのです。「人生なんてのは、そんなものなのです。」(笑)

(2004/09/16)


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