続 さらば愛する地球(第177話)

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 「地球のありのままを見つめる」ということに関して、少し細かく説明します。このありのままを見つめると言うことは、なかなか大変なことなのです。それにはそれなりの訳があるのですが、まずこの世界の構造自体に原因があるのです。(過去の文章の中で144話と145話を参考にしてください。) 簡単に言ってしまえば、この世界にやってきた人がそれぞれの体験をするために、自分自身の視野を制限してしまっているために、視野がかなり狭くなってしまっている。そして、それに関連して自分自身が認めたもの、知っているものしか認識できない(見えない)、あるいは自分が見たいものしか見えないという傾向があるためなのです。

 それに加えて、物事に優劣がある、善悪があるという意識が、ありのままを見つめることの障害になっているのです。感覚的には簡単なことなのですが、文章で説明すると分かりにくいかも知れません。例をあげてみましょう。物事に優劣があると考えていると、自分あるいは自分の属する社会などで著しく劣った部分などは、それを認めたくないという心情が働きます。それは優秀であることが善で、そうでないことは悪だと考えているのと大した違いはない発想のレベルなのです。そのような発想でいる限り自分たちが劣っているということは、見たくないものごとになるのです。それはかなり意識していないとそれに関係した部分は見えてこない(認識できない)ということなのです。結局は善悪(優劣)の意識では物事の半分の側面しか見えてこないという結果になるのです。

 障害はまだまだあります。私たちが常識だと考えていることは、社会の平均的な意識レベルで真実と見られていることなのです。その視点はあくまでもその同じ意識レベルでの判断にしか過ぎないのです。もっと分かりやすく言うと、意識を社会の常識的な視点からはずして物事を観察する必要があるということなのです。なにも分かりやすくなってなかったりして、(^^;;
 えーっと、社会で常識だと考えられていることの一つ一つが本当に正しいことなの?もっと別の考え方は無いの。もっと愛の意識が高かったらどうなるの?というように、常識を疑ってかかることが必要になってくるのです。そのような目で地球の人達を見ることによって、人類の現在のありのままの姿を理解することが出来るようになるのです。

 ですから、自分では何も考えずに社会の常識に従っていけば良いとか、とにかく集団の中にいることに価値観を見出す、というような人達などは、人類に対するより深い理解などはとても無理なことのです。何を言いたいのかというと、我々人類の様を自分自身の視野で見れる人はあまり多くはいないということなのです。

 さて、私がここで現時点での人類の愚かさというかレベルの低さを書こうかと思いましたが、たとえの話だけにして、細かい例は書かないことにします。

 ある時ふと気が付いたら、人食い人種の村の中に住んでいる自分を発見した。人食い人種といってもいつも人を食べているわけではない。敵対する村と戦争をしてその戦の相手を勝利の証として食べてしまうのである。そのような習慣は結果的に村の結束を大変強いものにしていた。なにしろ、どの村に属しているかによってすべて決まってしまうのだから。すべては個人ではなく村を中心にして運営されていく。常識も村ごとに、微妙に違っているのだけれど、村人は村にいる限りある程度従わなければならない。

 もし現代人が、このような状況になったらどうなると考えますか?その村で生きていくことが出来るでしょうか?もしかしたら、その生活に溶け込んでしまうような人もいるかもしれませんが、多くの人は、そこでの野蛮な生活に嫌悪感を感じて、そこで生活するのは好まないと思うのです。その村で何かしらの成功をしたいと思うでしょうか。その村の中で何かを得ようとして努力するでしょうか。それとも、向こう見ずにも彼らの習慣を止めさせようと努力するでしょうか?

 今の人類も、本質的なレベルでは「人食い人種」の彼らと大して変わらないのです。もちろん人の肉を食べたりするようなことはしません。でも、平気で人を食い物にする人達は大勢います。人の心を傷つけていても、それが目に見えないために気づきもしません。戦いに勝ったものはほとんど何でもやりたい放題、これは、今の時代においては経済的な競争に当てはまります。結果的に社会に格差というひずみがうまれ、負けた人、争わなかった人達から、経済の仕組みを利用して搾取やそれに近いものが行われているのです。それは少しでも愛の意識でそれを見たなら、とても不可解で野蛮なことを社会構造の根幹的なものとして認め、多くの人がそれを当たり前のことと考えているのです。

 まあ簡単に言えば、我々(人類)の社会は遅れているというよりも、むしろ原始的(野蛮)だといったほうが良いくらい、まだまだなんだということなのです。

 ここまで社会の野蛮性について書いたわけなのですが、この地球を中心とした社会は、ここにいる大勢の人類の意識によって作られています。同時にこの地球のレベルにあった人達(霊的存在)が多く引き寄せられてきているのですから、我々の意識の野蛮性と同じ意味なのです。

 さて「善悪で考えない、優劣では考えない」ということと、今書いた人類の野蛮(後進)性についての説明と、何か矛盾を感じますか?。人類が遅れているということは、事実であり、善悪や優劣の問題ではないのです。木の芽がまだ大木になっていないからといって、劣っているということにはなりませんよね。それに、このような世界でしか体験できないことをしたくてここにきているという視点から言うと、現在の地球(人類)のような存在は、何も悪ではないし、むしろ必要不可欠なものであるともいえるのです。

 いろいろと書きましたが、ポイントは簡単なことかも知れません。善悪や優劣という視点で物事を見なくなると、徐々に人類(地球)のありのままの姿が見えてくる。ということですよね。人類の愚かさを十分に理解し軽蔑してはじめて、それらを抱きあげることにより、それを愛することが出来るのです。(うろ覚えではあるけれど、ラムサの表現であったと思うのでまねしてみました。)

 今回は、前回の続きで私たちがこの世界から離れるために必要だと思われるステップの説明をしました。早い話、善悪で考えないということは、無念無想でいるというのに近いことなんだと思います。

 今「無念無想」と書いて思ったので、ついでに書いておきます。無念無想とは何も考えないということではなくて、「念(願い)」も「想い(出)」も持たないということですよね。どちらも私たちの意識を重たくするものですね。わかりやすく言うと、どちらも「思い残し」(未練)であるといえます。「念」は欲につながり創造の邪魔になりますね。想いは癒しを通して、経験にしてしまいましょう。

 地球を愛した後、地球を去ることも出来ます。それとも地球で何かやりますか?抜け出したいけどそれが出来ないという人の為に何かしてあげるのも良いかも知れません。

(2006/10/22)


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