キリスト教の「博愛」

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 前回の話にでていた「善」の補足です。

 「善」の思想とは、共存共栄のことだと考えると書きました。改めてお断りをしておかなければならないのは、私が「善」のことを感じてそれを書いていても、それが私が「善」の人間であると言うことではありません。私はただ「善」の思想に気が付いただけで、それを消化して身につけている訳ではありません。ただ感じたことを書いているだけです。そしてその内容は、私自身でも少し理想主義であると感じるきらいがあります。

 この事は私自身が「善でない思想」(悪とまでは言い切れない)によって考えている要素があるからです。それでも私が感じた「善」の思想を書いておくことにはそれなりに意味があるのではと考えています。

 まず最初に断っておきます。多分に言葉の定義の問題を含んでいますが「善」は「正義」とは別のものです。多くの場合「正義」と呼ばれるものは「善」ではありません。「正義」を誰かが唱えた時、それは排他的な意味合いを持ちます。そして多くの場合「正義」と言う名の下で「善」でないことが行われています。(もちろんそれは権力者によってなされます。)

 「善」の思想の元は共存共栄ですから、本来「善」の思想では勝ち負けの考え方はしません。例えば「善」が勝つか「悪」が勝つか、などと言う見方(普通の人間の見方)は、「善」の思想には受け入れられないものがあります。

 ですから「善」の闘いは「悪」を撲滅するための「戦い」ではなく、いかに「悪」を「善」に導くかにあります。人間は善人でも、悪の撲滅などと考えますが、これなども「善」の精神を正しく理解できていないことになります。この発想は「正義」の発想につながっていきます。

 正しい言い方ではないと思いますが、「善」は「否暴力主義」と言ってもそれほど間違えではないでしょう。

 もう一度くり返します。「善」の思想は「共存共栄」です。「自分が」、あるいは「自分は」、と言う意識が強すぎるのは好ましくありません。自分と他人の境目を低くしなければ成りません。「個々が自己の利益の為に、ほかの物に攻撃的な種族は存在を続けられない」という、視点を長期において考えれば普通に理解で張ることが、「善」の論理です。残念ながら今の人類はこの観点で言えば落第でしょう。いまのままでは、人類が絶滅しても、不思議なことではありません。

 余談ですが、自らを破滅に導く「悪」の論理でいることに気づかず、絶滅の危機に瀕して、もがき、苦しむ人類の姿などは見たくないものです。

 さてここで書いた「善」の論理は、私がこのコーナーを書き始めた当初から気が付いていたわけではありません。いろいろは書いていく内に、ふと閃いた「感じ」を文章になおしているのです。ですから私自身も、現実社会においては非常に理想主義で、楽観的な考え方であることを感じています。(これは私の理性の面が考えている)

 はっきり言っていろいろなケースが考えられます。例えば、9人の「悪」の論理の人間に、ひとりの「善」の論理の人間が混ざっていたら果たしてどうなるのでしょう?そのひとりが「善」の共存共栄を叫んでも、事態は破滅の方向に進むでしょう。それ以前に「善」の人間の存在さえも危ういものに成ります。

 このような問題に関して、私は明確な回答は持っていません。でも幾つかの考え方は出来ます。まず現世にとらわれなければ「善」の「魂」は救われる。と言うか、「善」の集まる場所に逝くと考えた方が正しいでしょう。「悪」の「魂」は、逝っても同じようなものの集まりの中で、いざこざをくり返すと考えられます。

 ちょっと観念的な文章に成りましたが、そこまで飛躍しなくても冷静に考えて多くの人が少しずつでも「善」の共存共栄を理解していけば、自然と問題はなくなるとも考えられます。(その為には、何世代もかかると思うけど)

 話を戻します。私自身非常に理想主義的だと感じたこの「善」について考えていくと、いつの間にか何か聞いたことあるなあという考えに至りました。それはキリスト教で一般的に言われている「博愛の精神」等々の教えです。それまで私はこのキリスト教の教えなどは、それほど重視して考えてはいなかったのですが、「善」の思想の観点で考えると、いろいろと尤もなことがあります。

 結局のところ、キリスト教では「善」(共存共栄)のことを教えていたんだと、ようやく気が付いたのです。それまで私は、キリスト教には何か現実離れした「良い格好しい」と思われるものを感じてはいましたが、どうもそれは私の認識不足であったようです。

 とは言っても、正義の名の下にキリスト教が行ったことは、その教えと大きなギャプがあることも事実ですし。それに、無抵抗主義で殺されていったキリスト教信者のことなどもちょっと考えさせられるものがあります。(殺されて逝った信者が不幸であったかどうかは判らないけど)

 あと全然別な観点から言うと、「善」を強く主張することは、その行為自体が「善」でないものを作り出してしまう、と言う面もありそうです。ちょっと考えるとこれは「善」というものの抱えているような矛盾に感じられます。これはおそらく私が「善」でない思考をしているために起こる疑問だと思っています。たぶん、これは「善」の矛盾ではないでしょう。おそらく「善」というものは自ら「善」を強く主張するものではないのでないかと思っています。(理性では少々疑問あるけど)

 まあ、どちらにせよ先は長いです。

(1997/07/10)


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