感情と思考のコントロール (第169話)

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 感情も思考も私達の本質ではありません。簡単に言ってしまえば、感情を感じているもの、考えているものが私達の本質だといえるのです。精神世界では、感情もやはり実体をもったものであり、思考もまた明確に他者から認識できるものであると言えるのです。すこし余談気味なのですが、感情と思考について考えてみます。

 私達が自分自身を認識する場合、自分自身の認識できる部分を自分自身だと認める訳です。まあ認識できないものを自分自身だと考えるのは少し大変なのは自然なことですよね。だから、多くの人は自分自身を目に見える肉体だと考えています。これはかなり初歩的な認識だと思うのですが、この認識というレベルでは自然な現象だと考えることが出来ます。それよりも認識が進むと、自分は目に見える肉体ではなく、意識(心)であると認識します。その時の意識というのも、実はなかなか認識の難しいもので、それは思考や感情という意識の結果を観察するしか方法がありません。まあ少なくとも、目に見える肉体にではなく、肉眼では見ることの出来ない部分に自分達の本質を見るというのは、とても重要な進歩だと思います。

 余談のついでなのですが、自分自身を肉体だと考えている人たちは、相手の心を傷つけても、それに対して大した関心はしめしません。もし身体を傷つけて、怪我でもしようものなら、真っ青になって手当てをするような人でも、傷ついたのが心である場合には、その傷を認識出来ないのです。だから相手の人格を無視するようなひどい言葉を平気で言ったりするのです。そして、それにより相手の心が深く傷ついても、よくよくのことが無いと自分が犯したあやまちに気づくことも無いのです。なぜあやまちなのでしょうか?それは、その人自身が死んだ後でわかるのです。なぜならライト・ビューという人生を振り返るときに、傷つけた相手の心を自分自身で体験することになるのですから。自分が傷つけた相手の数だけ、自分が傷つけられた体験をするのですから、それはたいへんなことなのです。

 本題に入りましょう。心が自分だと考えるようになったとき、その心として認識できるのは、自分の感情と思考です。だから多くの人が、当然の成り行きで、感情と思考が自分の本質だと考えてしまうのです。それもハッキリ言って間違いなのです。それは自分の認識できるものを自分自身だと考えてしまうという現象がまた現れたのだと考えてください。本当の自分というものは簡単には認識できないものなのです。ここでこのページの最初の部分に話が戻るのです。ちょっと読み直してみてください。

 というわけで、私達の感情と思考は私達の本質ではないということは理解していただけると思います。話を変えて、身体のことを考えてみましょう。私達の身体も実際は新陳代謝によって徐々に入れ替わっています。そして2年もすれば完全にその構成している分子などは入れ替わってしまう訳です。ただその様な変化を感じないのはその入れ替えが徐々におこなわれていて、そしてその情報も引き継がれているために、自分の身体はずっと自分の身体として認識され続けているのです。それと同じことが、感情と思考についても言えるのです。その部分についてもう少し話を続けます。

 私達の感情は、私達の精神的な状態を表現する物質なのです。なぜ物質なのでしょうか?それはエネルギーだからなのです。私達の身体はエネルギーで構成されています。その身体を構成している部分として私達の感情があるのです。もちろん思考も私達を構成しているエネルギーという観点で見たとき、感情と同列のものということになります。まあ、感情も思考もともに、その時点での私達の見えない部分の身体と考えることができるということなのです。魂ももちろん私達の見えない体の部分を構成しているわけです。感じとしては、魂は、重要な器官であるとすれば、思考や感情は血液のようなものだと考えられます。

 さて、肉体の新陳代謝と比べると、より純粋なエネルギーの状態に近い感情や思考はより速やかに新陳代謝することが可能になります。またまた余談気味なのですが、その人がその感情や思考を自分自身だと認識して、それにこだわっている場合には、その新陳代謝はスムーズに行われなくなります。その意味はわかりますよね。通常の場合、自分自身が認識できる範囲で自分を定義していますから、その定義の中で自分だと認識しているものを変えることには勇気がいるのです。それは、感情や思考を自分でコントロールして成長させようと考えたときに、古い自分を捨て去る勇気がいると感じるということなのです。

 私達個人個人のベースとなる感情というものがあります。それはもっとも慣れ親しんだ感情であり。私達がその感情の状態でいることにあるいみ安心感を感じてしまう感情なのです。特に刺激の無い場合、自然に自分のいちばん慣れた感情に落ち着いてしまうのです。それがその人にとって、好ましい状態ではなく、時には精神的な苦痛を感じるようなものであっても、ただ慣れているという理由でその感情を選択してしまうのです。ラムサの言葉でいえば、「感情の中毒」という言葉になります。

 例をだしましょう。例えば悲しみを自分の感情のベースにしている人の場合、何かあって別な感情になっても、じきにまた悲しみに戻ってしまうのです。自分のこと、自分自身の周りのことなどを、その様な気分になれるように解釈してしまうのです。それは、はっきり言ってこじつけなのです。その人の場合は、悲しみに浸りたいと考えたとき、何でもなんでもその様に感じられるようにこじつけて現実をみてしまうのです。そして、気がつくといつも悲しみを感じているのです。それはその人にとっては、心地よいことなのです。その人は頭では悲しいことは嫌だと考えているかも知れません。でも、その状態でいることで、妙な安心感を感じているのです。まあ、簡単に言ってしまえば、「私達は一番なれた感情の状態に戻りたがる性質がある。」ということなのです。

 あらためて書きますが、その人が自分で変る必要を感じていないのであれば、慣れ親しんだ感情でいれば良いんです。それはその人の選択した人生であり、その感情であるのですから、他の人がどうのこうのいう権利はありません。でも、成長したいと思ったのなら、必ず古いものを捨てなければなりません。そして多くの場合、慣れ親しみすぎた感情はその障害になるのです。新しい自分とは、新しい感情をもった自分のことを言います。ふるい感情のままでは、変ることはできないのです。感情のコントロールとは、ひとつの感情に偏らずに、ダイナミックに感情を変化させることを言うのです。それは重要なことですね。ちょっと補足します。

 感情のコントロールと簡単に言った場合、怒りっぽいから我慢することだとか考えがちなのです。実は怒りは感じても言いのです。というか、感じるのが当たり前なのです。問題はその表現の方法が適切であるのかということで、怒りを我慢したからといって、それが感情のコントロールというわけではありません。もちろんいつも怒る傾向のある人の場合には、結果的に怒らないようにすることが感情のコントロールになるでしょう。しかし何の感情であれ我慢することが感情のコントロールであると考えるのは間違いなのです。感情のコントロールは我慢するということとは本質的に違うものなのです。

 被害者意識というものも、ベースとなる感情です。被害者でいるという感情を選んでいるのです。それはある意味ではとっても損な感情です。なぜって、自分が被害者だと考えている限り、自分自身の力を加害者だと考えている相手に与えていると言うことになるのですから。いままで何度か書きましたが、自分に起こった全てのことに自分自身の責任だと負わない限り、自分自身でそれを改善することは出来ないのです。(自分で起こした現実だと考えないとなにも変らない)

 さて、感情のコントロールはどのようにしたら良いのでしょうか。それは思考を使うのです。というか、感情というものは思考を通じて発生してくるものですから、思考を変えるのがもっとも手っ取り早いのです。たとえば、相手を許せないと感じたとき、何故相手がそうしたのか考えてみれば言いのです。たいがいの場合、何故?を繰り返していけば、その理由はわかります。そうしたら、許せるようになります。もともと怒る理由さえなかったことがわかることもあるでしょう。なにしろ多くの場合、どこかでこじつけをしていますから、それを見つけてしまえばいいのです。まあ、いろいろなケースがあるでしょうから簡単にくくることは難しいと思いますが、基本的には思考をコントロールすることで、感情もコントロールできるということは覚えておいてください。

 思考をコントロールすることは、直接的に感情をコントロールするよりもはるかに容易なことです。ひとつの出来事をどのように解釈するのかは思考によります。その時、意識していくつかの思考をしてみてください。要するにいくつかの解釈を自分の中でディスカッションするみたいにして探し出すのです。慣れてくると簡単にいくつかの答えを出せるようになります。その答えの中から、もっとも自分にとって好ましいものを選択すればいいのです。それが貴方の思考の答えになります。その際、客観的に正しいかどうかということは、あまり考える必要はありません。もともと真の意味で客観的というものは存在しないのです。全てのものが主観的なのです。

 さて、上の話と全く反対に思えるかも知れませんが、もう一つ書くことがあります。「判断しない」ということです。それは考えないということでもあるし、選択しないという意味にもとれます。思考のコントロールで考えて、選択するのと、全く反対ですよね。これは順番なのです。とことん考えると、そのことの意味の範囲がおのずとわかってくるのです。多くの場合は、どうでもいいことだと言うことがわかるのです。そしたら「判断しない」ということが可能になるのです。「判断しない」ということは、考えないと言うことではなく、結論を出さないということなのです。なぜ判断しないのでしょうか?それは自分にとって終わったことだからなのです。(意味がむずかしいかも、自分で解釈してね)

 最後にすごく大事なことを書きます。私達の考えていることのほとんどは、大した事ではないのです。なにしろ考えているときには、そのことが関心事になっています。関心事でなければ、それについて考えることが出来ないのです。この意味はわかりますよね。だから、たとえ些細なことを考えていても、その瞬間には関心事になっているということなのです。それはそれが関心事になっている瞬間は大事なことと認識されるということなのです。だから、もしそのことを考えなければ、そのことは大事なことにはならないのです。そんなものなんです。永遠不滅の魂にとって、今以外のことは、あまり重要では無いのです。変な例えですが、100年前の出来事と、昨日の出来事、両方とも同じ過去の出来事なのです。そこにどんな違いがあるでしょうか?

 実は「私達の考えていることなど、大したことが無いのだ」と認識することが、思考のコントロールの最初なのです。何を考えるのかという方向性を自分で決めて、自分で考えたいように考える。ちょっと言葉にするとおかしなことになってしまいますよね。こう言った方がわかり易いでしょう。自分が期待している感情を導き出すような思考をするということですね。覚醒の為には、いずれは思考を自由自在に停止させる必要が出てきます。なぜって、思考がフィーリングを阻害してしまうからなのです。思考は必要なときだけ自由に使うというのが、理想的なのです。

 この感情と思考については、奥が深いテーマなので、まだ気づいていない部分が多いと思います。大きな気づきの変化があったら、また書きます。

(2004/10/03)


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