さらば愛する地球(第176話)

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 前話から、1年たってしまいました。信じられないかもしれませんが、私はつい最近1年半ぶりにメールを書きました。しばらく前からメールのチェックだけはするようになったのですが、書く気になれなかったのです。最近になってまたページの更新をしようかと考えはじめると、それを後押しするようになメールが来はじめたりするんですよね。

 さて1年も経つと前話とのつながりを意識しながら書くのはちょっと面倒なので、すこし別の話です。(関連はありますが)

 ここで私が地球と言うのは、地球の自然はもちろん、そこに住む人々(命)も、私たちが作り続けている地球独特の集合意識がつくりだしているもの(それは物理的な宇宙空間も含んでいる)のことなのです。それから、さよならする為にはどうしたらいいのかというのが今回のテーマです。

 あまり細かく書かなくても、理解が必要な人は分かると思うので、細かい説明は割愛します。最初に簡単に書いてしまいましょう。「私たちがこの地球での体験の旅を終わりにする為には、私たちが地球を愛する必要がある。」ということなのです。なぜか説明が必要でしょうか、一応書いておきます。

 私たちは、この地球の世界でしか出来ない体験をしにここにきたのです。それは私たち一人一人の目的なのです。それは魂の旅なのです。だからいつかは故郷に戻るのですが、それためには体験を修了することが魂の望みなのです。この体験を修了するとは、そのありのままを理解し、その存在を認めることなのです。それは愛するということなのです。

 なぜここで「愛すること」という言葉になるのか疑問を感じる人は多いかもしれません。この部分が一番説明しにくいところなのです。うまくかけないかも知れませんが書いてみます。読みにくかったらごめんなさい。

 私たちが、色々な種類の体験をしたとき、それはフィーリングという言語で魂にその記録を刻んでいきます。このフィーリングは、以前の話で書いたスタンプカードのようなものなのですが、このスタンプ集めが魂のとりあえずの目標になっているのです。このフィーリングという形で記録するというのを、別の言葉で表すと、感情的な理解と言います。

 さて、それぞれの体験を感情的に理解すると言うことは、そのもののエッセンスを理解すればいいのであって、それは叡智と呼ばれているわけなのです。ここで大事なことにふれておきます。感情的な理解においては、その作業はきわめて機械的におこなわれていて、私たちのことばでいう感情的になっているわけではありません。「感情的」という言葉が、紛らわしいほど別な意味なのです。くどいですが、感情的な理解とは、体験で得たものをフィーリングという「魂の言葉」できわめて論理的に分析され保存されたものなのです。

 言葉とは裏腹に「感情的な理解」をするというのは、きわめて非感情的な作業なので、私たちの感情的な想いはかえって邪魔になってしまうのです。また、感情的な理解も最初のころはごく単純な出来事や体験の理解ですむし、その段階で善悪という価値観でそれを捕らえるということも必要であったりします。(なにしろ善悪という考えを理解するためにはその体験が必要なのですから、当たり前なのです。) しかし基礎的な叡智を積み重ねていって複合的な(関係的な)理解の段階になると、単に良い、悪いという単純な価値観では処理できなくなってきてしまうのです。世の中の出来事で単純に割切れるとこの方が少ないということは説明が要らないと思います。もちろんこの良い悪いという価値観は「善悪」のことを言っているんです。善悪という判断基準でものごとを見ている限り、あるていどの低いレベルの叡智しか理解できないということになるのです。

 少々余談ですが、善悪で物事を考えるということは、私たちの地球人(とくに日本人かも)が、深くはまり込んでしまっている思考の落とし穴なのです。善悪で考えている限りものごとの深い本質は理解できないと思ってください。善悪で物事を見るというのは、私たちが思っている以上にレベルの低いことなのです。ちなみに余談ついでに書いておきます。善悪で判断しないというのは「愛」なのです。

 話をすこし戻します。「ぞくにいう感情的な想い」が叡智という感情的な理解の妨げになるという部分の続きなのですが。それを別の言葉で説明すると、自分の体験を冷静にあるがままに認識それを否定しないことになります。こだわりをもっていたり、何かのトラウマがあったり、その体験で起こったことを拒絶して認めなかったりしているうちは、感情的な理解は出来ないということになるのです。実際、ほとんどの人が自分自身の体験を感情的にならずに受けいるというのはなかなか大変なことです。多くの場合にそのための癒しが必要になり、ある程度気持ちか立ち直るだけの時間が必要だったりするのです。まあ、それでもいつかはその試練も克服して、体験を感情的な理解にすることが出来るとは思っています。前にも書いたことありますが、体験は癒されて聖なる体験になり、叡智になるのです。

 くどいですが、もう一度書いておきます。善悪の判断は「感情的な想い」とほとんど同じものなのです。それは結果的に叡智の蓄積を阻害しているのです。霊的な能力開発の進んでいる人たちの中にも、この善悪の判断から抜け出せない人たちもいるのですが、それはこの地球の霊界(地球のすぐ裏側)の存在たちも、善悪の落とし穴に落ちてしまっているのです。(これも今は余談)

 話を進めます。この地球での体験を修了する為に、ここ(地球)での体験でえた叡智をまとめることを魂が望みます。簡単に言えば、自分自身(魂も表面の意識も)で、体験の終わりを納得することなのですが、それが「地球(この世界)を愛する」ということなのです。(もちろん言うまでも無く、地球を愛するという感情的理解を伴うのですよ)

 ここで誤解されそうなことがひとつあります。「愛する」というのは、執着することではありません。意外に思うかもしれませんが、愛することによって初めてそれを手放せるのです。それはその体験が修了したことを意味するのです。ありのままを認め、それが善でも悪でもなくそ、そこにあることを認識する。善でも悪でもないから、変わらなければならないというような必要性もなく、ただそれがそこにある、そういうものとしてその存在を認めることにより、それを愛することが出来るのです。そのようなものとして、地球を愛したらその後何が残るでしょうか?その愛には何の必要性もないのです。それには地球(人類)が進歩しなければならないというような必要もなくなるのです。早い話、愛するということは、その体験を続けるという必要性も無くなるということ、要するにひとつの「体験の旅」の修了を意味するのです。

 別な言葉で言い直すと、「地球を愛することで、この世界に関する執着をなくす」ということになるのです。そうすると魂も意識も新しい冒険のたびに出たくなるのです。旅をやめようとする人もいると思うけど。

 地球での体験を終わらせるために、あるいは私たちが本当の故郷に帰るために、地球を愛するということがとても大事な過程であるということを書いたのですが、その為には「ありのままを見つめる」ということが必要になってきます。このありのままを見つめるという意味は、私たちが自分自身のありのままの姿(本質)を見つめるということだけでなく、ありのままの地球を見つめるということでもあります。それが割りと出来にくいことだったりするのです。その部分について、次回もう少し突っ込んでみようかと思います。

 えーっと、追伸として書いておきます。ここで書いているのは、どのようにしてここから抜け出すかということで、どのようにこの世界を楽しもうかということとは別のことを説明しています。もちろんある条件下では、この二つは同じことを意味することになりますが、多くの場合、まったく別の道になるのです。ラムサの言い方だと、花を見て、美しいかどうか判断する(楽しむ)道と、そのような判断はしないという道なのです。もしここ(地球)から去ろうと思っているのなら、後者である必要があるのです。もちろんどちらを選ぶのかは、まったくの自由なんです。

(2006/10/08)


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